文明とたわむる

 五月病になりました! こういうときは何をやろうといっさいうまく行きません! 仮にうまく行かせ得るとしてもその自覚・実感ともにいっさい持てません! よって寝るに限ります! しかし湿気がひどくて眠れない……というか寝る気さえ起きない
 続きでゲームの話! おたくっぽいです
 あまり数をこなしているわけではないので知ったかぶりにならざるを得ず恐縮です。話半分にお願いします。
 


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 紙とインクから無限を生み出すぶん小説のほうがコストはかからないし、燃費の良さにかけては小説こそが全媒体中でも粋と呼ばれるべきだと思うのですが、近代文明の叡智そして科学技術の進歩をこれでもかとばかりに鏤めて作られるテレビゲームも、小説とはまた別の粋を極めたものではなかろうか。
 たとえば今スマートフォンやら何やらで当然のごとく普及しているタッチスクリーンは、駅の切符販売機などではずいぶん昔から見られるシステムでありましたが、あれを懐に入れて持ち歩くという発想の奔りといえばやはりnintendoDSではないでしょうか(といっても、94年のSEGA手書き電子手帳『フェリエ』では既にタッチでお絵描きくらいならできていたような覚えもあるが……)
 やはり技術とは事故に繋がり得ないところ、できるだけ実用的ではないところでまずは試すものなのか? だとすればテレビゲームとはまさしく文明の試遊場であるといえましょうなー。先日ソニーのPSNで残念な事件が発生してしまいましたが、あれはWiiやPSがゲームの境界を広げていくのであればいずれは起きる事件だったと思います。そしてゲームを拡張していくというのは、彼らの掲げる主旨でもあったように思われます。ですので、もしもクレジットカード情報が流出していたら困るのは確かだが、ソニーを責める気はあまりないのだ……これまでこんなに楽しませてもらいながらどうして今さら責められようか? むしろハッカーを責めたい。みんなの遊び場プレイステーションに何してくれるん
 立体的なCGグラフィックを用いたゲームで、私が知っているなかでいちばん古いものはSFCの『スーパードンキーコング』(初代)なんですが、あれのジャケットイメージや攻略本に載っているイメージのあまりの精巧さにはいっそ驚きさえおぼえず、ハッチポッチステーションとか人形劇のようにはりぼてか何かで実物を作ったうえで撮影しているのだと、きわめてナチュラルに思い込んでいたものです。それほどまでにカルチャーショックでした。理解の外にある技術でした。
 そのドンキーコングと、スーパーマリオと、ゼルダ(ていうかリンク)に劣らぬ任天堂の旗手『ポケットモンスター』シリーズはたしか赤緑の発売から15年くらい経っているのですが、赤・緑とブラック・ホワイトを比較してみるとすごい変化があります。あと赤緑・金銀はそれぞれリメイクされているので、文明の進化が分かり易くてすごく面白いです。でもポケモンのグラフィックは(基本的に)あまりなめらかにはならず、ドット絵という土俵を違えることなく来てくれるところがまた面白いと思います。
 スーパーマリオはWiiでリメイクされたっぽいですが、なぜかカックカクしてるマリオのほうがイケメーンでイタリアーンな土木作業員に見える。『スペランカー』→『みんなでスペランカー』というリメイクに対しても同じことが言える。想像の余地があるほうがいいということでしょうかね。
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 何といってもゲームの魅力は、その世界のなかで走り回れることだと思います。瞼の裏の想像力ではなく、ほんとうに視聴覚へと与えられる刺激として、自分の意思で画面上の景色(=視界)を変えたり足音を鳴らしたりすることができるって、これはなかなかすごいことではないでしょうか! コントローラの振動なんてきょうび当然(『スクリューブレイカー轟振どりるれろ』なんてGBAですら揺れるらしい)(やったことはない)
 特に、清・ヨーロッパ・日本・アメリカ・中南米といった現実の国々を舞台とする『シャドウハーツ』シリーズあたりは観光旅行のようでたいへん良いです。『FF12』は人間以外にもトカゲ人や兎人が往来を行き来する暑い国の市やら、雨季と乾季を移り変わってはまったく異なる姿を見せる平原やら、死体まみれの岩窟寺院やら存分に堪能しました。『九龍風水傳』は、現実ではもう失われた九龍城砦の汚らしい路地を思うさま彷徨えます。因習にとらわれた山間の村を舞台とした『SIREN』はその凄まじい難易度のためにまったく遊べませんでしたが、続編の『SIREN2』ではかなり難易度が収まったので、さんざん離島の夜を走り回りました。暗い磯に打ち上げられたぐじゅぐじゅした何者かが漂わせる腐臭まで嗅ぎ取ったような記憶があります。
 ようは思い出の疑似体験こそがゲームの魅力であるといえようか。自分が動かすということは、AボタンやBボタンは自分の右手左手も同然なわけです。したがって、ホラーであればより恐く、恋愛ものであればよりときめかしく思えるでしょう。そのような特性を生かして、『かまいたちの夜』のようにテクストで魅せるホラーゲームやミステリーゲームができ、『ときめきメモリアル』のようにほぼ静的な立ち絵と台詞で展開されるたぐいの恋愛ゲームができ、『スペランカー』のように機敏な反応が要求されるアクションゲームができ、盤やカードを散らかすことなくプレイできるのが魅力の『人生ゲームDX』や『THE 花札』といったものもでき、やがて『RPGツクール』や『吉里吉里』で個人でのオリジナルゲーム開発が可能になり……ほんとうに感慨深いことである。
 近代文学の誕生やプロレタリア文学の弾圧には立ち会えなかった我が身ではありますが、FFやDQがリアルタイムで作られていく時代を生きられていることはほんとうに、後世の人々に自慢できるほど幸せだと感じます。
 あとゲームならではの利点は、マルチエンディングを無理なくできることだと思います!
