私の源氏物語

あっという間に3年生の冬を迎えようとしています、れいです。
時の流れというものは、怖いです。一時は本当に悲観的になっていました。
神経質な私は、この新しい生活になじめず時間が失われていくばかりな気がして、どんどん置いて行かれるんだ、と思っていました。でも、困難に出会った時に、すぐに適用してそれをプラスのエネルギーに変えられる人もいれば、忘れたころに何か活かされる場面のある人もいるはず。
私もいろんな経験を通して、少しずつ自信を取り戻すことができています。うまくいかないと感じる時は、自分に変化を求めている時だとも思うのです。そしてどんな時も、自分は気づいていなくても人は少しずつ成長している、変化していると私は思っています。

そんな2、3年で見方が大きく変わったもの一つに、『源氏物語』があります。

 

実は、私は高校生の時、源氏物語が苦手でした。古典が好きなので選択授業も取り、人よりも(少なからず授業内では)源氏を読んでいたのですが、その時は文法の難しさと登場人物の多さ、垣間見などの共感できない要素からか、あまり好きになれませんでした。

源氏が苦手なまま入学したのですが、一年生の時一つ目の転機が訪れます。それは、昨年度ご退任された高野先生の源氏物語の授業を取ったことでした。先生は、源氏物語を和歌という視点からご研究されており、私が古典の中で最も好きな和歌との繋がりの中で源氏物語を学べたというところが大きかったのだと思います。そして、先生の「源氏物語は女君が主役でもある」という言葉。今まで光源氏を中心に物語を見ていた私にとって衝撃が走りました。そして実際に女君の視点で源氏物語を読むことで新しい発見が多くあり、苦手意識は少しずつ薄れてきました。

 

そしてもう一つの転機、それはまさに今です。今年私は通年の演習授業で『山路の露』という、建礼門院右京大夫が書いたともいわれる源氏物語の二次創作を読んでいます。そして後期からは、源氏物語の講義も取っており、源氏物語をいろんな角度から見ることで、「生きた」物語として読めるようになったと思います。
そのような中でふと気が付いたことがあります。本文に最初に登場する女君、桐壺更衣ですが、和歌の中で「生かまほしきは命なりけり」と詠み、生きたいと願っているにも関わらずすぐに死んでしまいます。しかし最後に出てくる浮舟は、更衣とは反対に死にたくて入水をするものの結局生きながらえることになるのです。その皮肉というか、まさに生き方が「生と死」という視点で対比されていて、自分で気が付いた時鳥肌が立ちました。定家も宇治十帖は紫式部本人が書いたと言っていますが、こんなストーリー同一の作者ではないと書けない、と私も思います。そして最後に死なない女君、浮舟に視点を当てることで、私たちに現実世界で女性として「生きる」とは何かを考えさせているのかな…、と漠然とですが考えました。
そして、すでに指摘がされているように、源氏物語が母と子の物語であることも、桐壺更衣と浮舟の対比は示しているように思います。実際、光源氏は母桐壺更衣の面影から藤壺への思慕と繋がり、またその思いが物語を動かしますし、浮舟は反対に母親がいても、親子ですべて理解し合えることができないのです。
『山路の露』は浮舟物語の後日談を書いたもので、最終巻夢浮橋からしばらく過ぎた、薫二十八歳の秋から物語が始まります。ちょうど先週発表担当だったのですが、その際に源氏物語からの継承という視点で、浮舟物語を読み直しました。すると、母中将の君にとって、娘浮舟は身分意識の中で自己投影の存在としての側面も持つことにも気がつかされました。別にそれは母君が悪者ということではなく、母君は母君自身の中で浮舟の幸せを、自分の境遇とも照らし合わせながら考えているのでしょうし、一方の浮舟は母の気持ちも十分に理解しつつ、でも自分の描く幸福はまた別にあることに確実に分かっていて…。『山路の露』は、まさにその母娘の心情の機微をも上手く描き出していて、源氏を愛した人が書いた素晴らしい作品なのだと改めて感じました。
たぶん女性なら誰しもが自分を浮舟に重ねる部分があるはずです。私も、浮舟を知ることは自分の痛みと向き合っていくことでもありました。『山路の露』をはじめ二次創作が書かれたのは、源氏物語が普遍性を持つ作品であるからだと改めて実感します。

