だけど哀れな

 以前レイナルド・アレナスの話をこちらのブログに書いたと思うのですが、その後ちまちまと買い集めることによって
『めくるめく世界』
『夜明け前のセレスティーノ』
『夜になるまえに』
『ハバナへの旅』
 を手元に集めることができました。しかし日本語訳されている作品が根本的に少ないという事実に変わりはありません。せめて『夜明け前のセレスティーノ』を含んだ五部作のほか作品、とくに『ふたたび、海』は翻訳してほしいものです。なおユリイカの平成十三年九月号におけるレイナルド・アレナス特集では、書籍化されてないアレナスの作品と詩がいくつか載っているのでとてもおすすめです。


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一応そのなかに収められている題名を書いておきたいと思います。
『からっぽの靴』
『意思表明をしながら生きる』
『秋が一葉を贈ってくれる』
『最後の月』
『コミュニケ』(声明文)
『海はぼくたちのジャングル、ぼくたちの希望』
『自由の必要性』
『パレードが終わる』
 いっぱいあるように見えますけど一作品がけっこう短いので厚さとしてはいつものユリイカ程度です。いつものといっても私が最後に買ったユリイカは軽く五年前だな……最近はダヴィンチのほうが台頭してるイメージがある そもそも雑誌としての意味合いが異なっているとは思うけど
 ほかにもホセ・レサマ=リマやビルヒリオ・ピニェーラといったラテンアメリカ文学人たちの名前が彼の人生のうえにはしばしば現れるのですが、彼らはアレナスにもまして邦訳があまり発表されていません! ひどい! ていうかそもそもガルシア・マルケス以外にラテンアメリカ文学って知ってる? 多分知っててもパウロ・コエーリョくらいじゃないかと勝手に思っているのですが、とりあえず私はあまり具体的には知らない……。アレナス作品だけでもいっそ自分で訳してしまいたいほどです。しかしそんな知能的・時間的な余裕はないな~やっとけばよかった
 ちなみにアレナスの作品はフランスでそれなりに出版されているのでフランス語を学んでも読むことができます。ただ訳本を更に日本語訳すると思うとロストイントランスレーションがいささか心配な気もします。とはいえ私は悪魔のような読者なので、【作者の意図したもの】よりは【私の受け取るもの】が重要である。仮に作者の意図したものがより素晴らしかったとしても、私がそれを知覚しなかったなら恐らくそれは存在しないも同じことである(※これはエモーショナルな領域に限った話だよ)ため、別段惜しいとも思わないことにしている。
 そしていったん知覚したものを捨てるには忘却という相当に手間のかかる作業が必要になってしまいます。たとえばフランス語版の『真っ白いスカンクどもの館』を読めばそこに奇妙な欠落、意図されて産まれたものではない何かが見出されるかもしれませんが、先に原語版を読んでからだとやはり「これが原語版である」という強烈なアドバンテージに支配され、意図されない何かを見落とすのではないかという危惧があるのではないでしょうかね。たぶん……
 ↑とっとと言うと私は安室奈美恵のNEW LOOKという60年代ファッションをテーマにした曲の歌詞における「だけどI wanna get a new look」というフレーズを「だけど哀れなnew look」に聞き違えていて、『60年代には最先端のおしゃれ(=ニュールック)だったものも、今(PVで)見れば懐古主義的なおしゃれに見えるでしょう? だけど彼女たちはこれを求めていたのよ。ツィッギーのミニスカートを真似するために必死で痩せ、自慢の髪を短く短く切りそろえ、次の瞬間にはすぐに移り過ぎ去ってしまうものを、あるいはほんとうに存在するのかどうかも分からないものを、必死で掴もうとしていたのよ」っていう、その時々の流行りに振り回されずにはいられない若く敏感な女たちの愚かしい悲しみを自ら演じつつも客観的に突き放して見せる、そんなアムロの姿勢に「やりおる……さすが奈美恵は一味違う……」って思ってたね。全然違ってたね。
 そして一回正しい歌詞を知ってからその曲を聞いていたならば、この虚像の安室の悲しきザティーレは私の脳中に現れなかった。←これが言いたかったことです

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 そんでな
 日本におけるレイナルド・アレナスというかラテンアメリカ文学の知名度・普及率を上げるべく、まずはアレナスの自伝である『夜になるまえに』を、聞くものがなくて暇だという姉に朗読する習慣を作ってみました。やはりアレナス最期の筆の生々しい息づきと安藤哲行の秀逸な訳文が巧みであり、あまりにも面白いです。そのため20pくらい一日にして読んでしまい、普段使わない喉を酷使したせいで炎症を起こしました。今日一日ほとんどものを食べていません。いや~水っておいしいね……冷たくて重くて流動的なものが食道を柔らかく押し広げて胃にまで落ちていく感じがたまりません。
 朗読というのは、いざやってみるとなかなか楽しいものがあります。特に異国語を口にしたときの響きは愉快です。こと人名はそれが顕著ですね。やはり人間(つまり両親、あるいは祖父母、あるいは名付け親として足ると両親たちに思われた人物)が何の下心もなくもっとも美しい言葉を与えようとする言葉こそが人名だからでしょう。ピコ・トゥルキーノ(山)、オルギン(都市)、アレホ・カルペンティエル(人名)、トマシート・ラ・ゴイェスカ(あだな)……それだけにORIやUNEACなどといったアルファベットが出て来るとちょっとがっかりします。もっと面白い名前つけようよ~
 ちなみにトマシート・ラ・ゴイェスカは「ゴヤ風の女、トマシート」というあだなのようです。ただしバイセクシュアルなソサエティを基本として繰り広げられる世界の人の話ですから、もちろんトマシートは男性の名前です(たぶん性行為において抱かれる側の人だったのであろう)。男性に女性のあだなをつける、あるいはその逆でもいいですが、そこに見られる倒錯感は性区別的でロマンチックだと思います。差別的だとはあまり思っていないので区別的と言います。
 あんまり悠長に遊んでもいられないご身分なのでがんばりたいと思いますが、ラテンばっかりはやめられないぜ……