「王水」と「妃水」
高校化学の教科書の「金」に関する部分に、「金を溶かすもの」として、必ず記述されるのが王水です。たとえば、数研出版の『化学』には、「金はイオン化傾向が小さく、熱濃硫酸や硝酸にも溶けないが、濃硝酸と濃塩酸を1:3(体積比)で混合した王水には溶ける」とあります。ただ、ほとんどの教科書の記述はこの程度(もしくはそれ以下)であり、「塩酸」や「硫酸」など、普通の酸とはかなり違った印象を与える「王水」の情報はあまり書かれていません。今回のコラムでは、この王水について、深掘りしてみます。
王水という名称は、錬金術に由来します。錬金術師は金属について特別な理論をもっていました。金属には鉄、銅、鉛、錫(すず)、水銀、銀、金の七種類があり、かつ鉄→銅→鉛→錫→水銀→銀→金という段階を経て完成する、というものです。この段階は、金属のランキングもかねており、トップの金が金属の王で、次点の銀が金属の女王とされました。これに応じて、金や銀は貴い金属(=貴金属)、それ以外の金属は卑しい金属(=卑金属)とされました。貴金属や卑金属という言葉は現代でも残っていますね。
塩類と硝石を混ぜ、これを硫酸と加熱して得られる液体が金を溶かすことは古くから知られていました。たとえば、8世紀・イスラム帝国(アッバース朝)の伝説的な錬金術師・ジャービル・ブン・ハイヤーンは、その著書とされる『秘術の探求』の中で、硝酸と王水の調製についてこう書いています。「まず最初にキプロスの礬類(硫酸銅)1ポンド、硝石2ポンド、イエメンの明礬(硫酸アンモニウム)4分の1ポンドをとれ。蒸留器が真赤になるまで熱して水を抽出せよ。というのは、その水はきわめて溶融性があるから。…もしもそれに磠砂(ろしゃ=塩化アンモニウム)4分の1ポンドを溶かしこめば、ずっと強烈になる。なぜなら、それは金と硫黄と銀を溶かすから。」この「溶融性ある水」が硝酸で、「ずっと強烈な液体」が王水であり、その正体は硝酸と塩酸の混合物(←古代では、体積比は不定)です。王水は実際に金や硫黄を溶かします。ただし、銀については、浸食はするものの、溶解はしません。
近代化学の父・フランスのアントワーヌ・ラヴォアジエは、1789年に出版された著書『化学原論(邦訳名:化学のはじめ)』の中で、王水についてこう書いています。「…この酸は金、すなわち錬金術の言葉によれば金属の王を溶かす性質があることで名高い。そこでこの液には王の水という輝かしい名が与えられた。」錬金術がさかんだった中世ヨーロッパでは、あらゆる学問がラテン語で学ばれました。王水も例外ではなく、ラテン語(=正式名称)で「aqua regia(アクア・レギア)」と呼ばれていました。王の水という意味です。この言葉を日本語に翻訳したのは、江戸時代の蘭学者・宇田川榕庵です。1837年(天保8年)から1847年(弘化4年)にかけて出版された、日本ではじめて近代化学を紹介した『舎密開宗』(せいみかいそう)の中で、アクア・レギアを「王水」と訳しました。これが、日本語の「王水」の起源です。
錬金術の時代では組成が曖昧だった王水ですが、現代では、冒頭に述べた教科書の記述のように、「濃硝酸と濃塩酸を体積比1:3で混ぜたもの」ときちんと定義されています。この混合液と金を反応させると、以下のようなやや複雑なことが起こります。濃硝酸は強い酸化剤なので、金を金のイオンAu3+イオンまで酸化しようとしますが、金はイオン化傾向が小さいので、この反応はごくわずか進んだところで平衡に達してしまいます。このため、金は実際上、濃硝酸には溶けません。ところが、濃塩酸を加えると、濃硝酸との平衡によって溶液中に生じているごくごく微量のAu3+イオンは、Cl−イオンと結合して、非常に安定なクロロ金酸イオン[AuCl4]−になります。このように、金は濃硝酸によってAu3+イオンに酸化されるとすぐにクロロ金酸イオンとなるため、結局すべて溶解してしまいます。クロロ金酸イオンが非常に安定、かつ生じやすいということが、王水中の濃硝酸の酸化力を飛躍的に高めるというわけです。なお、濃硝酸と濃塩酸と体積比を3:1にした混合液は逆王水といわれ、黄鉄鉱中の硫黄を酸化溶解し、硫酸イオンにする場合などに使われています。そのほか、水で2倍に希釈した王水は、しばしば希王水とも呼ばれます。
濃塩酸と濃硝酸ではなく、濃硫酸と濃硝酸を混合した液体は、現代では混酸と呼ばれ、芳香族化合物やセルロース、グリセリンのニトロ化に用いられています。興味深いことに、混酸は王水では溶かしにくい銀を溶かすことができます。金属の女王である銀を溶かせるので、中性ヨーロッパでは、ラテン語で「aqua reginae(アクア・レギナ)」と呼ばれていました。女王の水という意味です。前述の宇田川榕庵は『舎密開宗』の中で、「アクア・レギナ」についてこう書いています。「硫酸と硝酸の混合液は銀だけを溶かして、銅・鉄・鉛・コバルト・金・白金を溶かさないので、仮にこれを妃水と名づける(金を金属の王と呼ぶのに対し、銀を金属の王妃と名づける)。この混合酸によって、化学者や工芸家は他の金属に混じった銀を分離することができる。」
実は、この部分をはじめて読んだとき、「王妃とは王の正妃のことで、女王ではないのでは?」という疑問が生じ、「宇田川先生、やらかしましたね?」と(不遜にも)思ってしまいました。しかし、後に、私の方が勉強不足とわかりました。正直に言って私は、ラテン語をあまり知りません。しかしながら、類縁関係にあるヨーロッパの諸言語では、君主としての王の妃である王妃と、自身が君主である女王に同じ単語が用いられるようなのです。英語を例に挙げると、queen で両者を共に意味し、区別する場合には王妃を queen consort 、女王を queen regnant と呼び分けるそうです。ということで、アクア・レギナを「妃水」としても、少なくとも、現代ヨーロッパ人の感覚ではおかしくないと思われます。宇田川先生、大変失礼しました(笑)。なお、「妃水」という言葉は現代ではまったく使われていません。個人的には、「混酸」より、雅(みやび)でよいと思うのですが(笑)。