原作にはいませんでしたよね!?(楽しみです)

こんにちは。あかねです。もうすぐ卒業論文の発表会がありますね。私も去年、先輩方の発表を拝聴した記憶があります。今年は職場の研修とかぶってしまったため行けなくなってしまいました。残念です。さて、去年の卒論発表会では、よく話していた先輩が石川啄木の詩について発表なさっていました。石川啄木の歌は中学国語の教科書にも載っています。より理解を深める必要があると感じたため、金田一京助という人が書いた『新編 石川啄木』を読みました。実はこの金田一京助、『明解国語辞典』の著者であると同時にアイヌ文化研究の第一人者であり、石川啄木と同郷、一時期は東京で二人暮らしをしていたような人だったのです。この金田一京助と石川啄木の史実を基盤に据えた探偵小説があります。『啄木鳥探偵處』という、1995年に出版された小説です。この小説が来春、つまり2ヵ月後の4月13日からアニメとして放送されます。

アニメ「啄木鳥探偵處」の新情報が昨日解禁されました。小説では語り手として登場する金田一京助と、探偵として事件を謎解いていく歌人石川啄木がメインで、明治大正期の他の歌人は全くと言っていいほど描写されていませんでした。しかし昨日明らかにされたキャラクター紹介PVでは、野村胡堂や若山牧水、吉井勇がいました。この三名は同郷だったり啄木の死を看取ったりする等、比較的史実でも親しかった者として名が現れます。しかしこの他にも、アニメでは萩原朔太郎や芥川龍之介が登場するのです。更に、公式のホームページの相関図を見ると、森鷗外や夏目漱石の姿が!とても驚くと同時に、アニメではどのような関わりをもつのか、小説とはまた違った結末になるのかが気になります。小説がかなり京助と啄木の二人だけの世界だったように思われるので、私としては不安よりも、探偵ではなく歌人としての啄木の姿が見られるのかもしれないという期待が大きいです。これを機に明治大正期の歌や小説に触れる人が増えてくれたら良いなと思っています。

ちなみに、前述したとおりアニメの初回放送日は4月13日なのですが、この日は啄木が結核で亡くなった「啄木忌」に当たります。そしてアニメのオープニングは啄木の死を看取った若山牧水の声を担当する古川真さんの歌であり、エンディングは吉井勇の詩を基に作られた「ゴンドラの唄」(「命短し歩けよ乙女」というようなフレーズのもの)だそうです。不穏な気配に胸の高鳴りが止まりません。『啄木鳥探偵處』の作中は明治末期です。啄木の命が尽きる大正時代はもう、すぐそこまで迫ってきているのです。

探偵稼業を始めた啄木と、啄木と啄木の才能に惚れ「歌を歌っているべきなんだ!」と叫ぶ京助の活躍を、アニメ映像と音楽で楽しみたいと思います。4月からの新生活、何としてもアニメを見る時間を確保せねば……!以上、来年(度)の話をして鬼が笑いそうなあかねでした。

日暮里巡り!

