OSAMU

 世田谷文学館の『地上最大の手塚治虫』展を見てきました!!!{:rn:} 折り畳み以下でさっそく水を差してしまいますがぼくのわるいくせなんだ……ゆるしてくれよなタク(@ノーマン){:rn:}{:rn:} ノーマンの取り扱いが少なかったの悲しい{:rn:} でもファウストと百物語とネオ・ファウストがあったの嬉しい{:rn:}{:rn:}***{:rn:}{:rn:} つうかこの記事まったく改行とか反映されてないじゃないの!{:rn:} なんじゃらほい


***{:rn:}{:rn:} 手塚治虫記念館や手塚治虫ワールドエンターテイメントスクエアといった常設系は例外とするにせよ、数年前の江戸東京博物館でやっていた手塚展に比べますとこのタイトルはちょいと盛り過ぎってものではなかろうか。ってお思いになるだろう! 少なくとも私はそう思った。ところがポスターにある英訳は{:rn:}{:rn:}”TEZUKA OSAMU - THE BIGGEST CREATOR ON EARTH(手塚治虫、地上最大のクリエイター)”{:rn:}{:rn:} とのことで、そりゃもうYES! そりゃもうI see! I knew it! I have known it since I was born! ともなりますよ。つまりこの『地上最大の』とは展のほうじゃなくて手塚治虫のほうにかかる言葉なわけです。まあそりゃそうだわ。よく見りゃ日本語版タイトルのカギカッコの位置もそうなっておる。でもそれでいったら地上最大じゃない手塚治虫がいるわけねーだろ! って反駁も覚えるよねえ。オンリーワンでナンバーワン、それが手塚治虫だ。{:rn:} とはいえこのタイトルすごくかっこいいし、私もこんなん思いついたら躍り上がって一も二もなくゴーサイン出すだろうし、耳目にしたときのインパクト的にもばっちりだし、ポスターとの調和も完璧だ。何よりこのネーミングは手塚ファンの心をくすぐってかきたててそそりまくる。ただこのタイトルなら中身は『鉄腕アトム』の『地上最大のロボット』を多めにすべきだったのではないかという感も否めないと思います。実際の展示は、私の体感としては『アドルフに告ぐ』の扱いが大きかった! 展示プログラムでも最初に登場する作品はアドルフですし、あまつさえアドルフ専用の年表パネルまで作られており、スタッフ側がアドルフ展示に込める気合をヒシヒシと感じました。{:rn:} しかしもちろん言うまでもなく『地上最大のロボット』もちゃんとあって、クライマックスシーンの生原稿には涙腺が緩むのを禁じ得ませんでした。ガロや少年クラブが単に陳列されているだけでも電光やベムやもちろんアトムといった懐かしい友の姿に声なき滂沱を泣くというのに生原稿なんてそんな無体なことってありませんよ。手塚さまの血と汗が比喩表現ではなくほんとにしみこんでるかもしれないブツが目の前にあることの神々しさたるや、背筋を伸ばして空を拝みもするというものですよ。このように畏れ多いことがあって良いのだろうか。{:rn:} アトムの心臓、サファイヤのリボン、ブラックジャックの体内にあったメスの模造品なども飾られておりテンションが上がること上がること。その三者についてはおそらく等身大であろう人形が用意されており、いっしょに写真を撮ることが可能でした。これでレオとロビオがいたら完璧だったと思います。{:rn:}{:rn:} 一度の訪問ですっきり見切れるくらいの絶妙な分量でとても面白かったです。私は手塚好きな割にあまり読んでいないというモグリ、もといライトユーザーなのですが、今回の展示はずいぶん軽めに、しかしすごく丁寧に仕上げてくれているなーという感がありました。見ていて楽しく、引き込まれるが打ちのめされるほどではなく、言うなれば良質なメレンゲのようでした。{:rn:} こうしたひとつの展示で手塚治虫のすべてを網羅するのははっきり言って不可能だと思います。かといって作品ごとだとさすがに細かすぎるし成立しないので、絵柄で大雑把に絵本系・少年系・成年系に分けて、成瀬記念館みたいに三回くらい回転させたらいいんじゃないかなーと思う。そういうのを初台の手塚治虫ワールドにやってほしかったんですがなくなっちゃったね……{:rn:}{:rn:}***{:rn:}{:rn:} 私の母が姉を産むための陣痛を起こしたとき父は片手でアトムを読みながら片手で膨れた母の腹をさすって母に怒られた。そりゃ怒るわ。あまつさえ分娩の待合中にもアトムを読んでいた。いっそ清々しいわ。{:rn:} しかし父親が歩き回れば母体の産後の肥立ちがよくなるわけはないし、生まれたあとは彼だってきちんと母を労わり姉を可愛がってるわけだし、そもそもあんなに面白いもんが近くにあったら闇雲にあたりをうろつき回るよりは大人しく座ってそれ読むほうがいいよな。むしろ不安なときだからこそ幼年期からの友達であるアトムに落ち着かせて欲しいとかそういうのあるよね。恋人や夫という存在から父という要素が加えられるという、人類というより生物としてのイニシエーションを前にした彼の不安も理解できないではありません。{:rn:}{:rn:} なお私が産まれるときは普通に仕事していた。憎い{:rn:}{:rn:}***{:rn:}{:rn:} 友達に手塚治虫を好きではない人がひとりならずいるのですが、彼女らに理由を聞いてみますとたいていは手塚の性格が悪いと言う。