彼女は考えていた

どうも、はるかです。近頃はいろいろと滅入りますね。
彼女はそこまで打って、手を止めた。ものが雑多に散らかる部屋の中、捨てるタイミングをつかめなかった学習机にパソコンを構え、チェアに凭れ掛かる。首を回し肩を揉み、ついでにこめかみも揉む。そして一つ溜息をついた。ネタが浮かばないのだ。
近頃の情勢は説明するまでもなく、連日日本中ならず世界中で騒がれている。口に出すのも億劫なほど、少し首を回せば目に入る。なるほど嫌気も差す。そのせいで起こった困難は、一人の人間には計り知れないほどあり、その中の取るに足らない、本当に小さな困難に彼女は直面していた。彼女のここ最近の生活は、最寄駅の職場である塾の春季講習で働き、帰宅し、読書やテレビ鑑賞、Twitter、ゲームに勤しむ以外のパターンが無く、至極平凡なものである。もちろん、読んだ小説や漫画は素敵なもので、ゲームでも素敵な世界を旅しているのだが、それについては書く気にならない。そもそも彼女は、日文ブログで自分の趣味について事細かに書くことを、気恥ずかしく感じるところがあった。だから、大学の授業や日常の出来事、時節、フィクションなどを常時テーマにしていたのだが、困ったことにワンパターン化した生活にはなかなかそれが訪れない。もっとも趣味の世界では、世界を救ったり、人を殺したり、殺した犯人を推理したり、ポケモンを捕まえたり、無人島を開拓しようとしたりしているのだが。
彼女は頭を掻きながら、最近の出来事について思い返していた。そうだ、雪が降ったっけ。三月末、関東の”いつも通りの季節外れ”で雪が降った。そのときにひどく感動したことを覚えている。人がいない町で桜が咲いて雪が積もる。人々が目に見えない病に怯えて、建物に籠城しているときに、元々のこの星の主であるところの自然があるがままに美しく君臨している図が、やけに美しく感じたのだった。
彼女は桜を辿り、さらに記憶を巡らした。あれはいつの日か、小学生の何らかの朝礼の校長先生の助長でつまらない、ありがたいお話を聴いていたとき。元々つまらないうえ、自分の感性と違ったことを言うので、いつものように体育館の上に挟まった、バドミントンのシャトルを数えていた。春の日だったか、桜の話になった。壇上に立ちいくらか機嫌の良さそうな人は「山奥に咲いている桜の話」をしていた。誰に見られなくても山奥に一人、静かに咲いている桜のなんたる立派なことか、という話だった。ほかの話はすっかり忘れてしまったが、この話だけは覚えている。感動したからではない。むしろその逆に、反感を覚えたからだ。なぜ人間さまが見てなきゃ桜に価値は無いのか。いつからそんなに思い上がっているのだろうか。人は桜を見てやってるのではなく、桜に見せられているのだ。桜にしたら、毎年花を咲かせていたら、勝手に人が集まっているというだけであり、人様が見てなくても当たり前に桜は咲く。ひどい奢りであり恥ずべき勘違いである。桜のが幾ばく偉いか。そも今のソメイヨシノなぞ、人が桜に魅せられて育てた代物であり、桜に踊らされているのはこちらなのだ。そりゃあ山奥の桜も立派に咲くでしょうよ。人間様の都合なぞ関係無いのだから。
その点で、見る人のいない町で、雪を被った桜は見事だった。久々に奢り昂る人畜生に見せた自然の美しさであった。風花雪月はそのままにあるのだ。
彼女はここまで考えて、再びキーボードに向き直った。なんとか良い話としてまとめられただろう。しかし良い話だけで終わらせるのもがらではなく、気恥ずかしいものであったし、もう少し面白味も必要だと思った。この世の中ならなおのこそ。内容はもう膨らませる気がしない。これで精一杯だ。ならば書き方を工夫しよう。
三人称で書こう。
彼女はキーボードに指を滑らせた。