こんにちは、あかねです。9月15日の日曜日、森鷗外記念館と子規庵、田端文士村記念館に行ってきました!今月19日は正岡子規の命日で、糸瓜(へちま)忌と言います。糸瓜忌に合わせた特別展示が行われているとのことだったので、同じ日暮里近辺の森鷗外記念館にも行くことにしました。
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先に訪れたのは森鷗外記念館です。モリキネと略され、中のカフェも「モリキネカフェ」という名前です。現在行われている展示は「文学とビール 鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」!普段は常設展示に置かれている鷗外のビールジョッキも今回は特別展示の方にありました。鷗外とビールの関係性として鷗外筆『独逸日記』から面白いエピソードを紹介しており、「ドイツ人は12リットルも酒を飲む。自分は1.2リットルでもう駄目だから笑われる」というものが個人的には一番印象的でした。1.2リットルも飲めれば十分なのでは……当時のアルコール度数にも依りますがね!文学とビールとの関係性としては、巨大な年表が用意されていました。当時のビールと世相の動きが書いてあります。展示としては仮名垣魯文『安愚楽鍋』や坪内逍遥『当世書生気質』、夏目漱石『吾輩は猫である』等の作中からビールが登場する箇所を紹介し、明治から昭和にかけてのビールの役割を追っていました。明治大正期の黒ビールは高級品のようなものだったのに、時代が下るにつれ、お歳暮や客人に振る舞う飲み物へと変化していっていました。モリキネカフェでは岩見麦酒(ビール)をいただくことが出来たので、昼から少しだけ飲みました……!人生初ビールです。香りがとてもフルーティで、微炭酸でした。香りがなかったらリンゴ味のソーダかと思うような舌ざわりです。味はリンゴなはずもなく、麦と果物の香りがしました。後にほんのり苦みが残りますが、それも爽やかに消えていくので飲みやすかったです。ただ、嗅覚が鋭い方はグラスを口に付けた際、深呼吸しない方が良いかと思います。良くも悪くも香りが強かったです。(しかし美味しかったので、成人の方は是非お試しあれ!未成年の方はしばしの辛抱)
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そして子規庵へ!
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ガラス戸の向こうの緑が今回も綺麗でした。手が届かないからこその美しさなのだろうと、いつも思います。
今回の展示は「食ヒナガラ泣ク、泣キナガラ書ク」でした。『病床六尺』や『仰臥漫録』に見られる子規の食事と執筆風景に迫っています。食事に関しては、食べたものを「菓子パン数個」としておきながら4つも写生している子規が紹介されていました。最低でも4個は食べたけど細かい数は知らないよ、ということでしょうか。読者の皆さんも薄々お気付きでしょうが、子規の食欲はとても旺盛でした。庭へ出る付近に、子規が書き留めた毎日の食事を1日1ページで纏めたものもありました。そこで見かけたご飯は、基本的には毎食「粥3杯」。昼ご飯には、「鰻の蒲焼きが7つ」とか「焼き鰯が18匹」とか……。勿論、これはおかずなので粥や漬物がついてきます。
そんな正岡家、食費に圧迫されていたかというとそうでもなかったみたいです。菓子パンの絵のパネルの隣に、エンゲル係数が示されていました。結核で寝たきりになる前から新聞社に勤めていた子規。寝込んだ後も新聞記事を書き続けていますが(それが『病床六尺』)、新聞社から払われる月収は今で約50万円。高額な医療費を払ったとしても、毎日昼に1000円程度使える給料でした。
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『仰臥漫録』に書いてあった子規の食事の表。『仰臥漫録』は子規が布団の中で寝ながら書き、家族が来たら布団と畳の隙間に隠すようにして密かに執筆していたものです。「一日中下痢」と記された日も。もしかしたら書いていないだけで、沢山食べるごとに苦しんでいたかもしれませんね。

子規庵はボランティアの方々によって支えられているのですが、柿の文鎮をお作りになっている方が作成したというある日の子規の食事サンプルもありました。お刺身が艶ピカで美味しそうです。

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こちらは『仰臥漫録』に書かれていた妹の律への悪口。理屈っぽくて頭が固い!気を利かせてくれ!(私の意訳)という不満が表れています。病床の辛さからの八つ当たりでしょうが、世話をしてくれている人にそんな……という思いもあり、何とも言えない気持ちになりますね。
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高浜虚子が口述筆記した『病床六尺』

そしてこの子規庵、日暮里駅と鶯谷駅の間にあるのですが、なんと貸し切りで勉強会や句会・歌会を開くことが出来ます!
貸出日は月曜が終日(振替祝日の場合は火曜)、月曜以外は午後4時半から可能です。借りられる時間は2時間半が目安となります。料金は使用料1万円に加えて、利用者1人につき500円支払う必要があります。この500円は入庵料なので、「友の会」の会員になっている方は500円は払わなくて良いとのことです。入庵料さえ払えば1万円で句会や勉強会が開けるのは最高ですね!
設備は折り畳みの机が4台、座布団、お茶セットとのことです。机が1台につき4人の使用となるため、一度に利用できる人数は16人となります。創作自主ゼミさんや短歌会さん、ご検討なさってみてはどうでしょうか。
利用に最適なのは5月だそうです。申し込みの問い合わせは子規庵事務局03-3876-8218か、田村さん090-2721-3861へ、とのことでした。静かで雰囲気も良く、俳句作りも捗ります。近代の俳句を拓いていった人と同じ場所で自分たちも活動できるなんて早々ありません。有意義な日文生活を送る機会として是非ご検討ください!社会人になっても、誰かと一緒にこういう場所でのんびり俳句を作りたいな……。以上、あかねでした。

最後の最後に!9月16日の木曜日、それぞれ11時、12時半、13時半から子規庵内で演劇「糸瓜咲け」の公開本読み稽古が行われるとのことです!予約は不要で先着順だそうです。上野ストアハウスで上演されるものの稽古ですね。学生はチケットが3500円になるそうなので、もし時間があったら見に行ってみてはいかがでしょうか。子規の生き方はきっと心に響くと思います。以上、あかねでした。