 小説でマルチエンディングを用意されてもそれは無意味です。明智小五郎が人見広介を説得していっしょにパノラマ島を去り警察に出頭するとか、春琴の顔に降りかかる熱湯をぎりぎりで身代わりになって受け止めたりとか、それはいかん。それはつまらん。あれはあの美人のツラの皮と鼻っ柱と大増上慢を崩壊させてこそ訪れる感動であって、だからこそ『春琴抄』というタイトルロールなのであって、佐助の性癖なんて春琴の人生にしてみれば(※『春琴にしてみれば』ではない)脇事象もいいところなんすよ。じっさい佐助に訊いてもたぶんそう言うと思いますよ。そもそも佐助が眼を刺したのも春琴のためじゃなく自分のなかの春琴のためであった、つまりは自分のためであったわけで、そういう佐助のエゴマゾ入り混じった人格を現すにあたっては、やはり春琴の顔に熱湯ぶっかけて佐助が目玉を刺すという展開のほかをして相応しいシナリオなどあろうはずもない! そうだろ谷崎さん! 逆に言えばそう思わせない小説はあんまりよくないと思います。
 これがゲームの場合ですと、エンディングを迎えるために努力をするのは主人公よりもプレイヤーですから、「わたしのあのレベル上げの日々はいったい何だったのか?」などと自問させる展開にするよりは、努力に対して相応の実りを与えるほうが当然プレイヤーは満足を得られ、そのゲームを褒めるようになるでしょう。『ヘビーレイン 心の軋むとき』(PS3)では、主人公が連続誘拐殺人犯にさらわれた息子を助けるため犯人の理不尽な要求に従うというストーリーのなかに、(犯人の命令で)自分の指一本を第一関節から切断する(ねたばれ)というステージがあります。これはとても良かったです。もちろん「はい」「いいえ」ではありません。主人公=プレイヤーは犯人が用意した部屋のなかを探して、切るための道具、止血のための道具、切る際に気を散らすための道具などを見つけることができます。が、このさい凶器ひとつ見つかった時点でええいままよズバーンとやっちゃってもいいし、指など切らないまま部屋を立ち去っても良いのです(ねたばれ)。いずれにしてもゲームは進行し、異なる結末を迎えたり迎えなかったり。
 (「思い出の疑似体験」などと言った舌の根も乾かぬうちからさっぱり逆のことを言い出すことになってしまい恐縮ですが、)人間を思うまま動かすというのは神さま気分になれる行為でもあります。ことヘビーレインにおいては、「私の選択で彼の悲惨な人生を良い方向に変えてあげられる!」という親切な心持ち、もしくは「私の選択で彼の人生を眼もあてられない凄惨なものにしてやれる!」というサディスティックな心持ちが満たされてたいへん楽しいです。
 しかし「ゲームのくせになんでエンディングがこんな絶望的なひとつしかないの!? バグじゃないの!?」と地団太を踏むのもマゾヒスティックな楽しさでなかなかオツです……ファイナルファンタジータクティクスのことです……
 あと『ベヨネッタ』とかみたいにスコアを競って楽しむようなゲームも良い。
 『トモダチコレクション』のようにゆるーーーいゲームもまた楽しい。
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 そのように今日も今日とてゲームをするのだよ
 早く6月にならんかなー