それはとある日の夜、散歩に出たときのこと。
要は三密しなければ良いのだろうと、夜の散歩に出た。パーカーとジーンズで、久々に靴箱の底に眠っていた運動靴の紐を解いた。穏やかな風が首筋に心地よく、人もほとんど見当たらない静かな夜だった。春の夜だった。道路沿いの歩道を歩いても、いつもより車通りが少なかった。埼玉といえど、東京寄りで密なベッドタウンと化したこの街は昼と夜の人口が違うように、夜も忙しい街だったはずなのに。チカチカと点滅する信号機だけが人のいない街で休みなく動いていた。たくさんの人が住んでいるはずの場所に、人の気配が無い。妙におかしくて少しだけ怖かった。
脇道に逸れて細い裏路地を行く。建物の間を抜けると懐かしい景色が見える。塗装が剥げたすべり台、鉄が錆びたブランコ、低く見える鉄棒、小さく見えるジャングルジム、動物をモチーフにした水飲み場。あの頃よりも、ちっぽけでみすぼらしい。夜であるのも相まって、なんだか奇妙で見たことのない景色のように感じた。靴裏に触る砂の感触に懐かしくなりながら、ブランコの鎖に手をかける。試しにそっと座ってみた。足は地面にぺったりとついてしまい、まだ余裕があるほどだった。鉄と錆の匂いが鼻の奥に滲みる、頼りない鎖を握る。そのまま地面を軽く蹴る。ぎーこぎーこ。金具が軋む音を立て、ブランコが前後に揺れだした。足先が下につかないよう気をつけながら、前へ後ろへ漕いでみる。ぎーこ、ぎーこ。だんだんと高くて上がってゆく。身体が風を切る。心の奥底で錆びていた愉快な気持ちがゆっくりと溶け出す。錆びてちっぽけに感じた遊具が、カラフルな色彩を取り戻して、脳裏に懐かしい記憶を蘇らせてくれる。
不意に人の姿が見えた。隣のブランコ。髪の長い女の子が座っている。歳は高校生ぐらいだろうか。単色のワンピースがこどもらしさと大人っぽさのあわいによく似合う。女の子は見られているのに気付いたようで、こちらに顔を向け、にっこり笑う。悪戯を見つけられてしまったようで罰の悪い気持ちになりながらも、ほほえみ返す。彼女は前に向き直ると、思いきりブランコを漕ぎ出しだ。人に会ってしまったなぁとぼんやり考えながら、女の子のブランコを見つめる。ぎこぎことブランコは軋みながら、女の子の足に合わせて高く高く上がっていく。金属の擦れる音が耳に響き、広がるワンピースの裾が視界のすみでひらひらと踊る。動悸が全身に反響するように聞こえる。
女の子が手を離した。ワンピースが春風に押されて宙に浮く。そしてふわりと地面に着地すると、見えなくなってしまった。隣に取り残されたブランコだけがまだゆらゆらと揺れていた。
月がきれいな夜だった。
というのはぜんぶ嘘です。どこから嘘かと言うと、夜に散歩に出たところから嘘です。書くほどの楽しいことがなかったんです。春の夜の夢で許してください。