世界のすべての命は私

 こんにちは。***より下でする話とはまったくいっさい関係ありませんが、朝顔が非常に好きです。植物というよりは昔の友達として好きです。幼いころは毎年のように植えたり絞ったり染めたり、さんざん遊んでもらったものです。秋になれば枯れて死んでしまうのですが、いつも夏になると生まれ、一夏のあいだにどんどん育ってくれるので、結局はいつも同い年のような認識でした。
 実際のところ一番好きな花は桜で次に菊、その次には杜若やホタルブクロやねこじゃらしやラフレシアやらが群をなしてやって来るので、花としてはそこまで好きというわけではないのですが、こういう親しみは朝顔に対してのみあるものです。確かにまた遊ぼうと思っていたはずなのだが、いったいいつから遊ばないようになったか分からない、そんな部分までまことに生々しく友達めいた存在です。
 思い出があまりに美しくなってしまったのでもう二度と育てませんが、毎年夏が来れば思い出す。遥かな尾瀬。遠い空。水芭蕉ってなんであんな形状してんだ。
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 個人的に今アツい動詞→「おらびたてる」
 いいよね。おらびたてる。なんとなく山菜の名前っぽいところとか実にいい(多分わらびから来る連想)。私の声帯が角野信郎か水木一郎あたりのそれになるというのならぜひとも町内の祭とかに走っていってマイクを奪い意気揚々とおらびたてたいところです。「おらぶ」だけにはとどまらず、わざわざ活用形を変えて「たてる」まで付けちまうところがまたたまらなく良いですね。センスを感じます。まことにアツいことであると思います。
 たしか『先帝身投』あたりで「戦はいかにやいかに」とか現状を把握していないこと丸分かりなことを言ったせいで知盛卿に呵呵大笑された女御たちが、二位殿がガッと裾持ち上げて安徳天皇のもとへ走る寸前あたりでおらびたてていた……ような……気が……? 初めてここに書かせていただいたブログでも『先帝身投』の話はちょっとだけ(下ネタとして)触れたおぼえがありますが、もうあれを書いてから数ヶ月、そしてあれを習ったのは一年前になるというのだからまことに光陰矢のごとしね……
 


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(※以下はこの世の人間がすべて私であると過程した上での話です)
 「おらびたてる」に限った話ではないんですが、こうした言葉は女子大生同士の日常的な会話の流れではまずもって口にされない。女子大生じゃなくても日常的に「おらびたてる」と言う人は少ないのではないでしょうか。といっても、なんでも元々「おらぶ」は方言であるらしいので、それを扱う地域でのことは分かりません。が、少なくとも東京においてそれを口にしたときは、十中八九の確率で「え?」と問われることまちがいなしよ。そしてそこで発言者が「え?」と更にそれをラリーのごとくパコーンと問い返す確率がまた十中十とくるんだぜ。いやここはちょっと弱気に十中九でいかせてもらおうか。そのあたりの心理は素直に口にされるものではないから自分以外にサンプルがないし、世のなかには想像もつかんことをかます人間がしばしばいるものだ。むしろ想像がつく程度の人間のほうがよっぽど世のなかには少ないといえよう。何しろ想像し得るものしか人間は認識できないので、経験すなわち想像の糧となるものが体内に乏しいのであれば当然その人間が想像・認識できるものの幅も狭い(だからこそ学業は容易なほうから始まって徐々にレベルアップしていくのだ)……ので『十中八九』とかそんなえらぶったことを言う権利が私にあろうかってねーーーよ…… そんなもんは誰にもねーーーーーよ…… とかそういう青々として若々しい思春期イズムまるだしの揚げ足とりはどうでもいーーーーーよ……
 そしてその「え?」「え?」というラリーが終了したあたりで
「ああ、もしかして『おらびたてる』の意味がわかんなかった? ごめんごめんつまり『おらび-たてる (日本の南西部に見られる方言で)大声を出すこと、叫びたてる、喚きたてること。またその様子』ってな意味だよ」
