♪ちゃいあーーーーーーー
♪ちゃいあーーーーーーー
しょうこのまねだけど歌詞がないからどうにもならんかった……
『仁義なき戦い』のテーマです(私にはこう聞こえております)。
三年前の3/17は『仁義なき戦い』の原作者・美能幸三の命日でした。
ですので次回のブログでは仁義なき戦いの話をしたいと思います。
あと前回のブログで私はスタニスワフ・レムをロシア人って書いたけどあとあと考えてみたらポーランドの方でした。たいへん失礼いたしました。ロシア(もといソ連)人は映画『惑星ソラリス』を撮ったタルコフスキーです。いい映画です。
なお、21世紀になってソダーバーグに作られたほうの『ソラリス』も悪くはなく、むしろ素晴らしかった、CGを駆使して映像化されたソラリスの海の光景は永遠に見ていたいほどでしたが、黒人団体・フェミ団体配慮っぽい設定変更が含まれているためそれが若干鼻につきました。ただしそれはソラリス関連作品として見るからであって、普通に観ればあの女優さんいい味出してたねって思うよ。もっといい味出してた原作の存在を知ってしまったことが罪だ
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国立能楽堂で下掛宝生流能の会『檀風』を観てきましたので、
折り畳みでささやかながらその感想を書かせていただきたく存じます!
すごく素晴らしいものでした! 謡本買えばよかったなあ
しかし横にいた客が心残り 怨み骨髄に徹すとはこのことか
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『檀風』は『太平記』に取材した作品で、
正中の変によって佐渡島に捕縛された日野資朝。その息子である梅若が、熊野の僧侶の阿闍梨とともに父の顔を一目見ようと面会を願い出ます。守護代である本間三郎の厚意によって許されますが、資朝は梅若の身に累が及ばぬよう「わたしの子ではない(わたしに子はいない)」と追い返してしまいます。
その後資朝は本間によって処刑され、梅若と阿闍梨は本間を討つことで父の仇討ちをなしとげます。そして佐渡島を出ようとするも、舟を出すことができません。しかしそこで阿闍梨の祈祷に応じて立ち現れた熊野権現の加護を得て、無事に本土は都へと帰ることができたのでした。
という筋書きです。
ちなみに現実ですと
13歳の阿新丸(くまわかまる)は母の反対を押し切って佐渡に渡り、父との面会を求めたものの叶えられず、既に守護代本間入道によって謀殺されたことを知ると敵討を決意する。夜間嵐に乗じて父の仇本間を襲い、入道は獲られなかったが、斬手の本間三郎(入道の甥という)を刺し殺した。その後、山伏に助けられて本間の追手をやり過ごし、商人船に乗って佐渡から脱出したという(以上Wikipedia)
まあ当然だが現実のほうが素っ気ないね~いつでも事実が小説より奇なるわけじゃねーのよ
現実にせよ能楽にせよ筋だけ読むとエーッ梅若ちゃんおまえ本間きゅん討つ必要なくない? 本間きゅんはお仕事でやったんだよ? そこに仇討ちなどと言い出すのはナンセンスってものだよ? ガキのおまえには分からんだろうがな……大きくなればいつか分かることよ、今日はこのままかかさまのもとへお帰り……って感じがしなくもないんですけど(ただし当時の御貴族の13歳というのは恐らく当世21歳の私よりも人間ができていることだろう)、そのような道理で噛み分けることのできる人の心だったなら歴史上この世に生じてきたトラブルが三割減と考えて良い。
そこに説得力を持たせるのが前シテ・資朝の演技でした。息子! それも鬼の頬さえほころぶようなとびきり可愛い盛りの息子! 幼名もまだ改めやらぬような息子! それが遠路はるばる佐渡島まで会いにきたものを前にして果たしてどんな気持ちであることと思うよ? それ椅子蹴って立ち上がって首っ玉に齧りつきながら泣きむせばないほうがおかしいわよって状況にありつつも、梅若の身に累が及ばぬよう「これはわたしの子ではない」と本間に言うその御心の悲壮さはどうだよ。抑圧されているからこそその愛情がより強く鮮やかに悲しく匂い立ちます。私が代わりに泣くわこんなもん
