こんばんは。かつーんです。
今日、日本文学史Ⅳ(近世)の授業で「ヒンシュク(顰蹙)を漢字で書けるか」と問われました。
全く思い出すことが出来ず、時間切れで電子辞書の使用許可が出て調べた時に思ったのは「読めても書けない漢字だ」でした。
最近「躊躇」や「怒濤」のように、読めても書けない漢字が増えたような気がします。
「携帯電話やパソコンを使っていると、漢字が書けなくなる」ということを聞きますが、正にそれだなと思いました。
結構悔しかったので、これを機に「顰蹙」は書けるようになります。
さて、今回は最近印象に残った新聞記事を取り上げたいと思います。
2013年5月17日(金)の朝日新聞の朝刊の耕論に、「学生諸君、文章書ける?」という題の記事がありました。
大学生の文章力について、文章指導を行っている2人の大学教授の主張が載っていました。
1人は、金原瑞人氏。
彼は次のように述べていました。
・最近の若者は、スマホやパソコンなどのツールを用いて、簡単に文章を書いている。
・普通に言う「書く力」は一般的なコミュニケーション能力のことなので、義務教育で十分に足りている。
・個々の学生に合わせてきめ細かい指導をし、意欲をかき立てることが大切。
もう1人は、佐渡島紗織氏。
・多くの日本の学生はまとまった文章を書く機会が少なく、書き方も教えられていない。
・また、自分の意見をはっきり持っている学生が少なくなっているように感じる。
・書き方だけを教え、言葉や文の組み立て方など緻密さと構成が良くなれば、内容も良くなる。
読んだ当初は佐渡島氏の意見に共感し、金原氏の意見に反感を抱きました。
何故なら金原氏は「若くてもちゃんとした文章が書けるようになった」「今や中高生でも、ある程度のものは書けます」と述べており、「どこにそんな根拠があるんだ」と疑問に思ったからです。
しかし、熟読して金原氏と佐渡島氏の「文章」の定義に相違があることに気が付きました。
佐渡島氏の求める「文章」は思考力を伴う論理的なものですが、金原氏の述べる「文章」は意思疎通を図る為のものです。
確かに、スマホやパソコンを使いこなす人達にとって、コミュニケーションの為の簡単な文章を書くことは容易いものになりました。
とはいえ、学業に励むべき大学生に必要なのは、佐渡島氏の述べる「文章」ではないでしょうか。
私達は論理的文章を書く訓練を積むことで、思考力を養う必要があると考えます。