 

浮舟物語を読むと、私が必ず思い出すのは、3年ほど前の「お母さん、娘をやめていいですか」というドラマです。主役の娘美月はずっと母と一緒に乗り越えてきて、母がなれなかった教師にもなり、母が親友といういわゆる「友達親子」なのですが、ある男性との出会いによって母親の顔色をうかがいながら生きてきたことを自覚していきます。一方の過干渉な母は、段々と自分の手を離れていく娘に戸惑い、どんどん追い詰めていってしまうというのが大まかなストーリーなのですが…。今考えると親子関係はまさに中将の君と浮舟に重なる部分があって、もしかしたら時代を近くして源氏物語を読んだ読者は、このドラマのような生々しさを感じていたのかな、なんて思いました。
「お母さん、娘をやめていいですか」は、私が見た中でも忘れることのできないドラマで、いつの時代も変わらないんだなと実感します。

 

今まで私は、古典の物語は、日記や和歌とは違い別の世界にあるものだから、どうしても共感できないことが多くありました。でも、架空であるからこそ、自分に引き寄せて読むことができるのかな、自分の想像を膨らませることができるのかな、と今回発見しました。まだまだ源氏物語のほんの一部にも満たないほどの読書と知識量ですが、時間を経ていくごとにどんどん好きになっています。これからも、この好きという気持ちを大切にしたいです。

現代社会における女房日記の意味合い

うららかな春から初夏の気配も感じるこの頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

こんにちは!ゆりかと申します。至らぬ点も多々あるかと思いますが、どうぞお手柔らかにお願いいたします。

月曜日の昼休みに高野先生の研究室にお邪魔しました。まあ、つまり中古自主ゼミの見学に行った訳です。

中古文学自主ゼミは今年度は女房日記を扱うそうで、『紫式部日記』などを扱うそうなのですよ。

実は、中世文学自主ゼミも女房日記を扱うんです。『無名草子』というのですが、いわゆる中世の女子会のガールズトークですね。宮仕えを引退した老尼(旧バリキャリ)と若い女房達(新卒)の対談で、女子目線の辛口トークが新鮮です。内容は「序」「物語批評」「歌集批評」「女性批評」の4部構成です。散文文学批評としては最も古く、散逸文学や物語享受研究で重用されています。興味があれば、水曜日の昼休みに石井先生の研究室で中世自主ゼミの活動を行っているので、ぜひ見学に来てみてくださいね。

ここから傾向として、今年は女房文学が中古・中世自主ゼミにおいてブームになっているのではないでしょうか。好奇心がツンツン刺激されます。今なぜ女房日記が熱いのか、ちょっと興味が湧きませんか?現代社会においてこの女房日記はどのような意味があると思いますか?

では、考えてみましょう。時代が求める文学とはなんでしょうか?女房日記とは主体性を持って働く女性像を浮かび上がらせていると考えられます。「働く女性像」!現代社会で女性はどうあるべきかを古典から学ぼうということだと推測できます。おそらくジェンダーのあるべき形を再検討しようとしているのだと思います。

この傾向は振り返ってみればおそらく、マララさんの影響が大きいと考えられます。男女平等が謳わてれるこの時代、男女共同参画社会を推進する安倍政権のもと、必然的に自発的な働く女性像に関心が向いている気がいたします。映画「美女と野獣」のベル役のエマ・ワトソンさんも、国連で「フェミニズム」という形で男女平等と女性の権利に関するスピーチをしていますね。ベル自体、エマ・ワトソンさんや映画「シンデレラ」のシンデレラを演じたリリー・ジェームズさんなどが、ディズニー映画の中でも自立した女性だと評価しています。

このような時代背景から女房日記に「女性のあるべき姿」を求めているのだと考えられます。面白いと思いませんか?