そうした形によって顕現する父の情愛が、息子を危険なめに遭わせるまいとする思いやりが、かえって梅若に父の喪失を悲しませ、本間への憎しみを掻き立てることになり、そして本間を討つことによって彼を身の危険に晒すことになってしまいます。運命の皮肉であるといえましょう。しかも本間がまた良い人なんですねこれが……梅若をきっと無事に帰すと約束し、本間を安心してあの世に行けるようにしてくれるんですね……嘘かもしれんけど
もし阿闍梨や資朝がゆめゆめ怠った演技をしようものならば「なぜあんなにも良い人だった本間を殺すことがあるのか!」という不興を買いかねないほどです。そこで大切になるのが上に記した資朝の面会時の絶妙な表情、そしてそれにならんで大切なものが、資朝の遺体を恭しく抱き奉る阿闍梨の演技だったと思います。プログラムの解説に書いてあるくらいだからさぞや、と思いつつ見ておりましたが、なめておりました。なめる自覚すらなしになめておりました。呼吸するのも申し訳ないほどでした。そんな横で衣擦れするわ筆記音立てるわついでに拍手はうるせえわでほんと隣の客あのやろう……
人の価値は死んだときに決まる(とまれ生きている限りは変動する)と申します。このような手つき、あのような眼差しを遺体に向けられ得る人が果たしてどのような人物であったかなどもはや考えるまでもない。そしてそれを失ったによってどんなに凄惨な悲しみが梅若・阿闍梨を襲っていることかもな……
ところで首切りシーンでは資朝の首にせよ本間の首にせよ斬手がトンッとジャンプするんですが、あれは着地時の音を切断された首が落ちて地面を叩く音に見立ててあるのだろうか。
日文のくせに「だろうか」で終えてんじゃねーよ感がなくもない ごめんね
後シテである熊野権現は最後の最後にしか登場しません。それでもシテなの。シテったらシテなの。
能・狂言はあまりヘアメイク・舞台化粧などない(ように見えるけどもしもあったらごめんなさい)のですが、そんななかでクライマックスの阿闍梨のとてつもなく切羽詰まりッシュな空気の極まりにおいてバーーーンとあの猩々のごとき赤髪があらわれる、その神々しさといったら筆舌に尽くしがたいものがあった。出番としては確かにシテと表現することを躊躇われるレベルの少なさであるが、だからこそその神々しさが引き立つこと引き立つこと。生半可なことでは眼に映すことも許されぬ存在であるということがひしひしと伝わってきました。神を前にするという状態を疑似体験した思いです。
ところで、あのシーンで梅若と阿闍梨の眼に熊野権現の姿は見えているんだっけ? どっちだとしても話としては成立を見る(姿があったにせよなかったにせよ熊野権現の加護を受けた小舟は彼らの命を助けるだろうし、彼らは命が助かればそれがどんな科学的自然現象によることであろうとも熊野権現に感謝するに違いないため)。しかし、もしも彼ら登場人物からあの赤い髪の姿が見えていないのだとすれば、我々は観客にのみ許される贅沢をここに得たことになるわけで、日頃「その小袖が死体だとかその木製のワクみたいなもんが牛車とかに見えてるならきみたちの眼はすごいよな……」と思いながら脳内でそれらを小道具に置き換えているときとは逆の現象が湧き起こっている。と思うとなかなかオツ。
宝生流における東京での上演はS48年以来40年ぶりで、今回の上演にあたり二年前から準備なさっておられたとのこと。なんでそこまで放置されてたんだろう? と少し不思議ではあります。おもしろいのに。
いや~
たのしかったなあ~~
不純なことを言いますと梅若ちゃん天使のように可愛い。着袴の儀のときの秋篠宮悠仁さまなみに可愛い。あと阿闍梨たちの声めっちゃいい。そして地謡方に大変かっこいい方がおられた。
資朝の崇高さに比べ私の魂は不純すぎはしないだろうか? こんなことでは困ったとき小舟が流れてきてくれないっちゃ