どうも、はるかです。近頃はいろいろと滅入りますね。

ひいなさまだってねむいでしょうよ

期せずして3月3日の投稿になりました。桃の節句です。雛祭りです。ちらし寿司とひいな遊びの日です。我が家のひいなは、出す手間を渋り箱にしまったままにしてしまいました。怒っていらっしゃるでしょうか。許してほしいです。どうも、はるかです。
もう3月になってしまったのですか。春休みが延々に続くような思いでいたので、すでに寂しくなっています。そうか、もうひと月経ったというのですか。そうか……。何をしたか?と問われれば、どうしようとなく、何もしてません。細々としたことはいろいろあったのですが、語るほどの偉業は何一つ成し遂げてません。ああ、近代自主ゼミで行った鎌倉旅行は楽しかったですねぇ。
鎌倉文学館は、建物からお洒落で、中には文豪の手記がたくさん展示してあり、とても面白かったです。文学散歩のような感覚で巡り巡ったものの、鎌倉には作家の跡が多く、縁のある寺社を挙げればキリがないほどで、歩きっぱなしの2日間でした。作家はどうやら鎌倉が好きらしく。大変でした。しかし良い宿にも泊まることができ、美味しいご飯も食べ、大満足でした。個人的には太宰が心中しようと飛び込んだと言われる、腰越の小動岬に赴けたのも楽しかったです。ああ、あと、旅行係なので栞も作ったのですが、とても素敵な出来になりました。やったね。
あとはなんでしょう。やはりそれといってこれといったものはないですね。けれども楽しく休みを過ごしています。3月は活動的に動く予定でしたが、台湾を始め、北海道、宮城・山形、スキー、夢の国に行く予定が消えました。ええ。泣いてはないですよ。家でゆっくり過ごせるので、積もりに積もった本を読んでしまわなければ。楽しみです。出不精なので、できるだけ家から出たくないです。だから丁度と言うと不謹慎だと怒られそうですが、合法的に外に出なくて良いのは少し嬉しくもあります。
何かをしなければ、と焦るときもありますが、やらなければいけないこと、なんて突き詰めればほとんど無くて、ただ人によっては意味のあること無いことをやったりやらなかったりするだけです。だからもう少しゆっくりだらりとしていていいかなぁ。うららかな春の気配になかなか暁を覚えられず。うとうとと寝込み、今日も春休みの一日を、怠惰に贅沢に過ごしていくのでございましょう。

たったそれだけの話

髪を切った。
髪を切った。ばっさり切った。おさげの三つ編みがちょうど良くできるぐらいの長さの髪を、肩上まで切った。そしてインナーカラーで右側だけ緑に染めた。
それだけの話である。
思い立ってしばらく、美容院への電話予約が面倒でくすぶっていたが、春休みには切って染めるんだと決めていた。人生に一度くらい派手な髪色にしてみたかった。電話で遠い先の予定を確定するのが億劫に思うように、不確定な未来に決め手を打つのは怖い。それが初挑戦とかならもっと怖い。髪を切って染めるのには「そうしたかったから」という理由しかなかったが、ひどく恐ろしくて怖いものに思えた。
切ったところで、染めたところで、当たり前のように世界は何も変わらなかった。何かが決定的に違えてしまうような気がしたのだが、そんなことはなかった。ちょっと印象が変わった。それだけである。恐れる必要など一つもなかったのだ。
成人式が終わっても髪を切っても染めても、私は何も変わらなかった。それでも大学2年の春休みに髪が緑になったことは、確実に人生に変化をもたらしている。運命論と偶然論ならわたしは偶然論の方が好きだから、偶然、髪を緑にして、偶然また何かしらに作用してたら良いなと思う。
髪を切った、緑にした。そしてまた何かに挑戦する。いつかアポロ11号が月に行ったように。初めて深海生物を見つけた学者のように。タコを食べてみた人のように。新しいことを楽しめるように。

