ごきげんよう、もこです。
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厚手のコートをクローゼットの奥にしまい込んで、淡い色のブラウスを何枚か出す。その中の一枚に袖を通したら、新作のレーススカートを履く。薄ピンクのリップを塗りなおして、窓を開ける。遠くの山々に雪はもうない。まだ背の低い麦の間から、野良猫が顔を出している。強い風が花粉を運ぶ。私はくしゃみをひとつ。
窓を閉めて、カレンダーを見る。大きく丸がついた日がある。2月20日、今日だ。今日は特別な日なのだ。こんな特別な日には、何をしようか。ちょっといい服を着た。いつもの景色も綺麗に描いた。あとは、おいしいものを食べようか。お散歩でもしようか。いや、愛を語ろう。それがいい。今日は私の大好きな、志賀直哉の誕生日なのだ。
彼との出会いは高校3年生の夏だった。あの頃の私は、参考書になってしまいそうなくらい勉強していたから、人間に戻るために彼の本に手を伸ばした。すぐに私たちは意気投合した。会ったこともない彼に、こんなに心惹かれていいものか、始めは戸惑った。自分だけが彼を好きな気がして不安だった。しかし、この思いは決して一方通行ではないと気付いた。彼に触れれば触れるほど、彼は私にお返しをくれる。見たことのない顔をたくさん見せてくれる。不安になる必要はなかった。彼もまた、会ったことのない私に、深い愛をくれていた。
私はずいぶん彼に詳しくなった。彼の出身地を知っている。彼の母校を知っている。彼の親友の名前だって言える。彼が生きてきた環境は、私とは違う。彼は私に見せてくれる顔以上に、見せていない顔がある。いつも平気な顔をしていて、心で笑って心で泣いている。ねじ曲がっているようでまっすぐで、簡潔に見えて複雑に絡まっている。全部知っている、全部全部知っている。心の距離はこんなに近い。すぐ隣にいる。それなのに、いくら手を伸ばしても、私は彼に、あなたに触れられない。
彼について知れば知るほど、彼と私は違う世界にいることを知った。失恋に近かった。別に彼じゃなくてもいいじゃないかと誰かに言われた。それもそうだと思った。私は忘れられない初恋の人にもう一度会いに行った。懐かしい檸檬の味を思い出した。刺激的な桜桃に酔った。いつのまにか、先の見えない道程に私はいた。一握の砂が手から零れ落ちる。私の手は無力だった。あの時彼に触れられなかった手は、今でも何もつかめない。自分の手を、ぢっと見た。ふと、その手と手を合わせてみた。この手にできることは、何かを拝むことくらいだなと思った。そうして私は彼を思い出した。いや、ずっと忘れられなかった。彼はずっと私の中にいた。皆が言うのは本当だった。彼は神様であった。どうりで触れられないはずだった。
私はまた彼に向き合った。彼はやはりたくさんのお返しをくれた。
私と彼が出会ってから、ずいぶん月日が経った。あの夏の日からずっと、彼のことばかり考えている。彼がいなかったら、私は今ここにいない。彼がいるから、私はいま私でいられる。きっとあなたもそうでしょう?私がいなければ、あなたはあなたでいられない。
もう一度、窓を見る。野良猫はもういない。外に出ると、日差しがあたたかい。毎年2月20日あたりは、4月並みの陽気らしい。東京では、どうだか知らないが。強い風に、くしゃみをひとつ。私は部屋に戻る。
来年の2月20日は、きっと青山に行こう。
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