またいつの日か……吉川英治記念館(と、おまけに三鷹の太宰・鷗外)

こんにちは。あかねです。本日をもちまして、吉川英治記念館は閉館となります。悲しいです……。同時に、文学館は閉じることはないと無条件に信じていたため、こんなこともあるのかと驚きました。研究のための資料は公益財団法人吉川英治国民文化振興会事務局(03‐5395‐3432)に申請すれば閲覧可能だそうですが、吉川英治の家や記念館は見られなくなるそうです。いつまた開館するのかは分かりません。だからこそ、行かなければと思いました。
吉川英治が生涯で最も長く住んでいた家と、吉川英治の人生や作品について知ることの出来る資料館が青梅市にあります。私は17日の日曜日に行ってきたのですが、高齢者の方から子供連れの家族まで、幅広い年代に親しまれていました。家の中では、かつては梅が綺麗だったけれど木の病気感染のために伐採されてしまった旨が書いてありました。その木の切り株を乾燥させて病原菌を完全に殺菌したものから、夫婦の像を彫ったものが展示されていました。他にも、吉川英治が携わった竹の天井や松の柱、親しかった画家の絵等も見えました。内部の写真は撮れなかったので外観のみ庭から撮影します。庭にはスズラン等が咲いていて、植物と家の構図をスケッチする方々も何人かいらっしゃいました。

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三枚目の写真の奥に人影がありますが、これでも人の波が切れた瞬間を狙いました。それほどひっきりなしに往来がありました。この奥には離れがあって、眼鏡や万年筆、沢山の本といったものが置かれていました。ともすると吉川英治がやってきそうでした。
資料館では、吉川英治の人生について分かりました。小学校卒業の直前に家が没落し、最終学歴は小学校中退となった吉川英治。東京で働きながら川柳等に親しみ、やがて人気の時代小説作家となります。中には原っぱの中、2~3歳の娘に髪を引っ張られながら笑顔を見せる写真もあり、家族思いの人だったことが見て取れました。現在の記念館の館長の方が吉川英治の長男と同姓同名なのは偶然ではないのでしょう。吉川英治は戦後まで生きた作家でした。戦中は従軍作家になる等、純粋な気持ちで日本の勝利を信じていたようです。勿論、「そういう小説」も書いています。だからこそ戦後数年間は小説を書かなかった(恐らく書けなかった)時期があり、何とも言えない切なさを感じました。信念が裏切られてしまったのは、そしてその信念が悪になってしまったのは、時代のせいとはいえ厳しいものがありますね……。その後も文壇に返り咲き、『新・平家物語』で本当の幸せを追求していたところも印象的な作家でした。お恥ずかしながら一冊も読んだことがない作家なので、時代小説が苦手だからと読まず嫌いをせず、その世界に触れてみたいと思います。

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資料館と椎の木

 

しんみりした帰路、私は気付いてしまいました。中央線に乗り続けると三鷹に着くぞ、と――。

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まずはこちら、太宰治文学サロンに行きました。ガイドの方に吉川英治記念館から来たのだと話した際、戦争直後の売り上げランキングとしては一位が吉川英治、二位が太宰治だったそうで、図らずも富豪たちを巡る旅となりました。ここでは太宰の親友について見たのですが、心に強く残ったのは太宰の死の理由についてです。実は自殺の少し前に、太宰は喀血していました。結核です。また、『斜陽』の大ヒットに伴い収入も増えたのですが、太宰の脳内に税金という二文字は薄かったようで、大きな負債を背負ってしまいます。更に、妻と、心中した女性の他にもう一人、関係を持った女性がいたのですが、その女性と子をもうけてしまったのです。様々な要因が一気に来た結果、入水に至ってしまったのだろうとガイドの方がおっしゃっていました。あと2年生きていれば、結核の特効薬も普及していたのに……。複雑です。
玉川を見た後、太宰治や森鷗外のお墓がある禅林寺へ。途中で本を開いたような『斜陽』の像を発見したのがこちらです。

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禅林寺では日没に墓所が閉まるということで、既に日が橙色の中急ぎに急ぎます。太宰の墓は森鷗外への畏敬の念からはす向かいに位置するところにあります。両方に手を合わせながら、太宰の墓には花が供えてあるのに鷗外の墓には何もないことが、花を買っていくべきだったかと後悔した点でした。

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帰り際、「賀古鶴所さん!」と思わず叫びました。彼については私の名前をクリックし、前回のブログをお読みください。簡単に言うと鷗外が生涯をとおして親友だとした皮膚科医で、鷗外の口述を書き留めて遺書を作成しました。この碑も遺言を写したもので、冒頭部分に「賀古君に書いてもらっています」といったようなことが書いてあります。行く時も帰る時も、若い女性とすれ違いました。鷗外でも医師でもない森林太郎として死に、埋葬されても、私のように小説家としてお参りに行く人が絶えないのは鷗外さんにどう思われているのか気になります……。うーん、人生が思い通りにいっていたら、そもそも文学で何かを表現しようとはならないと思いますので、なるべくして現状に至ったのでしょうが、何と言いますか、彼らの人生が幸せであったことを願います。
とりあえず、自分のためにも生きられるように気を付けつつ、病や心の折れそうなことにも負けずに生きていきたいと思いました。