もうすぐ季節は春になる。

月にうさぎがいるように

どうも、はるかです。
ブログを書き始めて、もう一年経ちました。そのついでで一年前の記事を見返してみたのですが、かっこつけがひどく読みにくく、全く見れたものじゃないですね。心の奥の方が痛い。みなさんは読み返さないでくださいね。
旅行に行こうと思いました、春。大学二年生の春休みが一番遊べると聞いて、これは行くしかないと思いました。今年は海外旅行に行きたいのです。海外に特段思い入れがあるわけではないのですが、海を渡って遠くの国へ行ってみたい。せっかく簡単に行けるようになったから、これは行くしかないでしょう。いつか誰かが、水平線を眺めながら「遠くに国があるんだ」と思いを馳せたなら、今の人間が行かずにどうしましょう。あの山の向こうに幸せはあると人は言いますし。香辛料を求めて船を漕ぎ出した人がいて、金銀財宝を求めて海にロマンを投げ出した海賊がいた。我らが信じたものを伝えたくて、まだ見知らぬ人を救いたくて、遥々やって来た人もいた。遠い異国から遠い異国へ、金を求めて往復する商人もいた。芸術を求めて出かけた人もいれば、世界を見たくて貿易船に忍び込んだ人もいた。空を飛びたくて紙飛行機を人が乗れるようにした人がいて、空を飛んで世界を飛びまわるようになった。誰もが夢見た海の向こうへ行けるなら、行かなくてはと人類の使命を思うのです。さすがに大袈裟に言いましたが。
あと、自分の目で確かめてみないと分からないことだらけです。たとえば昔の人がジパングを黄金の国と呼んだように、私が知識として知っていることが、現実にあるかどうか分からないじゃあないですか。どうします?海の向こうに何も無かったら。知らない世界があったら。そんなわけ、とは言いきれないでしょうよ、自分の目で見なくては。世界ぐるみで騙されてたら、もう何も分からないでしょう。そう思うと無性に行きたくなります。
行ってみなければ、自分の目で見なければ、あるもないも分からない。だから、ラピュタもホグワーツもネバーランドも無いとは言いきれないんです。世界中、地球全部を知らなければ。
そして宇宙へも行きましょう。ロケットに乗ってどこまでも。月も火星も彗星も。お空高くを飛び抜けて。それでも地球は丸くても、青かったとしても、まだ自分の目では見てないんですよ。こんな戯れ言を馬鹿にしても生きてはいけますが、夢と呼ぶ方が浪漫がありましょう。
夢と浪漫と遊び心と好奇心で出来ているのです。世界の果てまで見てみたい。

いつか空を飛びたい話

あけました。新年明けました。おめでとうございます。令和二年です。まだ令和という言葉に馴染めずにいて、口に出すと気恥ずかしくなるような、むず痒い気持ちがします。あの平成という、のっぺりしたやる気の無さそうな平和そうなあの響きが恋しくなってしまいます。俺たちの平和なので……。令和のあのスタイリッシュ感もね、嫌いではないですけどね。クリスマスから年末、年始へと移り変わる時期が好きです。楽しいクリスマスを終えて、あわあわばたばたしながら、親戚とご馳走を食べてゆるゆる「年明け」を迎えるのが好きです。こたつに入って「あけましておめでとう〜」となんとなく言ってみるのが好きです。行事感が無くて良い。どうも、はるかです。
さてさて、新年になると今年の抱負みたいなものを聞かれることがあります。みなさんはありますか?えらいですね。わたしは無いです。と言ったら怒られました。ああ、なんで年が明けたからと言って気持ちが変わると言うのでしょう。新しい自分にならねばならないのでしょう。年が変わるのは、地球が太陽を回ってその周りを月が回って、を暦として設定したから変わるんであって、当たり前なのです。つまりはあるがまま。だから人間だってあるがままで良いでは無いですか。駄目ですか?そう。新年の抱負って言ったって、楽しく過ごす以外に無いでしょうよ。向上心が無い人間です。精神的に向上心が無い人間は馬鹿だ。
冬休み、少しの間でしたが、久々に溜めていた小説を何冊か消費できました。本というのは麻薬でございます。一冊読むと、フィクションに浸かる面白さを思い出して、次から次へと手が伸びる。誰かの頭の中の話で、本当のことではない話がエンターテインメントになるのはつくづく興味深いものですよね。人はみな空想を求めている。少なくとも自分はそうです。それで、随分前にあの夏コンプレックスの話をしましたが、他にも「別に自分の人生に特段後悔は無いけれど、やってみたかった空想上の人生」ってありますよね。高校での吹奏楽部も楽しかったけど、生徒会で学校に革命を起こしたりもしてみたかった。放送部や文芸部、映像研などちょっとマイナーで少人数の部活で目立たず地味に、されど楽しくこそこそ遊んでみたかった。屋上でお弁当が食べたかった。こういう「憧れのイメージ」があるんすよ。大学では、オカ研やミス研に入って、様子のおかしい変わった細身眼鏡の男の先輩と怪しい美人の先輩と一緒に、冴えない一般大学生僕が夏の合宿で、事件を体験したりしたかった。なんかこう、なんかこうあるんですよ。こういう「イメージ」が。実際、小説のようなことは現実にフィールドを移すと無くなってしまったり、難しいことに気づいたりするんですが、永遠の「こうやって過ごすのも良かったな、多分楽しかっただろうな」があるのです。一生ある。小説を読めば自分の生き方以外の選択肢をごまんと知れるのだもの、憧れがどうしても。
お前はいつもフィクションの話をするな、と思われるでしょうか。いつもしますよ。だいたい目の前の現実だけじゃつまらないし、フィクションが死んだら生きていけないつもりですよ。いつだって魔法使いになりたいし、空を飛びたいし、突然異能力が発露してみて欲しいし、選ばれた人になりたいし、美人でミステリアスな先輩が欲しいし、厄介な事件に巻き込まれたいし、世界を終わらせてみたいし、幻影を追いかけたいのです。勇気を持って大胆に行動していたいし、誰も真似できないようなかっこいい役をやりたい。想像の世界で心中してやっても良いと思う所存でございます。ああ、いいな。
これらの思いを込めたものが、今年の抱負の「楽しく生きる」でございます。少しでもつまらない憂き世を面白おかしく渡り歩いて生きたいのです。

