コスモ(ス)

 今日は小紋を纏って日女祭の華道を手伝った。
 ウィッグは金髪おかっぱでした。山崎バニラか!
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 華道の先生(友達のお母さま)に聞いたところによれば、
 お花の世界には宇宙がございます。いや茶道にもあるけど。
 つか大体の「道」ってつくものには宇宙がある。すげえ。
 したがって宇宙の幽冥を徹する華道と
 地上の美感を究めるフラワーアレンジメントとは
 根本的に目指すところが異なるため、
 それらをイコールに翻訳するわけにはいきません。
 いったいどうしたものでしょう。
 翻訳というと思い出すのが
 『ファウスト』(の話しかしてないね最近)です。
 第一部の最初のほうでファウストが聖書を翻訳するのですが、
 「太初に言有り」という一文に彼は反骨精神を示すのです。
  己は「言」というものをそれほど尊重する気になれぬ。
  己の精神が正しく活動しているとしたなら、
  ここでは別の語を選ばずばなるまいな。
  「太初に意ありき」ではどうであろうか。
  筆が滑りすぎぬように、
  第一行をじっくり考えねばなるまい――
  森羅万象を創り出すものは「意」であろうか。
  いや「太初に力ありき」としなければなるまい。
  だがそう書きながら、すでに何者かが
  それでは不十分だと己の耳に囁く。
  ああ、どうにかならないか、
  そうだ、うまい言葉を思いついた。
  こうすればいい。
  「太初に行(おこない)ありき」。

 という感じで結論を出します。
 いやまあ~何ていうかこっちの素直な気持ちとしましてはこういうやつに自分の好きな本の翻訳はあんまし委任したくねえわと思わなくもない(なぜなら聖書のように明確極まりない正典があり、またそれを買い求めて読む人の状況を考えれば、それは書いてあるとおりに訳すべきものであるからだ……現代でやるなら『超訳』とかつける類のものか)(私は超訳ものがあまり好きではありませんのでファウストの行為にこうした名を与えることは本意にあらず)……が、自分にとってのほんとうの意味を追求して言葉を改め、意義を改めるその姿勢は実にたまらんよね。未だ老人の姿でありながらのちの英雄性の片鱗を早くもチラ見させているファウスト博士よ。すばらしい。
 つまり、自分のなかでまだ眠っているxなる未知の思想に、aなる既知の何がしかをぶつける。そのことによって「はぁ~それはちがくね???」と思う。そのことによって「xはaではない」と判明することになる。また同様に、bをぶつけることによって「まあ概ね同意であるがこの点については賛同しかねる」と思う。そのことによって「xは概ねbである(が、より正確性は求められる)」と判明することになる。このようにして徐々に正確なxの姿を観測することへと近づいてゆく。つまり、この世の知恵に無駄な摂取はあんまりないよね。
 などと思いますと、世のなか悪くないですね。享楽ではなく研鑽と鍛錬に価値を見出すことによって、却って世のなかを優しく感じられるようになるのである。私もその境地に辿り着きたいと切に思ってはおりますが、なかなかどうして難しいものです。踊念仏などという腑抜けた愉快なやりかたがある一方で、滝に打たれるとか焼けた石のうえ裸足で渡るとかいうトチ狂った修行方法を最初に考え出したやつは確実に世間体を気にするタイプの露出系マゾだろうと昔は思っていましたが、今なら彼の気持ちも分かるような気がいたします。ていうか前もこういう話を書いた気がします。書いたよね? どうだっけ? まあ今日また改めて新鮮にそう思ったから書かせていただきますけども……
 んで結局フラワーアレンジメントと華道はどう訳せばいいんだろうね。この場合ことに問題なのは華道だ。あの禁欲的で深淵的で近付きがたい雰囲気をどうやって英語に持ち込めばいいか。そもそもそうした概念は共通的に存在するのな? だってあれはもはや言葉そのものが持っている魔性の迫力があると思いませんか。楽師に使い込まれてきた琵琶が百鬼夜行の夜には魔力を帯びて陽気に踊り出すがごとく、人々から長いあいだ気品もて使い込まれてきた言葉が高貴さと魔力を具え始めるのは自然なことではあるまいか。そしてそうしたもの、つまり年季と情念の下敷きを要求される印象をそのまま外国語に換言することができるのか。いま和英辞書を見てみましたがやはり案の定Art of flower arrangement。くそが! そこには宇宙が感じられんわ!
 新渡戸稲造はシヴァリーが武士道と言ったけど、あれ正確にはジャパニーズシヴァリーって書かないと辞書的にはただの騎士道って意味になるっぽいし、大して参考にはならなさそうです。うーん。それにつけてもこうして向き合った際に感ぜられるのは「道」という言葉の深さよ。恐らくは中国思想的な印象も混じっていることでしょう。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」……とは高村光太郎の『道程』ですが、この始まりのスタンザのなんと晴れやかで誇らかで光に満ちていることか。名にし負わばいざ詩を詠まん光太郎って感じ。「道」という漢字の示すところと、今回のブログとは関係ありませんが、「セイ」という音の示すところは、ずいぶんと人々に愛され彩られているものだなぁとしばしば思います。
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 ファウストの舞台とロミジュリの舞台に行ってきました。
 おもしろかった! 今度話す! でもセイという音の話もしたい……