卒業論文

こんにちは。あかねです。卒業論文は渡部先生の近代文学ゼミに入っているのですが、夏休み明けに12000字程度の課題を提出することになっています。その進捗を、同じ近代文学ゼミの友人と報告し合いました。アドバイスも言ったり貰ったりしました。
私が今調べていることは、雑誌に発表されたものと、その3年前に書かれた原稿との違いです。「赤城下扶桑堂」は「五軒町正直堂」に、「木村商店」は「大黒屋商店」に変更されていました。何故乱歩がそのように変えたのか、1923年当時の辞典や、実際に東京のその地名の場所の歴史を紐解いていっています。まさか東京の図書館に行かなければならなくなるとは……!卒業論文は幅広い調査が必要なものなのだなと現在ひしひしと感じています。
友人は「いろは茶屋」と「けんぺき茶屋」について調べていました。私も友人も、これを調べて何が言えるんだろうという虚無感を抱えていますが、互いに別視点で考えることによって、何とか意味を見出せそうです。
まずは現地の図書館で地元の歴史調べに精を出そうと思いました。同時並行で、調べだけでなく課題作成も進めていきたいです。以上、あかねでした。

夏休みも自主ゼミ活動!

こんにちは。あかねです。さきおととい、つまり8月26日は近代文学自主ゼミの活動日でした。今回はその様子についてお話ししたいと思います。
夏季休暇中の自主ゼミ活動は、まず全員で夏休みの予定を突き合わせるところから始まります。ご指導は渡部先生にしていただくので、渡部先生がいらっしゃることができる日をメールでお尋ねします。その後、先生の都合が良い日の中で、学生たちが一番参加できる日のアンケートをLINEグループで取ります。こうして決まります。今年は先生も含めて12人の参加でした。
午前中は研究の進行度やそれに対する助言の時間でした。今年は室生犀星の『蜜のあわれ』を扱います。テーマごとにグループ分けがされているので、各グループの動きがどうなっているかの報告をしました。研究内容の詳細はお楽しみに……!来年の『研究ノート』をチェック!
そしてお昼。近代文学自主ゼミでは例年ピザを注文し、お店に歩いて取りに行っています。駅とは反対方向にピザ屋さんがあるのですが、取りに行く場合に限り「2枚頼むと1枚無料」なサービスがあるところも!嬉しい気持ちになれます。あまりピザを食べることもないので、「1年に1回、このゼミで食べるだけだ~!久しぶり!」と後輩ちゃんと話しました。
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ピザとチキンとポテト
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プチパンケーキとエッグタルト~院生の先輩のお土産であるメレンゲを添えて~
午後は研究のテーマから外れた研究をしました。具体的には表記の揺れからの考察です。例えば「クチベニ」と書かれていたのに数ページ後では「くちべに」になっていたり、「コドモ」と書かれていたのにページを進めるにつれ、「子供」の箇所と「コドモ」の箇所が出てきたりします。他にも振り仮名がカタカナにされている部分や、漢字で書けるところがあえて平仮名で書かれていました。表記の揺れ以外でも、田村ゆり子という幽霊の登場人物について、殺されてから発見に至る経緯の矛盾点について考察を深めました。掃除夫の人が扉からすかして死体を見ているのに、第一発見者は牛乳配達人とはこれいかに……。そんなこんなでワイワイと議論を楽しみ、まったりゆるゆると研究に勤しみました。楽しかったです!そういえば私ももう4年生……あれが大学生活最後の夏休み中の自主ゼミだったのかと思うと名残惜しい気持ちがあります。
そんな近代文学自主ゼミですが、なんと、自主ゼミ員2人が入っている演劇が今日と明日、行われるそうです!
演劇の宣伝
以前拝見したのですが、ストーリーにも演技にも惹きこまれました!今回は即興劇だそうです。一度きりの舞台、素敵です!後輩ちゃんたち、応援してます!以上、あかねでした。

またいつの日か……吉川英治記念館(と、おまけに三鷹の太宰・鷗外)

こんにちは。あかねです。本日をもちまして、吉川英治記念館は閉館となります。悲しいです……。同時に、文学館は閉じることはないと無条件に信じていたため、こんなこともあるのかと驚きました。研究のための資料は公益財団法人吉川英治国民文化振興会事務局(03‐5395‐3432)に申請すれば閲覧可能だそうですが、吉川英治の家や記念館は見られなくなるそうです。いつまた開館するのかは分かりません。だからこそ、行かなければと思いました。
吉川英治が生涯で最も長く住んでいた家と、吉川英治の人生や作品について知ることの出来る資料館が青梅市にあります。私は17日の日曜日に行ってきたのですが、高齢者の方から子供連れの家族まで、幅広い年代に親しまれていました。家の中では、かつては梅が綺麗だったけれど木の病気感染のために伐採されてしまった旨が書いてありました。その木の切り株を乾燥させて病原菌を完全に殺菌したものから、夫婦の像を彫ったものが展示されていました。他にも、吉川英治が携わった竹の天井や松の柱、親しかった画家の絵等も見えました。内部の写真は撮れなかったので外観のみ庭から撮影します。庭にはスズラン等が咲いていて、植物と家の構図をスケッチする方々も何人かいらっしゃいました。