きよしこのよるほしにねがいを

寒い。最近はいつも書き出しが「寒い」から始まっているような気がする。そうはいっても寒いのだもの。家にこたつがでました。みかんとあいすを食べてこたつでずっとぬくぬくしていたい。ねこになりたい。はるかです。
この時期は寒い寒いと言いながらも好きです。12月。クリスマス前の雰囲気とお正月に向けてぱたぱたと動く時間の流れが嫌いじゃない。どうしてクリスマス前はこんなに町が、わくわくして見えるのだろう。木に巻き付いた電飾がちかちかと眩しくて、吐く息は白く曇る頃。赤や緑が街に溢れて陽気なおひげのおじいさんが、ほほえみだす頃。店先では定番の歌が流れて、りんりんとベルの音に足どりも軽やかに。ごちそうが売られてケーキが豪華になって、なんでこんなに街がはしゃいでみえるのだろう。師も走る師走。年末年始に向けて奔走するのも好きなんです。もう今年も終わりかぁって話して、早いなと思ったり、次の年に期待してみたり、まだ今年が終わってほしくなかったり。どうしてだろうね。こんなに気が急いて、勝手にわくわくしてしまうのは。もう今年も終わるって。どうしようね。まずはクリスマスツリーを飾らないとね。サンタさんにプレゼントを頼まなくっちゃね。お誕生日おめでとうキリストさま。ご馳走を食べよう!
冬休みは塾の冬期講習です。頑張ろうね生徒諸君。お正月には帰省します。まだお年玉もらえるかな。先週は風邪を引いていました。微熱を引きづった状態で辛かったです。久々に風邪のつらさを思い出しました。
カルティエ展に行ったりもしました。きらきらしていて、お姫様になったような気分でした。
今はテナーサックスでジャズを吹いているのが楽しいです。
決めなきゃいけないことがあります。そういえばやっぱり、授業とりすぎたなっていまさら後悔してます。でも思想や哲学、心理学など、日文から離れた授業もとても楽しいです。
疲れていますか?疲れていますね。
きっと良い子にしていたからサンタクロースが来てくれるはずなのです。ねえ、そうでしょう?わたしは何が欲しいのでしょう、サンタさん。けれど良い子にしていたの。だから魔法をかけてほしい。