 これは! 心底! 胸を悪くするほど! うっとうしい。うっとうしくはあるが、この会話によって快感を得られることもとてもよく分かる。ただですら悪くなった胸が更に痛くなるほどに分かる。分かるのはあたりまえだ。何しろこうした会話をしきりにかましているのは私にほかならない。だからこそのこの途方もないうっとうしさなのだ。
 しかしうっとうしいからといって、ここで相手を引っぱたくという選択肢はありえません。たぶん、この状況に限らず、うっとうしさを理由にして人を引っぱたこうと思うような人間は世にあまりいないのではないでしょうか。これが引っぱたくことによって解消されるうっとうしさであるかは、自分で思いを巡らしてまでして考えずとも、勝手に分かることではありませんか。このシチュエーションにおいて対象を引っぱたくことによって得られるものの内訳を、シナプスだかニューロンだか忘れましたがそのへんの素敵な機構が、この状況に至った時点で既に結論を出しているのだ。理由がどうあれ人をブン殴ることによる罪悪感と悲しみ、叩いたこちらの手の痛み、友だちを失うことでできた人間関係の孔をいかにして修繕するか、修繕にかかる手間はいかばかりか、そして自分がいつこうやって人の逆鱗に触れて引っぱたかれる日が来るかといったような心配。誰が欲しがるものだろうか。
 あるいはここで引っぱたいてしまう暴徒がいるとしましょう(これも私です)。そのとき「これは引っぱたいても私の咎にはあたらない」という打算がいっさいないとどうして言えるでしょう。あります。また、その打算と同時に、相手の頬を引っぱたく自分の腕のしなりが劇的であることに、恍惚とした快感を得ていることもあるでしょう。であればそのうっとうしさはまったく同じ分量となり、「うっとうしい」という一点において、類は友を呼ぶということになる(同一人物をモデルにしているのだから当然ともいえるが)。
 行動は、発生しないのであれば、たとえ可能性があったところで、まったくないのと同じことです。たとえば私が今後、眼もあてられないほどのにんぴにんになる可能性はありますが、現時点でにんぴにんにはなっておりません、そしてこれからもにんぴにんにならないのなら、私は今にんぴにんではない・かつてにんぴにんになったことがない・これからにんぴにんになることがない→つまり私はまったくにんぴにんではない。にんぴにんになる・ならぬだと動詞感に欠けるので、私はモロッコで性転換手術を受けるかという話でもよろしい。
 つまり可能性は存在しないものと同じだ。今後こいつ絶対人を殺すだろと百人のうち百人が思ったとしても、実際にそいつが人を殺すまでは逮捕できないのだ。即ち、ここで仮に誰か恍惚の暴徒がクソうっとうしい衒学魔の横っ面をしばいたとすると、それは本来であれば存在せずに済んだはずのひとりのうっとうしい人間の芽が、衒学という肥料のせいで、この世に発することになるわけです。ないまま済んでもおかしくなかったものを衒学魔が呼び出したのです。それは人間の環によって成る環境の汚染に繋がります。
 だからこそ、平易な言葉を選びながら自分の言わんとすることを伝える技能、そして自分の智慧をドヤ顔で振り翳すという誘惑に耐える謙虚で堅固な精神のたたずまいは必要だ。難しい言葉を覚えていれば良いというものではない。難易によらず知らない状態よりは遥かにましであるとはいっても。……つうか難しい言葉をほんとうに使いこなせるということは、その意味を分かっているということであらねばならないので、ええ~あたしこーゆう言葉しか知らないし分かんないから平易に言い換えろとか言われてもリンダ困っちゃ~うなどという現象は、根本的にありえないんすね。言い換えさせる相手を軽蔑することはあるとしても困るってことはあるまいよ。それは小枝が現在のおのれの身長を10mと自称するようなものです。仮にほんとうにその小枝が言うとおり、本来10mの高みから世を見下ろすべきであった小枝だとしても、現実を見れば、今それはせいぜい10cmあるかねえかってところなのである。身長に説得力を持たせたければまずは挿し木させてくれる親株を捜してくるのが先決である。