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三枚目の写真の奥に人影がありますが、これでも人の波が切れた瞬間を狙いました。それほどひっきりなしに往来がありました。この奥には離れがあって、眼鏡や万年筆、沢山の本といったものが置かれていました。ともすると吉川英治がやってきそうでした。
資料館では、吉川英治の人生について分かりました。小学校卒業の直前に家が没落し、最終学歴は小学校中退となった吉川英治。東京で働きながら川柳等に親しみ、やがて人気の時代小説作家となります。中には原っぱの中、2~3歳の娘に髪を引っ張られながら笑顔を見せる写真もあり、家族思いの人だったことが見て取れました。現在の記念館の館長の方が吉川英治の長男と同姓同名なのは偶然ではないのでしょう。吉川英治は戦後まで生きた作家でした。戦中は従軍作家になる等、純粋な気持ちで日本の勝利を信じていたようです。勿論、「そういう小説」も書いています。だからこそ戦後数年間は小説を書かなかった(恐らく書けなかった)時期があり、何とも言えない切なさを感じました。信念が裏切られてしまったのは、そしてその信念が悪になってしまったのは、時代のせいとはいえ厳しいものがありますね……。その後も文壇に返り咲き、『新・平家物語』で本当の幸せを追求していたところも印象的な作家でした。お恥ずかしながら一冊も読んだことがない作家なので、時代小説が苦手だからと読まず嫌いをせず、その世界に触れてみたいと思います。

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資料館と椎の木

 

しんみりした帰路、私は気付いてしまいました。中央線に乗り続けると三鷹に着くぞ、と――。

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まずはこちら、太宰治文学サロンに行きました。ガイドの方に吉川英治記念館から来たのだと話した際、戦争直後の売り上げランキングとしては一位が吉川英治、二位が太宰治だったそうで、図らずも富豪たちを巡る旅となりました。ここでは太宰の親友について見たのですが、心に強く残ったのは太宰の死の理由についてです。実は自殺の少し前に、太宰は喀血していました。結核です。また、『斜陽』の大ヒットに伴い収入も増えたのですが、太宰の脳内に税金という二文字は薄かったようで、大きな負債を背負ってしまいます。更に、妻と、心中した女性の他にもう一人、関係を持った女性がいたのですが、その女性と子をもうけてしまったのです。様々な要因が一気に来た結果、入水に至ってしまったのだろうとガイドの方がおっしゃっていました。あと2年生きていれば、結核の特効薬も普及していたのに……。複雑です。
玉川を見た後、太宰治や森鷗外のお墓がある禅林寺へ。途中で本を開いたような『斜陽』の像を発見したのがこちらです。

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禅林寺では日没に墓所が閉まるということで、既に日が橙色の中急ぎに急ぎます。太宰の墓は森鷗外への畏敬の念からはす向かいに位置するところにあります。両方に手を合わせながら、太宰の墓には花が供えてあるのに鷗外の墓には何もないことが、花を買っていくべきだったかと後悔した点でした。

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帰り際、「賀古鶴所さん!」と思わず叫びました。彼については私の名前をクリックし、前回のブログをお読みください。簡単に言うと鷗外が生涯をとおして親友だとした皮膚科医で、鷗外の口述を書き留めて遺書を作成しました。この碑も遺言を写したもので、冒頭部分に「賀古君に書いてもらっています」といったようなことが書いてあります。行く時も帰る時も、若い女性とすれ違いました。鷗外でも医師でもない森林太郎として死に、埋葬されても、私のように小説家としてお参りに行く人が絶えないのは鷗外さんにどう思われているのか気になります……。うーん、人生が思い通りにいっていたら、そもそも文学で何かを表現しようとはならないと思いますので、なるべくして現状に至ったのでしょうが、何と言いますか、彼らの人生が幸せであったことを願います。
とりあえず、自分のためにも生きられるように気を付けつつ、病や心の折れそうなことにも負けずに生きていきたいと思いました。

文学館めぐり~余裕派・高踏派~

こんにちは、あかねです。今回は、2月23日に行ってきた文学館めぐりについてです。森鷗外記念館と子規庵、漱石山房記念館を半日でまわってきました。東京は電車が潤っていて移動がスムーズです。

まずは森鷗外記念館から。千駄木駅から徒歩5分のここは、かつて鷗外の家があった場所です。観潮楼と呼ばれていました。

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以前行った時はまだあまり詳しくなく、何故永井荷風がこのようなものを書いたのか分かりませんでした。しかし今は、荷風が鷗外を敬愛していたからだと分かります。展示を見ても、鷗外は多くの人に頼られ、多くの人の面倒を見ていたとありました。お医者さんだからなのか、彼の人間性なのか……正岡子規を「人誑し(ひとたらし)」と評していましたが、案外鷗外自身が世話焼きだったことも影響していたのかもしれません。

