エール

こんばんは。今日のお相手はむーです!先日、勢い余ってアマゾンプライムビデオに加入しました。これから2時間くらい空くことがあればこつこつ過去の名作たちを観て、映画経験値を獲得していこうと思っています。就活中だけどね……。

 

そんなこんなで、気になっていた映画を観たり、会員特典のアニメを観たり。隙間時間に色々な映像作品に触れているのですが、最近観た中で一番印象深いのは朝の連続テレビ小説『エール』かもしれません。

 

『エール』の主人公は、甲子園の行進曲である『栄冠は君に輝く』、そして1964年の『オリンピック・マーチ』の作曲家、古関裕而がモデル。本来なら、2020年のオリンピックに向けて、日本の人々を盛り上げていくようにと作成されたドラマであったと思います。

 

けれど、誰も予想できなかったであろうこの未曽有のパンデミックの影響で、オリンピックは中止になりました。ドラマの撮影自体も、緊急事態宣言を受け、6月放送分までしかストックがないと聞きます。

 

この『エール』を観ていたときに、母が言った一言が深く印象に残っています。

「もともとオリンピックのための「エール」だったのが、今はコロナの「エール」になっているね」と。

 

きっと、『エール』を観ていらっしゃる方は皆同じ事を感じられているかと思います。

不況の影響で主人公は海外留学が叶わず、しかしそこから新たなチャンスを掴んでいきました。そうした困難に立ち向かうさまが描かれいる物語に、志村けんさんの出演。

今、『エール』はコロナ禍を生きる人々を勇気づけるものとして享受されています。
『オリンピック・マーチ』の作曲者が主人公のモデルだということ。福島県が舞台だということ。登場人物の夢をあきらめない姿勢。キャストの起用。それら全ては『エール』という1つの作品が持つ多義性です。

この状況下で『エール』は、本来想定されていなかっただろう受け取り方で視聴者に享受されています。しかしそれも、この作品が丁寧に作り込まれているからこそ適うものだと思います。

 

何が言いたいかと言うと、作品の価値を決めるのは作者でも制作陣でもなく時流と感受者だということを身を以って実感した、ということと、予期せぬ状況下でもタイトル通り「エール」を人々に届けるこの作品は本当に素敵だ、ということです。

 

近現代文学研究の基本は、作者を主語にした読みから脱却すること。私は大学の講義を通してそう学びました。それから、ジェンダー的観念の移り変わりや宗教的な価値観の変化など、読む時代によってその作品の読み方は大きく変わってきます。

作品を読む際、主体となるのはその読者です。

そんな、文学研究のあれそれが頭を巡りました。今まさに、それを体現する出来事が現実に起きていて、けれどこの作品は人々になお「エール」を贈る。

 

それはきっと、この作品が一瞬一瞬を丁寧に作り込まれてきた証だという風に感じます。
もちろん志村けんさんの出演がそんな悲しいミーニングを持つなんて、そんなことは誰も予期しなかったことです。そのような偶然性の無い、脚本や物語設定においても、この作品がきっともともと多義性を持つよう設定されていて、観る人のそれぞれが銘々に感情移入できるよう、その心に寄り添いながら形作られていたのだろうと、そう思います。

 

この物語はどのような結末を迎え、そしてそれは今を生きる人々にどのように映るのでしょうか。私は、この作品から何を受け取るのでしょうか。

 

それを楽しみに、日々の暮らしを送っていけたらと思います。

どうか安全に、この作品が少しでも作り手の意の通りに終わりを迎えますように。

 

それでは今日はこの辺で。お相手はむーでした!