 ……しかし小枝が先にあると枝のほうから身体を生やすこともできるから、根と枝の両方から生やしてヘソのあたりで完成すると、根だけから伸ばしていくよりもちょっと都合が良いかも。つまり難語の意味を理解するのと、易語(←造語)の言い換えを学ぶのを並行してできるんだから、かっこつけ難語スタディも無駄なことばかりではないのかもしれません。多少よそさまの神経を逆撫でするだけのことです。
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 閑話休題
 こんだけ書いといて今さらですが私の周囲にはたいへん親切で慎ましい方たちが多かったため、あまり他人からうっとうしい衒学をされた試しはありません(だからこそすべての例を己にせざるをえないのだ) 強いて言えば父には結構よくされますが、父娘が似ていてもべつだんおかしからぬことですし、身内のすることでは憎くもなりませんし、何しろ幼いころからのことでしたし、もはや彼のそれには慣れました。慣れより強いものはない。
 ただ、例えばクイズ番組を見ているときに、出題されては「は~いわかった(のあとにそいつが解答を言おうと言うまいと同じほどはらわた煮える)」と言ったり、芸能人が間違えては「え? こんなのわかんないの?」に準ずる発言をかましくさる人は割といるらしいので、強いて言えばそれが一般日常に潜む衒学魔ということになるでしょう。今こうして想像するだけでも居間を飛び出したくなる、自室へ駆け込みたくなる、壁でデコをカチ割りたくなるね。うっとうしさにかまけて他人を拳なり言葉なりで殴打したときの弊害(先述)に比べれば、自らの頭蓋骨&前頭葉への衝撃、それによる脳細胞の死滅など安いもの。二束三文。
 ですので、もしもこのブログを読んでいるなかに会話withクイズ番組をやっているやつがいたら早急にその姿勢を改めろ!! ……と言いたくないこともないんですが、その人は私とたぶん死ぬまで関係することはないし私の前でクイズ番組を見ることもないだろうから、私がその人のためにデコを痛めつけることもなければ何事かを語りかける権利もまたない、よって止めることはしないしできない、気にせず存分にクイズ番組とプロデューサーが想定したとおりの予定調和で発展性のない無意味な会話を気の赴くままし続けていればいい……けれどその行為のためにその人を嫌いになるやつはいても好きになるやつはひとりもいないということを彼ら・彼女らは自覚しているのだろうか? 仮に好きになるやつがいたとしたらそれはなかなかの変態だと思うけど、個人の嗜好に口を出すつもりはあんまりないのでこれについても別に構わん。しかし口を出す出さぬは別として、『【その人の好きなやつは】クイズ番組と会話している』ならばまだしも『その人は【クイズ番組と会話するやつを】好きになる』ことが一般的な性癖ではないことは明らかだ。クイズ番組を相手どって口を開いた、ただそれだけの行為のせいで、クソほどうっとうしい自分を愛してくれる奇特な人に一般的な性癖ではないものを抱えさせることや、自分が一般的な性癖ではないものを抱えた人から愛されるような存在であることに対し、このテレビ会話者は果たしてどのように向き合っていくのだろうかと思う。
 しかし、いざじっさい音を立ててものを咀嚼する人と同席したり電車のなかで悪臭と遭遇したりすると、すごすごと席を移ることにも、じっと苦を耐えることにもそれほど嫌気はないですよね。耐え抜いた自分がちょっと好きになるしね。嫌気が差すころには既に胃壁がやられています。いつかこれを理由にして死ぬ日がくるんじゃないか……
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 私は世間一般の同年代と比較した国語能力に自信がなかった時代などこれまでの人生において(今のところは)一瞬たりともありませんでしたから、「国語に自信がない」と口にできる程度に自信がない人の心理が果たしてどうであるかは伺い知ることができません。国語以外でいえば本来モンテスキューだかロベスピエールだかメンデルだかラボアジェだかと解答すべきところをさっぱり分からずオスカルフランソワドジャルジェと書いてみたりしたことはありますが、国語に関して言えば、いちおう日常会話に支障がまったくない程度に日本語をマスターしているつもりでおります。