現在の特設展は、九州の小倉にいた頃の鷗外の生活を書簡や新聞の投稿から見るというものでした。賀古鶴所(かこ つるど)という7歳上の親友に「工事が始まって、夜の12時までやっているから退屈しない」等と送っています。また、家へは「醤油が届かないから通運会社に聞いてみているが早く送ってほしい」といった、関東と九州で異なる味付けに苦戦した様子が見られました。

モリキネカフェでラプンツェルやハム、コンビーフのセットを食べた後、子規庵へ。

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正確に言うと子規庵は文学館ではありません。正岡子規の住んでいた家です。……更に正確に言うと、家自体は戦争の際に焼けてしまったので、弟子や家族が協力して再現したものです。東京都の文化財に指定されています。

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普段「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の掛け軸が吊るされている所には、12月に催された蕪村忌の寄せ書きがありました。私も蕪村忌に行った際書きましたが、その時よりもずっと賑やかになっていました。友人へお土産を買った後、漱石山房記念館へ。

……時間配分にはお気を付けください。漱石山房記念館の中にあるsouseki cafeはラストオーダーが17時です。東京メトロ早稲田駅に着いたのは16時40分。坂を上って下って上って、結局片道10分はかかるところを5分で行きました。人間、頑張ればどうにかなるものですね……。

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そのような理由で、写真撮影は後回しにしました。だんだん暗くなっていく写真をお楽しみください。

カフェで渋柿のアイスを堪能した後、ショップで黒猫のマスキングテープを購入。以前来た時、帰宅してから後悔が物凄くあったため、今回は必ず買おうと心に誓っていたものです。無事買えました!

展示は留学中の漱石についてでした。立花銑三郎という日本人翻訳者と漱石は友人関係にあり、立花も漱石より前から留学中の身です。公開されていた書簡では、インフルエンザに罹って帰国の途につく立花へ「僕の下宿に寄っても構わない」という旨を送っていました。日本文学科では一年次から「変体仮名演習」という必修の講義で、ミミズのような昔の字を読めるよう訓練されます。しかし、習っていなくても読めるような漱石の筆跡の「インフルエンザ」を拝むことが出来ました。病名は100年以上前と変わらないんだなと驚く一方、結局立花さんは帰国途中に亡くなり、漱石が帰国すれば同郷の親友である正岡子規も亡くなっているわけですから、なかなかにシビアで切ない現実です。

帰路

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今回は文豪の作品ではなく、生き方を見る旅でした。中世の教授である石井先生は「非リア充からしか文学は生み出せない」とよく仰ります。神経衰弱の時に高浜虚子から進められ文壇に登場した漱石、病に侵され窓から見るだけとなった世界をそれでも歌い続けた子規は、確かにその通り当てはまります。今回の展示で、医者の家の長男として軍医になりながら、興味は文学の方面へと向かう鷗外の姿にも気が付きました。恐らく鷗外もまた、家督を継ぎ医者となるのが本望ではなく、本当は小説を書き歌を詠んでいたかったのではないかと思いを馳せてしまいます。何かしら思い通りにはならなかったことがあったからこそ「文豪」は誕生したのだと思いました。

やりたいことは体が動くうちに、生きている間にしたいものです。現代は明治・大正当時と、家の在り方も病気への対処法も違いますからね!それに、足が動かなくなってから後悔することは多いです。正岡子規もきっとこんな気持ちだったのだろうと思えるほどに狭まった世界で生きています。今回は3つとも回れましたが、もう少し寒かったら途中で断念していました。そういうリスクも私の外出には必ず付きまといます。どうか皆さんが、いつ何が起こっても後悔しない日々を送ってくださることを願います。多分、鷗外も子規も漱石も、失ったから文学が書けたのだと思います。しかし失った自由や時間や健康や足や友人は帰ってきません。欠落から文学が生まれるのだとしたら、文学というものは穴を埋めるための塊になってしまいますね……。誰かの心にははまるけれど、書いた当人の穴は埋まるのでしょうか。埋まっていたら良いなと思います。

さて、しみじみしたところでお知らせです。生誕150年を記念して、創作能「子規」が3月17日、新宿区の矢来能楽堂で13:30からあるそうです。料金は学生がなんと3000円!全席自由!宇髙通成さんがシテ役で子規を演じます。老人が実は子規で、歌を歌い舞い踊るという典型的なあらすじですが、32歳で亡くなった子規が老人になって登場するというだけで、あの世で老成したのかなと勝手に嬉しさと切なさを感じています。子規庵にチラシが置いてあったのですが、ちょうど後期の講義で創作能レポートを出したところだったのでタイムリーだと思い、この場で宣伝致しました。近代文学と古典芸能のコラボレーションを是非、たった一度の機会ですから見に行きませんか?