石井先生に質問してみた結果、女房日記には「キャリアウーマンの手引き書」としての意味合いがあると考えられるようです。

さて、それでは新年度を迎えお忙しいとは存じますが、皆様くれぐれもご自愛ください。長文失礼いたしました。

写真

中古ゼミ勉強会&食事会

こんばんは。あやです。

暑い日が続いておりますが、みなさまお元気でしょうか。
私は先の土曜日、オープンキャンパスの帰りから熱が出まして、死にかけておりました…。日曜日には39℃を超えていたので、自分もびっくりしました。高熱を出すと、世界を涼しく感じるんですね…。
いまはもう熱は下がっているのですが、まだ少し体に疲れが残っているよう。あまり動くときついので、今日は家で安静にしています。

さて。
元気であればいろいろと書きたいことがあったのですが、いかんせん体がきついので…ざっくりと昨日のことを。

昨日は中古ゼミで勉強会と食事会を催しました。
高野先生にもお願いをして、勉強会は大学で、食事会は中古ゼミでもおなじみのラ・ムジカさんへ。

勉強会では、とても和やかな雰囲気でそれぞれの研究について意見を出し合いました。
進め方はだいたい以下の通りです。

①それぞれの研究内容の振り返り(テーマ・構成・これまでしてきた発表内容のまとめ)
②お互いの発表で特に印象に残っているものを発表(「○○さんの△△についての発表で、どこそこの解釈が云々」など。思わず両想いになったりしてお互いに照れることも…)
③いま悩んでいること、行き詰まっていることに対して、アドバイスを募る(たとえば、歌集の自撰/他撰の考察など)

私もこれまでの発表を振り返りつつ、かねてより気になっている「和歌のレトリックと思いの多寡は比例するのか?」ということについて意見を募り、大いに刺激を受けました。
同じ中古文学でキャッキャしているだけに、中古ゼミは殊に「王朝!和歌!恋!」に敏感なので、互いを補い、とてもいい学び合いができたと思います。
そういえば、聞いたところによると、中古ゼミは「サロン」っぽいのだとか…。ただ、何となくわかる気もします。だって中古ゼミは高野先生のもとにあるのですから❀❁❀
(中古ゼミの雰囲気=先生の雰囲気になりつつあるので、気になる方は こちら へ)

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写真は斎宮女御集の登場人物の関係性を整理しつつ、徽子が登子へどのような思いを抱いていたかを皆で考えているところ

 

ひとしきり学んだ後は全員でバスに乗り、ラ・ムジカさんへ。
今回の勉強会&食事会の発端は「普段話したことのないゼミの人となかよくなりましょう✿」という目標を達成するためでもあるので、仲良しグループ関係なしに着座し、美味しいコース料理にキャッキャしつつ、お喋りをしました。
なんといいますか、と~~~~っても楽しかったです❁
私史上1・2を争うほどに「背景にお花が似合うお食事会」でした。本当にサロンってあったんだなぁ…。

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お食事会のあとの集合写真

 

中高生の頃は「大学生になったらイタリアンとかフレンチとか、お洒落なお店でご飯を食べるのが多くなるんだろうな~(ホワワ」と思っていたものですが、意図せず「箸!鍋!むしろ自分で作る!」という近世自主ゼミの「わっはっは」ノリに慣れつつあったので、久々に中古ゼミの「おしとやか」エネルギーを補給しました。

このエネルギーを活かし、頑張って卒論を書こうと思います。

中古ゼミのみなさま、そして高野先生、ありがとうございました❀

引歌

こんばんは。あやです。
今日で6月も終わりですね。湿り気が多いこの頃ですが、みなさまお元気でお過ごしでしょうか。

私は本日、前期分のゼミの発表を終えました。少しホッとしたとともに、もっと自身のテーマについて勉強したいな、という気持ちが強くなった一日でした。
以前卒論のテーマについてお話ししたこともあったかと思いますが、私は『源氏物語』の引歌について研究しています。

私は、2年生の頃までは、引歌を「知的で美しい方法」だと考えていました。
しかし、今はその考えに全面的に賛同することはしていません。引歌は、きっと脆いものだと思うのです。

