思い出話のひとつもさせてくださいよ。
長いんで畳みますけど。
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良い年越しをお迎えください![:晴れのち曇り:]
わたしは皇居に行く予定です。楽しみ。
新年といえば初日の出の輝きも素晴らしいですが、それが顔を出すまでの待機時間もまた捨てがたい。たまらなく好きです。あの肌寒く静謐としながらもうずうずと待ち遠しく、仄暗くありつつも仄明るく、空を見れば群青色でありつつも鴇色で、昨日でありつつも今日で、昨年でありつつも新年で、そのように色々なものの境界が曖昧になっている感じが良いですね。といっても日の出前というのは多分四時~六時くらいですから、日付の上で言えば既に翌年なんだけど、まあそんなのは時計という文化がなけりゃ分からんことですから、やはりそこは陽が出る・出ないのラインを心情的な日付の基準としたいものだ。
大学に入ってしばらくしてから「日本文学科に入ったということはすなわち宇宙飛行士にはなれない!!」と気付いた瞬間にはずいぶんたまげました、といってもわたし別にまったく宇宙飛行士になりたかったわけではないのですが(むしろ神主になりたかったのですが)。そしてそのあたりの細かい部分については今のところまったくどうでもいいんですが。
つまり重要なのは、その事実は「未来は無限!」とか「夢は信じれば叶う!」とかそういう、これまで小学校道徳や通信教育チラシや子供向けアニメ映画などによって手を変え品を変え幾度となく刷り込まれてきたポジティブきわまりない観測点から既に自分が追放されており、またそこに立つ権利を再び得られる者ですらなくなった、と思いっきり宣告されていた(そのうえそれに気付いていなかった)ということです。そうしたキャッチコピーの数々を「うさんくさい」の一言ですげなく蹴っていたあの日々はもうどんどんと距離ある昔に遠ざかっていく一方なのですね。未だにうさんくさいとは思っていますが蹴る権利がわたしにはもうないんだよ……
たとえばこれは新興宗教の勧誘のようなものです。どんだけ鬱陶しいものであったとしても、勧誘さえ来なくなるというのはけっこう寂しいものです。それも、こちらが「あなたが何度来たところでうちは入信しませんよ」と言ったことを受けての不来訪であればまだしものこと、いくらそれを言っても聞かなかったくせに、こっちに金がないと分かるや来なくなられたら、もうはらわた煮えくり返らんばかり。まさにそれですよ今。くそう。
といいましても、今あるこの状況を数ある未来のなかから選択してきたのは自分にほかならないので現状への恨み言を言うのではありませんが、ただ自分が既に選択の自由にある段階を通り過ぎて今その肢を辿っている状況にあることを悟るのが遅かった。絶対に宇宙飛行士にはなれないという、この未来の否定的な確実性は、これまで基本的に未来ある子供としての扱いがデフォルトだった我が人生においてまったくのイレギュラーであって、それがあるとすら思っていなかったからこそ、そこにその否定があることに長々気付かなかったわけですよ。当然のこととして無意識に知ってはいたが「知る」が「感じる」に変貌するときの衝撃がすさまじく、そのすさまじさが落胆や怒りに繋がったわけですよ。
「未だ来ない」と書いて未来であるが、今となってはそんな希望的で悠長なことを言っている場合ではないんです。これは「どんなに・待とうとも・来ない」という断言です。この恐ろしさはどうだ! この頼もしさはどうだ! これを繰り返した末に人は「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という状況に至るわけですね。まだ分岐路が数多くあるとはいえ、すでに地獄に繋がる、あるいは繋がり得る道の途中に立っているかと思うと、なかなかこれはぞっとしない。
要するに、
・別に宇宙飛行士になれなくてもいいけど
・『××になれない』という事実がそこにあるということに対して
・わたしは大変おったまげた
こんだけくだくだしく書いてきながら三行で済んでしまった! どういうことだ!
まあもちろんその否定的事実に気付かなくてもこれまでのようにものを選ぶことはできるし、またこれまでは幸運にして何の害ともなりませんでしたが、この無自覚がいつか何らかの害を作る日が来たらいやですねーまじで。まじで。
あと文学部卒で宇宙飛行士がほんとうに無理かどうかは知らん。知らんが、ここで「知らん」で止まったまま調べようともしないからには、やはりわたしが宇宙飛行士になれない事実について疑いの余地はなかろう。これが真理である。
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話の内容とは関係ないけど、「ぞっとしない」って言葉は何でぞっとしないんでしょう? それを言う文脈って明らかにぞっとしてるじゃないですか。「ぞっとする」でも同じ意味になるし。解せぬわ~
なお前回わたしの書いたものは誰にもまったく怒られませんでした。
怒られないと分かるとちょっとつまらんね。