私は都合が合わないので、見に行けないのですがね!悔しい……!生誕200年になったら絶対行ってやると固く心に誓ったあかねでした!

初牛鍋!

こんにちは。あかねです。今日から暦の上では春ですが、実際に風も暖かく穏やかな日ですね。今回は季節を逆行して1月21日月曜日、真冬の出来事について書いていこうと思います。

近代自主ゼミに所属しながら創作自主ゼミにも入っているのですが、その創作自主ゼミで食事会がありました。都合により結局4人しか集まれなかったのですが、楽しく鍋を食べに行きました。

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陰陽のような仕切りは本当に存在していたのですね……。左がすき焼き、右が豆乳鍋です。牛肉や豚肉をしゃぶしゃぶしていただきました。卵につけて食べる牛すき焼きはとてつもなく美味しかったです。仮名垣魯文の『安愚楽鍋』にもよく登場する牛鍋ですが、確かにこれは画期的に美味しいと体感しました。以前見た「るろうに剣心」の実写映画でも食べられていたり、文明開化の象徴であったりする牛鍋ですが、現代ではあまり食べる機会がないように感じます。しかし、食べる機会があったら是非食べよう、機会がなくても家で作りたいと思うようなものでした。人生で一度は食べておかないと勿体ない。そんな罪深い食べ物でした。恐るべし牛鍋。裏付けは取れていないのですが、「文豪とアルケミスト」というゲームの中でも坪内逍遥と二葉亭四迷が牛鍋をつついて会話していたので、明治期初頭の頃の人々は皆この旨さに震えていたのだろうと考えてしまいます(「文豪とアルケミスト」は、どこまでが史実に基づいていてどこからが創作なのか曖昧なほどなので、文学の入り口におすすめします)。

とろとろの肉とダシの効いた醤油ベースのつゆ、アツアツの豆腐に白菜、つみれ、キノコ……一方の豆乳鍋はまろやかで、優しい風味とごまだれ・ポン酢のたれが非常に合いました。レポートやテストの合間の鍋は最高でしたので、辛い時こそこのような小さな贅沢で体も心もほかほかになれると良いなと思いました。それに、自主ゼミの方々とも仲良くなれたのが嬉しかったです。

楽しい鍋でした!また行くぞー!

芋と妹

みなさまこんにちは、てるです。

久々の投稿であります。

テストやレポートの提出が終わり、遂に春休みがやってきました。後期を振り返ると、きつくもあり、ためにもなったもののひとつに演習の授業が挙げられるなと。通年で4回の演習発表をしましたが、どの準備も、アッアッア~~って叫びたくなりました。

どんな表現をしたらいいのか分かりませんが、演習発表の準備って水の中にいるときの感覚に似ているんですよ。水というか、いくつかの流れがある液体。液体はその作品自体で、流れを作っているのは先行研究。私の場合は、先行研究に対して、「うむ、そうかそうか」と流される姿勢があったため、論文を読むたんびに、考察があっちいったりこっちにいったりして迷走しました。

流されてしまうのはテクストに向き合っていないからだと思い、テクスト→論文→テクスト…に戻ることもしばしば。少しずつではありますが、「この論文のこの部分言い過ぎじゃないか?」「私は、ここはこっちの線が強いと思うのだが…」と若干の反論も思いつくように。

水の中をオラオラもがいているだけでは、自分の求める場所には行けないわけで。自分の行きたいところ付近に先行研究の流れがあるなら、それを助けとして泳げばよいし、抗うなら抗うだけの体力(根拠)がなければならんのです。

で、迷走に陥ったら、たまには水から出て息継ぎをします。先行研究にはないところから切り込むために、たまには水からあがって、ジャングルで狩りをしてきます(化学関連の本とか、色の本とか)。で、蓄えたら再び水にざぶーんと。

例えが稚拙で申し訳ないです。しっくりくるのがこのイメージでした。

3年生にあがったら予備ゼミが始動するので、今から焦っております。演習発表内では、質問や感想を言う場面が設けられており、個人的にはとても刺激になりました。思いつかなかった点や、甘かった点が見つかるからです。

なかなか文章に収まりきりませんが、ほんっっっとに発表近くは憂鬱になって、それこそ先程の例えにのっかると、ゴボボボボッッたッ,タスケテクレエェェって溺れかけました。正直に言うと、ほぼ溺れた状態で挑んだ演習もあります…。今だから内心を吐露できますが…。

