何かここ最近は特に新しく読んだ本もないし新しく観た映画もないんですけど別に新しいものばかりを知ることが命の意味ではないと思っていますのでもちろん別に問題はないといえます。有意義か否かということであれば無意義に寄るかもしれませんが、既に愛して今も愛して今後も愛するもののなかに停滞して穏やかに過ごすことの心地よさは大変に乙なる美酒の味わいであると思います。同じ本ばっかり読むし同じ映画ばっかり見るけどそれをしているときの充足感といったらあたかも隠居したあとであるかのようではないか? そうでもないか? だけど私はそうだと思うの。
たとえばそれはゲバ棒とヘルメット。暴徒たちの足音。埃。首に巻き付けたタオル、セーターとジーパンに身を包んだ化粧っ気のない娘たち……もちろん私にそういう思い出はありませんけど、そういういかにも時代的なものを思い出せることは羨ましいですね。実際にやっていたころは情熱に満ちていたにしても、情熱に満ちていた時代を思い出すときの心は情熱ではないものによって満たされている。激しくはないが冷たくもないものによって満たされている。ひっそりとあたたかである。さういふ齢を私はとりたひ。
なんで例に学生運動が出てきたかというと『実録・あさま山荘への道程』でメガホンをとっていたあの若松監督が亡くなったからです。結構前になりますが……ご冥福をお祈り申し上げます。
正直好きかどうかといったら「(『ファウストの悲劇』のプログラムを読んだときの開口一番が)ちょっと! 若松のやつが何でここにいるの!」という感じだったのですが、あの日の舞台挨拶で確かに私の前にいた方が、今はもうおられないのかと思うと、言葉にするべきか否かちょっくら迷いたくなるような思いが胸に湧き出します。心よりご冥福をお祈り申し上げます
私にはあの闘争の日々の思い出こそありませんが、学生服のままシアトル新宿へあの映画を見に行ったことは少なくとも私の若いころの思い出になりました。楽しかったよ~という感想でいい映画かどうかはわからんがほんとうに楽しかったし多分死ぬまで忘れないよ~ あの映画自体はもう二度と見たくないけどそう思わせるだけのパワーを持つことは若松の想定の範囲内でしょうから、この程度の失礼はお許しくださると信じておるよ。
若松は三島由紀夫の映画も撮っているので日文の子は観てるかもしれませんね
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繰り返し読みまくった小説といえば『異邦人』(カミュ)、繰り返し読みまくった漫画といえば『ノーマン』(手塚治虫)、繰り返し観まくった映画といえば『トーク・トゥ・ハー』(ペトロ・アルモドバル)です。
日本文学で言えば『散りぬるを』(川端康成)と『脳男』(首藤瓜於)は読みまくりましたが、それだけに脳男の映画版にはがっかりしました。キャストとアオリ文だけでがっかりさせるとか却ってすげーよ。
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映画や小説は頭に入れたあと気に入るように作り変え、自分の楽しいように手で触れて耳で聞いて目に楽しむのがその醍醐味と思っているのす。つまり五感に感知できて脳に想像できるすべてのものがそうであるように、映画や小説などもまた、自分の心のなかをいつでも愉快にしておくための材料と思っているのす。
だって大臣から「敵国ゲルダン人に妥協しなさいよ」とか言われたとき「いやだ! いやだ! いやだーっ!!」って叫んでるノーマン王子の可愛さとかいちいちページめくってる場合じゃないよね。アトムちゃんが爆弾を抱いて太陽に飛んでいくあの絵、レオさんが「いいのです これでいいのです」と言いながらヒゲオヤジ先生に自分を殺させるあの絵、あれらを蘇らせるためにいちいちページめくってたら胸が潰れます。ジャングル大帝は(できれば夏の暑い)休みの日に、(できればクーラーのない和室のなかで座布団を二つ折りにしたもののうえにうつぶせになって目に入る汗を手で拭きながら)一巻からぶっ通しで読むことを推奨します。ブラックジャック先生は暇なときに読めばいい。あれは話同士がそれほど繋がってないからだ。
ほかには、エルマーがみかん島で助けてあげたりゅうにスカンクキャベツやみかんの皮を食べさせてあげるあの感じ、かいじゅうのバラードで「海を見たい」と「人を愛したい」を続けざまに叫ぶあの感じ。あれらをいちいち本物見ないと思い出せないのでは不便すぎようというものだ。それに、例にあげたあれら(すなわち童話・童謡のたぐい)は、幼少のうちに鑑賞して思う存分にその物語とシンクロしたのち、半分は友達のアルバムとして、半分は自分のアルバムとして、そしてそれらすべてを脳中の芳香へと蒸留して、すべてのうえに充満させて楽しむためのものなのだ。
実際に体験する行為であれば写真のひとつも撮れましょうけれどこれらは脳中にしか、たとえ小学校の教材などといった形によって同一の素材を持っている人が何千何万いようとも、自分の脳中においてしか作れないアルバムである。なもんだから、うかうかしてると老いてからの楽しみってもんが足りんようになってしまうのがリスキー。齢をとればいつかはお金ができるかもしれないしお金ができれば豪華な書庫や視聴覚室を作れるかもしれないが、そこまで歩いていくための足腰やそれを認知するための耳目はいつか絶対に衰えてしまうんだぞ。衰えずに死ぬこともありうるだろうがそれはそれで嫌じゃないか。せっかくの肉体を使い込まず死んで何とするや。たったひとつの命を捨てて生まれ変わった不死身の身体ならまだいいでしょうが、悲しいかな我々が授かった肉体は、鉄の悪魔を叩いて砕くどころか時の経過で古びて腐るものだった。私がやらねば誰がやる。私がやらないと腐ってなくなっちゃうんだよ!
だから人間は若いうちにたくさん小説を読んで漫画を読んで映画を見なければいけないとよく言われるのでしょうね。
そして、「教科書に書いてあるんだから覚えなくたっていいじゃん! かわりに教科書が覚えててくれるじゃん!」という私定番の不勉強の言い訳はあんまり使っちゃだめなのです……と最近ようやく思っています……
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このあいだ『やかまし村の春夏秋冬』の印象がぼんやりしてきたのでDVD買って見直してみたのですが、昔クソ意地悪だと思っていた靴屋のスネルさんは普通に良い人だった。ロッテンマイヤーさんとスネルさんとマリラおばさんは読み手の年齢で印象が変わりますね。今やみんな大好きです。みんなそれぞれのやり方で、ロッテンさん自身まったく扱い方もわからないであろう野生児アーデルハイドちゃんを、別に面倒を見てやる義理などこれっぽっちもないうえにやかまし村の名にたがわずやかましいこわっぱどもを、彼女ひとりでやかまし村全員分くらいうるさいうえにトラブルをひっきりなしに呼び込むアン・シャーリーを、守り育ててくれていたのだ。
そしてフランダースと火垂るは未だに見る勇気が出ません……
フルメタルジャケットやブラックホークダウンを見るのとはまったく違うあの重み……