このことを考え始めたのは、以前の記事にも書いた指輪の文言がきっかけです。
相手への思いを綴る箇所に、自分ではない人物の言葉を据えること。
私は、どうしても誠実だとは思えません。
他の人の綺麗な言葉に替えられるくらいなら、拙くてもいいから、その人自身の言葉を聞きたい。
私はそう思います。
…これは受け手の場合の考え方ですが、為手の場合で考えてみても、同じことだと思うのです。
相手への思いが強いほど、自分自身をぶつけたくなる。言葉も然り、だと思います。

その違和感を持ったまま研究に向かい、今日の発表を迎えました。
正直、力不足であることは否めません。ただ、言いたいこと・見つけたかったことには、ある程度辿り着くことができたと思います。これはゼミでの質問や先生からのご意見に依るところが大きいです。

夏休み、私たちのゼミでは勉強会と食事会を企画しています。
皆の意見に助けられ、また自分も誰かの考えを助けられればいいな、と心から思っています。

大学生活も残り半年です。
精一杯、努めていきたいと思います。

蜻蛉づくし紀行

こんばんは。かつーんです。
突然ですが、皆様は疲れた時にどのような甘いものをよく摂取なさるでしょうか。
私は年間を通してチョコレート(ココアも可)を摂取することが多いです。
今日も調べ物をしていて休憩する際に、生協でチョコブラウニーを買ってしまいました。
普段、生協ではお菓子類をあまり購入しないのですが、85円まで値下げされていたのと、程良い大きさだったことから食欲に負けました。
思考力が低下している中での糖分補給だったこともあり、とても美味しく感じられて、思わず10本くらい買い占めて非常食にしようか真剣に悩んだほどです。
やはり甘いものは偉大ですねぇ。

 

さて、今回は小旅行について少し取り上げたいと思います。
一昨日、ちょっとしたご縁で京都に小旅行に行ってきました。
大まかな行程は以下の通りです。

上村悦子先生のお墓→粟田神社→月心寺(走井)→蝉丸神社[上社、中社、下社]→関寺(長安寺)→打出浜(琵琶湖湖畔)

時間の都合で石山寺には行きませんでしたが、この行程は少しばかり『蜻蛉日記』の石山詣の行程に則しています。
9月頭に行ってきた中古自主ゼミ旅行では『蜻蛉日記』に関する場所に行ってきたのですが、今回の小旅行でもこのような具合だった為「最近、愉快なくらい『蜻蛉(日記)』づくしだけど、これは『蜻蛉』をしっかり勉強せよという啓示なのだろうか……」と思ってしまいました。(苦笑)

約1ヶ月前にフィールドワークの大切さを痛感したばかりですが、やはり実際に訪れて見て分かることは多いと再度確認しました。
例えば、走井の名前の由来は何なのか考えることができました。
走井には名前の由来が2つあるとされます。

①水が井戸からよく湧き出てくることから
②水が駆け回るように流れていることから

唐崎祓を扱っている間も走井が出て来ましたが、いくつかの注釈書では①の説を取っていました。
小旅行の資料の中にあった『東海道五十三次』の風景画や、月心寺で下の走井を見て、①の説を取ってもおかしくはないと感じました。
(今回の小旅行を引率して下さった方は、②の説が有力なのではないかと考えていらしているようで、私も②の説寄りですが)

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他には、京都から琵琶湖までの遠さを痛感しました。
今回の小旅行では、粟田神社から月心寺の移動の際に京阪電鉄を少し活用したぐらいで、後は全て徒歩で回りました。
自主ゼミ旅行で少しは慣れているので、比較的傾斜が緩かったこの行程では、筋肉痛になることもなく歩き終わることができました。
ただ、打出浜が遠かったのは確かで、道綱母が這う這うの体で行ったのも無理なかったと思いました。
(『蜻蛉日記』の石山詣の記事にて、逢坂の関を経て打出浜に到着した際「関うち越えて、打出浜に死にかへりて至りたれば」(『角川ソフィア文庫』より引用)と書かれています)

