鰐が梨を食う

 恥ずかしくてとてもとても本屋で買えない本というのはあります。たとえば11日に先生の御宅で拝見した大学図鑑などはまさしくその部類です。
 という流れでお茶会の話をしようかと思ったんだけどそれは他の人にお願いします。
 場所が本屋でなくとも、単に邂逅しただけで顔を覆うような本というのもあります。先日自室から買ったおぼえもない『愛され脚になる○○』やら『○日で美女になる法』やら出てきて、しかも親に部屋掃除されたあとの本棚にきちんと陳列された姿で出てきて、いっそ腹でも切ったろかと思ったものです。なんでこれがここにあるんだよ。介錯人を雇うのすら恥ずかしいことだよ。そもそも親に自室を掃除させている事実がまずもってここに書くのを躊躇われるほどに恥ずかしいものかもしれない。
 ともかく自分の部屋から出てきたものですから何かの御縁があるのだろうし愛され脚になりたくないこともないしせっかく恥もかいたことなのでこのうえ損してなるものかと一応読んではみました。参考になりました。
 似たような恥ずかしさを伴う題名の本に、森理世や知花くららの食事管理をしていたというエリカ・アンギャルにより著された『世界一の美女になるダイエット』がありますがこれはけっこう面白かったです、主に書き手のテンションが。「アイスクリームは老化を進めるかわいい悪魔」とか。まことにたまらん。そんなアンギャルがおかわいらしい。しかし「お風呂上がりのアイスは今すぐやめて」などと書いてありますけど、そもそもこんなコッ恥ずかしいタイトルの本を買ってまでして世界一の美女になりたい/世界一の美女になるようなダイエットをしたいと思える女が、風呂上がりにアイスなんて食べるものかね。
 折り畳み:読んだこともない村上春樹について。
 あと変態について。かつて既に書いたことをまたやっている恐れもある
 


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 個人的には『ノルウェイの森』のほうがこの数々の美人書籍よりも恥ずかしいです。
 村上作品がインテリジェンスな意味合いで持ち出されるたびにマジでハァさようでって感じっすよ。何ですの? あの予想を超えたエロの奔流は何ですの? 山手線で開始三秒にして閉じてそれ以来じっと本棚の奥に潜んでいますよ。つまり読んでいないんですよ。読んでもいないのに文句をつける私のような人間はまごうかたなきバカであるに相違ないが、それに対して本気でキレるのもバカのやることであろうと思われる。踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら体力を使ったほうが損なので静かに見るのが得策であろうと思われる。私は体力あまっておりますのでほっとけドロボー つまり苦情はやめてくれ
 内容がエロであるうえに、しかも国内外を問わず人類が総力で村上をインテリジェンスポジに持ち上げんとするような気配があるので解せぬ。平置きだの春樹フェアだのたいへんな盛り上がりを一時見せておりましたがしかしどこまで行こうともそれはエロではないのか。ていうか皆なんで村上春樹を春樹とか呼んでんの? 芥川りゅうのすけは芥川だし太宰おさむは太宰じゃん。もり鷗外は鷗外かもしれないがそれは苗字が本名で下がペンネームである上に森ってだけじゃいささか呼びにくいからであろうよ。私は林太郎と呼んでたがな。
 えーまあそんな文学史に名だたる文豪と並べなくてもいいんですが、とかく何であいつは春樹呼ばわりなのさ。あんた春樹の何なのさ。村上龍とかぶるから? でも村上龍を村上と呼ぶのも龍と呼ぶのも聞いたことないな……後者の呼称を使わないのは普通名詞のドラゴンとかぶるからだと思うけど、どうせ村上龍がフルネームで呼ばれるなら、春樹は村上でもいいんじゃん?
