こんばんは。むーです。
卒業論文について、最近よく考えます。
皆さんは何で書かれるのでしょうか、Wordで、一太郎でとかそういうことではなくて(先人に卒論をスマホのフリック操作で書き上げた猛者もいると聞きますよね、何者……)
日本文学科の一大事。もうすぐ夏休みだ、と思って前期を振り返って、やはり2019年度上半期の1番のビックイベントは、卒論で取り扱う作品を決めたことだろうと思いました。
私の所属する近代のゼミでは、3年生の前期に取扱う作品を確定させます。
日本文学科のどこよりも早いとのこと、2年間かけてみっちり向き合う作品を今、この私――経験値も知識量も足りていないような、まさに等身大の私が決めなければならないということに、やはりものすごく戸惑いました。
何で書けばいいの。
はじめは、大学に入学する前にあこがれていた作家たちの作品を読みました。
特に大江健三郎、私は高校時代、彼の作品を読んでも全然内容が頭に入って来ず、頭の中が?でいっぱいになってしまったことがあって、大学に行ったら大江健三郎を理解できるくらい、賢い人間になりたいと漠然と思っていました。
なんとまぁ幼い目標か、と今は思います。
私たちに出来るのは、読みに正解などない以上、理解じゃなくて解釈です。ううん。
次に、自分の掌に収まるものを、と思って、今までに授業で取り扱われた、教授によってある程度指針が示された作品を1つ1つ検討していきました。
自分で演習発表を担当したもの、人の発表を聞いていて惹かれたもの……
改めて読み返していく作業は、これまでの二年間を振り返るようでとても心地よいものでした。
けれどなんだか、この作品はどうかな、と卒論の候補としていざ頭の中に思い浮かべてみると、「ほんとうにその作品と添い遂げられるのか」と不安になってしまうのです。
なんかきっと私、卒論の作品のことをなんとなく「伴侶」みたいに思っている節があったのだと思います。
たしかに、就職を考えている身なので、人生のうちここまでしっかりと関わる作品は卒論の作品、後にも先にもその一作だけでしょう。しがない学部生の身である私の掌の内に収まってくれて、かつ奥行きの深い、果てしない考察の海へ私を誘い込んでくれる作品はないかと、正直夢想をしていました。
なんか、聖母マリアの内に娼婦を見るみたいでいやだな、矛盾したイメージを理想のものに押し付けている……
だからか、当然ながらそんな作品は見つからず。
最終的に私が卒論の作品に選んだのは、「推し」でした。
いや、本当にはじめは頭の上にも浮かんでいなかった作品だったのです。
ふと思いだして、先行研究がどのくらいなされているのかを調べてみたら、ゼロ件で。
そんなまさか、と思いました。
近代文学研究の、大学生の基本は「先行研究を疑う」ことです。
その作品が今までどんな読みをされて来たのか、その価値がどこにあると語られているか、先人たちの論文を読み、それへの疑問や反論をとっかかりとして、新たな読みを展開していく。
それができない、ということは、卒論としてかなり危ういということになります。候補から除外するのもしようがないことですが、私はその恐ろしさよりも、「この作品に先行研究がない」ことの方がよほど怖かった。
すごく価値ある作品なのです、魅力的で、掘りどころがあって。
それなのに、まだ研究者によって発見されていなかった。
それがすごく怖くて、寂しかった。
かの夏目漱石の『こゝろ』の先行論は、1000件近い数あります。
もちろん『こゝろ』は名作です。すごく魅力的な作品。
私は「先生」派でも「K」派でもなく「私」派なのですがそれは置いておいて、けれどそれはひとえに発見されている、その強さがあるから、膨大な数の研究が重ねられてきたのだろうと、そう思うのです。
世の中には、どのくらい未発見の至高の文学があるのでしょうか。
その可能性にふと、思い当たってしまったのでした。
それでも私が触れたその作品は、私が触れられるような形で、昭和文学の選集の中に収録されていました。
それは、選者によって発見されているということ。それもきっと、本当にたぐいまれなことなのでしょう。
だからこそ、私がその作品の価値だ、と思うところを、ちゃんと形にしたいなと思ったのでした。
そして、あわよくば発表を聞いてくれるゼミの人々、そして担当教員の教授に、その作品を知ってもらいたい、その中に何人院へ進む人がいるのかもわからないけれど、その人たちにこの作品の論文を書く、その夢を託したいな、と思ったのです。
これもまぁなんとも幼い夢ですが。だって、スタイルが完全に布教。
わたしは「推し」の作品を語るオタクとしての立ち位置に、自分と卒論との距離感を見出したのです。
みなさんは卒論とどんな関係性を築いていらっしゃる、あるいは築きたいと思っていらっしゃるのでしょうか。
それがとても気になります。
私ももしかしたらいずれ、長く付き合っていく中で「推し」と「オタク」の関係性を超えた何かを卒論に感じていくのかもしれませんが(そんな状態になったら大分危険な気はしますが)、みなさんはどのように、この日本文学科の一大事と向き合っているのか、そして、どんな論を書き出されるのか。なんとなく、すごく興味があります。
わたしのこの感覚は、皆さん共感していただけるものなのでしょうか。
夏休みまであと少し。
私は残すところレポート3つです。
どれも研究室に設置してあるボックスに提出なので、私がレポートを書き上げてボックスに投函したら、その瞬間に夏休みが始まります。
能動的に捕まえに行ける夏休み。一日も早く迎えるためには頑張らなければなりません。
そして、この夏が明けたら、いよいよ卒論について最初の研究発表が待ち受けています。すごく怖いけど、私の推しを推せる、とても貴重な機会。そう思うとワクワクします。
ようし、頑張るぜ。
それでは今日はこの辺で。お相手はむーでした!