あっという間に3年生の冬を迎えようとしています、れいです。
時の流れというものは、怖いです。一時は本当に悲観的になっていました。
神経質な私は、この新しい生活になじめず時間が失われていくばかりな気がして、どんどん置いて行かれるんだ、と思っていました。でも、困難に出会った時に、すぐに適用してそれをプラスのエネルギーに変えられる人もいれば、忘れたころに何か活かされる場面のある人もいるはず。
私もいろんな経験を通して、少しずつ自信を取り戻すことができています。うまくいかないと感じる時は、自分に変化を求めている時だとも思うのです。そしてどんな時も、自分は気づいていなくても人は少しずつ成長している、変化していると私は思っています。
そんな2、3年で見方が大きく変わったもの一つに、『源氏物語』があります。
実は、私は高校生の時、源氏物語が苦手でした。古典が好きなので選択授業も取り、人よりも(少なからず授業内では)源氏を読んでいたのですが、その時は文法の難しさと登場人物の多さ、垣間見などの共感できない要素からか、あまり好きになれませんでした。
源氏が苦手なまま入学したのですが、一年生の時一つ目の転機が訪れます。それは、昨年度ご退任された高野先生の源氏物語の授業を取ったことでした。先生は、源氏物語を和歌という視点からご研究されており、私が古典の中で最も好きな和歌との繋がりの中で源氏物語を学べたというところが大きかったのだと思います。そして、先生の「源氏物語は女君が主役でもある」という言葉。今まで光源氏を中心に物語を見ていた私にとって衝撃が走りました。そして実際に女君の視点で源氏物語を読むことで新しい発見が多くあり、苦手意識は少しずつ薄れてきました。
そしてもう一つの転機、それはまさに今です。今年私は通年の演習授業で『山路の露』という、建礼門院右京大夫が書いたともいわれる源氏物語の二次創作を読んでいます。そして後期からは、源氏物語の講義も取っており、源氏物語をいろんな角度から見ることで、「生きた」物語として読めるようになったと思います。
そのような中でふと気が付いたことがあります。本文に最初に登場する女君、桐壺更衣ですが、和歌の中で「生かまほしきは命なりけり」と詠み、生きたいと願っているにも関わらずすぐに死んでしまいます。しかし最後に出てくる浮舟は、更衣とは反対に死にたくて入水をするものの結局生きながらえることになるのです。その皮肉というか、まさに生き方が「生と死」という視点で対比されていて、自分で気が付いた時鳥肌が立ちました。定家も宇治十帖は紫式部本人が書いたと言っていますが、こんなストーリー同一の作者ではないと書けない、と私も思います。そして最後に死なない女君、浮舟に視点を当てることで、私たちに現実世界で女性として「生きる」とは何かを考えさせているのかな…、と漠然とですが考えました。
そして、すでに指摘がされているように、源氏物語が母と子の物語であることも、桐壺更衣と浮舟の対比は示しているように思います。実際、光源氏は母桐壺更衣の面影から藤壺への思慕と繋がり、またその思いが物語を動かしますし、浮舟は反対に母親がいても、親子ですべて理解し合えることができないのです。
『山路の露』は浮舟物語の後日談を書いたもので、最終巻夢浮橋からしばらく過ぎた、薫二十八歳の秋から物語が始まります。ちょうど先週発表担当だったのですが、その際に源氏物語からの継承という視点で、浮舟物語を読み直しました。すると、母中将の君にとって、娘浮舟は身分意識の中で自己投影の存在としての側面も持つことにも気がつかされました。別にそれは母君が悪者ということではなく、母君は母君自身の中で浮舟の幸せを、自分の境遇とも照らし合わせながら考えているのでしょうし、一方の浮舟は母の気持ちも十分に理解しつつ、でも自分の描く幸福はまた別にあることに確実に分かっていて…。『山路の露』は、まさにその母娘の心情の機微をも上手く描き出していて、源氏を愛した人が書いた素晴らしい作品なのだと改めて感じました。
たぶん女性なら誰しもが自分を浮舟に重ねる部分があるはずです。私も、浮舟を知ることは自分の痛みと向き合っていくことでもありました。『山路の露』をはじめ二次創作が書かれたのは、源氏物語が普遍性を持つ作品であるからだと改めて実感します。
浮舟物語を読むと、私が必ず思い出すのは、3年ほど前の「お母さん、娘をやめていいですか」というドラマです。主役の娘美月はずっと母と一緒に乗り越えてきて、母がなれなかった教師にもなり、母が親友といういわゆる「友達親子」なのですが、ある男性との出会いによって母親の顔色をうかがいながら生きてきたことを自覚していきます。一方の過干渉な母は、段々と自分の手を離れていく娘に戸惑い、どんどん追い詰めていってしまうというのが大まかなストーリーなのですが…。今考えると親子関係はまさに中将の君と浮舟に重なる部分があって、もしかしたら時代を近くして源氏物語を読んだ読者は、このドラマのような生々しさを感じていたのかな、なんて思いました。
「お母さん、娘をやめていいですか」は、私が見た中でも忘れることのできないドラマで、いつの時代も変わらないんだなと実感します。
今まで私は、古典の物語は、日記や和歌とは違い別の世界にあるものだから、どうしても共感できないことが多くありました。でも、架空であるからこそ、自分に引き寄せて読むことができるのかな、自分の想像を膨らませることができるのかな、と今回発見しました。まだまだ源氏物語のほんの一部にも満たないほどの読書と知識量ですが、時間を経ていくごとにどんどん好きになっています。これからも、この好きという気持ちを大切にしたいです。