みなさん、こんにちは。ここです。

早いもので、最後の更新になってしまいました。これまで、ブログ部で私の記事を読んでくださった方々、本当にありがとうございました!

そして、大学も無事に卒業することができました。私にとって、大学は、「自分の好きな勉強に没頭させてもらえる場所」でした。そして、「自分の好きな勉強に没頭する」ことを許してもらえるのは、後にも先にも大学時代しかないだろうと思います。
中学と高校では、どうしても広い分野の勉強が必要ですし、社会人になれば、仕事や自分の生活に時間を割かれる中で時間を見つけなければならなくなります。大学に通わせてもらい、自分の好きな勉強に集中できる環境を与えてもらったこと、本当に恵まれたことで、大切にするべき時間でした。

よく、大学での学びに対する「将来役に立つのか」という問いかけを見かけます。そして、私のやってきた勉強は、「役に立たない」と切り捨てられる方に分けられることが多い。
しかし、私は四年間を終えて思うのです。学部での「専門的な勉学」に対して、社会での有用性を求めることは間違っている、と。

私たちは、大学で、当然より専門的な知識も身につけます。しかし、本当に大学で学ぶことで重要なのは、知識ではないのではないでしょうか。
私たちは、より高度な学びを得るための、目的の設定の仕方や、調査の手段や、思考の方法を学んでいるのです。大学は、高度な学び、高度な思考の「基礎」を身につけさせてもらえる場所だろうと思います。そして、それは絶対に生きていくうえで必要なスキルでしょう。

というか、そもそも物事を「役に立つか」「立たないか」という物差しで測ること自体、なんていうか…ナンセンスですけどね。
無駄なことを楽しめたり、全然完璧になれなかったり、不合理に生きているから、人間は面白いのであって。まあ、そこらへんも文学に触れて実感したものかもしれません。

全然理解できない正義とか全然理解できない感情が確かに他者の内にはあること、逆に、自分が感じている違和感や自分の中にある不満が、他者の内にもあること、そんなことを文学は教えてくれます。ただでさえ複雑で、理解が難しい人間が、異なる時代、世界で紡いだものの中に、何か真理を見出そうとする、その作業が「楽しい」。それで十分人生の「役に立って」いるし、私たちを豊かにしてくれます。

つまり、この世に役に立たないものなんてない!ということです。誰かの視点で、誰かの思想で、「役に立たない」ことや「無駄に思えること」も回り回って何かしらの力になっていくものでしょう。

日本女子大学は、本当に平等に学びの機会が与えられる大学です。与えられたことをやっているだけで、ある程度のことが身についてしまいます。そして、どの先生方も、本当に丁寧に真摯に学びを与えてくださいます。

これから大学に入学される方も、今大学で学んでいる方も、大学で素敵な学びが得られるますように!

それでは、またどこかでお会いしましょう!
さようなら!

師ではないけど走っている

みなさん、こんにちは!ここです。

あっという間に12月になってしまいました。ついこの間2021年になったような気がしていると言うのに…時の流れが速すぎて困ります。
12月というと、師走ですね。僧侶のような人でも走り回る程忙しいから「師走」なんだとか。本当に、年末が近づくにつれてどんどんバタバタしますよね。その分楽しいことも多いですが…

まあ、今の私はバタバタなどというレベルではなく走っているわけなんですけれども。はい。卒論、真っただ中なので。走ってるっていうか全力疾走っていうか、もう走りすぎて力尽きて地にへばってるっていうか…まあ、そんな感じですね。

同時に二つのことが出来ないタチでして、本当に朝から晩まで卒論のことを考えています。考えているだけで進んでないんですけど。いや、本当に考えてるしpcの前に座ってるし、遊んでないし、なんなら図書館にほぼ毎日いるんです!本当です!でも進まないです。なんで?
費やしている体力と進捗が見合わないな…って感じがすごいです。今の時期になって、めちゃめちゃ調査しなきゃいけないことが残っている!というわけではないのですが、いかんせん量が膨大なので、調べた内容をまとめるだけで本当にどっと体力を使います。文章、考えるのむずかし…日本語、難しい。

