恥を知れ

 見て見てー!
 
 昨日の正門は両脇こんな感じでした! そのうえ風のある日だったため、みごと美しくゆっくりと壮大にはためき素晴らしい感じでした。北風小僧の寒太郎はうまいことやってくれましたね。このさまを見るだけで天皇誕生日に授業かましくさりよる日本女子大学への憎しみも吹っ飛ぶってもんでした。これで晴天であればまさしく国旗日和として言うことなかったのですが、そこまで望んではバチが当たるというものでしょう。
 それにしても神道の御方でおわします天皇陛下の誕生日の直後にキリスト教の御方でおわしますイエスの誕生日とはまた何という運命のいたずらよ。などと思うと何となく喜ばしい感じなんですが、冷静になってみると24日ってイブですから実際べつに続いているわけではありませんでした! やーんオーマイゴッド!
 これで灌仏会(ブッダの誕生日)が12月24日だったらけっこう完璧だった気がします、が、それは旧暦4月8日だそうです! 今年の12月24日はむしろ皮肉なことに仏滅です! やーん南無三! ただし仏滅の語源は「物滅」ですので、単に縁起が悪い日という意味であり、別にブッダの命日という意味ではないそうです。なお仏の命日という意味での仏滅は2月15日です。かすりもしねーよ!
 ちなみに天皇誕生日は東條英機ら七名のA級戦犯が巣鴨プリズンで処刑された日でもあります。いつでもどこかで誰かが産まれ、そして亡くなっておられますね。一日経った今日はヴァスコダガマの命日です。
 ところで以前、私の先祖が隠れキリシタンだったということをこのブログに書かせていただいたと思いますが、クリスマスを期にあの人たちの末路について親戚に聞いてみたところ、なんだか踏み絵もしなけりゃ殉教もせずに福岡へ逃げおおせて農家を始めていたらしい。おかげでこんにち我が身があるとは思うけど、やっぱりちょっとつまらんですな。世のなかそうそう劇的には運ばないということでしょう。
 


