カムバック!!炬燵天国!!!

 

皆さんこんにちは!はるなです。

さ、さ、寒い!!!

ここ何日か急に寒くなりましたね。。。

末端冷え性なのでとても辛いです。

炬燵に入って冬眠していたい気分……。

そうそう、12月といえばなのですが、

近世の授業で先日ちょうど「井原西鶴」の『西鶴諸国はなし』の中で大晦日のお話の「大晦日はあはぬ算用」を扱いました。

内容を要約しますと、

内助というお正月の準備も満足にできない、貧しい浪人が年末のツケを支払うことも出来ず、嫁の兄に援助を受ける。 内助はこのお金で浪人仲間と宴会を開き、義理の兄が一〇両の小判に書いた「ひんびょうの砂薬、金用丸、よろずによし」という洒落を披露するために、小判毎皆に回した。しかし、戻ってくると、小判は一両減っていた。そこで仲間の、浪人たちは着物を脱ぎ身の潔白を示したり、元々一両持っていたという者は自害するから、その後自分が潔白の身であったことを調べてくれといって自害をしようとした。しかし、誰かが行燈の陰から小判を見つけ、また内助の女房が下げた重箱の蓋に小判がくっついていたと小判を持ってきて、小判は計十一両となった。その後内助は、誰かがその場を収めるために小判を一両だしてくれたのだろう、名乗り出てくれと言ったが誰も名乗り出なかった。

そこで庭の手水鉢の上に置き、客を1人づつ出すと、戸を閉めて、を繰り返した。最後に

女房に見に行かせると、その1枚はなくなっていた。武士の付き合いは格別である。

というものです。

高校の教科書にも載っているとかいないとか……。(太宰治の『貧の意地』の原拠でもあるそうです。)

正直、このお話はどういった意図で西鶴が書いたのかは、私は調べてないので、詳しくは分かりませんが、とにかく不思議な話です。

何故借りたお金で 酒宴を開くのか、とか、

小判って金属だよね?重箱の蓋にくっつくものか?などツッコミどころはとても多いです。

まぁ、学問的なものは今回は置いておきまして、何故私がこの話を話題に出したかといいますと、江戸時代は「ツケ」の文化があった、ということを言いたかった!!

(ちなみに、落語の『掛取万歳』など、年末のツケを巡るお話もあります。知恵でツケの回収を免れるところは愉快!痛快!爆笑!)

ツケ払いって、つまり信用によって成り立っているシステムなのですから、江戸時代の人々は信用命ですよね。もし、一度でも信用を失ったらツケなんてしてもらえないだろうし…。かといって、今までツケで払ってきたならば、その場その場で支払うなんてこともすぐには無理そう……。

そう考えると、信用の上に成り立ったよく出来たシステムであると同時に、顧客を崖の上に立たせる恐ろしいシステムなのかもしれない……。

どちらにしろ、人と人との同士の結びつきが希薄になってきていると言われている現代社会ではあり得ない話ですよね~。(私の知らないところではあるのかも知れませんが…)

時々、懐が素寒貧になるとこのシステムはちょっと羨ましいなぁ、と思ってしまいます。

というか、今まさにそう思ってます。

あぁ~、誰か私の代わりに炬燵買ってくれないかなぁ~(代金の返金はツケ払いで)

といった、屑な考えを頭に思い浮かべつつ

(だって、私の家の炬燵、2、3年前に壊れて捨てられちゃって以来、無いんだもの。お炬燵天国にまた帰りたい……)

今回はここまでとします。

はるなでしたー。