まだまだ卒論を書き終えているわけではないので、アドバイスというほどのあれではないんですが、今強く思っていることを一つ。

風呂敷は広げすぎない方がいい。

戒め。もちろん一生懸命調べるのは大切です。でも自分のキャパを超えた広げ方をしてしまうと本当に手に負えなくなるので…(と言いつつそこまで私は広げていないんですが。キャパが狭いんですね)

とにかく既定の文字を超えればよいわけで、字数が多ければえらいわけでもすごいわけでも本当に本当にないので、いかに綺麗に言いたい事をまとめてしっかり伝えられるか、これが一番大切!です!!!!!たぶん!!!!!
私の屍を超えてほしい…頼む…

本当に毎日自分の脳のキャパの狭さを恨んでいます。
そんなこと言ってる暇があったら書け、と怒られそうなので執筆に戻ります。

良い卒論書きたいよ~

それでは。

図書館同窓会

みなさん、こんにちは。ここです。

卒論の締切が刻一刻と迫っています。怖いです。
本当に怖いです。

と、言うわけで、最近は図書館に入り浸っているわけなんですが。
みんな考えることは同じですよね。いるいる日文生が。虚ろな目をした卒論に追われた日文生がうじゃうじゃいる。そしてコロナになる前ぶりに会う友人たち。

「久しぶりだねー!卒論、どう?」

という会話から始まり、知る由もない他のゼミの様子だったりコロナの間どうしてたか、とかいろいろな話に花が咲いてしまいます。
私たちの学年は三年生からオンライン授業になって、そのまま四年生に進級して、ようやく最近対面が再開し始めた、という感じなので、もう普段の教室に登校してくる友人は少ないんですよね。ゼミの同期くらいしか会えません。そんな私たちを繋げてくれるのが、一年生の時からさんざんお世話になった図書館なわけです。

図書館は日文生の聖地ですから(違う)

ある日は演習に泣き、ある日はレポートに泣き…そして今は卒論に泣いている。感慨深いですね。
もうこれブログの中で何回か言ってる気がしますが、本当に図書館に住みたい。寝袋持ち込んだらだめか?と結構本気で思うことがある今日この頃です。

そんなこんなで、卒論におびえる日々ですが、卒論のおかげで再会できる友もあり、なんだかんだ楽しいです。
一緒に頑張ろう…友よ…
というわけで執筆してきます。

それでは!

色好覚書

みなさん、こんにちは。
ここです。

なんだか一気に秋が深まりましたね。それでもやっぱり本格的な冬とは違って、昼間はあたたかいので、毎日着る服に困っています。

さて、今日は少し日本文学生らしく、文学的(?)な話をしてみたいと思います。というのも、卒論の為に調べて面白かったこと、考えたことがあったので、感想というか、主観が入りまくりな解釈というか、そういうものをダラダラ書き連ねてみようかな、という感じです。
一応調べたことに基づいて考えたものではありますが、全くをもって正当と言える情報ではありません。
こういう風に思う奴もいるんだなあ、と思いながら読んでいただけると幸いです。

「色好み」という言葉は聞いたことがあるでしょうか?簡単に言うと、恋愛を沢山楽しむ人のことです。
王朝時代は、こういう類の人々が評価される時代でした。かの有名な光源氏も、数多の女性と様々な恋愛をしていますよね?近代の女性から言わせてみれば、「とんだ遊び人だ!浮気者!」といった具合になりそうな人ですが、彼は王朝の時代にあって、理想的な貴公子だったわけです。
それは、この「色好み」と評されるような、多情な人に当時の人々が憧れたからに違いありません。現代からすると「うん?」となりそうなところですよね。

ちょこっと文学を齧っているだけの私のような人間でも、こういう価値観のギャップには苦しむことはとても多いです。
近代に生まれ育った私たちが、意識せずに古典文学を読んだ時、その本当の面白さはたちまち消えてしまいます。「え?なんでこんなことするの?」とか「え?なんでこんな人に恋するの?」とか…色々な疑問に邪魔されて、「うーん、なんかよく分からない話だな」という感じになってしまう。

それで、じゃあ今度はその価値観を理解してみようと色好みについて調べ始めると、難解な言葉に翻弄されて、結局自分の体の中に落とし込みきれずに終わってしまったり。(と言うか私はいつもこれです)

