「学生実験で身につけた考え方は、家族の役に立つか?」
化学生命科学科では、学生実験を重視しています。それぞれの実験において学生は、何らかの機器を操作して何かのデータを得、適当な文献を参照しながら、そのデータを解釈し、何らかの結論を得ます。実験は理系好きの学生にとっては面白いものですが、卒業後は、実験にあまり縁のない人生を送る人もいるかもしれません。そうした学生にとっては、楽しかった実験や楽しくなかった(かもしれない)レポート作成を通して培った考え方-論理的思考-は、単に青春の一ページを飾るものであり、その後の生活や家族の役には立たないものなのでしょうか?「そうではない」ということを、私自身の経験を例に以下で示したいと思います。
私には認知症の母がいます。父の死後、家族で相談して、グループホームに入居してもらいました。母は最近の話はあまりできないので、お見舞いの時は昔話を聞くことが多くなりました。今日覚えていたことも、明日には忘れてしまうかもしれない。そう思いながらメモをとりつつ、母の話を真剣に聞いてみると、それは家族としてのひいき目なしに面白いものでした。以下、このコラムに関係する部分について概要を示します。
「祖父と祖母は、宮城県の石巻市に住んでいた。近所に、祖母の叔母にあたる、『おばば』というやり手の女性が住んでいた。おばばは、漁業と海運業で成功をおさめており、祖母を特にかわいがっていた。」
「事業を発展させるためか、おばばは祖父母の家族を連れて樺太の阿幸村(図1)に移住した。6~7隻の船でにしんや昆布をとり、内地へ運んで相当な財をなしたらしい。おばばは阿幸村の港の前に2階建の大きな家を構え、この家の一角で郵便局も営んでいた。」
「祖父母は、おばばの家から少し離れた1階建の家で、漁師相手の店を開いていた。母もここで生まれた。店では祖父が作った造花やおもちゃなどを売っていた。それなりに生計はたっていたようで、家の中にラジオがあったことや、当地では珍しい干しバナナがあったことが記憶に残っている。祖父は消防団長もしており、ときどき神社で相撲大会も開いていた。」
「母が4~5歳になると一家の働き手の一人として活躍した。おばばの船が採集してきた昆布を船からおろし、おばばの家の前の小石だらけの浜に広げて干すのが仕事だった。祖父はそんな母をかわいがっており、ときどき鉄道(樺太西線:図1)で母を真岡市に連れて行き、母に洋服を買ったり、おいしいものを食べさせたりした。」
「母が阿幸国民学校(小学校)に通うようになった頃、戦争がはじまった。ロスケ(「ロシア人」を意味するロシア語「русский (←日本人には「ルスキ」と聞こえる)」に由来する、ロシア人に対する蔑称)の侵攻を恐れた祖父母は、祖父を樺太の地に残し、おばばの船で故郷の石巻へ向けて脱出した。あたたかい時期のことだった。船は狭かった。船底におばばと祖母の家族が隠れた。函館までは順調だったが、函館を越えると、にっくきロスケの戦闘機から、子供が泣くたびに機銃掃射をうけた。とても怖かった。死んだら化けてでてやると思った。それでも幸い、誰も命に別状はなく、なんとか石巻にたどり着くことができた。」

母の幼少期に思いをはせながら、これらのメモを整理するうちに、職業病でしょうか(笑)、だんだん学生実験のレポートを評価する視点から読むようになってきました。理系のレポートだけでなく、レポート一般で大切なのは、「5Wと1H (いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どうしたか)」です。そういう視点から、これらのメモを読むと、場所や人、理由や行為は比較的よく書かれていますが、全体的に「いつ」という、時間に関する記述が弱いことに気づきます。特に、話のクライマックスである「ソ連機による機銃掃射」がいつ行われたかが、よくわかりません。母に尋ねても「いつのことかは、よく覚えていない」とのことでした。個人的なメモなので、そうしたことが不明でも特に問題はないのですが、何かすっきりしませんでした。
ふと打開策がひらめいたのは、実験の基本的な心得を学生に説明しているときでした。私いわく(笑)、「実験データを解釈するには、自分の思いつきだけに頼ってはだめで、関連する文献を調べ、文献に書かれている理論や別の事実とつきあわせる必要がある。」これと同様に、母の話に、歴史的な事実をつきあわせれば、「いつ」を確定できないまでも、その範囲を限定できないかと思ったのです。
まず、銃撃された時の母の年齢を推定してみました。ヒントは、「樺太脱出前に、母は阿幸国民学校に入学していた」という事実でした。当時も今も、小学校に入学する年齢は満7歳です。早生まれの母の場合は昭和19年=1944年4月に6歳で入学していた計算になります。一方、ソ連の対日参戦は1945年8月9日です。「学校に通うようになった頃、戦争がはじまった」という母の話は、このソ連参戦を指していると思われます。とすれば、樺太脱出時の母の年齢は7歳と推定できます。母が小学校2年生の時でした。
次に、樺太脱出の期日を推定してみました。ソ連参戦後、日本軍とソ連軍との戦闘は8月末まで続き、戦闘が停止したのは9月4日でした。とすれば、ソ連が日本の民間船に攻撃をしかけうる期間=おばばの船が銃撃された期間は1945年8月9日~9月4日のどこかに限定されます。
