一夜一夜に

 すさまじい男性を目の当たりにしました。
 自分の理想が生きて独立した姿で歩いているかのようでした。ええ~もう そら~もう すっっごかったぜあの衝撃は 打ってもいないヒロポンの禁断症状を心配した つまり幻覚でも見たかと思った 相手が佐々木倫子の絵で自分は漫☆画太郎の絵になったかと思った あれこそは塩見の藤木であり三島の近江であった……
 私の脳中の外には実現されまいと思っていた姿であった それであるだけに、ていうか脳中でも薄ぼんやりとした概念以上の美ではなかっただけに、いざ目の前に出されてみると驚愕と同時にすさまじい喜びでした。あまりにもすごかったのでただ視界に入れるだけでさえ照れるわ恥じるわ恐れるわ、一夜を経た今となってはそのお顔なんてまったくといっていいほど覚えていませんが、ともかくそうした印象を強く受けたという記憶が非常に鮮やかです。名も知らぬ彼の母上と日付も知らぬ彼の誕生日に感謝したいと思います。
 しかもものすごいことには、その美貌が勤めている中華料理屋が、まさに私が姉と伴って訪れた昨日を最後に閉店するということです。一期一会にもほどがあろうよ。廃れゆく店舗が見せた一夜の幻だったのではないかとさえ思います。
 長いんで折り畳む
 


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 掃き溜めに鶴とは申しますが、そして確かに掃き溜めのような立地に鶴のごとく痩せた白い店員ではありましたが、しかし店員の美貌もさることながらその店もまた、今は無き九龍の迷宮を思わせるような素晴らしさだった……
 たったいま掃き溜めと呼んだ舌の根も乾かぬうちから難ですがその立地もまたすばらしく調和していました。綺麗ではないが、清潔で、なおかつ素晴らしい情緒がありました。
 巨大な車庫か漁船格納庫のような屋根のある巨大な空間に小料理屋風の店がまるごと入っているのですが、そこに少しアクセントめいて敷かれたタイルの汚れ具合、雨を踏んできた客の靴底にもたらされたコンクリート床の濡れ具合、まことに絵画のようでした。そのうえ高校の美術室以外では眼にしないような背凭れのない椅子のスポンジ入り座面は緑色です。しかも周囲にある店は女の名前をひらがなで冠すたぐいの美容院などです。どうこれ。容易に想像しがたいようなら千と千尋の神隠しの最初のほうとかクーロンズゲートの九龍フロントあたりを見るとよろしかろうと思います。
 それは地元の通りのすぐ裏側でして、小学生のときに足を踏み入れ、あまりの非現実感に驚きすぐさまケツまくって逃げた場所でした。その畏れの一部であり、同時に(雰囲気の)主部でもあったこの料理屋が今なくなってしまうのはとても寂しいのですが、「赤字続き」という哀しさから「今はもうない」という寂しさまで含めて、この界隈を形作るものの完全体という感じもします。九龍城砦なんかも実存したころより失われてからのほうが憧憬美を伴ってきているわけだしな! あれで繁盛していたら今これほどまでに手放しで愛せていたか怪しい……
 とかそんな条件つけてる時点で手放しになれとらん……
 などというように
 これがチェーン店でなければ哀愁も漂わせられたことでしょう。しかしながら、実は都心部にばんばん店舗を構えている立派な企業であったのです!! どういうことだよ! ふざけんなよ! なんでそんな立派なところに建てていながらこんな場末の街のなかの更なる場末にこんな場末感のあふるる店舗をオッ建ててんだよ! そんな立地だから赤字続きで閉店するんだよ! もちろん私は一ゆきずりの客ですから細部の事情は存じませんが、それ以外にこれなる理由も思いつかんほど場末オブ場末でした。このチェーン店であるという事実が私の哀愁にひと垂らしする苦笑いしたくなる喜劇性、煮え切らなさがまた、どうにもこうにも愛おしいことでした。詩的になりきれないんです。
 とはいっても、母体企業がどうであれ、この無二の美貌の店舗はもう二度と開かれず、あの無二の美貌の店員とも二度とまみえることはない、つまりマクロ観点では何の変わりもないように生き続けるが、ミクロでは永遠に蘇らない終了を色々なところと色々な意味で迎え続けている、というのがあたかも命というものの行き代わりのようではありませんか……(なおこれ「命」という言葉の雰囲気に惑わされそうになるがまことに当然のことであるため別に詩的ではないよ) あるいはチェーン店であったからこそ為しえたのかもしれませんこの芸術……実用性のない美と調和……金銭に化け得ない趣……わびさび……
