イッヤッツホオオオオオオオオオ”オ”オ”オ”オ”!!!!(息切れ)
お久しぶりです。こりです。約一カ月ぶりの更新ですね。
え、テンションが高い???だって……最大の山場、日本語教育実習が……16日に……終わったんだもん!!!!
いやあ、日本語教員の資格を取るために二年間勉強し、今年の春からは何度も教案を仕上げ、六月・七月の実習は「準備が終わらないんじゃないか」「全然練習が出来ていない」「考えるだけで緊張で死にそう」「学習者さんにどう接していいか分からん」という複雑で色々な気持ちを抱えながら授業を行いました。そして授業する以外にも、日本語教員のガイダンスや授業時間の延長等で時間の制約もめっちゃあったし、同じ班との人間関係も悩んだ。そして今年の五月から週3回のバイトに就職活動と……本当にストレスフルの毎日だった。
私を悩ませた日本語教育実習・バイト・就職活動。そのうちの一つが終わった。(そしてバイトも7月末で終わる)この喜びを叫ばずにいられようか!!いや、叫ぶぞ、わしは!!
では折角の機会なので、日本語教員養成講座の感想を語る。
まず一年生、「日文は被る科目が多いよ」「一年の必修科目が一つしかないよ」その言葉から、資格を何か取っておいた方がいいかなと考えていた私は日本語教員養成講座に足を踏み入れた。
元々私は小学校から英語のTA先生が嫌いでした。私は英語が大嫌い。だからこそ英語を(全然そんな気はないのだろうけど)得意げにペラペラと話す姿に、嫉妬に似た何かを感じていました。そしてこちらが頑張って話しても、分からないと引きつった笑顔で「?」と返す。そもそも文化が違い過ぎてよく分からない、怖い……そんな思いを抱え、そしてこの講座があると知り、この講座を取れば逆の立場である英語のTAの気持ちが分かるのではないか。また英語教育ばかりが目に行きがちで、日本語を教えるなんて今まで自分が考えたことがなかった。面白い。そんな感情も日本語教育養成講座に足を踏み入れたきっかけでした。
一年生で主な学習法を学ぶ。その中で主な学習者は英語話者ではなく、中国・韓国・東南アジアの人たちだと知る。英語話者に日本語をドヤ顔で教えるというビジョンが崩れ始める。
二年生。折角一年生でしっかりとったし、二年も続けるかぐらいのノリで行う。日本語教授法講義で具体的に日本語の文法をみっちり叩きこまれる。日本語を新しい視点で見ることが出来てとても楽しかったです。しかしこれを実習で学習者に教えるのは大変そうだと薄々と感じる。日本語教育法演習ではコーパスなどを使って日常的な日本語研究を行い、後期には異文化理解を学ぶ。前期の研究が大変で「絶対卒論で日本語研究はやめよう」と決心する。そして私が他の人とは随分違った邪道な考えで、日本語教員養成講座を取ったことを話し合ううちに知って反省し、この考え方じゃ絶対に先生に向いていないので、日本語教員になるという将来はないなと確信する。
二年生までで選択科目を全てとり終わる。「もし日本語教育講座を取っていなかったら、この授業を取ってないだろうな」という授業に沢山めぐり合う。そしてそれらの授業は本当にタメになったし、今でも受けてよかったと感じている。それらの授業に巡り合わせてくれたことを日本語教員養成講座に対して本当に感謝する。
そして三年。日本語教員にはならないが、ここまで来たから、折角だし取っておくか。というノリで日本語教育実習に臨む。最初は「二三度教案提出して、40分の授業を二回すればいいんでしょ。スマートに決めてやるぜ」と思っていた。あの頃の私をグーパンチで殴りたい。そんな生易しい物じゃなかった。教案は何度も大きく訂正し、思ったよりも教材準備が大変で、そもそもに教育実習が迫るストレスが半端なかった。先生が「同じ班の人とは仲良くなれる」と言っていたが、よく分かった。みんなで発狂してなきゃやってられないのだ。(親密になるからこそ人のブラックな面を知って嫌になったりする。私が人間関係に悩んだのはそこである)教員免許を取ろうと思っている人は、日本語教育実習より期間が長いので準備と手間がよりかかるし、四年に実習で就活のストレスが半端ないし、一人で行うから発狂する仲間もいない。一体どれだけ大変なのだろう。私がやったら、死ぬのではないかと感じた。
