とおいゆめのなか

転がる蝉の死体に夏の終わりを感じる時期になりました。命は死の寸前こそ輝くのだとよく物語で好きな登場人物が死ぬ私などは思いますが、なんでしょう、どうして蝉の命の灯火はこう、人間に、恐怖を与えるんだろう……。悲しいな。
どうも、はるかです。
前回夏の概念が好きだという話をしました。縁側に座って蚊取り線香を焚いて、風鈴の音を聞きながらスイカを食べる幻覚を見た話をしました。そこで大切なものを忘れてたんですよ。私の一番好きな夏の概念を刷り込むのを忘れていました!君がいた夏は遠い夢の中、空に消えてった打ち上げ花火。夏祭りが好きです!
大きなやつより小さな、どこかの町内会が開催しているくらいが良いです。理想は神社の境内。神社の境内の夏祭りは行ったことないけど。お祭りがある日はその日の朝からそわそわするんですよね。そして日が暮れて、オレンジ色に焼ける逢魔時に、祭囃子が聞こえてくるんです。とおく、とおくから。鮮やかな浴衣を着て下駄を履いてお祭りの日に道を歩くと、なんだか違う町を歩いているような気になる。会場に着くと、そこは別世界なんですよ。年に一度の非日常。提灯の明かり、屋台の美味しそうな匂い、たくさんの人、ぬるい熱気、絶えず聞こえる太鼓の音と祭囃子。ああ、ここは異質な空間なのだ、と子供心にも分かる。あの、あの非日常が愛しくてたまらないんです。巾着を握りしめて、かき氷を買って「キーン」として。水の中で紐が千切れないよう慎重にヨーヨーを掬って。ぱしゃぱしゃと水音を立てながら弾む水鞠はお祭りの日限定だから、と嬉しくて。くじ引きを引いてよく分からないものが当たったり、見よう見まねで盆踊りをしてみたり。普段会わない人、見ない人こどもも大人も老若男女問わず集まって、思い思いに楽しんでいる。暗い空の下明るく騒ぐ。その非日常に感じる「妖しさ」がちょっぴり怖くてわくわくするんです。叫びだしたくなるような衝動が訪れるほど興奮するんです。んへへ、いいな〜夏祭り。空に上がる花火は目に鮮やかな火が飛び込んだと思ったら、体全身に振動が伝わる。花のように美しく咲いて燃えつき、風に流されてしまう。その刹那の美しさと寂しさ。きれいだよね。

今年は夏祭り行けてないんですよね。来年は行かないと。夏は自棄になりたい衝動に駆られる季節だから、お祭りとかで発散しないと具合が悪くなる。衝動で東京湾に沈む前になんとかしないと。いや、東京湾に沈む予定はないんですけど……。
あー、冒険せねばなぁ。もうすぐ夏も終わるしさぁ。わくわくしたことやらないとなぁ。

そういえば諸々の事情で前の家から徒歩五分離れたところに引っ越したんですけど、引っ越しって大変ですね。まず部屋が片付かない人間なので、本当に本当に準備が大変で、荷解きも大変で、大量にモノを捨てました。なんで使わないのにこんなにあるんだろう。片付けも掃除も大嫌いなので大量のエネルギーを消費した腹いせに後先考えずに捨てました。思い出のなにかしらもほとんど捨てました。捨てるのって寂しい。ミニマリストという考え方もあるけれど、今の自分を形作ったものや、自分を証明するものを捨てるのは不安になってしまうんですよ。つきつめると私が今息をしていることがすべての証であり、それ以外の何もいらないとも言えるのですが、やっぱり寄り添ってきたなんらかの要素を普段忘れてたとしても、捨ててしまうのはつらい。大切なことは忘れないと言うけれど、思い出せなくなるかもしれない恐怖はある。忘却は人のための優しい救いでもあるけれど、知らないうちに忘れていることの一抹の寂しさはどうすればいいのだろう。
とか言いつつまぁ覚えているだろう、と思い切って捨てて、捨てたのになんかまだ段ボールいっぱいあるし全然片付かないし片付けてもどうせ三ヶ月後くらいにはごみ屋敷だしもう荷解きしたくない。全部全部いらないよたぶん。あ〜保証書はとっとかないとなぁ。
次また引っ越すときにはどれくらいモノが増えてどんな人間になってるんでしょう。結局は自分の延長線上の話なので、まあろくな人間にはなってないでしょうね。