哲学の本の紹介

こんばんは。
月曜日に3000字のレポートの〆切がせまっております、せきねです。
最近読んで面白かった本をご紹介します。

飲茶『史上最強の哲学入門』河出書房新社(2015年)

冗談みたいな熱量を感じる表紙が目印です。
弟がテスト前で、倫理の勉強をしているのに触発されました。
高校の授業ですと、編年体的といいますか、時代順に哲学者おのおのの思想をどびゃーっとローラー的に習うものかと思います。
この本は主題ごとに思想が分類され、そのうえで時代順に解説がなされています。取上げられている主題は、「真理」「国家」「神」「存在」について。
そのため、主題についての思想がどのような変遷をとげていて、その主題が現代でどのように問題となってくるのか、ということがよく分かります。
例を挙げると、「神」で解説されている哲学者は、
①エピクロス(紀元前341~紀元前270頃)「神さまとかあまり意識しなくていいよ」
②イエス・キリスト(紀元前4年~紀元後30年頃)「われは神の子」
③アウグスティヌス(354年~430年)「神がいなきゃダメみたい」
④トマス・アクィナス(1225年~1274年)「神学と哲学があるじゃろ? これを…こうじゃ!」
⑤ニーチェ(1844年~1900年)「神は死んだ」
といった具合です。
作者の飲茶氏はもともとはブログ畑で活躍なさっていた方だそうで、文章も軽快でとっつきやすく、「哲学って…」と敬遠しがちだった淑女もぐいぐいと引き込まれること請け合いです。

そして読了して思ったことですが、文学と哲学は、かなり密接に重なり合っています。
日本の文学研究の分野では、1980年代ごろから「テクスト論」という考え方が主流となりました。
これは「読者がテクストを自由に(「作者は何を書きたかったのか」という問いに縛られることなく)解釈する」考え方であり、「作家論的読解(作品の読解に“作者”を見出そうとする読み方)」からの脱却を目的に、ロラン・バルト氏によって唱えられました(『物語の構造分析』(1966年))。
これとちょうど同時期に、ジャック・デリダという哲学者が『エクリチュールと差異』(1967年)という著書をあらわします。
このタイトルでなにかしらピンとくる方はおそらく近代文学専攻の方でしょうなァ。
「エクリチュール」は「書く行為」のことをさします。その「差異」というのは、「作者の意図と読者の解釈の不一致」をさしている、と思われます。
以下、『史上最強の哲学入門』の本文を引用します。

〈略〉彼らは、故人であるカントの書いた文章について、カントの意図(話し手の意図)という「もはや絶対に手に入らない真理」をめぐって論争しているのである。

〈略〉
決して手に入ることのない幻のような真理をめぐって互いに傷つけ合う不毛な言い争い。
デリダは、今まで西洋がずっとやってきた真理探究とは基本的にそういうものであると主張した。
そこで、彼は、「話し手の意図」よりも「読み手の解釈」の方を大事にしましょう、という「価値観の逆転」を提案する。

「わからないものは、しょうがないじゃない。だから、もう作者(話し手、書き手)の意図なんて、それほど気にしなくてもいいじゃない。読み手それぞれが、文章を読んで好きに解釈したらいいじゃない。そして、そのそれぞれの解釈が真理(正解)ってことでいいじゃない」

こんなふうにデリダは、「書いた人の意図なんか無視して、文章(言葉)を自分の解釈に従って読み直してしまってもいいんだよ」という大胆な読み手(聞き手)中心主義を主張したのである。
(p106)

 

わっかりやすい。

この本自体が、哲学のテクスト論集であるといっても過言ではないのではないでしょうか。

原典に飛んでいくためのロイター板といいますか、理解のための下地として、このうえない入門書であるように思いました。

とくに「真理」の「デリダ」「レヴィナス」の項、「存在」の項は、近代の作品の読解のフックになりそうな内容がソコカシコでしたので、おすすめです。

クーラーの効いた部屋でけらけら笑いながら読むには最適。

浅い夜のお供にぜひ。