古典について思うこと

こんにちは、しおりです。
今年に入り2回目の投稿となりました。1月はレポートやテストに追われ書きたいことが書けなかったので、今回は思う存分書きたいことを書いていきたいと思います!写真なし、文字ばっかりの長文、視覚的に何の面白みもない内容となりますがご了承ください。

さて、その「書きたいこと」とは何か。それは、2018年度の日本文学史中世の授業でご紹介のあった「古典は本当に必要なのか」というシンポジウムについてです。本学の福田先生もパネリストとして参加されているとのこと、教職を履修している者としては必ずや見なければならないものであると感じました。YouTubeを開いてみると動画は3時間40分25秒…。1月にどうしても書けなかったというのはこのためでもあるわけです。しかし、幸福なことに、春休みに入った途端に時間が有り余ってしまって、それはそれは暇を持て余すこととなったわけです。というわけで、リアルタイムに情報を得られるこのご時世に、シンポジウム開催からおよそ1か月の月日を隔てまして、私はようやくその中身を知ることとなりました。前置きはこれくらいにして、ここからはその内容を簡潔にまとめていきたいと思います。「3時間以上も見てられない!!」という方も、このブログを見れば大丈夫!(というくらいの気合を入れて書きます!)ぜひお付き合いいただければ幸いです。

―概要(勝手に要約)―

【テーマ】古典は本当に必要なのか

→このシンポジウムで話されていたのは高校における古典について。高校3年間という限りある時間の中で、古典を全員に学ばせる必要はどこにあるのかというのが大きなテーマ。

【否定派】パネリスト2人

→教育上の出資者が国と個人であることを考えると、国への還元はGDPや競争力を高めること、個人への還元は収入や自己実現であるべきだと考えられる。高校生の時間は有限であるため、あった方が良いものではなく、なくてはいけないものが何かを考える必要がある。大学で育てるべきは新しい産業を作ることのできる人であり、国語という科目では企画書作成、プレゼン、ディスカッションに力を注ぐべきではないか。諸行無常などの哲学的要素は現代文に、情緒的古典は芸術選択に入れることが望ましい。

→古典で重視すべきは内容である。優れた内容というのは現代語訳でも十分に通じるものであり、敢えて原典に当たる必要はどこにあるのだろうか。言葉の裏側にある微妙なニュアンスは同時代に限定したものであり、「古文でしか伝わらないものがある」という主張も厳密には誤りである。リテラシーとしての国語も不足している中、芸術としての国語ばかりを重視し、その言わば「教養」を3年間の限られた時間の中で強制するのは如何なものか。「役に立たないもの=いらないもの」という考え方は誤りであるが、それが「古典は必要だ」という議論に直ちに結び付くものではないはずである。

【肯定派】パネリスト2人

→優れた発想、着想というのは心の錯綜状態から生まれてくるものであり、それは文学が生まれる過程と同じであると言える。思考の対象に古典を据えることのみが優れた発想を生む力に繋がるわけではないが、現実的なものを思考の対象に据えた場合、「現実」は絶えず変化するものであるため一から学び直す必要が生じるかもしれない。含みがあり、内面化に適する古典こそ重要であると考える。

→納税者には自国の文化を知る権利が前提としてある。近代以前には医学書と文学書の両方を知っているべき時代があったわけであり、そうしたものに興味を抱いた場合、漢文・くずし字の解読が必要になる。そうした学びを保障してくれるのは他でもない文学部である。いつどのようなものに興味を抱くかはわからない以上、国語科の学習は必要ではないか。また実際に日本の古典芸能が国際関係を繋いだ例もあり、そうした古典を不必要とは言えるのだろうか。

 

要約しきれなかった部分もありますが、シンポジウム全体を通してこのような主張がなされていました。文字ばかりで読むのに疲れたという方!ここから先は私自身の勝手な意見を書いているだけなので読み飛ばしてください!!分量が多くなりすぎるので本当は次回にまわしたいのだけれども、そうするとまたかなり時間があいてしまうので続けて書きますね。興味がある!という方はしばしお付き合いを…。

 

それでですね…

私がこのシンポジウムを見て感じたことを率直に申し上げますと…とにかく否定派の主張が明確で最初から最後まで一貫していたんですね。否定派のパネリスト→肯定派のパネリストの順で基調講演を行っていたわけですが、否定派の先生方のあまりに明快で無駄のない話し方に、私自身最初から圧倒されてしまったというのが正直なところです。否定派から強く主張されていたのは、「高校3年間という限りある時間の中で古典を学ぶ意義は何か」、つまりどこにそれ程の「優先度」があるのかという問いであったと感じます。これに対しては、肯定派から明確な答えが出ているように思えませんでした。確かに「あった方が良いもの」であるのは事実ですが「なくてはならないもの」であるとは必ずしも言えないように思います。ただし…、では一方の数学は絶対に「なくてはならないもの」なのでしょうか…?否定派からは、古典はそれを必要とする人だけやればいいとの意見があったわけですが、例えば数学の三角関数、これは全員の人生に必要であると言えるのでしょうか…?私のこれからの人生の中で三角関数を知っていてよかったと思える何かに出会えるのか否か。しかし、そう思うと同時に、先ほどお話した否定派の先生方の理路整然とした話し方が思い出されるわけでして、「やっぱり理系科目を考える際の思考は言葉の組み立てにも活用できるものであるらしい…」などと考えてもみるわけです。「優先度」という観点で捉えた場合、標的にされるのは何も古典だけではないと思います。実用的な能力を付けさせることを優先したいのであれば、全ての教科に不必要なものが含まれているように思われてしまうのも事実です。

 

しかしながら、古典にもそれ程の「優先度」が見込まれないこともまた事実として認めなくてはならないと私は考えます。だからこそ、芸術選択にするべきとの主張には大変共感しました。芸術科目となった方がむしろ古典の面白さを存分に伝える授業が自由にできるのではないでしょうか。ただし、この場合重要になってくるのは、義務教育のうちにどれほど古典に関心を持たせておくかという点であるのは言うまでもありません。シンポジウムでは高校教育を議論の対象とされていたためにあまり触れられていませんでしたが、これからの古典教育において重要となってくるのは中学校国語科教師の実力であるように感じます。音楽は日常に溢れていますから、そして意識しなくても耳に入ってきてしまうものだから、自然と関心を抱くこともできますが、古典や絵画となるとある程度意識的である必要が生じてきます。しかし何も知らない中で意識的になるなど簡単に出来る事ではないですよね。だからこそ、授業の中で先生がどのようにアプローチをしたかが重要な問題になってくると思うのです。どうやって興味を持たせ、「原文で読みたい!」と思わせるか、「くずし字読めるのかっこよくない?」って言わせるか。重要なのはそこではないかと思うのです。

「古典は本当に必要なのか」

実用的という側面からは必要ないかもしれません。しかし、そもそも「優先度」で測れるものではないはずで、そこで闘う必要そのものがないのではないかと私は考えています。そこで闘えば闘うほどに古典文学の良さは否定されてしまうかもしれません。古典の面白さを伝えられる場所が芸術選択であるのならばそこに徹するべきであり、だからこそ中学校で古典文学にどのように触れるかを考え直すべきだというのが私の意見です。全くまとまっていない感想となりましたが以上のようなことを私は考えました。日本文学科に在籍しているものとして、とても関心のある話題で最後まで興味深く聞き入ってしまいました。非常に長々としたブログになりましたが最後までお読みくださった方、ありがとうございます。次回のブログでは春休みに行った場所についていろいろと書きたいと思います。

それでは、また。