よるのしじまにしじみのはなし

寒いですね。本当に寒いですね。寒いと希死念慮が攻めてくるから嫌です。授業に行くのは嫌ではないけれど、外に出たくなくなるんですよね。寒いから。どうも、はるかです。
最近いろいろあって、しじみに詳しくなりました。貝のしじみです。あれ。お酒飲んだ後オルニチンってやつが肝臓に効くので、しじみの味噌汁を飲んだ方がいいらしいです。日本には三種類のしじみがいるそうです。9割がヤマトシジミです。しじみは汽水に住んでます。穴道湖が名産地です。しじみは水中の窒素を取り込んでくれます。そして水を循環させて浄化します。近年では収穫量が減ってきています。しじみが減りすぎないように気をつけなければなりません。しじみ。演習でやった小説に出てきたんですけどね。リュックにいっぱい詰まったしじみが、ぎゅうぎゅうに満員電車に詰められた日本人だと言うんですよ。わたしはそれを読んで以来、しじみを見ると複雑な気分になってしまうのです。梅崎春生の『蜆』という作品です。気になった方は読んでみてください。内容は明るい『羅生門』です。この『蜆』(読みはしじみ)という作品の「しじみ」について考察を書いたから、こんなにしじみについて詳しくなりました。
まぁしじみはそんなに好きじゃないんですけど。貝自体、そこまでですね。たまに砂が入ってて、「じゃり」ってなるのが悲しいじゃないですか。あれが嫌で。じゃりってしなくても良いと思うんですよ。貝だったら、帆立とかまぁ好きですね。あのやわらかいところが好きですね。刺身もすきだし、ホタテフライもすきです。オレンジのところはあんまり嫌だ。あとは前に初めて食べたらあわびがちょっとおいしかったですね。あとさざえの白くてやわこいところ。黒いところは長いので嫌ですね。牡蠣もあんまりですね。あさりも。そんな感じです。
そういえば、蜃気楼ははまぐりの見る夢だと言います。あんな小さな貝のくせに、壮大な夢を見るものですね。あんな小さい貝もあんな豪華で不思議な蜃気楼を見るのですから、わたしはもっと壮大で素敵な楽しい夢を見ても良いと思うのですよね。現実ばかりではつまらないし。蜃気楼のようにゆらりゆらりと地に足つかぬような、不思議に幽やかに漂っていたいのですね。潮の匂いがする、あの海に焦がれて帰りたがってるんですよね。なんか眠くなってきちゃったな。ずいぶん文体がポエミーになってきましたね。そろそろ寝ようか。
おやすみなさい。

行かないで縋る君との決別を

寒い。本当に寒い。いきなりすぎません?もう少し秋は長引いてくれても良いのではないでしょうか。寒さは生きるエネルギーを奪っていくように感じます。「さびしい」と「さむい」と「ひもじい」は良くないっていつだって言いますよね、どうも、はるかです。
前回の番組差し替えはなんだったかって?いろいろあったんですよ。それはもう、いろいろ。
最近は演習が続き参っています。11月後半になぜか集中しまして。うーん、なんともつらいもの。さらに冷え込むでしょう?つらいな。布団から出られないな。あの魔力はなんでしょう。あの暖かみはなんでしょう。わたしを捕らえて離さない、天国が羽根の下にあるのです。毎朝、毎朝夢を魅せる天使に別れを告げ這い出ているのでています。暖かくて優しくて、けれど離してくれないその様はまるで束縛メンへラ彼女。まあそっけなくされても困るから良いんですけど。存分にもたれかかってくれハニー。
なんか今日は文章のキレが悪いなあ。最近小説を読んでいないからか?それは良くないね。一刻も早く読まなければ。このブログのためだからね、仕方が無いね、気になっていたあの本も、お勧めされたこの本も、本棚で読まれることを待っている本達も全部読んであげないとね、全く仕方無いよね。どの本から読もうかな。
あっ、演習の準備……
そういえば、図書館の前のかまぼこで創作自主ゼミの作品の展示が行われています。良ければお寄りください。わたしも書いてまーす!

