どうも、はるかです。近頃はいろいろと滅入りますね。
彼女はそこまで打って、手を止めた。ものが雑多に散らかる部屋の中、捨てるタイミングをつかめなかった学習机にパソコンを構え、チェアに凭れ掛かる。首を回し肩を揉み、ついでにこめかみも揉む。そして一つ溜息をついた。ネタが浮かばないのだ。
近頃の情勢は説明するまでもなく、連日日本中ならず世界中で騒がれている。口に出すのも億劫なほど、少し首を回せば目に入る。なるほど嫌気も差す。そのせいで起こった困難は、一人の人間には計り知れないほどあり、その中の取るに足らない、本当に小さな困難に彼女は直面していた。彼女のここ最近の生活は、最寄駅の職場である塾の春季講習で働き、帰宅し、読書やテレビ鑑賞、Twitter、ゲームに勤しむ以外のパターンが無く、至極平凡なものである。もちろん、読んだ小説や漫画は素敵なもので、ゲームでも素敵な世界を旅しているのだが、それについては書く気にならない。そもそも彼女は、日文ブログで自分の趣味について事細かに書くことを、気恥ずかしく感じるところがあった。だから、大学の授業や日常の出来事、時節、フィクションなどを常時テーマにしていたのだが、困ったことにワンパターン化した生活にはなかなかそれが訪れない。もっとも趣味の世界では、世界を救ったり、人を殺したり、殺した犯人を推理したり、ポケモンを捕まえたり、無人島を開拓しようとしたりしているのだが。
彼女は頭を掻きながら、最近の出来事について思い返していた。そうだ、雪が降ったっけ。三月末、関東の”いつも通りの季節外れ”で雪が降った。そのときにひどく感動したことを覚えている。人がいない町で桜が咲いて雪が積もる。人々が目に見えない病に怯えて、建物に籠城しているときに、元々のこの星の主であるところの自然があるがままに美しく君臨している図が、やけに美しく感じたのだった。
彼女は桜を辿り、さらに記憶を巡らした。あれはいつの日か、小学生の何らかの朝礼の校長先生の助長でつまらない、ありがたいお話を聴いていたとき。元々つまらないうえ、自分の感性と違ったことを言うので、いつものように体育館の上に挟まった、バドミントンのシャトルを数えていた。春の日だったか、桜の話になった。壇上に立ちいくらか機嫌の良さそうな人は「山奥に咲いている桜の話」をしていた。誰に見られなくても山奥に一人、静かに咲いている桜のなんたる立派なことか、という話だった。ほかの話はすっかり忘れてしまったが、この話だけは覚えている。感動したからではない。むしろその逆に、反感を覚えたからだ。なぜ人間さまが見てなきゃ桜に価値は無いのか。いつからそんなに思い上がっているのだろうか。人は桜を見てやってるのではなく、桜に見せられているのだ。桜にしたら、毎年花を咲かせていたら、勝手に人が集まっているというだけであり、人様が見てなくても当たり前に桜は咲く。ひどい奢りであり恥ずべき勘違いである。桜のが幾ばく偉いか。そも今のソメイヨシノなぞ、人が桜に魅せられて育てた代物であり、桜に踊らされているのはこちらなのだ。そりゃあ山奥の桜も立派に咲くでしょうよ。人間様の都合なぞ関係無いのだから。
その点で、見る人のいない町で、雪を被った桜は見事だった。久々に奢り昂る人畜生に見せた自然の美しさであった。風花雪月はそのままにあるのだ。
彼女はここまで考えて、再びキーボードに向き直った。なんとか良い話としてまとめられただろう。しかし良い話だけで終わらせるのもがらではなく、気恥ずかしいものであったし、もう少し面白味も必要だと思った。この世の中ならなおのこそ。内容はもう膨らませる気がしない。これで精一杯だ。ならば書き方を工夫しよう。
三人称で書こう。
彼女はキーボードに指を滑らせた。
どうも、はるかです。近頃はいろいろと滅入りますね。