また、逢坂の関についての理解が深まりました。
道中で逢坂の関に関する掲示を見られたことも大きいのでしょうが、実際に歩いて体感したことが良かったのだと思います。
山を拓き、道を舗装した現在では、昔逢坂の関であった所を辿るのは割と容易いです。
しかし、和歌で逢坂の関を越えること、あるいは越えられないことが詠まれていたり、牛車では逢坂の関を越えられなかったのではないかという説があったりすることから、様々な意味で当時は大きな関門だったのだろうと推測されます。
改めて、当時逢坂の関を越えることは大変だったのだろうと考えました。

そのような具合で、今回の小旅行もまた勉強になることばかりでした。
再度頂いた資料を見返して、今後の勉強に役立てたいと思います。

 

ところで、蝉丸神社の上社、中社、下社全てに蝉丸の「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」の歌碑がありました。
それぞれの社のできた経緯を見ると、いずれの社にも歌碑があるのは当たり前なのですが、連続して見たことで有難みが半減したような気分になりました。
せめて移動させるとか、何か方法を取れば良かったのではないかと思ってしまいます。

意味のある「確認」を

こんばんは。かつーんです。
いよいよ後期の授業が始まりましたね。
私は月曜に登録している授業がないので、厳密には明日から大学通学を再開するのですが、レポートの提出やら卒論含む諸々の期限が近付いたと思うと……。
……あと2週間、いや1週間くらい夏休みがほしいです。
特に弟は来週のシルバーウィーク明けから後期が始まる為、まだのんびりしており、非常に恨め、いえ羨ましい思いでいっぱいです。
(おのれ、文kげふんげふん)
まぁ、うだうだ愚痴をこぼしたところで何も変わりはしないので、気持ちを切り替えて後期の授業に臨みたいと思います。
ただ、前述の諸々で昼夜逆転が直っていないので、それだけは早く何とかしなければ……。

 

さて、今回は2週間前に行った中古自主ゼミ旅行について少し取り上げたいと思います。
9月1~3日の間に、京都に行ってきました。
簡単な日程は以下の通りです。

1日目:北野天満宮、御室仁和寺、妙心寺
2日目:比叡山延暦寺(横川地区、東塔地区、西塔地区)
3日目:風俗博物館、京都国立博物館

それぞれの日の内容を細かく書き連ねるとくどいので、簡単にまとめるに留めておきます。
ということで、感想をば。

まず、どの日も天候に恵まれました。
1日目と3日目は雨に降られたので、厳密に言うと恵まれていないのやもしれませんが、降られたタイミングが良いことが多かったです。
(3日目は建物内にいることが大半だったので、左右されずに済んだと言えますが)
中でも1日目は、北野天満宮を見学している途中で小雨が止み、京福電鉄北野線で移動中に降られ(降りた駅では止んでいました)、仁和寺の中を見学している時と屋根のある休憩所でゆっくりできる時に酷い雨をやり過ごすことができました。
2日目も雨に降られなかっただけでなく、山の上ということもあってとても涼しく、快適な気分で歩き倒せました。
雨が降る中、静かな仁和寺の庭園を眺めるのも風情があって良かったのですが、やはり天気が良いと見学しやすくて有難かったです。
天候に恵まれるという運の良さに、感謝したいと思います。

 

それから、フィールドワークは大事なものだと改めて感じました。
技術が発達し、便利な機械が普及した昨今、私達は行ったことのない場所の知識や情報を簡単に入手することができます。
その為、旅行は感動や景観の「確認作業」であると感じている人が増えたように思います。
確かに、写真や映像で見られる(或いは見られた)ものを、直に自らの目で見に行くことは、ただの「確認」でしかないでしょう。
しかし、事前にしっかり勉強をした上で歩き、見聞きすることで、単なる「確認」ではなく、過去の人たちの行動を追体験するような、何か意味のある「確認」にすることができると思います。

例えば、『蜻蛉日記』を取り上げている中古文学演習Ⅰの授業で、私は道綱母が唐崎祓をする所を扱っています。
今回の旅行では唐崎に行きませんでした。
比叡山に向かう途中で通り過ぎただけです。
それでも電車や比叡山の上から琵琶湖を含めて眺めることはでき、京都駅からの遠さや琵琶湖の大きさを改めて痛感し、道綱母の旅路に思いを馳せられました。