 ので、会話のなかで分からん言葉があったとしたら、それは私の無知というよりも相手の言葉選びに非がある。
 そして大抵の場合、相手が私とそういった会話をする程度の人間であり、なおかつ私か私の扶養者から金銭を受け取っていない場合、つまり医者や教師ではない場合、頭をひけらかしてくる人間が「それはどういう意味?」を待っている確率は、およそ九割九分九厘を占める。まことにうっとうしいことである(※一から十まで仮想敵との会話です。実在の人物・事件にはいっさい関係ありません)。自分の頭をひけらかすことは、教授なり医者なりの職業にでもしない限り、あまり誉められたものではありません。
 つまり(個人ではなく種としての)ヒトの頭というのはとんでもない価値のある有機物で、金銀財宝や覚醒剤どころの騒ぎではない、グラムいくらで切り売りできない、ものすごいものです。その宇宙的な価値に、なんとか財布なり銀行口座なりから出しうる程度の金銭価値のラベルを投げつけるようにして与えることで、適切な冒涜をして高貴さを薄め、手の届く範囲へ引き摺り下ろす、この過程を経ることでようよう人知と人知でないもののあいだにギリギリの均衡が生じる。凄まじい叡智の光輝の前に人が支払った金の価値などしょせんは反射光に過ぎない。しかし反射光という、まったくの一部から、その真価を伺ってありがたがり、押し拝むようになるのです。
 が、それを金もとらずに、望まぬ人に振り撒いたのでは均衡崩壊です。価値も何もあったものではない。望んでもいない輝きをもらったところでそれはうっとうしくギンギラギンに眼を刺すばかりである。ギンギラギンはさりげないもんだろうが! そして何よりうっとうしいのが何かって、その輝きにテカテカと照らされながら現れる脂ぎったドヤ顔よ! それは人類の智慧の価値を地の上に引き摺り落とすどころかマイナスにまで貶める。「あいつが己の快感のための副産物的に私へ教えてきた言葉などおぞましい! 汚らしい! 誰が使うか! 私はそれを日本語と認めない! 言語の一部と認めない!」と誰か(これも私だが)が思わないと断言できるだろうか? もちろんそれは可能性であって、先述したとおり可能性は不在と同じことである。
 だが、自分の愚行が、人類の叡智の結晶のひとつである言葉を、ひとりの人間から、割と下らないけど当人的には重要な(つまり公共性・文明貢献などとは縁の遠いパーソナルな)要素つまり嫌悪感というものをもって奪い去るかもしれないという心配が齎してくる重みをはっきりと知覚したとき、それに耐えられる人間が果たしてどれほどいるだろうか。いねーよそんなパワフルかつ恥知らずな日本人は。いたら地球の半分が今ごろは日本領だ。もう半分はりゅうおうの土地だ。
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 頭蓋骨の圧力鍋に脳がじっくり煮えてきた。
 相手が「おらびたてる」などと言ったときでも、そこを敢えて無視していっさい訊かないでおく(訊かれないでいる)のはけっこうな快感ですね。いくら貧相な衒学趣味のアホでも、会話の流れにそぐわぬほど素っ頓狂なことを言い出すということはない。そんなことをする相手だとしたら喋る価値はない(し、向こうからもそのように思われているからこそ、そうした嫌がらせじみた運びをされているのかもしれない)。話の主題が分かっていて、その単語だけが分からないという場合であれば、憶測で会話を続けることはさほど難くありません。断じて突っ込みを入れることなく、あたかも何事もなかったかのように手を振って別れ、お互い別々の人生の岐路へと向かっていく。これもなかなかオツな楽しみであると思います。あの日、お互いに気がつきながらもお互いに触れようとしなかった言葉があった、というのが死ぬ前などに思い出されたらそれはなかなか趣の深い走馬灯です。