この春休みはいくつかの資格の勉強をします。自分のまわりでめちゃんこ頑張っておられるひとがいるので、毎度のように凄いなあと思っているのです。

焦りと尊敬は起爆剤だと私は思っています。やっ、やっべえぞ!って精神状態で生み出されるものって案外、やっべえぞ!ってものだったりするのでは。(語彙力が欲しい)

あと、尊敬する何かがあると、走る気力、追いつきたい気持ちが次第にわいてくるような。

ただ、焦り理論にしがみついて、レポートの提出期限ぎりぎりまで粘るのはやめましょう。うん。(自戒)

私は近代文学演習のひとつで、芥川を扱ったのですが、彼は文中にやたらとフランス語を入れたがります。唐突に「etrangerの感」とか出てきます。焦ります。彼はルー○柴さんの親戚か何かなのだろうか。現代に生きていたら、「このappleは小さいですね」とか「この猫はveryかわいいですね」とか言ってしまうのでは。

それらの語はおそらく、重要な意味合いが含まれるなど狙いがあるものも存在すると思っていますが、毎度のように友達と「急にわからん語出てくるよね」と話していました。そうなると急に愛着というか、友達だったらこうなんかなと想像が止まらんかったです。(芥川さんは「君と友達なんて願い下げだ」ってなるだろうすみません芥川さん)

きつかったけど楽しかった。得るものはあった。

話は変わりますが、春休み始まって早々、妹と焼き芋フェスなるものに行って参りました。ひたすらに芋を堪能し、自らが芋で構成されてしまうのではないかと、芋細胞(なんだそれ)に侵食され、芋になってしまうのではないかと焦りました。嘘です。幸せでした。

じゃがいもと豚肉、ならぬ、さつまいもと豚肉のコロッケを食し、焼き芋の断面に砂糖をふりかけバーナーでじゅわりと炙った焼き芋ブリュレを楽しみました。最後は、パープルスイートロードという、紫色の焼き芋を食べました。これがまた上品な甘さで、ほろほろしており、終盤のおなかの状態にはとても優しいアメジストだった。

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ここ最近、ぐぐっと寒くなりましたね。
コンビニバイト中、おばあちゃんに「手、触ってもいいかしら?」と聞かれ、なぜかレジを隔てて握手をするという、謎の展開になりました。そしたらとっても冷えきっていて。「冷たいでしょ~~」っておっしゃって、そのあと「最近寒くなってきましたよね」ってお話してました。ほっこりしました。

みなさま、体調には気をつけましょう。

では、また。

2018年最後の子規庵――蕪村忌とともに――

こんにちは。あかねです。2018年の12月23日、ツイッターを見ていた私はあるものを発見しました。

「今年最後の子規庵です。」

行かなければと思いました。急遽外へ行く準備をして日暮里駅へ電車で向かい、そこから徒歩で更に10分かけて。こうして年収め子規庵を行うことになりました。

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ボランティアの方が私のことも撮ってくださりました。ありがとうございました。

中では、入館料500円を払ってくじを一枚引きます。はずれ無し最低4等の内、4等を引きました。ポケットティッシュだろうと思っていたら、松山市提供のフェイスタオルと、道後温泉「飛鳥の湯(椿の香り)」のもとでした。愛媛県松山市は正岡子規と夏目漱石の出身地です。学生時代から二人は一緒でした。つい最近論理学のテストの点数が全国ニュースで流れていましたね……子規さんが低いのではなく、漱石さんが高かったんです……。危ない危ない、閑話休題。温泉のもとの椿の香りも、子規さんの弟子で双璧と呼ばれる高浜虚子と河東碧梧桐を彷彿とさせます。

赤い椿 白い椿と 落ちにけり

碧梧桐の句です。この双璧の二人も出身が松山で、子規さんと兄弟のような、先輩後輩のような近しい関係でした。子規さんを最期まで看病していた人たちの中にも二人の名は挙がっています。

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以前の子規庵と比べると、緑が減って赤と茶色が目立つようになりました。そしてこの日は与謝蕪村にちなむ蕪村忌が行われておりました。

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子規さんたちが寄せ書きしたものです。実物ですが写真撮影が可だったので、傷めないようフラッシュは焚かず、しかし心中大はしゃぎで撮影しました。

「風呂吹や蕪村百十八回忌 規」

規とは子規さんのこと。この句は左の「風呂吹」の掛け軸の右上に書いてあります。よく見ると同じ掛け軸の左上には「風呂吹や蕪村百十八回忌 八々」の字が。門下生が真似して書いたようです。「何同じもの書いてるんだよー!」「えー、同じだったんですかあー!?」とふざけあっていたのだろうと思われます。右の「蕪(かぶら)」とはカブのこと。