まず六月実習。私は二週目で余裕があるにもかかわらず、多くの外国人がいるというだけでドキドキして死にそうだった。授業の手ごたえとしては思ったよりも学習者が優秀で、かつ発言をしっかりしてくれる人達ばかりで授業はすんなりと進んだ。自分自身のミスや上手くいかない事も多くあったけど、準備期間は長く試行錯誤を重ねていたので、充実感があった。そして学習者さんとも日本語を通して仲良く話せてよかった。
七月実習。課の難易度があがるし、きっと学習者さんのレベルも上がっているに違いない。と何処か思っていた。しかし予想は裏切られ、六月実習の人たちより出来ていない。しかも積極性が下がってる……またもや二週目の私は一週目の惨敗した仲間達の姿を見て、教案を作りなおした。結果は、よくなかった。そもそもの準備時間が少ないうえ、完璧な授業を作ろうとした結果、準備の手を広げ過ぎて、上手く行かなかった。そしてやりきった感もあまりなかった。
これが私の日本語教員養成講座で過ごした二年間の素直な気持ちである。そう。先程は終わったと喜びはしたものの、最後の実習をして気持ち的に全然しっくりきていない。寧ろ後悔ばかりが残るばかりだ。あれほど早く終われと思っていたが、今は「もう一度やらせてほしい」とすら思っている。叶わない願いを諦めて、心にしまうしかない。
この講座をとって多くの事を学んだ。日本語という言葉を深く知り、面白さを知った。私達が何気なく簡単に使う日本語は実は難しい。そして英語がやけに重要視されていて、日本語は英語に劣っているように感じがちだが、そうじゃない。英語も日本語も、その他の言語も全ての価値は等しい。
当初の目標であるTAの気持ちもよく分かった。別にTAは出来ない子達を馬鹿にした訳ではない。理解しようとしている。引きつった笑いは「なんとかこの子の言ってることを理解しなきゃ」「自分の言いたい言葉を分かりやすくしなきゃ」という表れである。確かに日本人同士で会話している方が楽しい。学習者と話すのは気を使わなきゃいけないから、話すのが大変。でも同族同士が言語が分からない人達の前で仲良く話す事は、会話についていけない人を馬鹿にしているのではなく、会話が盛り上がっちゃっているだけ。本当は言語が分からない人たちと一緒に話したい。だけど「どこから簡単に話せばいいか」分からない。この時、私は言語が分からなくても積極的に会話に混じる。その積極性が大事なのだと、学習者の態度を見て分かった。小さい頃の私の「どうせ馬鹿にしている」「どうせ言っても理解してくれない」というそんな気持ちで会話を避けていたのが、悪かったのだと反省した。大体違う文化の話を聞くのは誰だって大きな刺激になって楽しい。私は中国人から、日本語で中国語を教わった。きっとTAの人も話しかけてくれるのを待っていたんじゃないかなと回顧した。
私は人種が違えば、全部違うと何処か思っていた。でも人種が違っても、ヒトはヒト。美人が好きで、美人の生徒に猛アプローチを懸ける学習者。しかし緊張している私に優しく声をかけた学習者。「誰の授業が良かったか」というアンケートに対して「全員」と書いてくれた学習者達の優しさ。寧ろ共通点が殆ど。違うのは言語だけ。そう思った。
まだまだ話したいことがあるが、文面長くなってきたし、終わったと言っても日本語教員養成講座のレポートは山ほどあるし、違う授業のレポート・テストがあるのでここいらで終わりにします。
この長文を読んで疲れたであろう目と肩をゆっくりほぐしてね❤では、アディオス☆