なにをするにしても、真っ白な状態が一番きれいだと思っていました。
高校時代に所属した美術部。
私は油絵がとても苦手でした。下絵を描いて、絵の具を乗せて。そのたびに思うようにならず、混然としていくキャンパスを見て、何も描かれていないほうがきれいだったなぁ、と常々思っていました。
これから何が書かれていくんだろう、というまっさらさとか、期待感とか。真っ白なキャンパスが持つ無限の可能性は、それだけで一個の芸術にも通じると、本気でそう思っていました。
けれど目の前にあるのは、私のせいで汚れてしまったキャンパス。
そう思うと嫌になってきてしまって、途中で描くのをやめてしまう。そんな経験を、私は1年、2年、3年と、積み重ねてきました。
さて、22歳の私が今対峙しているのは、「23歳以降の人生」なわけですが。
そんな先の読めないものに対峙する中で、高校時代と決定的に思考が違うな、と思うことが2つあります。
1つは、「真っ白なキャンパスの持つ可能性は無限大なんかじゃない」ということです。
いや、そこ? という感じですが、なぜって表現媒体にキャンパスを選んでるやろがい、と思うのです。キャンパスに描かれた油絵は、文学作品を読んだときと同じような感動を人に与えようがありません。逆に、文学作品には、油絵が人に与える感動を完璧に表現する術はありません。
媒体の選択とはそういうもので、何かを選べば、その何かが持つ特性に自身の表現を重ねていくことしかできないのだろうと思います。だから、真っ白なキャンパスが持つ可能性は有限で、限られた中で様々な表現を模索していった人々の歴史が、高校生の私に可能性を無限大のように見せていたのでしょう。ひとえに先人のすごさです。かっこいいな、先人……
2つめは、「出ない神本より出るクソ本」の精神を貴ぶようになったということ。
なかなかパンチの効いた奇怪な文字列ですが、これは同人誌を出している人たちの中でよく言われている言葉で、「クオリティを追い求めて結局発表することのできない素晴らしい作品よりも、どんなにつたなくても形になった作品の方が価値がある」ということです。
今も、自分の能力以上の出来栄えを求めて手が止まる、ということは往々にしてあります。このブログも、なかなか次に続く良い表現が思いつかなくて手が止まってしまって、そのたびにTwitterに逃げることを繰り返しながら書いていますし。
それでも高校時代と違うのは、いや何もせんで止まってるんじゃだめでしょ、と自分に言い聞かせられるようになったことです。真っ白なキャンバス? ブログ? 原稿用紙? Wordファイル? 汚せ汚せ、とりあえず汚さないことには、自分が書きたい「神本」に一歩たりとも近づけないのです。そう発破をかけて、とにかく自分の内から出す癖を身に着けようとした大学生活の4年間でした。
さて、私の23歳以降の人生は、無限大の可能性を秘めているものなんかではありません。さながらそれは真っ白なキャンパス、いくら白くともキャンパスという媒体は決まってしまっています。さて、ここにどんな拙い絵を描いていこうか。
就職活動をしていく中で沢山たくさんお祈りされて、それらの企業に新卒で入職するという可能性は潰えました。選考にまだしがみつけている企業、内定ももらえないうちから捕らぬ狸のなんとやらですが、その企業のどこに入るかによって、今後の人生は大きく変わります。
そんな決断の岐路に立たされて、それでもハイクオリティな絵を描こうとして立ち止まってはいられないなと、そう思うのです。いくら絵を見返したときに汚れた、なんて拙い絵だと思おうが、とにかくそのときそのときで最善だと思う色の絵の具を重ね続けていれば、下手でも納得のいく作品に仕上がるはずです。
とてもビビりな性分なので「人生」がかかっていると思うと足がすくみますが、いやそんなんお前は中学、高校、大学と数ある学校の中から1つを選んできたやんけ、何をいまさらためらうことがある、とも思います。
自分の人生。幸いなことに私は、表現媒体にキャンバスを選ぶことも、そこに重ねる色を選ぶこともできる、選択の自由を持っていました。これから先、もしかしたら筆を奪われたり、絵の具の赤だけがなくなったり、キャンバスが破れたりとどんなことがあるかわからないけれど、まず今はキャンパスに最初の一筆目を描いていこうと、そう自分に発破をかけてみます。
就職活動をしていたら時が爆速で過ぎて行って、2020年がもう半分終わってしまうことに驚きを隠せない!そんなナイーブ焦り丸なむーが、本日のお相手でした。
それでは今日はこのへんで!