こんにちは。3回目の投稿となりました、しおりです。
5月に入り暑さを感じる日も増えてきましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか…?ようやく始まるゴールデンウィークに胸を躍らせたり、はたまた積み上げられた課題にげんなりしたり。様々な気持ちを抱くことでしょうが、「さて、明日は何をしようかな」とぼんやり考えるなんてことも、心にゆとりがあるからこそできることかもしれません。
ゆとり。
今日はそのお話をしようと思います。お話といってもほとんど意見になってしまうかもしれません。ただ、同じ気持ちを感じている方が他にもいらっしゃるのではないかと思うので、この場をお借りしてお話ししたいと思います。
私は現在、教職を履修しています。教職の科目、色々ありますよね。心理学の面から教育を捉えるもの、特別活動について考えるもの、法律の面からアプローチするもの。授業はどれも新たな発見があります。私は本学の附属出身なので、例えば、大学受験を前にした生徒に対しどのように接するかといった話は何だかピンとこないのも正直なところなのですが、それでも、他の人の実体験を聞いて納得したり、自分では思いもつかなかった発想を得たり、授業を通して自らが成長していくことを感じます。
ただし… なんですよね。
ただし、どうしても引っかかってしまう言葉があるのです。
「先生は○○してはならない」
「先生は○○しなくてはならない」
例を挙げるときりがないのでここでは挙げませんが、どれも内容的には納得できるものです。本当にその通りだと思う。しかし、何と言ったらいいでしょうか、何かが違うと思うんですよね。どこかマニュアル化されすぎているように感じるのです。義務感が前面に押し出されていて心がない。それも、複数の授業に跨って何度もこういった言葉が繰り返されるわけですから、回を重ねるごとに強い違和感を抱いてしまう。それほど厳しい世界なのかもしれないけれど、教師が扱うのは(扱うという言葉にさえ違和感を持ちますが)モノではなくて人間の心ですよね。心を持った人間同士の関わり合い。教える側の教師の心にもある程度のゆとりが必要だと思うのは、甘えた考えなのでしょうか。
ある先生が授業の中でこのようなことをおっしゃいました。
「学校生活に適合できない子ほど、教師が本気で向き合ってくれているかを直感的に見抜く」
最近で一番はっとさせられた言葉でした。
どんなに真面目に向き合っていても、その真面目さが義務感からくるものであれば生徒に伝わる。それでは生徒との信頼関係は築けない。だから…それだから…「教師は義務感から行動してはならない」。自らの頭に真っ先に浮かんだ言葉に不快感を抱きます。これだからいけないのにと、また振り出しに逆戻りです。
最近はこんなことばかりが頭に浮かびます。教職の大変さって、単位数が多いことではなくて本当はこうしたところにあるのではないかと考えます。とりとめのない話でしたが、共感してくださる方がいれば幸いです。