古筆の魅力

こんばんは、れいです。
無事目白祭が終わり、とりあえずホッとしています。皆さんのブログにもある通りですが、私も日文喫茶に参加しました!先輩方が誘ってくださって、またイベントまで担当させていたただけたことがとても嬉しかったです。準備の日の前後で、家で飼っているわんこの体調が悪くなったりで、色々とご迷惑をおかけしてしまった部分もあって…。先輩方がとても頼もしく、来年私たちがこれだけのことをできるのかなと心配です…。

さて、皆さんが目白祭について書いて下さっているので、今日私は「古筆」について書こうと思います。「古筆」とは、大まかに平安から鎌倉時代の筆跡のことで、主にかな書のことを言います。また芸術的な仮名だけでなく、紙(料紙)などもこだわっている場合も多く、すべて一つの作品としての美しさがあります。

今日古筆について話す理由、それは8月からかな書道を習い始めたからです。私は高校の時に書道部で仮名を勉強していたこともあり、いつかまた仮名を書きたいと思っていました。様々なめぐりあわせがあって今回習い始めることができました。そのかな書道は、主に古筆を臨書(そのままに写す)するのが勉強になるので、自然にたくさんの古筆に触れることになります。
今私は、高野切第一種(こうやぎれだいいっしゅ)や、小島切斎宮女御集(こじまぎれさいくうにょうごしゅう)などを臨書していますが、同じ古筆でも書いた人によって字の癖や特徴があったりで、どれも違った魅力があります。高野切は古今和歌集が書かれており、習った和歌を平安の人の筆跡を見て直接自分の手で書くことができるというのは、言葉にならない感動があります。
古筆というのは、国文学を研究する上での資料としての役割、紙や筆跡の美しさの二面性を兼ね備えています。例えば石山切(いしやまぎれ、伊勢集や貫之集)は、破継という複数枚の紙を継いで一枚の紙を調製(作る)していて、それが山の絵になっていたりするなど、細部までこだわっている所が、当時の人の、和歌を書いて一つの作品にするという熱意が伝わってきます。もちろん、書かれた背景には時代の変化(例えば貴族社会の終わりなど)もあるので、作品を制作年代から見るのも興味深い点があります。
今は当たり前に、紙を使い捨てるという環境にあるけれど、書かれた時代の人々にとっては紙は今よりも貴重であっただろうし、だからこそ最高のものを作りたいという気持ちがあったのだと思います。また臨書してみると、当時の人の筆の運びがいかにきれいであったかが分かります。ただ形だけではなく、浮沈(筆の浮き沈み)を効かせ紙に食い込むように立体的な字を書く技術、また筆の運びの強弱。全ていくら私たちが何十年と積み重ねても届くことができないものがあります。
古筆はいくら見ても飽きず、見るたびに感動して美しさに心震えます。

京都国立博物館では、佐竹本三十六歌仙絵が出ていることで話題になっていますが、同時に寸松庵色紙や西本願寺本三十六人集なども出ているようで、見るのが本当に楽しみです(実はまた11月に京都にいる友人の所へ遊びに行く予定が立ちました!わーーーい!)。

複製もいいけれどやっぱり実物が見た―――い!楽しみです。

今日はここら辺で。おやすみなさい。