休みの少ない日々ですが

ゴールデンウィークが終わり早一週間。しばらく祝日がないのかと思うと先が思いやられる今日この頃です。
最近の私といえば、演習発表の準備をしたり演習発表の準備をしたりおいしいもの食べたり寝たりラジオ聞いたり…とこんな日々(要するに演習!!!!!!!楽しいけど辛い!!!!!!!ってことです)演習って、きちんと自分の満足いく、理想に近い(理想なんて一生かかっても追いつかない)発表ができた時は嬉しくてもう飛び跳ねちゃいそうなくらいだけど、そこまで到達するには辛い道を避けては通れないものですよね…。
とにかく!今年度は一つ一つこつこつと頑張ります(涙目)

こんな風に?毎日風のように過ぎ去っていく日々ではありますが、今日は個人的に嬉しかったことを二つ書こうと思います。休みが少ないと気持ちが追い詰められがちですが、皆さんも少しでも良かったことを思い出して、明日からの活力となりますように!

一つ目は、この間初めて『元暦校本萬葉集』をこの目で見られたことです。
今トーハク(東京国立博物館)では、「美を紡ぐ 日本美術の名品」と「国宝 東寺 空海と仏像曼荼羅」の二つの特別展があって、行きたいと思っていたら、運よく知り合いの方が二つとも前売り券を買っていてくれていました。常設展はキャンパスメンバーで無料にはなるけれど、特別展はたったの100円引きにしかならないので、内心お金浮いたラッキーと思っていました(笑)
で、その方と奥さまと私の祖母とで4人で行ってきたわけですが、それはそれは楽しかった…。京都の東寺は一度だけ行ったことがあったのですが、仏像はもちろん普段は見ることのできない貴重資料、仏具等々(唐時代の密教法具、前に授業で触れた東寺百合文書も…)がたくさん出品されていて、いくら見ても見飽きることありませんでした。日本美術の名品の方は、美術なはずなのに定家筆の『更級日記』、後伏見天皇筆の『古今和歌集』がなぜか展示されていて、私には意図がくみ取れなかったのですが、とにかく日文ガール的には美術より大興奮でした。
(博物館学芸員の資格の講義を取っているので、一つの特別展を企画することの大変さと苦労が伝わってきました…)
あと、おいしいものといえば「上野精養軒」に行って、ランチ?ディナー?どっちともいえない時間にお肉とウィンナー(子供みたいだけど、ちゃんと大人な味でした)をほおばってきました。あの時間に食べるお肉ってなんであんなにおいしいの…。若干の罪悪感…あれは人をダメにする。

話は本題に戻って、『元暦校本萬葉集』の話ですが、その「美を紡ぐ 日本美術の名品」の特別出品として出ていました(「令和」だからなのかしら…)。私は基礎演習が『萬葉集』で、前期も演習を取ったり、上代の自主ゼミ長だったりと『萬葉集』に触れる機会も多くて、ちょうど元暦校本もe国宝(ネットで国宝、重要文化財の作品の画像が見られるサイト)で見ていた直後だったので、すごく嬉しかったのです。
元暦校本といえば、殆ど見られない粘葉装という装丁で、紫の飛び雲がすき込んであるのが特徴です。粘葉装は、今の小学校の文集などの袋綴じとは違って、裏表両方に書くのでなめらかで良い紙でないといけないのです。『萬葉集』は残念ながら、奈良時代の成立時期に近い写本は残っていないため、桂本や元暦校本といった平安中期の写本はとても貴重なわけです。
そんな元暦校本を実際に見れるなんて、素晴らしいと思いませんか!!!???
私は今まで『萬葉集』の古写本というと、どこか空想の世界のものだと思っていました。勉強しているけれど本当にあるものなのかな…という遠い存在でもあったり、「令和」発表の前は『源氏物語』の絵巻などの出品の方がずっと注目されていたという側面もあったように感じます。平安中期といえば、約1000年前。千年かけてそれでも残り続けることは、資料の中身だけではなくて、写した人や火災や戦乱も乗り越えて守り続けた人々の思いも詰まっているということだと思います。元暦校本の紙の美しさだったり、伸びやかな字から、その重みを感じました。それから、粘葉装や紫の飛び雲など実物で見ることで、理解度が深まったように感じました。資料は、知識がなくても興味深いけれど、やっぱり知識があった方が見ていていろんな点に気が付くし、面白いです。机上の勉強と実物観察?の両方を大切にしたいと改めて感じました。
また、千年も前のものを今の私たちが見ることができるって、タイムトラベルはできなくても過去と今を繋げることでできるような気がしています。そしてそれを私たちは、未来に繋げていく必要があります。今から千年後…いったいどうなっているか分かりませんが(もしかしたら紙なんてなくて、だれも文字を書く人がいないかも!?)、こういう文化的なものが残ってくれればいいな、と思いました。

二つ目は、嬉しかったというより興味深かったことに近いかもしれませんが…。この間ある講義で、人間は生得的な言語獲得装置(LAD)を持っている、ということを勉強しました。LADというのは、簡単に言えば「言語には何らかのルールがある」ということを生まれつき持っている、ということなのです。
で、今日更にあるまた別の講義で言語について学び、先生に質問をした流れでLADの話になり…その先生がおっしゃることには、言語の獲得というのは、コミュニケーションツールとしても当然重要な役目を担っているけれど、それと同じくらい大切なのは時の流れ(過去現在未来)を把握できるようになったということなんだそうです。というのは、人は言葉にすることで起きたことを把握し、それを次に生かして見えないものに対しても予測できるようになったそうで。結局ホモサピエンスは言語を獲得できたために、獲物が来ることを予想し罠を仕掛けられるようになったために生き残ることができたけれど、ネアンデルタール人は言語獲得できなかったために生き残ることができなかったらしいです(聞いたことを書いているので若干不確かなところがあります)。言語って深いなあと感動します。少なからず、言語はきっと何万年?と歴史を持って日々変化しているのだと思うと、この言語を簡単には手放してはならないと思うのです。
最近一つ思い出したことがあります。それは高校生の頃に、あることで「ごめんなさい」と謝ったら「でもあなたの中で、こうしなければ生きていけなかったんでしょう?」と先生がおっしゃったことです。その時確かに私は「そうしなければならなかった」状態であって、すごく心も敏感になっていたので、その言葉に心を見透かされたように感じたことを覚えています。
しかしながらもし今同じ状況だとしたら、もっと寛大に色んなことを受け入れることができただろうし、今思い返してみるとその「あること」が段々と過去のものになって客観視できるようになってきていると感じるのです。人間とは不思議なもので、辛かったり悔しかったりしても、そこから学んで生かしたり、「時が解決する」という言葉があるように、時をかけることでいろんなことを忘れたり別の視点でものを見ることができるようになるのです。
色々と人というものは理屈で通らないことがあって、でも成長することのできる生き物で、自分自身でそれを実感できるとともに、文学の視点から他の人の生き様を感じることができるのは、とても幸せなことだなと改めて感じました。

最後は何だかすごく真面目になってしまったけれど、毎日忙しい日々の中で自分自身を振り返ったり、ふと嬉しかったことを思い出すというのは、すごく大切なことだと思っています。(じゃないと、毎日があっという間に過ぎ去ってしまうような感じがする)
今週末にはずっと楽しみにしていたライブもあるし!(きゃーーーーー)息抜きしながら、前期を駆け抜けていきたいです!
さて、演習の準備に戻ります。ではでは~っ