***
 暦の話とはまったく関係ありませんが、福永武彦の本を読み過ぎると彼氏できなくなる気がします。
 草の花しか読んでないけどだってオメー汐見さんの愛を見たあとでいったい誰を愛せようか。汐見さんの愛を見たあとでいったい誰の愛を受けられようか。そもそも「自分/相手/この世のあらゆる人がいま抱いているものは、汐見さんがカベルネや浸潤だらけの故障した胸郭に抱きながら散っていったあの愛と、まったく同じ『愛』という名を持て呼ばれうるものであるのだ」と、きみは恥ずかしげもなく主張することができるであろうか。いやできない。あんなにも尊い炎は燃やせない。己のこの生半可なありさまでは何かを愛することどころか生きることすら恥であると思えてくる。
 しかしその恥を恥じるゆえにそこから脱却しようと功を重ねて徳を積む、その活動こそが「良く生きる」ということの第一歩であることは間違いありません。過去に為した恥そして今なお自分に付きまとう恥を帳消しにはできずとも、その濃度を薄める、また薄めようと努力するという行為が、そもそも尊いものでしょう。なおこれは恥をよしとせず潔く切腹する日本古来のプランを否定したいものではないです(むしろ切腹という名誉維持自殺と人をそれに奔らせる強い羞恥と誇り高い心根は復権しても良いと思います)。そんなすごいレベルの恥の話をしているわけではなく、漫然と無為に生きることそれ自体が既に恥である、というセルフ加虐&被虐に則った話であります。べつだん快楽を伴うものでもないのでSMとは言わずにおきます。
 ともかく、ラジウムや塩分がそうであるように、恥は過剰に与えれば日本人を死なせもするが、程よく与えれば豊かに馥郁とした人生へのバネともなるのです。なお恥というものは基本的に自分のなかに始まって自分のなかに完結するものであるため、ひとつ前の文における「与える」というのはちょっと変かもしれません。分泌って感じ? つまりそれは完全に脳中倫理の話であり、余人の干渉の余地はないわけです。
 もし脳中に満足せず、余人に恥からの救済を求めるのであれば、そのための努力行為は人に汲み取ってもらわなければ無意味です。しかしそういう人はたとえ自殺したとしても、恥ゆえに自殺したというすっきりしたラインではなく、【余人が私の恥を見たために、自分は恥ゆえに死ぬ】=【余人に恥をかかされたために、自分は余人のために死ぬ】=【余人に自分は殺された!】という浅ましい被害者意識が拭えません。脳中倫理のなかで周囲の人に殺人鬼の誹りを与えたくないという想いやりがあるのであれば、その人は逆に自分の周囲の人のことを考えてはならない。
 人間は他人を巻き込んでいると考えることができるだけで、巻き込むことなどできないし、他人に巻き込まれていると考えることができるだけで、巻き込まれることなどできない。恥に他人を絡めて考えたら絶対に他人のせいにしようとする心根がムクムクとマムシのように鎌首をもたげはじめるのだ。まあそれはそれで楽だし相手に言わないんだったら別にいいとは思うけど、しかし人間として卑小な生に近づいていくことになるのだからそれは結局そもそもの問題の根源である恥というものを加算する行為にほかならないし、その加算を構わないと思う程度の羞恥心ならば、そもそも恥がどうのと思い悩むこともありはすまいよ。人に許してもらいたいほどの恥というのは日々を漫然と生きる以上の何か悲惨な行為をかました場合だろうし。
 結局すべての生き物は自分の内部に置いてあることしかきちんと認識することはできないのですから、そして(日々を漫然と生きるということの)恥といったらまさにその自律と自省と自己裁判の極致なのですから、最初に外界からもらった材料のほかはすべて自分のなかで始めて自分のなかで終えるのが理屈にかなったやり方だと思うのです。
***
 てか身もふたもないこと言っちゃえば別にこれただ日々を漫然と生きるというだけのことなんですからそもそも恥だと感じる義務ないんですよ。もしこれを恥だと感受したら精神的性質の向上が見込めるかもしれんというだけのことである。つまり恥とは単純に言えば観光用自動車のガソリンです。人間が観光旅行に行く必要というものはありませんが、それに行くことによって人生に彩が添えられる可能性がかなり高くあるのです。
 たとえばそのへんの小僧が10歳にもなって朝の布団にションベンの大河を産んだところで、小僧自身が恥ずかしいと思わないのならそれは恥じゃないんじゃない? まあ10歳としていかがなものかとは思うがな。そこで小僧(主観者)がションベン垂らした自らを恥じるのか、それとも、彼のことを「いかがなものか」と思う私という傍観者を嫌がる気持ちをたまたま自ら恥じる気持ちと錯覚するようにと施されてきた教育に従うのか。どっちにしろ彼は金輪際ションベン垂らしたくないと思うでしょうし、またそのように努力するようになるとは思いますが、どちらの道を通って得た膀胱のしまりのほうがより尊いといえるでしょうか? まあどっちでもいいとは思うがな。そこでどっちを尊いと思うかは我々の勝手であるし、どっちを選んで膀胱を締めるかはもちろん小僧の勝手ですよ。しかし我々が(完全に脳中満足にすぎない)生の尊さを重んずるならば、小僧のなかに行われた選択に彼の自律性を期待するほうがいいでしょうし、小僧が(やはり完全に脳中満足にすぎない)生の尊さを重んずるならば、彼自らが失禁の事実を恥と思って膀胱を締めるほうがよいでしょう。ということだ。
 以上もういくらかでも美しい比喩をすればよかったと思ってはおりますが、やはり罪なく汎用的な恥の象徴として代表的なのは小僧の失禁であると判断しました。だって罪なく汎用的で美しい恥ってどんなもんがあるのよ。恥じる姿は美しいことが往々にしてあるが、恥自体が美しかったらそれは恥として成立しづらく、あるいは罪ある汎用的でない美しい恥になるほかないのよ。白波洗う岬からポーイと身投げしたり喉を懐剣で突いたりするレベルでねーといかんのよ。そしてそこまでいってしまうとこの場合における例としてあまり相応ではないのよ。