また、北野天満宮を訪れた日は防災の日だった為、社殿の横で消火訓練が行われており、珍しいものが見られたと少し喜びました。
宝物殿などいくつかの社殿は工事中で見られず少々残念に思っていたのですが、貴重な体験ができて、『徒然草』第52段の仁和寺の某法師はもったいなかったと小さく笑ったほどです。

更に、延暦寺に行った時はバスを駆使して各地区を回ったものの、きつい坂道を歩き通したり急な階段を上り下りしたりしたので、親鸞聖人を始めとする数々の法師の修行は大層厳しかったのだろうと思いました。
(特に法然上人の修行の地とされる法然堂は本当に急な坂の下にあり、上るのも下るのも大変でした……)
お神籤発祥の地である元三大師堂では、お神籤の由来を僧侶の方から伺えて、とても勉強になりました。

目的が観光でも勉強でも何でも、自分の足で訪れて見るのならば、やはり意味のある旅行にした方が楽しくて良いと思います。
(その為には入念な準備が必要ですが)
旅行が単なる「確認」にならないように楽しむことができれば、言うことないですね。

 

ところで、延暦寺を回った日はひどく疲れたものの、回っている最中は引きこもりで体力なしの自分にしては元気に歩き回ることができました。
(翌日しっかり筋肉痛になりましたが)
そのことを帰ってから母に話すと、「6年間毎日生田の山を登っていたおかげじゃないの?」と言われました。
他に思い当たる運動がないので、恐らくこれのおかげなのでしょうが……え、まさかほんまかいな。(真顔)
塵も積もれば山となってくれるようなので、皆様もどうぞ小さなことでもこつこつ積み重ねて下さい。

バリケード作らなきゃとかそれレミゼじゃないですか。さえこさんアンジョルラスなの?アンジョルラスなの?イケメン!!