「大根は蕪の尻を笑ひけり 紅」

愉快な句もありますね。日本文学科では一年生の前期に「変体仮名演習」という授業があるおかげで、これらの字もざっくりとは読むことが出来ました。実は展示中央にある翻刻されたパネルに、判読の難しかったところが「□」という記号で表されていました。よく見ると「これは「た」、これは「や」……?」と解読に挑戦してみてもいました。先生方ならば漢字も読めるのでしょうか。学生は主に平仮名しか読む練習をしないため、限界はすぐ訪れます。来年、いや、今年、またチャレンジしたいです。

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外に出ます。休憩できる東屋では、火鉢とお菓子「のぼうる」(子規さんの本名「升(のぼる)」と、彼が好きだった野球(の・ボール)のボールのような形を掛けたものと思われる)、子規さんが飲んだとも書き残されているココアを頂きました。ここで雨が降ってきてしまい、傘を忘れていた私は雨宿りすることに。ボランティアの方々と談笑しながら止むのを待っていました。

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感謝デーとのことで、この日だけ「子規庵ストラップ」の裏側に名前を入れてもらえました。折角なのでストラップ(1個600円)を購入。自分の名前は恥ずかしかったので、子規さんの本名を入れてもらいました。

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普段とはまた違った子規庵でした。庵の雰囲気が祖母の家と一緒で、とても落ち着くので何度も行ってしまう……今年もきっと行くのだろうと思います。勿論、他にも行きたい文学館はありますので、その都度お知らせしていきたいと思います!目下、1月14日までの森鷗外記念館「うた日記」に行かねば。以上あかねでした。

江戸川乱歩の新たな魅力

こんにちは。あかねです。11月25日の日曜日、私は立教大学のシンポジウムを訪れていました。そう、江戸川乱歩のシンポジウムです!

卒業論文で江戸川乱歩の作品を扱うことにしたのですが、新聞に広告を出していたという情報を論文から得た私は「作家の乱歩さんに広告を利用するマーケティング力があったのだろうか……?」と失礼ながら全く想像がついておりませんでした。そんな折に開かれたのがこちら→https://www.rikkyo.ac.jp/events/11/mknpps000000kjx9.html

広告のデザインを自ら手掛け、幅広い新聞読者層へいかに探偵小説を売り込むか、よく計算されていたことが分かりました。初期は大きな見出しで目を引いていたのが、後期になると異国人風な顔やランプの煙のようなデザインで不思議な印象を与えるように変化していました。広告ひとつ取っても奥が深いですね……。売り文句も変遷していて、その時代に合わせたものを考え研究していたことが分かりました。

また、この日は乱歩の旧邸、つまりは乱歩が晩年長らく住んでいた家が特別公開されていたので、一緒に来ていた友人とともに行ってきました。普段は水曜日と金曜日に公開されているので、日曜日に見られるのはラッキーです。行ってみると、夢野久作が乱歩に贈った博多人形が真っ先にお出迎えしてくれました。当時、夢野久作は博多近郊に住んでいたとの旨が書いてありました。自分にとって似つかわしくないような物だがと言いつつ、嬉しさが滲み出ている文面でした。中庭の方へ行くと応接間が覗き見られます。とても豪華です。別室では乱歩の著作がずらりと展示され、テレビでは乱歩手づから録画したビデオが再生されていました。横溝正史や、海らしきところで泳ぐ乱歩も映っていました。乱歩の妻や子も多くあり、幸せそうな様子にほっこりしました。映像の中で乱歩がほぼ毎回帽子をかぶっていたことに気が付いたのですが、テレビの置かれた部屋の隣に、乱歩の帽子も展示されていました。中折れ帽やハンチングがあり、サイズは59~60。「禿げているから帽子でもかぶっていないとお洒落になれない」と言っていたようで、そういうのを気にする人だったのかとお茶目でお洒落さんな一面を知りました。土蔵の入り口も開けてありましたが、あそこは去年の2~3月に感想を書いた気がするので割愛します。目を奪われるので、気になった方は是非足を運んでみてください。

帰り際、池袋駅西口にある和菓子屋の三原堂で、薯蕷まん頭(じょうよ まんじゅう)を購入。ばら売りで1個220円……!4個で1000円ですが、箱が原稿用紙のようなイラストでとても欲しいと思えるものでした……高くて断念。乱歩も好んで食べていたというお味を私も食べてみました。山芋と米粉を練り合わせた真っ白な生地に濃厚なこしあんが入っており、重すぎないあっさりした甘さ。帰宅後に食べていたのですが、もちもちな生地の柔らかさに、もう1個食べたい!と強く思いました。大変美味しかったです。

皆さんも是非、池袋まで来た際は乱歩巡りをしてみてはいかがでしょうか?(在校生の皆さんは、卒論が煮詰まった時はシンポジウムに行ってみると新たな発見に出会えるかもしれませんよ!余裕をもって是非行ってみてくださいね!)