まあ、卒論に使う時などは綺麗で正しい言葉を使って述べられている方が良いので、そのままでいいのですが、自分の世界に少しでも引き寄せて砕いて考えてみた時、(それが正確かどうかはひとまず置いておいて)面白い!と思える瞬間があるんじゃないかなあ、と私は考えています。

で、まあ、要するに、「色好み」なんて言葉で言われるとちょっと遠くにお綺麗に見えるけれども、結局は「モテ」に社会的に広く価値を認めていた、ということなんじゃないかなあ…と私は思ったわけです。

「モテる男/女」に憧れる!って言葉になると急に分かりやすいような気がしませんか?
清少納言が『枕草子』に書き残した、いろいろな男性とウィットに富んだ掛け合いをするような女性は、現代でもかっこいいなあって思われるような気がします。男性についても同様。学校1のモテ男(チャラい)と恋に落ちる!という感じの物語は沢山あります。モテる人は魅力的、要約するとこれだけなのでは。と思うわけです。

一夫多妻制で、社会が全面的に「モテ」に価値を見出している世界で行われると、流石にちょっと乱れ過ぎじゃない…?と言った感じで、我々からすると少々ぶっ飛んでいるというか、変に見えてしまいますが、根本的な人間の思想というか価値観は、すごく身近に感じられるものなんじゃないかと思います。

実際、一夫一妻制である現代でも、明確な恋人関係を結ばずに色々な人と遊ぶのが良い!楽しい!という価値観の人も結構いますよね。それがデフォルトの世界が王朝の世界だったということなんじゃないでしょうか。

まあ、もちろん当時でも嫉妬深く束縛する人はいたようですし、庶民は全くこんな風じゃなかったという見解もあるようなので、一概に全員が全員そうだったとは言えないのですが、こういうゆる〜い見方というか、自分の世界に引き寄せて考えてみると、古典が読みやすくなると思うのです。

多分もっと早く気づいて取得しておくべき技術だったのだと思うのですが、なんだかんだ頭で分かっていても自力で辿り着くにはしっかり4年かかってしまいました。
でもやっぱり、こういった自分の中でちょっと成長したな〜と思える瞬間があるととても嬉しいです。前より古典を広い視点で楽しめているような気もするし。

最初にも書きましたが、これはあくまで「色好みを調べてみて何となく浮かんだ私の感想」でしかないので、全く役に立つものではないし、しっかりとした論拠があるわけでもありません。
でも、単純に作品を読むだけならこれくらいゆるく噛み砕いて読むのも面白いのでは?思ったので語ってみました。

卒論は大変ですが、楽しいです。こういう全く卒論に関係ないような思考に耽るのも楽しい。まあ………大変ですけど……。
いい勉強になるなあと日々思っていますが、そんな呑気なことを言っていられる時期でも無くなってきてしまったので、気を引き締めて頑張りたいと思います。

それでは。また。

日本語さえままならぬ

みなさん、こんにちは。ここです。
ようやく、少し秋らしくなってきたような気がしますね。

さて、現在、卒論について絶賛頭を悩ませております。(発表が明後日なので…)
今回は、愛する作品から少し外れた部分について調査していたのをまとめているので、軽くホームシックに陥っています(笑)

卒論に限らず、レポートなどを書いているときもたまに思うのですが、文学以外の分野に踏み出さざるを得ない時の不安ってすごいんですよね。読む本もそこに出て来る単語も、慣れないものばかりで、理解に数倍時間がかかります。(文学系でも時間かかるのに…)さらに、これ、どこまで調べたら調べたことになるんだろう…?という気持ちで常に進まなければなりません。まあ、卒論をやっているときは常に、どこまでいけばいいんだ…という気持ちではあるのですが、大筋から外れている分、ここでそんなに時間を食っていてはいけないのでは…という焦りがすごいです。

ただ、実際知らない分野を知れるというのは面白いんですよね。特に”読んでいて”おもしろいなあとよく思うのは民俗学の本です。普段意識していない部分を掘り下げると言うか、曖昧に処理してしまっているものの核心に迫っていく感じが、わくわくします。あくまで、読んでいるぶんには、です。とても卒論で扱いたいとは言えないです…難しい…