 その日あきらかに紐解かれなかった言葉というものが、ひとたび触れればプツンと弾けて黄白い膿を撒き散らす腫れ物のようであり、同時に、何か清らかに繊細で儚げに美しく小さな幼いものだったようでもあるではないか。笑顔と歓談の裏でこっそりと脳中の帳面に書き付けておいて、帰ってからこっそり辞書で引いてみた語義ではない、もっと抽象的で曖昧な意味合いが、その言葉に宿ることになります。
 マジでいただけないのは、そこで衒学魔が手前で仕掛けた火薬の不発を不審に思って、(会話の流れに何らおかしなところがないにもかかわらず)「意味わかってる?」などと確認しちゃったときですね。確認したくなる気持ちはよく分かる、何しろもちろんこれも私自身のことだからだ。しかし、ほんとうにこれは、情けないにもほどがある。考えるだにあまりのみっともなさに涙が出てくる。穴を掘ってでも入りたい。自省してこの情けなさなのだから傍目にしたときの情けなさはなおさらだろう。「おどれにプライドはないんか」と、ほんとうに殴られるべきであるような気さえしてくる。
 何しろ衒学魔がこうした衒学行動に出るのは「こんな言葉をスイスイ使いこなす私の舌はかっこよかろうホレどうじゃ」という未熟な快感があってこそなのであって、ここで「相手が分からないであろうことを知りながら使った」ことを自らあらわにしてしまうと、
 『知識が豊富な人』
  (理想の領域)
  (あるいは理想ということにしている領域)
  ↓
 『気遣いはできないが知識だけは豊富な人』
  (親切な人であればこうとってくれる領域)
  ↓
 『己を飾り立てたい見栄っ張り』
  (一般的にはこうとられて然るべき領域)
  ↓
 『単に性格の悪い人
 と、とんとん拍子でピタゴラスイッチのオープニングに出てくるビー玉ように落下するんですよね。
 別にもともと性格が悪くないやつだとは思っていなかったが、知識が豊富なのは決して悪いことではないし、見栄っ張りは外聞や人目を気にすることができるという点でそれなりに素敵だと思います。だが性格の悪いことにおいて利点は何らない。しかも性格の悪さによって何らかの利益がその人に降るのであればまだしも、それすら皆無。これはよくない。おおいやだ。恥を知れ。ここまでくるとさすがに当初のテーマであった『おらびたてる』とはもう関係なくなってきています。
 たとえば、風景に潜んでいる何らかの場違いな事物を指差し、梶井基次郎の『檸檬』の物語になぞらえて「あれめっちゃ梶井」などと言った場合などに、相手から「それはどういう意味?」あるいは「ああ、『檸檬』ね」などの突っ込みが入らない場合、不安になるあまりうっかり自ら自分の爆薬を点火するというクソ所業に至るわけです。アレッ火薬しけってたかな、試しに火でも点けてみるべ、ということです。自爆です。
 しかもおぞましいことに、ここで「ああ、『檸檬』ね」と言われたら言われたで何かむずむずするものがあるんですよ。そこから考えても私の衒学はやはり”相手の分からぬことを知っている自分”をひけらかすことを目的とした行為です。言い換えれば相手に恥をかかせることで快感を得ているのです。やはりその性格は悪いといわざるをえません。相手に恥をかかせんとするその魂胆、あまつさえその悪道を<無意識に>かまそうとしているその性根、魂の歪みっぷり。まさにこれこそが恥じるべきものですね。心胆を寒からしめるものですね。親が泣くわよ……
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 魂胆を歪めたり己を恥じたりするんならするで、究極まで突き詰めれば文学的な価値も現れてきそうなもんだが、今のこれでは若者の叫び(しかも多分十五歳くらいの)にすぎないだろう。なんで私はこんなものをパブリックな場に書いておるのよ。
 そのうえ何やら内包する青さを立証するがごとく、昨晩から我が唇のうえにニキビができよって非常に憂鬱である。私の顔などというピンポイントな位置ではなく脇腹とか腿の内側とか宇宙の果てとかにできればいいのにニキビのばかやろ~我が毛穴からあとかたもなく滅べ