 なおなぜここまで執拗に突っかかるかといえば、「春樹」と口に出すときの人間にまま見られるドヤ顔が癪だからであって、別に村上や村上ファンや人間を下の名前で呼ぶ行為に悪態をつきたいわけではない。
 作者を下の名前で呼ぶのもいいだろう……エロに文学性を求めるのも良いだろう…… しかしとりあえず少なくとも「いっぱい食っていっぱい出せ」(要約)とかそういう会話があからさまにエロであることに間違いはない。ここは忘れないでいただきたい。都条例で規制しろとかは言わんけれども、その本はまずもって電車で大っぴらに読んでいい内容じゃねーし雑誌のインタビューに今これ読んでますぅとか得意げに答えていい内容じゃねーし、横で覗かなくても内容がバレてる程度に有名ということはつまりあのエロい本を今あの人は読んでいるのねって分かるってことですよ。少しは恥じらえ! ブックカバーをかけろ! エロいぞそれは!
 ていうかそんだけエロが含まれている著作ならばエロを楽しまないともったいなくない? エロを楽しむときたらそれはやはり恥じらいながら読むことがたったひとつの冴えた読み方なんでない? まあたったひとつってことはないかもしれないが……逆立ちして読むと頭に血が昇って快感って人もいるかもしれないが…… 何にせよ、仮にこの作品の芸術性指数が同作品のエロ指数を上回るとしても、その事実によってエロ指数が減るというわけではないだろう。むしろエロにせよ精神病院にせよ魂の再生にせよ、一人で陰湿に照れて鬱になって泣いてこそ楽しいのではないのか? むろん私の押し付けですが!
 とにもかくにも、それがエロいということだけは忘れるな……そして、忘れないと共に、それがエロいということを恐れてはならない
 ところで高校で村上春樹を教材に扱った男性教師がいて、彼はそれをしたために『エロ●●』(←エロ川とかエロ谷とかそういうありがちなやつだよ)という栄えある仇名を得た。この事実からは、そういうセクハラを一度や二度や受けてこそ女子校に在籍する男性教師の鑑であろうとまず思う。そんで次に、村上春樹を取り扱うということが、文学的で芸術的なオブラート効果をいっさい示しえない場合がある、あるいは示していてもそれを乗り越えてなおも『エロ●●』という身も蓋もない仇名がつけられうる場合があるのだと驚嘆する。
 あの日たしかにそこにいた女子高生たちの、しなやかさ、ドアホさ、そして本質を見通す眼差しのまっすぐさを、このいかがわしい仇名から私は感じ取るものである。割と本気で。
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 前述のとおり村上春樹読んでませんから読んでないものが憎いってことはないんだけどほんともーーーとりあえず村上春樹を読んでおけば間違いないみたいな風情が私にとっては癪で癪でも~ スターバックスコーヒーのキャラメルマキアートだか何ちゃら豆乳ラテだかのトール頼んでおけば間違いないみたいな風情も私にとっては癪で癪でも~ 自分がもっぱら緑茶党なんでスタバについてはよく分からないんですけど、これらは両者ともなぜか洒落たイメージを持たれているよね。どのへんが? 村上とスタバに満足のいく価値を見出しているのか? あるいは満足のいく価値を満たしうるものが村上とスタバであるのか? 後者であるとしたら、それが「満たしうるもの」であるとしたら、つまり上側になら突き抜けてもいいのか? そんならデュラスでも読みながらマリアージュフレってりゃあ良かろうが! 何の不満がある! 年齢層と価格帯だろうな~
 たとえヴォーグに特集されようと何であろうといっそノーベル文学賞とろうと、彼が書いていることそれ自体は団鬼六のようなものではないのか? 心血を傾けながら一冊読み終わった頃にはほんとうにあのわけわからん電波エロ会話が恥ずかしくなくなるのか? 人前で「私は『ノルウェイの森』を読みました」と素面で言うことができるようになるのか? なら読むとするかね……己に訪れるその変化に期待しながら……(しかしその根拠ない変貌への期待と希望はまさしく童貞処女に特有のそれであって、それを自覚していながらあたら蕾を散らす必要があるのかという疑問はなきにしもあらず)