しかし、ここで、ひとつの疑問につきあたりました。ソ連参戦は終戦間際の出来事でした。この時期には、「樺太在住の日本人すべて」が樺太から引き揚げようとしていたはずです。当然、大型船が接岸できる真岡港は、引き揚げの群衆でごった返していたはずです(8月20日には真岡にソ連軍が上陸、市内は戦場化し、23日で真岡からの引き揚げ自体が打ち切られました)。しかし、母から、そんな混雑の話は聞いたことがありません。あらためて母に尋ねてみると、「樺太を離れたとき、街の人は皆残っていた。『一足お先に』という感じだった。おばばの船1隻にのって、静かに真岡を離れた。真岡の港に特に変わったことはなかった」といいます。やはり、母は真岡引き揚げの混乱を経験していません。もうひとつ、「脱出前、街の人はロスケが来ることを噂していた」という話も聞きました。これらの話から、母の樺太脱出時には、樺太在住の日本人は、ソ連侵攻の不安に苛まれながらも、なお多くが樺太に残留していたことがわかります。樺太在住者に侵攻の不安をもたらした原因として考えられるのは、「1945年4月5日のソ連による日ソ中立条約の破棄」でしょう。条約破棄による不安を感じながらも、まだ脱出の実行には至らない逡巡と準備の時期-おそらく1945年4月中旬から7月中旬-が、母が樺太を離れた時期と思われます。
ここまでくると、何気なく聞き流していた「樺太を離れたのは、あたたかい時期だった」という話にも重要な意味があることに気づきます。7歳の子供が「暖かい」と感じられる季節は、樺太では、平均気温が10℃以上となる6月から9月に限定されるからです。4月や5月は「まだ寒い」のです。これらを総合すると、母たちを乗せたおばばの船が「一足お先に」真岡港を離れたのは、「1945年6月(「暖かかった」)から7月中旬(引き揚げの混乱前)」と推定されます。
上記の推定によれば、母の話とは異なり、参戦前なのでソ連は母ののった船を撃てません。では、誰が撃ったのでしょうか?ソ連軍でなければ、「犯人」として浮上してくるのは、アメリカ軍です。実は、上の推定期間に含まれる1945年7月14日~15日は「北海道空襲」の日でもありました。北海道空襲について書かれたウェブサイト(https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道空襲)を見ると、「函館市、小樽市、帯広市、旭川市や戦略上全く意味のない農村部も攻撃され、一般市民を中心に死者2000人を超える被害を出した。また、この空襲を通じて、千島列島から北海道、北海道から本州を結ぶ航路の船舶も攻撃対象となり、多くの船が撃沈または大破の被害を受け、ほとんどの航路が機能を失った」とあります。母の話とよく対応する記述です。もちろん、おばばの船が何らかの事情で遅延を重ね、函館通過が7月中旬ではなく、ソ連参戦後の8月中旬以降だったという可能性も完全に否定はできません。しかし、仮にそうであったとしても、8月当時のソ連は陸路による南樺太侵攻に集中しており、はるか遠方の函館(図1参照)まで飛行機をまわす余裕も必然性もありませんでした。以上を勘案すると、母の記憶に刻まれた機銃掃射は、北海道空襲の一環だった可能性がきわめて高いと結論できます。
母が乗った船を襲ったのがアメリカ軍ならば、「実行犯」の特定も簡単です。北海道空襲の記録によれば、手を下したのはアメリカ海軍の主力空母部隊「第38任務部隊」であり、北海道空襲に使われた3000機の艦載機中の一機が母たちをおそったことになります。母たちは「ソ連に追われ、アメリカに撃たれた」のです。むろん、当時も今も、母はそう思っていませんし、いまから思いを変えることもできないのですが。
母の樺太脱出行をまとめると、以下のようになります。
「『1945年6月か7月』、『当時7歳』であった母は、真岡港からおばばの船にのって樺太を脱出した。ところが『1945年7月14日か15日』に、不運にも『アメリカ軍による北海道空襲』とはちあわせし、函館近海で『第38任務部隊の艦載機』による機銃掃射をうけた。」
自分が教えている「学生実験の心得」を、理系とはまったく無縁の「母の昔話」に適用したところ、思わぬ勉強ができました。母の樺太脱出行をおぼえている人はもう誰もいません。にもかかわらず、学生実験を通して教えている論理的思考は、母も知らなかった(覚えていなかった)母の幼少時のこと(=上のまとめの『 』で囲んだ部分)を教えてくれたのです。得られたデータを要領よくまとめるだけではだめなのです。母の話をまとめるだけでは、銃撃したのがアメリカ軍の第38任務部隊とはわかりませんでした。実験の過程や実生活で浮かぶ小さな疑問を無視してはだめなのです。北海道空襲にたどりつけたのは、「いつ銃撃されたのか?」という、母にとっては小さな疑問を私が捨てなかったからです。学生実験や日々の生活で得られる小さな進歩を喜ぶべきなのです。実際、母の「暖かい時期に静かな真岡港を出た」という思い出から「1945年6月か7月」を推測できたときは、ジグゾーパズルのピースが脳内でカチリとはまったようで嬉しかったです。哲学者のフランシス・ベーコンも「人間の心は大きなことに立ちどまっているより、むしろ小さなことに進歩することによって励まされ元気づけられる」と言っています。
以上、論理的思考というものが、家族の大切な思い出の深化にも使えるという実例を紹介しました。このコラムが、実験レポートの作成に苦労している学生を少しでも元気づけてくれることを願っています。







