でんでら模擬授業

昨日の近代文学演習の余波がのこっております、せきねです。

なんだかこの演習の発表を終えるたびに、トラウマがひとつ、またひとつと増えてくる感じがいたします。

いや、べつに、同じ演習の方の質問が鋭すぎるとか、担当の先生のご指摘にぐうの音も出ないとか、そういったものが原因なわけではありません。けっして。いやそんな。

たとえば、「作家論に考察が傾き過ぎる」や、「先行研究のとりこぼしが終盤にぼろぼろぼろぼろ出てくる」など、まァとにかく自分の失敗パターンが増えていくことの恐怖……といえば、お分かりいただけるでしょうか。

しかし、まァ、失敗してくちおしい思いをするのを、どこか快感――語弊があるなァ、この言い方…――どこか、かえって燃えるように感じる自分もいるので、こうしたダメージを受けるのも必要なことなのでしょう。

なにかを通り越すと、「もっと叩いて!」「もっと手厳しく言って!」のような謎のテンションになってきますね、演習授業は。

とくにレジュメの作り直しの機会を設けてもらうことがあると、いろいろ針が振り切れて、自分の中の半沢さんが目ざめますね。

何に倍返しするというのか。

分かりませんけど、とにかく「倍返しだアァァァア」みたいな感じになります。

中国文学演習はそんな感じでした。

 

今日は、教職課程の授業について、思ったことをひとつ。

この授業は、国語の指導法を考えるものです。

そのために、中学校・高校での国語の授業という想定で、ひとり20~30分の模擬授業をしています。

気になるのは、生徒に対する発問のこと。

 

生徒役は、もちろん大学の同級生です。生徒のつもりになって授業を受けます。

しかし、その「生徒のつもり」の程度を、先生役の学生も生徒役の学生も、少々自分たちの程度より、低く見積っているのではないかと思われます。

模擬授業でも、発問になかなか手が挙がらないことがあります。

そういうときの発問は、「答えが思いつかないほど難しい発問」よりも、「答えが明々白々な、易しい発問」である場合が多いように見受けられます。

みんなが了解しているような分かり切った答えを、手を挙げてまで、改まって口にする。

とくに中学生・高校生にとっては、抵抗を感じることなのではないでしょうか。

わたしは大学生ですが、ばりばり抵抗を感じます。

自分の感性ががまだまだガキであるということは自覚しております。

しかし、中学生と高校生は、わたしたちより学力が下であるとは限らないと思います。

そして、わたしたちより物を知らないとは限らないと思います。

それをふまえたうえで、教師は、生徒よりも「上」でなければならないのですから、――生徒を凌駕したうえで、生徒と対等の目線で作品に向き合っていかなくてはならないのですから、……勉強頑張らなきゃなァ、と思います。

 

参考文献をふたつご紹介!

橋本武『〈銀の匙〉の国語の授業』(岩波ジュニア新書、2012年)

「中学校3年間で『銀の匙』一冊を読む」という授業を50年間やってのけた、ものすごい先生の著書。

この授業自体はとても有名なもので、ながらく灘校の名物だったようです。

授業で使われるプリントはすべて手書き、指導要領も自作、研究ノートも自分で作って、解釈も独自のもの――そこにしびれます、憧れます。

大村はま『日本の教師に伝えたいこと』(ちくま学芸文庫、2006年)

教師は専門家でなくてはならない。

教科の専門家でなくてはならない。

子供への指導の、専門家でなくてはならない。

具体的な指導法というよりも、先生として持つべきマインド、熱きソウルが語られています。

〝たとえば子供が何か作文のテーマに困っていたとしたら、子供の興味にかなうようなテーマを即座に2,3こは提示できなければならない〟

……な、なるほど。

今更ですけれど、「とっといたらちょっと就活に良いかも」なんて軽い気持ちでとるものじゃァなかったなァ、教職。

情緒不安定な記事、失礼いたしました。

 

最近は鼻から雑炊出るくらい寒くなりましたね。

どうぞみなさま、体温管理にお気をつけくださいますよう。