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ある男がいた。ここでは仮に趙楷としよう。趙楷は木こりであった。山に入り木を切っては町で売ることで生計を立てていた。細々とした生活は決して余裕のあるものではなく、食に困ることもしばしばあった。秋も深まり、冷たい風が身に染みるこの日もまた、趙楷は薪用の木材を求めて山に入ったところであった。
常日頃から山に入っているため道に迷うことはめったになくなった。聞こえるのは風に囁く木の葉ばかりで、人の声一つ、動物の声一つしない。趙楷はこの一人静かな時間が嫌いではなかった。幾度となく似たような景色を通り過ぎ、そろそろ山の中腹かと思われるころ、趙楷は谷川の近くにそびえ立つ一本の柳に目を引かれた。どこにでも生えているような柳の木である。ただし、その柳は風が吹くたびに倒れるのではないかと思うほど木全体が大きく揺れているのである。暫しその柳を眺めていると、趙楷はその柳の枝がかすかに光っていることに気が付いた。不審に思って近づいてみると、柳の木の裏に男一人がなんとか入り込めるだけの小さな洞窟がぽっかりと口を開けおり、その中から暖かい光がこぼれているのであった。趙楷はさらにいぶかしんだ。冬の到来をすら感じさせるようなこの肌寒い日に、暖かい空気が、光が洞窟の中からこぼれているのである。趙楷は意を決し、小さな入り口から這うようにして洞窟の中に入り込んだ。
中に入ると、そこは春の陽気に満ちた花園であった。見渡す限り一面に緋、紫、橙、黄、色とりどりの小さな花が咲いていた。しかし、どれもこれもまるで見たことのない形をしている。緋の花を1つ摘み取り顔に近づけてよく見てみるが、やはり趙楷には見覚えがない。紫も橙も黄も同じで、趙楷は首をかしげるばかりである。さらに特筆すべきは、その花々から甘い蜜の香りがするのである。
暖かい空気に包まれたこともあるだろう、趙楷は空腹を感じ始めた。満足に腹の膨れるような食事はもう何年もできていない。ましてや甘味など生まれてこの方、口にしたのはほんのわずかしかない。趙楷は鮮やかな花々が発する甘い蜜の香りの誘惑に勝てず、とうとうそのうちの一つを口に入れた。
その花は甘く、趙楷がそれまでに食べたどんなものよりも美味であった。趙楷はまた次の花に手を伸ばし、口に入れた。甘い蜜の味が口の中に広がる。趙楷は我を忘れ、次々とその小さな花に手を伸ばし、摘み取っては口に運んだ。その花々が長年にわたる趙楷の空腹を癒すのには相当の時間を要した。
しばらくして、我に返った趙楷は仕事に戻ろうと名残惜しいながらも出口へ向かった。来た時と同じように穴に手をかけ、這うようにして外に出ようとする。ところが、腹のあたりが岩に引っかかってしまい、上手く外に出ることができない。趙楷は一度体勢を元に戻し、穴を眺める。入って来るときには通れたのだ。自分に通れないはずがない。趙楷は再び穴から這い出ようとする。しかしどうしても腹のあたりが岩に引っかかる。どうにか外へ出られないものかともがくうちに、とうとう前にも後ろにも動けなくなってしまった。
それからしばらく後のことである。麓の村では一つの噂がまことしやかに囁かれていた。
ある男が洞窟を見つけた。洞窟の中には色鮮やかな花が咲いており、蜜の香りに誘われるまま男はその花をたらふく食べた。花を食べた男は己が肥え太ったことに気付かず、出口の穴に詰まり、そのまま石になってしまった。その男の石は今でも洞窟を塞ぐようにして山の中腹辺りにあるのだという。
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「なんだこの話は。おもしろい。おもしろすぎる。」
確か私が高校3年のとき、模試か練習問題か何かの漢文の問に上のようなお話があったような気が。男が洞窟の中で花を食べ過ぎて、肥って出られなくなったなんて、なんておかしな話。くまのプーさん?(くまのプーさん、彼はお友達のラビットさんの家でたらふく好物のはちみつを食べた後に、おなかが膨れて玄関に詰まってしまったことがあるのです。「くまのプーさん 詰まる」で検索すると穴から頭だけのぞかせたかわいらしいその様が見られます。)
あの男のお話の典拠が一体何だったのか、大学生活の折り返しをとっくに過ぎた今でも分からないのです。あまりにも印象的だったストーリーの輪郭は覚えているものの、作者も作品名も分からず、ネット検索にも上手く引っかからず、もはや打つ手なし。ちなみに「趙楷」というのは私が勝手に付けて呼んでる名前ですので、主人公の名前はおろか、職業さえ怪しいところ。元は漢文ですので、もっとあっさりストーリー展開しているはずですし、正直なところ、「男が洞窟の中で花を食べて肥って詰まって石になる」ということ以外は何も確証がありません。もしかしたらこの時点でもうすでに何か違うのかもしれませんし。
どなたか、このお話を知っている方はいらっしゃいませんか。