若くて面白い漫画家に本気で嫉妬していっさい口を利かなかったり、編集者に対してとんでもない我儘を垂れたりするところがよくないと言う。智恵子は東京に空がないという。ほんとの空が見たいという。え~そう? と、そういうのを聞くととりあえず一瞬くらいはあちらの説を考えてみようとするのですが、ビルの合間からそっと顔を覗かしてくれる雲や太陽もまたほんとの空なんだよって智恵子に語り聞かせてもいっさい通じないように、手塚さまの性格が悪いから好きになれないとか私に言っても通じるわけがないのであった。それどころかむしろ、あの漫画家としての飽くなき追究と少年のような大人げなさのコラボこそ魅力ではないのか? しかしながら惚れてしまえば痘痕も笑窪に見えちゃうことのは分かっているのでそうした場合あまり深くは反論しないようにしています(説き伏せたって実るものがないし)。{:rn:} でももし私が編集者だったら手塚先生からコンビニとかない時代の真夜中に「今すぐメロン買って来なきゃ描かないからな!」とか言われたいと思います。怒りのあまりに唇から血を流しながら八百屋のシャッターばんばん叩いて「静かにしねえか! 水ブッかけるぞ!」って八百屋のオヤジに怒られながら自腹を切ってメロン買いたい。それで来月のガロに手塚まんがが掲載されるってんならそりゃあ素晴らしく凄いことではないか。地球でもっとも偉大なクリエーションの一部に私の涙と汗をしみこませる権利をいただけたわけだ。もし同時代の漫画家だったら手塚先生と口を利けただけで末代まで語り継ぐし、口を利いていただけなかったらそれこそ随喜の極致というもので、たとえボケ老人になっても恐山のイタコに召喚されても輪廻転生してもその話だけはし続けたい。{:rn:} ただまあ当時の編集者からしたら確かに「このクソファック野郎!」って感じだろうね! かの手塚に本気でそんなこと思えるなんてすごい! 等身大の手塚に向き合えて羨ましい! そして他ならぬあなたのおかげで今われわれが神なる手塚治虫の作品を読
めている! ありがとう預言者よ!{:rn:}{:rn:} 私はこれまでもっぱら無宗教のつもりで生きてきたが手塚治虫関係については「なぜきみが彼のことを愛さないでいられるのかがむしろ理解しがたい」という感覚に陥るのでもしかするとこれが宗教かもしれない。そりゃあ紀元前から毎日飽きもせず聖書を読んで楽しいわけだよ。つまりそれは私が手塚治虫全集を読むのと同じことなの(かもしれないの)だから。たとえ親や異教徒に禁じられようとも人目を忍んで読むだろうし、仮に焚書なんてされたらジークフリート亡きあとのブリュンヒルデよろしく「今、おそばに!」と叫んで火のなかに飛び込みたくなってしまうだろう。あー相手が若く美しい英雄ではなく本でよかったわー。原版があれば紙とインクと工場の合わせ技でいくらでも複製が利くもんね。{:rn:} ただ、たとえ何冊刷られていようと何回編纂されていようと絶対に無体な扱いをする気にはなれないし、無体な扱いした者を白眼視せずにはいられない。なぜならばこれこそが我が愛であり信仰であり倫理であるからだ。ほんとうにこれが信仰と同じものであるかは当然ながら定かでないが、そんなんいったらそこの教徒Aさんと教徒Bさんが同じ宗教の教徒だったとしても彼らが胸中に同じものを抱いているかなんて分からんわけだし、もっと言ってしまえばこのブログの背景カラーとして設定されているオレンジ色が万人にとって私が感じているのと同じあの色であるかは分からん。まったく違うものに同じ概念と同じ名前を与えることで世を構成しているのかもしれん。{:rn:} つまり全人類がいっさい重なるところのない色盲だったとしても、「赤は血の色を思わせて危険な雰囲気を伴うが、それと同時に目尻にちょっと刷くことで可憐なイメージを持たせる」などといったように扱われるのが前提となっている世のなかで生活することによってそうした齟齬はないものとして扱われうるかもしれん。たとえその人の視界のなかではこの色に見えていたとしても、血の色を思わせて危険な雰囲気を伴うが、それと同時に目尻にちょっと刷くことで可憐なイメージを持たせる赤という名前の色として扱われうるかもしれん。こういう話をする際に「肌色」という言葉は特に顕著だと思います。なぜなら話が順当に進むならば、それは白人にとって白であり、黄色人にとって黄色であり、黒人にとって黒であり、なおかつ全員にとって「顔色が良い」などといった共通認識を持たせる複数のものが存在するということになるからです。が、ほんとに黒人に対して「肌色」と言ったとき黒っぽい色を示してくるのか? 白人は恐らく外資系ブランドのファンデの色からして普通にベージュを提示してくると思われる……{:rn:} まったく手塚治虫と関係ねえな……{:rn:}{:rn:}***{:rn:}{:rn:} というかそもそも「文字の書いてあるものに対して踏んだり跨いだりといった無体な扱いをしちゃいけないのよ」っていう教えを授かった気もするのですが、いま部屋のなかがほとんど本で埋まっているので、「大変申し訳ございません」と合掌してからピョンと跳び、何とか踏むや踏まずのラインでベッドに飛び込んでいます。本しかないから衛生的にはそれほど汚くないと思うんだけど紙魚とかのたぐいは多少いるかもね。