ちょっといろいろあっただけ

実はいつも出だしに迷っていたりする。なんか面白いこと書きたいなあ、とか面白く書きたいなあとか思ったりする。けれど、だいたい夜に書いているから疲れてて何にも浮かばないんだなあ、これが。どうも、はるかです。
最近、いろいろと小説を書く機会が多い。創作技法論の授業とか、創作自主ゼミとか。なんか前も書いたような気がするけどれど、わたしは小説書くの好きです。楽しいから。物心ついたときから、物語を考える作業が好きだったし、小学生の頃授業で小説を書く機会があって、興奮したし、いまでも小三で書いた冒険譚を取ってある。おっと、笑ってくれるなよ。その頃は中学生、高校生になったらもっと国語で創作の授業が増えると思ってわくわくしてた。実際一つもそんなことはなくて絶望した。あ、でも一つあったな。
これはいまでも覚えてるのですが、国語の授業で、「観覧車回れよ回れ思い出は君には一日我には一生」という栗木京子さんの短歌について、自分の考えたことを書くというものがありまして。ある人はこの歌を片思いの歌として、「このまま何周も回ってくれれば良いのに!と主人公は思っている、かわいい希望の恋の歌」と言っていた。わたしは「叶わない恋を自覚した主人公の切ない失恋の歌、この観覧車が一周しか回らないことも、相手が一瞬で忘れてしまうだろうことも分かっている」と解釈した。お互い指名されて発表したのだが、クラスの多数は明るい恋に惹かれてた。なんとなく悔しかった。けれど、普段頭が良いけどちょっと性格が悪くてなんとなく敬遠していた男の子が「やっぱり、あの歌は失恋の歌だよな」と言ってくれた。それがなぜだかすごく嬉しかったのを覚えている。今思うとこの頃から近代文学の考察が好きだったのだろうな。なんつって。その後、消化不良だったため、遊園地でデートした二人の小説を書きました。当時初めて最後まで書き上げることができた作品でした。リメイクしたりもして。あー、懐かしい。感慨深い。
まあでも、最終的に解釈じゃ納得できなくて、二次創作みたいなことをしてしまうことからも分かるように、文学部じゃなくて文芸の方に進みたかったんだよね。けど受験でいろいろ落t……。あー、そういえば受験の話は地雷です。いろいろとあったので。本当に、嫌なんだよ。もう一生自分から話題に出さない。あれ、話が逸れたぞ。とにもかくにも兎も角に、物語を書くのが好きだったわけですよ。今も好きなんですけど。でも、みんなが目を見張るほど上手くもなければ、プロにもなれないのに、「小説を書いている」とか「書くのが好き、趣味」ってなんとなく言い辛かったんですよね。なんでだろうね。今でもちょっと口に出すと小っ恥ずかしい気持ちがある。この「小説を書く」と公言することは、自分に酔っていると解釈されるんじゃないか、と心の中で怯えているんだろうな、たぶん。音楽を聴くとか、ハンドメイドでアクセサリーを作るといった趣味と同列でいたいのに、というか同列なのにね。なんだろうね。特にこどもの頃は、強くそう思ってたんですよ。けど、書いたものは誰かに見せたくなる、あわよくば褒めてほしい。きついことは言われたくない。矛盾しているようだけど、全部思いとしてあるのです。そしてこれは今もそう。でも大学に入って、「小説を書くことが好き」という人が周りに多くいたり、それを共有できる集まりがあったりして、本当に嬉しいな、と思うのです。わたし、小説書くの好きなんですよ。特にちょっとした言葉の表現や、心情描写を書くのが好き。お話考えるのも好き。上手い下手とかは置いといて、考えるのも書くのも好きです。とっても好き。趣味で書いてます。ああ、言えるっていいなあ。それについて

連絡 この時間帯に本来の放送予定の番組は諸事情により差し替えられることになりました。代わりに「おでんの話」をお送りします。

寒くなってきましたね。みなさんおでんは好きですか?わたしは大好きです。味が染みるものが好きなのでおでんは好きですし、おでんの中でも特にちくわぶが好きです。もちもちしていておいしいですよね。2日目でよく味が染みていて、さらに鍋の底に触れていたせいでちょっと焦げ跡がついたちくわぶなんかたまらないです。名古屋の出身なので赤味噌をつけていただきます。つけてみそかけてみそ。チューブの赤味噌です。おでんに相性が良いんです。一番相性が良いのは、たまご。ごはんと一緒に食べると本当に美味しい。え?おでんにごはんって付くの?付くよ。おでんはおいしいおかずだし、おでんのおつゆは米に合う。それで、一番おいしい食べ方は、ごはんの上にたまごを乗っけて箸で割る。その上からみそをかけて、おつゆをかける。ごはんと一緒に食べる。本当においしい。ぜひ一度食べてみてください。
差し替えって何ですか?何でおいしいおでんの食べ方になったんですか?これって、テレビ番組だったんですか?差し替える前は何を放送してたんですかって?こまかいことはきにしないほうがいいよ。そういうもんだから。

