ミミズを読む

こんばんは。かつーんです。
本日我が家に伝西行筆の『一条摂政集』の複製が届きました。
『一条摂政集』もとい『一条摂政御集』は、私が卒論にて扱っている私家集です。
三蹟の一人である藤原行成の祖父・藤原伊尹(諡は謙徳公)の私家集とされ、写本は益田家旧蔵本のみが残っています。つまり孤本ということです。
校訂を含め、翻刻から始めて歌を見なければならないと考えて影印本を探していましたが、閲覧可能な図書館や博物館が限られ、なかなか見られそうにありませんでした。
先日、知り合いの方に名古筆の本にてフルカラーで載っていることを教えて頂き、まずはそれで確認しようと取り寄せた次第です。
早速目を通してみましたが、写真の綺麗さに驚き、そのお蔭でとても見やすいことに感激しました。
欲を言えば思いの外写真が小さかったので、もう少し大きければ尚良かったです。
とは言え、元は枡形の小本ですから、致し方ないようにも思われます。
バリバリ翻刻していきたいところですが、演習授業の準備もしなければならないので、並行して少しずつ見ていこうと思います。

 

さて、今回は写本や翻刻について少し取り上げたいと思います。
日本文学科の学生は、1年生の時に変体仮名について学び、翻刻をします。
故に1年生の時は滑らかに読めたのが、2~4年生になると変体仮名に触れる機会が減って「1年生の時の方が読めた」となる方が結構いらっしゃるように見受けられます。
ただ、先生によっては演習授業で作品を翻刻から始めて本文校訂をし、語釈や考察をするので、長く付き合う方もいらっしゃるでしょう。
私は翻刻をする授業をとっているので、他の人よりは少し長く付き合っている方なのではないかと思います。

変体仮名と翻刻について基礎を学んだのは1年生の時ですが、その意義を理解し始めたのは2年生になってからでした。
それまではただ平仮名に起こすだけの作業にすぎず、言語遊戯に近いものと見ていたように思います。
しかし演習授業を通して、ただ平仮名に起こすにしても最初に行った翻刻を信じて良いのか、癖が強すぎて読み間違えていないのか、また実は写した人が間違えたり書き換えたりしていたのではないのかなど、考えたり想定したりしなければならないことが多くあることを知りました。
3年生でとった演習授業では、それに加えて様々な系統の写本と比較する必要があることを痛感しました。

翻刻についてまだまだ知ることや勉強することが沢山ありますが、最近は写本の表記は全く信用してはならないと思うことが多いです。
4年生になって院の授業に何回か参加したのですが、そこで詞書すら胡散臭いことをひどく感じ、「信じられるものが何もない」と言い切りたくなる境地に達した為です。
皆様も少し覗いてみて、「定家筆というのは嘘っぱち」だとか「何某筆はあてにならない云々」などと話を聞けば、同じ境地に至ってくれるのではないかと思います。

とは言え、諸注釈書の校訂本文から作品を見るのではなく、翻刻から作品を見ることは大変ではあるものの必要かつ重要なことだと思います。
校訂された時点で、翻刻した人の解釈が入ってしまうからです。
諸注釈書を比較していた際、校訂本文が違う為に解釈が大きく異なっていたことが何度かありました。
作品をまとめ上げた作り手の意図になるべく沿って読もうとすると、翻刻から始めることが一番だと考えます。

 

ただ、こういったことを理解して貰えるのは、同じ日文生のような勉強をした人ぐらいしかいないように思われます。
例えば、灰原薬氏の『応天の門』にて、菅原道真が貴重な巻物の原本を閲覧出来る機会に恵まれて興奮するシーンがあります。
その価値を理解していない女房に、道真が「写本と違っているかもしれないでしょう(意訳)」と言うのですが、先日えりこさんと一緒に見て「それな」と納得しました。
しかし写本や翻刻について詳しくない人が見れば、「そんなもんか?」と理解し難く思うかもしれません。
今まで書き連ねたことと少しずれた例ですが、要は「何でも原典に当たるべきではないか」と言いたかっただけです。
作業も考えることも増えるので大変ですが、作品の元になるべく近い形で向き合おうとする姿勢を大事にし続けたいと思います。