 私は昨年『存在の耐えられない軽さ』を読みましたが未だに「私は『存在の耐えられない軽さ』を読みました」と素面で堂々と言うことはなかなかできずにおりますね。たとえ本ののっけからニーチェの名前がガンガン出てこようと一章ほとんど丸々使ってキッチュ論を展開しようと、そしてそれらに大変私が感動させられたという事実があろうと、あの作品のなかで女の括約筋をまさぐる必要があったということにはならないだろう。なぜあのときトマーシュがまさぐった部位が当たり障りのない乳房や臀部ではなく、消化管の末尾であらねばならなかったのか? なぜ彼の性癖にフェティッシュなものを含ませなければならなかったのか。わからん!! このように、智に働けば眼が止まるし、情に棹差せば頭が止まるし、やけを起こせばページが閉じるんですよ。とかく名作は読みにくい……
 クンデラが女の括約筋を好きだったのかもしれません。別にそれでも良いのです。たまには自分のときめくポイントも入れておかなければ書いていて面白くなどないでしょう。そうなんですよ! それでもいい! すべては作者のフェチでいい。酒はぬるめのドンでいい。いいけど、たとえば『仮面の告白』では、(作中において最近発売された本の表紙の意匠が)「裸の女」であった、とヒロインが口にしただけで主人公は(別にヒロインを愛していたわけでもなかろうに)いたく幻滅していたではないか。かつて純真な処女であった園子が、「裸の女」というキーワードを口にできるようになった事実が彼には衝撃だったのだ。嫌悪感を与えられるに足るものだったのだ。最近読んでないので不確実で申し訳ないことだが、とかくあの男の病的な繊細さにはまことに深々と心を打たれたものだ。女は無口なほうがいいと思ったものだ。
 そして現実にそういう男あるいは女がいないとは限らないし、いないと限らないそれらをうかつに傷付けたいとは思わない……となると、やはりほぼ初対面の女の括約筋を男がその指先において楽しむような小説を読み、あまつさえ愛読しているという件については、あまり公言すべきではないような気がしてならないわけで、そうなると当然「やれやれ、僕は射精した」などとのたまっているような小説も、人に読んでいることさえ知られぬように楚々と隠して慎ましく鼻息荒く号泣しながら孤独にさらさらと読みあげたいと思うわけですね。……この「やれやれ、僕は」に繋がる、由緒ある女子大らしからぬ二字熟語に関しましては、(ほぼ)みんな大好き村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に含まれる一文です。私はねじまき鳥を途中までしか読んでませんけどそのはずです。このタイトルをてっきり『ねじまきクロニクル』だと思ってエルマーのぼうけん的展開を期待しながら手をかけてしまったわけです。こいつがいつねじまき島に行くんだ? と思いながら読んでいたら謎の女が電話口でいきなり目を覆いたくなるばかりに性的なことをぬかしはじめたものだから、やれやれ、僕は本を閉じた。いきおい図書館に返しにいった。パスタ茹でてる場合じゃねえよ。
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 そういう(恐らくは自分の脳内にしかいない、三島由紀夫級に繊細な誰かへの)思い遣りゆえに口ごもるというのも「純文学っつったってエロじゃねーか」とさっきから悪態ついてる理由のうちにはあるのですが、それ以前にそもそも自分が読んでいる本(あるいは自室の本棚)なんて、つまり自分の臓器あるいは構成物質のリストみたいなもんなんだから、それが村上春樹であれ立原えりかであれ菊地秀行であれ、人に知られたらけっこう恥ずかしいと思うんすよね。
 それがハーレクインや宇野鴻一郎や団鬼六ならばもちろん、全力で己のなかに隠してるんだか守ってるんだか分からん熱意をもって独占したい。またオルコットやモンゴメリやゲーテであるにしても、何やら堂々と構えすぎてて、寄り添うにあたりやたら恥ずかしいものがあります。なんか一周してギャグになっちゃうんですよね。照れのあまりに笑いが出る。「まじwww金瓶梅wwwwwめっちゃ好きなんじゃけどwww」 やだ! なんてこと! うざい!