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 もうひとつ詩的になりきれぬ部分があるとすれば、もしもこの店と店員が独特の美貌でなければ、こうしてブログになど書かなかったし、哀れまなかったし、何らこれという感慨も持たなかったであろう。ということでしょう。
 面食いは喜劇性のひとつです。たとえばフェティッシュや同性愛が、本人たちには不本意であれ一種のこっけいと成り得るように、面食いもまた喜劇性のひとつです。美貌が好き、というところはフェティッシュに比べればきわめて広汎性の高いことではありますが、それを持つものが哀愁ぶったり悲劇めいたりしておればなおさら喜劇性は増し、そのものの面食い部からは眼を逸らさなければいけません。なお、ブス専やデブ専といわれる人種とてまたブスという相手の顔やデブという相手の体型といった表面部を食うのだから面食いに間違いはありません。かといって声が好きならそれもまた面食いであるし、相手の優しいところが好きだといっても、優しいという部分が好きなのだ。相手の経済力が好きだというなら、経済力が相手の一部である以上、やっぱりそれも好きということにはなるのだ。どこかしらの一部位を殊更に好きだと考えるのであれば、あるいはどこかしらの一部位が失われたときに愛もまた失せるのであれば、それは面食いに準ずるものだ。
 つってももちろん顔面や色々な部分から入って他の部分にも愛が波及するのがたぶん一般的な愛の行程にあたることで、つまり人の一部位を愛しながら、その外へそれを伝播させることのできない人間がここに言う面食いの完成体? まあいいんだそれはあまり重要ではないんだ 重要なのは面(=一部)からしかものを食えない口の小ささの持つ喜劇性であってその後の立派さの話などしたらそれは逸脱というものだ
 このクソだらだらしい文章で何を申しあげたいかというとつまり
 こっけいというより、それはきわめて話の腰を折ることなんすよね。
 たとえば「きみは『安珍が痘痕まみれの醜男だったとしてもきみは蛇になれたか』と清姫に訊ねられるか? いやできない」って話っすよ。それでも蛇になれるのなら清姫はものすごい女性であると思いますよ。が、しかしだからといって痘痕まみれの醜い僧侶が鐘のなかで焼け死ぬ物語だったら、未だに能楽や何やとなりながら語り継がれるものではなかったろう。仮に元となった実話の姫も僧侶も美貌ではなかったとしても、たぶん百年後には外見への供述がなくなり、二百年後には美形ということになっていよう。
 つまりはそれを語り継ぐ人間たちも面食いということだ。そしてより多くの人間の食いたい面に沿うものであるほど長くさまざまに残るのだ。原爆ドームやアウシュヴィッツを負の遺産という形に刻銘しなければいけないのは、人がそれを語りたがらず忘れたがるようになるだろうと既に予測されているからなのだ……そしてこの中華料理屋と店員の美貌を語り継ぐ人は恐らく一年後にはいないであろう…… 「あそこの店員すげー身長だったな」ってくらいはあるかもしれんけどね。すげー高かったんだよ それこそ天を突くがごとくに。
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 このラーメン店は二回だけ行きましたが二回ともおいしゅうございました。
 あんな美と調和がそこにあるのだともっと前々から知っていれば!! 人は大抵において膝丈セーラー服の可愛さも足首ソックスのいやらしさもブレザースタイルの罪深さも卒業してから気付くものだが今度ばかりは惜しんでも惜しみ切れない人生の大浪費であった! あの裏通りの存在を知りながらも何ほどのことと思いもせず、そこに勤める美男のことなど知りもせず夢に見もせず、毎日ただ牛馬のごとく行き来していただなんて、その事実のもったいなさがもはや一周してめっちゃ趣深い。最高じゃねーか! 何度でも言うが最高じゃねーか! こんな終助詞いらん! 最高だよ!
 もしも私が実家暮らしではなくて、髪がもっと細くて長くて少なくて後ろにひっつめてあって、白い服の似合う皮膚がやたらに艶々とした細身の女だったならば、あるいは貧しいのに腹が突き出ていて顎から頬の肉が弛緩していて、競馬新聞かラジオをいつでも持ち歩きながら黒いジャンパーを着て帽子をかぶっている男性であったならば、毎日のように行ってお店の雰囲気作りに協力したかったものです。
 そういやそこで皿蝦ワンタンを初めて食べました。
 「海老」は日本料理のえび、「蝦」は中華料理のえびっぽいイメージ。