こんばんは。あやです。
一週間ほど前の話になりますが、照ノ富士が幕内で優勝しましたね!大関昇進も決まって伊勢ヶ濱勢推しの我が家はお祭りムードです(私は優勝が決まった瞬間から息もできないレベルで号泣)。四股名が若三勝だった頃からいいなぁとは思っていたのですが、まさか優勝するとは…感慨深いです。
そして優勝が決まった翌日には、何人かの日本文学科の先生方から「よかったね!」とお祝いの言葉も頂きました。有難い限りです。なんとアットホームな学科なのだろうと思いました。
夏場所も終わったことだし、来月は名古屋場所だし…場所中はウズウズしてしまい学業が疎かになりがちなので、なんとか今月中に溜まった課題と向き合おうと思います…(部屋の掃除もいい加減にしないと体調を崩しかねない)。
さて。
お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はテーマにLOVEを選んでみました。かといって照ノ富士に対するLOVEという訳ではなく(いやむしろそれでもいいけれどたぶん相撲ネタはもういい加減にしないとブログ部員にすら読んでもらえなくなる)、個人の範囲での恋の要素を書いてみようと思います。
…といっても、所謂「恋バナ」ではなく、日々学んでいた中でふと思ったことなのですが…。
私には、一年半ほどお付き合いしている方がいます。
そして私の興味のある対象に「引歌」というものがあります。
引歌とは、古歌の一節を後人が新たに作る歌や文に引用すること、またはその歌そのものを指すのですが、この引歌の有無によって詠者(作者)の姿勢や受容のあり方を考えられる可能性が大いにあり、とても心惹かれています。
新古今の時代には「本歌取り」という方法も生まれており、現代でも喩えるなら「ラブソングの一節を引用して思いを伝える」といったような具合で引歌と同じような作用が見られるのではないでしょうか。
しかし最近、ひょんなことから恋人同士で着けるペアリングについて調べていたところ、キャラクターにかこつけたデザインのものや英語で「ずっと一緒だよ」といったようなメッセージが彫られたものがあることを知り、これも一種の引歌であるのかな、と考えると共に、この場合の引用の薄気味悪さを感じました。
ペアリングのモチーフやそこに書かれた文言は、恋人が互いに向ける気持ちを表しているのだと思います。けれども、果たしてそこで事物や言葉に事寄せるということは、真に誠実だといえるのでしょうか。
私自身、引歌はとても知的で美しい方法だと思っています。
しかし、言葉は決して完全ではなく、何かの事寄せでは示せない、或いは示したくない思いも無限にあるのではないかとも思います。逆に言えば、事寄せで済む思いとは何なのだろうと。
初めにペアリングの刻印の文を見た際、私は「もし文章を入れるなら、和歌の一節を入れたいな」と考えました。ですが、すぐにその思いは消えました。
私は、彼に宛てる思いを使い古された言葉にしたくはありません。
そして彼が私に宛てる思いも事寄せであって欲しくはありません。
けれども一方で古の人々の思いの尊さや言葉の可能性に惹かれる部分もあり、これについては考えあぐねています。
恋愛について考える際、私はいつも古今集の部立を思い出します。
付き合い始めの割と早い段階から「今は恋四くらいかな、失恋はしないだろうけど、恋五もすぐだろうな」と思いながら過ごしていたら、あっという間に時間が経ちました(そして案外長く続いたし記念品でも持つか、と考えたのが事の発端)。
いずれにせよ、言葉と心の密接度は実に高く、その奥深さは計り知れないものがあると思います。
私はいつかペアリングを選ぶなら、無地のものを望みます。けれどその際には、相手に向けて何か言葉を添えたいな、と。
ここまで読んでくださったあなたは、もし添えるとしたらどんな言葉を添えますか。そしてそれは誰の言葉ですか。
お目にかかることがありましたら、こっそり教えてください。