 そんな発想を持ちつつも執拗に人前やこのブログなどで読んだ本の話をしまくっているのは、日文の学生としてちっとは本の話でもしたほうがいいのかしらっていうTPOリーディングと、単純に精神的露出狂だからですよ。「こんな本を読んだよ!」と教える行為は、即ち、本人の自覚の有無に関わらず、腹膜をベロンとめくって内臓を見せているようなものなのではありますまいか? その剥きっぷり、その心髄への迫りっぷりは、トレンチコートのなかに潜む不穏な何かを露にする行為など比べ物にもなりません。ここが胆嚢! ここが脾臓! 腹膜の断面にチラつくこの白いものは皮下脂肪! 殊能将之の『黒い仏』を読みました! 大変面白かったのでいずれ感想を書ければいいなと思います!
 しかし、自分ではこの、臓器を晒す行動に基づく微妙な快感に対して「こりゃ些か変態じみとる」という自覚をおぼえていたんですが、昨今まま見られる春樹読んでますぅ系女子(というほど存在するかどうかは知らんが)や、読書系のソーシャルネットワークサービスシステムなどを見るに、この露出狂心理は誰にでもあるもののようですね。
 とはいえ、村上春樹の芸術性指数がエロ指数をしのいだところで(そもそも芸術とエロは相殺しあうものではないのだから当然のことではあるが)エロ指数がゼロになるわけではないように、自分の読んだ本を晒す行為がどんなに一般であるかという指数がその行為に伴う変態性指数をしのいだところでそれが変態ではなくなるというわけではないのです。正常性バイアスに地震を防ぐ効果はありません。それと同様に、表向き変態ではないように扱えば変態ではなくなる、などということがあるわけはない。たとえ一パーセントであろうともそこにある自分の変態性のことを決して忘れてはいかんし、心ある者ならば決して忘れられはすまい。
 なぜならばそれは私が、そして人類が、自らに巣食っている無限の変態性のことを心底うやまい、愛しているからにほかならない。この無限の変態ゆえにこそ人は恥じらい、人は愉しみ、人は歪んできたのである。もともとの単細胞生物からここまで複雑な、およそ一言では言い表しがたい、この世に二種とない形状に歪んできたのである。人を人たらしめるものがこの、クトゥルフの大いなる神々のように内外から、自ら干渉するともなしに影響を及ぼしてくる変態性なのである。ゆえに、それを露にする行動には堂々とNONを突きつける。
 変態というのは秘めれば秘めるほど良い、ともすれば自分でも気付かないがまでに秘めるほど良い。それによって鬱屈した変態が複雑な形に歪んだり、垂れ下がったり、滲み出したり、熟成したりするからこそ味わいが豊富、見目にも色とりどり、触った心地も十人十色、これは素晴らしい。のであって、一度でも表沙汰にしようものなら即座に変態の魅力は褪せるといえよう。そんなもん変態でもなんでもねーよ。きわめて正常な奇行に成り下がっておるわ。【出したい→出す】というこの自然な欲望から行動へのシフトチェンジのどこが変態であるものか。この眼に、その眼に、誰かのパーソナルでデリケートな部位を見せるに足るだけの価値があるとでも思っているのか? そんなんねーよ誰の眼にもねーよ。人の眼に見せたところで何が起きよう。酸化するだけだそんなのは……私を初めとする露出狂は人の眼に何を期待しているのか。外気というものに何を期待しているのか。それらとの化学反応はいずれも、内に垂れ込めたまま爆発することを知らずにそっと死んで行く変態を上回る価値があるとは思えんが、それでも露にするのはなぜだ。外気と視線に晒された瞬間、その繊細で奥ゆかしい器官はこれまでヴェールの奥にあった価値と色をいっぺんに失うのだ。まことに惜しいことだよ。私がこれまで胎裡に抱え込んできたこれは何と大切にせねばならないものだったのだろうとそのとき初めて気付くだろうよ。
 しかし、その繊細さと奥ゆかしさを兼ね備えた変態ゆえに、人は愛すべきものである……なぜならば人は皆あまねく心に変態を住まわせている、要は変態だからである。その変態を出すべきか出さざるべきか、それが問題だ。
 (頭の)おかしきものよ、汝の名は人類…… ていうかあずみ……
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 変態がゲシュタルト崩壊してまいりました。
 ではその考え方で行けば、恥ずかしげもなく人前で春樹読んでますぅなどと言うのは、どういう行為でしょうか。
 ほんとうに村上のエロを伴う芸術性に心惹かれ、なおかつその事実を人前にあらわにすることに心惹かれているのであれば、無自覚のまま性に目覚めながらもその行動が何を意味しているか気付いていない幼子みたいで、どうにも可愛らしいと言えないこともないだろう。罪の匂いの漂うロリータ。いいですね。
 しかしながら、自分がいま話題でなおかつ知的で適当にシャレオツな村上を読んでいるということをアピールしたくてそれを人前で言うというのであれば、Tバックを履いてどう見てもケツである部分を「これは脚です」と本気で(尻を見せることを合法化するための言い訳としてではなく)言っているようなものだ。彼女はそれをおよそ恥ずかしいとは思っていないし、それが恥ずかしい行為であると気がついたとき彼女を襲うのは、快感を伴わないただの恥ずかしさであるに違いない。
 それはなぜだ?