だから何度も明治の書生になりたいと

どうも、はるかです。
日文喫茶に寄稿した日文エッセイの内容を、折角だから載せておこうと思う。それなりに上手く書けたし。

 東京は目白、朝も早く人の群れにまみれて電車に乗るやう、全く厭になる。まるで遠く異国の地に運ばれる畜生のやうで、人間の尊厳なんてモンはありゃァしない。青い顔で死人のやうに口も聞かず、屍ばかりが行儀良く並んで人を全うし難い様子なのだから、あんまりだ。厭世家を気取りたくなる心向きも仕様が無いでせう。さて降り立ちましては雑司ヶ谷。目白は乗り継ぎに骨が折れるため、地の下を這いずるメトロにお世話になつてゐる。山手など由りよほど好い。それから歩いて十五分程。大學にようやっと着く。大學といふものは、それなりに楽しいもので、なあに、嫌いぢゃあないが、毎朝律儀に行つてやるのも疲れる。興の乗らない日もある。サボタアジユを考える日もある。それでもどうにかして怠けたいなァと口にして、今日も門をくぐるのだ。
 如何にして授業を乗り切るか、その為に頭をひねる。言うまでも無いが授業は真面目に聴いてゐる。元来真面目な性格なのだ。また授業は大抵は面白い。勿論面白くない授業も有る。大學の教授様なんぞ、良いご身分の癖して怠慢するのだからたまらない。けれどもやはり面白い授業は多い。何故なら学問は面白いのだから。さうでなければ、何が嬉しくて毎朝電車に揺らるるものか。何が嬉しくて蒲団を撥ね除け顔を洗うものか。厭に成ることもあるが概ね楽しいから行ってゐるのである。
 さて、文学の面白さと云へば語るに尽きぬものなれど、くどくどと説くのも品が無い。簡潔に済まさうとすると、それも中途で言い足りない。文学は難儀なものなのだ。少々気難しいが、されども生涯の良き友と成つて呉れる。ううむ、やはり此処等で止しておこう。らしいことを言うのは小ッ恥ずかしく、何しろ柄で無し。
 図書館の噺でもしやうか。きみも知つているだらう、彼のハイカラなライブラリィの噺だ。あんなにでかい図体をして、洒落た中身をしてゐるのに、如何したことか、日本文学を学ぶ輩の本拠地は、日も当たらない地下なのだ! 何たることか、僕達が何をしたというのか、階段を降り日の当たる空間から暗いところへ落ちるのを、毎度悲しく思いながら通ってゐるのだ。B1F、其れは日本文学の徒の根城である。足を踏み入れたが最期、表情の無い日文生を大量に見ることに為る。ガウンガウンと書庫が動く音、濃厚な紙の匂ひ、カタカタと一心不乱にコンピュウタを打つ音、執念のやうにコピィを繰り返す者。何処からともなく聞こゆる聲。「ホンコク」「ロンブン」「ハンポン」「イドウ」「シンゼンシュウ」「カンジガヨメヌ」「カナガワカラヌ」「ロンガマトマラヌ」「テイシュツビ」などはほとんど悲鳴の様相だ。地獄のやうな有様だ。
 其れでもやはり図書館に通い、身を切り詰めて学問に励むのは、ひとえに学問の楽しさに有る。先程散々に申した通り、その面白さを上手に書けぬ己の力量不足が惜しいのだが、例えで一つ言うとするならば、斯の様なエセ純文学風文章が書けるやうに成る。

タイムスリップ出来るものなら明治のしがない書生になりたい。

何?時代やジャンルが統一されていない?でたらめな書き方をしている?混濁している?だから「エセ」って書いてあるじゃないか。見逃してくれよ。
それよりも、純粋に面白かっただろう?それならそれでいいだろう。ぼくはもう布団に入らせてもらう。日文喫茶をよろしく。