♪迷子の迷子のあるぱかちゃん あなたの飼い主だれですか
 何日待っても飼い主来ない 「迷子です」って言っても飼い主来ない
ここまで替え歌を考えて、アルパカの鳴き声が分からなかったので調べたところ、アルパカは「フェー」と鳴くそうです。何それかわいい。いっそ「ふええ(´;ω;`)」って鳴けばいいわよあるぱかちゃん。
というわけで、学生課の前で健気に飼い主さんを待ち続けているあるぱかちゃんが不憫でならないえりこですこんばんは。
6月8日(日)に実践女子大学で開催された「宮廷の華 源氏物語」展に行ってまいりました(※会期は既に終了)。百年館8階の日文図書館前にてチラシを発見し、テンションが上がりすぎて久しぶりに一人で弾丸ツアーでしたよイエイ!!
この日は『王朝の薫と装束』という題で、御家流香道師範・小畑洋子氏より「組香 源氏香」と、衣紋堂高倉流本部教授・永井とも子氏より平安時代の装束について講演がありました。
まず組香の「源氏香」ですが、そもそも組香とは江戸時代に生まれたゲームのようなもので、数種類のお香を焚いて順番に香りを聞き(香道では香りを「嗅ぐ」とは言わず「聞く」というそうです)、同じ香りの香木を聞きわけるというもの。「源氏香」の場合は、五本の香木を25の包みに分けて、その中から5の包みをランダムに選んでひとつずつ香りを聞いていき、最後に紙に答え(何番目と何番目のお香が同じ香りか)を書く、という組香です。「源氏香」はこの答えの書き方が特徴的で、5本の縦線をお香に見立て、同じ香りのお香を横線で結ぶ、という形式を取ります(画像参照)。また、この組み合わせが全部で52通りあることから、『源氏物語』五四帖のうち「桐壺」巻と「夢浮橋」巻を除いた五二帖に名前を当てはめたので、「源氏香」と名付けられたそうです。
(Wikipediaより)
講演中に実践女子大学香道研究会の皆様による「源氏香」の実演があり、香水とは違う仄かで甘い香りが会場内に漂っていました。『源氏物語』が書かれた平安時代には「組香」ではなく「薫物合」という遊びが行われていたそうなのですが、王朝時代の人々はこんな優雅な香りを身にまとって生活していたんだなぁと想像できる貴重な時間でした。
続いて「王朝の装束 ―古と今―」という題で、十二単と束帯の今と昔の姿が披露されました。まず十二単のお服上げ(着付けのこと)から始まったのですが、その手際の良いこと良いこと。普通の着物の着付けでは何本も紐を使って襦袢から小袖まで全て留めていきますが、十二単の場合は紐を二本しか使用せず、しかも最終的には裳についている「小紐」という紐一本で五衣・打衣・表着の前を留めているのですから驚きです。ちなみにお服上げにかかった時間は大体40分ほど。その間誰も一言も発さず、衣擦れの音だけが響くなか、食い入るようにお服上げの様子を見守っていました。
お服上げが終わったあとは、現代版十二単と平安版十二単を着たお方(十二単を着る人)が並び、その違いを比較したのですが、平安時代の十二単は、言ってしまえば宮中や貴族に仕える女房たちの日常着だったわけで、割と適当にざっくり着ている印象でした。反対に現代の十二単は、皇族の方々が儀式の際に着用されるものなので、襲色目が美しく見えるように綺麗にそろえ、きちんとした着装にしているのだそうです。
さて、全ての説明が終わったころ、講師の永井先生が、一言こうおっしゃいました。
「皆様、“空蝉”見たいですか?」
空蝉!!!!(゜Д゜)
『源氏物語』「空蝉」巻の!源氏から逃げるために空蝉が小袿を脱ぎ捨てるあの!誰もが知ってるあのシーンを!再現して下さると!やったー!!
「ぜひ!」と言わんばかりにお客さん全員が拍手。私も全力で拍手。それでは、とお方様がステージ中央に膝をついてスタンバイ。女房役の着付け師の方がその後ろに回り、前を留めている小紐を解くとアラ不思議!袖から腕を抜くだけで全部脱げる!会場が「おおーっ!」とどよめく中、白小袖と濃色の長袴姿になったお方様、静かに退場。私大喜び。
講演後は美しい蝉の抜け殻の撮影許可が下りたので、もちろん撮ってきましたよ!そんなわけで皆さん!これが「空蝉」です!
前!

後ろ!

いやぁすごい物が見れました……幸せ(*´▽`*)
ちなみにタイトルはブログの内容と全く関係ありません☆えりこでした!

大発見。

今朝起きたら、いつも既に起きているはずの両親がリビングにいなかったので、なんでかなーと思ったら今日は祝日でした。
おこです。
昨日お昼ご飯を食べつつ某鑑定番組の再放送を見ていたんですが、そこに『源氏物語』の写本なるものが出てきまして。
なんと!鑑定額が!1000万円だったのですよ!正真正銘の!本物の!『源氏物語』の!写本だったのですよ!しかも五四帖全部揃ってるんですよ!完本なんですよ!
番組内で鑑定士の方がおっしゃっていた情報によると、室町時代に伏見宮邦輔親王という宮様を中心に写されたものらしいです。底本に関しては、色々な系統の本文がごちゃまぜになっていてよく分からないそうなのですが。
それにしても世紀の大発見であります。
その時父と一緒にテレビを見ていていたのですが、私があまりにも興奮して
「ねぇお父さんすごいよこれ!本物なうえに完本だよ完本!なかなかないんだよ『源氏物語』の完本なんて!どっかの大学に寄贈されないかな、是非とも研究されるべきだと思うんだけど!ねぇ!」
と熱弁したせいでドン引きしたのか、「……ふーん」としか返してくれませんでした( ;∀;)
何につけてもオタクとはこういうものでござる。
途中から見たので本放送はいつだったのか分からないのですが、そんなに昔ではないと思います。
あんな素晴らしいものが今までずっとお蔵入りになっていたなんて正直信じられないのですが、ようやく日の目を見たこの上は、持ち主の方が大事に保管してくださって、後世まで残ることを願うばかりです。
えりこでした!