ささやかな話なのですが
こんにちは は KON NICHI [WA] と発音しますね。で、
こんにちはー は KON NICHI [WA] だなと思うんだけど、
こんにちはーん になると KON NICHI [HA] に見える。
コンニチハーンとかカタカナになったらもう完全にHA以外の何物でもない。これはなぜだ? チンギス・ハーンとかラフカディオ・ハーンによる「ハーンの発音はHA-Nである」という認識慣れが原因なのでしょうか?
「こんにちわーん」は当然WAとしか読めませんけど、これはたとえ「ん」がついてなかろうと伸ばし棒がついてなかろうと表記的にむかっ腹が立つわ……
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そういうおよそ重要とは思い難いことを考えているあいだに「大学二年生の夏」という輝かしい字面を持った一時代が過ぎ去って、私は二十歳になりました。あら? 何? どうして私は二十歳になっているの? 誰かが私に魔法をかけたの? 誰かが私の年月をつづら折りにして玉手箱へしまっておいたのがさっきたまたま開いちゃったの? 甚だ疑問です! いいえ! 分かってます! にわかには信じがたいことであるが、人間は生後二十年が経過すれば二十歳になってしまうのだと。酒・煙草・ソープランド(?)・博打・クレカ・クラブへの出入り・そのほかもろもろが可能になってしまうのだと。イニシエーションは自ら求めなければ手に入らないのであると……
かなり前にしょうこちゃんが「十代最後の日に何をするか」と書いていましたが、私はとりあえずカラオケで酒など引っかけつつ『青春時代』(森田公一とトップギャラン)を熱唱しました。二十歳を迎えた女の行動としてはあまりに凡庸な行動であるといわざるを得ません。いったい何をすればいいのか特に思いつかないがとりあえずカラオケにでも行っておくかプラス二十歳になったからには酒でも呑んでおくか、という、不真面目でなげやりだが戸惑い気味に真面目な姿勢が見え隠れしている。真面目に不真面目とかかいけつゾロリじゃねえんだからほんとやってられんわ…… そのうえこの曲はただの青春時代ではなく卒業半年前という、青春時代の終焉の哀切を謳いあげた名曲なので、つまり私にはまだあと一年半ばかりの余裕があるのでしたー! いろいろ惜しいことである。
この『青春時代』のサビに『青春時代の真ん中は胸に棘さすことばかり』という歌詞があるんですが、ねーよ。胸に刺す棘ねーよ。誰かよこせ棘をここに。棘の痕ひとつないこの! 胸部の! 清さ! これこそが他のいかなる棘よりも痛く鋭く心を刺す! 蝶のように舞い蜂のように刺す! でもこんな棘はトップギャランの歌う棘ではない…… 「砂汚れひとつない純白のユニフォームなんてかっこ悪いじゃねえか余計なこと(⇒洗濯・漂白)すんなよ母ちゃん!」などとわめく野球少年の気持ちが今とてもよく分かります。
しかしだからといって手で砂を握りとってゴシゴシ押し付けたところでそれは本当のかっこいいユニフォームではないのです。本当にかっこいいユニフォームを得るためには、光を跳ね返すほどの純白という恥辱に耐えつつグラウンドに立ち、再びアグレッシブなプレーを決めなければならないのだ。そうして彼は本当にかっこいいユニフォームを再び手にすることができる…… ていうかこの少年は少なくとも一度はそういうプレーを決めた経験があるんだから私の例として曳いてきちゃいかんくらいかっこいいのだが などといっても私の生活のなかにそういう少年らと接する機会とかは一切ないので、これはイデア界の少年の話をしているだけです。たぶん実際いっしょに住んだりしたら相当な本数の棘が胸に刺さると思います。よくもわるくもな……
ともあれ真実の戦いによって得た傷は美しいって話だ
蛇足:何年か前の中洲には女性用ソープランドが存在していましたが、
ホスト側の体力の都合上どうしても運営が続けられなかったとかで閉店しました。
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カラオケの話を引きずりますが、懐メロ関係で行けば『私がオバさんになっても』を歌う/歌ってもらえばよかったかもしれない(「女ざかりは19だとあなたが言ったのよ」って歌詞があった)。でも二十歳の誕生日に歌うものとしてはいささか微妙な気持ちになるか。女ざかり19っていささか早すぎはしませんか! 肉体以外の部位に目をやることを忘れ果ててはいませんか! まあサイパンに連れて行ったりミニスカートはかせたりしたいんだったら確かに19がいいかもしれんけどよ。これは個人差が激しい話題なのだよ。森高千里が彼女だったらそりゃオバさんになっても若い子に負けることなくミニスカはきますよ。それに早い子は16からさかっているし、長い方なら65までさかっていると思いますよ。さかっているって言い方はちょっと物議を醸すかもしれないけど、実際のところ女が女であるということへの頓着を忘れていながら女ざかりと呼ばれる状態を身の上に招けるかと言えば恐らく否でしょうからよしと…… して…… ほしい!
女盛りというよりはある意味盛り損ないかもしれませんが、女の時期的な盛りがどうこうという部分に論点があるとすれば、源典侍(と修理大夫)は欠かせますまい。あの部分だけあさきゆめみし何べん読み直したか分からんね……原典を繰り返し読むわけじゃないところが学科的に考えるといささか申し訳ないが大和和紀の描く老女の愛らしさには「あ~修理大夫がそりゃ愛しもするわね~」ってな説得力がふんだんに満ちておってな。私が光源氏だったら友達も女も世間体も地位も何もかも捨てて彼女と修理大夫の死に水をとって葬儀を為し四十九日を済ませてからおもむろにふたりのあとを追いたいくらい可愛いですもの……内侍がというよりはあの夫婦が