 そこには愛がないからだ。尻への愛がないからだ。尻は出そうと出すまいと尻で、それに食い込んでいるものがハイレグであろうとTバックであろうとフンドシであろうと尻なのだから、あくまでも尻として、脚の代替品としてではなく尻として、かけがえのない尻として愛すべきではないだろうか。ゆえにこそその恥は「明らかなまでの尻を頑なに脚と主張しようとした罪への羞恥」ではなく、「尻を衆目に堂々と晒す己への羞恥」もしくは尻の露出への羞恥として楽しむべきであって、それを楽しめないのであれば尻なんてピーチジョンなりワコールなりグンゼなりフクスケなりキリリと締めた六尺ふんどしなり、ともかく己に見合うものの奥に、外の陽にも当てぬよう、外の風にも当てぬよう、しずしずとしまっておくべきなのだ。尻なんてのは男女いずれも静謐な温かい暗闇のなかに置かれた桃のように、美しく、ひっそりとあるべきなのだ。風呂とトイレと泌尿器科の診察台以外では一生出さない覚悟でいけ!
 なお以上にわたるおしり段落はすべて本あるいは本に対する愛情あるいは愛すべき変態性の比喩表現なので、Tバック履いた女の尻のことなんて実際はどうでもいいんですが、Tバックを履くことによってヒップアップ効果が期待できるようですよ。
 と、先日本棚から出てきた美人書籍に書いてあったような気がしますので、自分が垂れてる自覚があるならここはひとつ通販などして履いてみてもええんでないかい。
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 結論:日常性に薄められた牛乳のように、ぬるい酒のように、注がないでください(@新川和江)って話ですわ。たぶん。
 そして、慎ましくあれとまでは言わんが、慎ましくある人には好感を抱ける(ただし自分自身は慎ましくない)、自覚なく慎ましいものは良い、自覚して慎ましいものはなお良い、自覚せず慎ましくないものは最悪だ、という……つまり知の無知とかそういう話でしょうかね!! すげーなー昔の人は……少しも下ネタまじえずに言いたいことを言えるんだもの。なんと上品なことか。
 仮に友だちがこれを読んだとして、そうしたらその子は私に金輪際おもしろい本を教えてくれなくなるのではないか? というのが目下いちばん恐いことだな……本を教えてもらってもその人を変態だなんて思わないし、本を教えてもらえなくてもその人が変態じゃないなんて思わないので、いずれにせよ気にしないでティーチミーしておくれよ頼むよ。
 でも自分おすすめのエロゲーやAVは面と向かって教えたり貸したり感想を語り合ったりなんてしないだろうに、何でか本(特に純文学)になると教えあうのがセーフみたいになる、あまつさえ学校側で読むのを奨励したりするのはよく分からんなーやっぱり。しかし名作だからといってドグラマグラを教科書にしないあたり、何らかの線はあるのだろうなー。附属高では割と伝統的に『野火』(人肉食)と『仮面の告白』(そうとうな肉欲を伴う同性愛)を扱ってるわけですが、線って具体的に言うとどこ? 新国語便覧に載らなくなるあたり? しかし瘋癲老人日記はさすがに無理?
 世の何もかもが気になるけど解き明かしたくないわたくしジレンマフェチ