今読んでいる本なんて、内容も難しいのに、字さえ読めない(異字体パラダイス)ので、手元の箱を手放すことができません。外国語の本読んでるみたい。
頑張ってもうすこし異字体と戦ってきます。

それでは。

文章

みなさん、こんにちは。ここです。

今何と卒論を書いています。嘘です。まだです。正確には中間レポートです。
とりあえず卒論の規定の半分を書くわけなんですが、今までいろいろと調べてレジュメにまとめてきたはずなのに、まるで文章になりません。助けて。

文章を書いていると思うのですが、「言語化」の作業の体力の消費量って凄まじい。
本当に段々頭痛がしてくる。人間の扱うもののなかで、結局「言語」が一番難しいのだろうと実感する瞬間です。

「書きたいこと」はあるんです。でもどう書いたらうまく伝わるのか、それがさっぱりわからない。脳直でだらだら書いていると同じことをなんども言っているし、回りくどいし…目も当てられない文章ができあがります。このブログも十分回りくどくてうざったいかもしれないんですけど…お許しください。

また、難しさとはべつに、こう、ちょっと恥ずかしいのが、卒論とかレポート系の文章って、そのときよく読んでる研究者の方の文体に似てきちゃうんです(私だけですかね?)
なんか、こう、それがバレたら恥ずかしいな…って…
なんかこう、隠れてアイドルのオタクしてたのバレた時みたいな、そういう恥ずかしさがあります。

かっこいい文体、手に入れたいなあ…ハウトゥー本とかあるんですかね?
良い文章書ける人に憧れながら今日も生きています。

それでは。

流行にのるのも

みなさん、こんにちは。ここです。
夏、終わりましたね。信じられますか?信じません。後期が始まるなんてそんな。そんな馬鹿な。私は信じない。

先日、流行りの「東京リベンジャーズ」の映画を見に行ってきました。なんかこう、流行ってるからってすぐ飛びつくのも…ねえ…?みたいな謎感情(でもよくある感情ですよね)で手を付けていなかったのですが、豪華俳優陣に惹かれて原作を一気読みして映画館に飛び込みました。

これ、なんども言ってるような言ってないような気がするんですけど、少年漫画っていいですよね…

やっぱり伝わってくる熱の量が違うと思うんですよ。莫大な熱が身体を駆け巡るかんじ。それでいて、その熱がひたすら真っ直ぐで、ちょっと耳が痛いような、背筋を正されるような、そういうかんじ。いいですよねえ。

実際、たかが漫画とか言われそうなもんですけど(このブログを読んでくださってるような方々の中にはいなさそうですが…)、その力ってバカに出来ないと思います。学ぶことも多い。難解ではないものが多いぶん、こちらがわも、考えるより先に身体でメッセージを感じ取れる気がするんです。

東リベ、いわゆる不良モノというのが適切なんでしょうが、その言葉のイメージだけでは測りきれない作品だったので、まだ読んでいない方はぜひ。
流行っている作品には、流行るだけの理由があるのだから、謎感情に支配されずに素直に履修するのが良し。

それでは。

描いたミライ

みなさん、こんにちは!ここです。

8月も終わりかけですが、いかがお過ごしでしょうか?
今年の夏は涼しい夏でした!一歩も外に出ていないので!

いやさすがに嘘なんですけどね。
でもほぼ出てない…ですね…外界…………

クーラーと愛し合って生きているので毎日快適です。夏らしいことは何もしていません。内定先の課題とか、卒論とか卒論とかいろいろしてました。まあ、卒論に関しては悩んでるだけで時が過ぎ去るというのが常なんですけれども。

大学最後の夏なのに、こんなんでいいのか?という気持ちはもちろんあります。でも仕方ないじゃないですか!だって夏らしいことする雰囲気じゃないでしょう!世間!悲しい!

大学四年の夏なんてブイブイのブイなんだろうな~と思っていた時期が私にもあったはずなんです。申し訳ない、過去の私。まあ時勢とか関係なく私自身がしっかり日陰の人間なので、幼き私の思い描いた大人のお姉さん的なものにはなれないですけどね。

子供のころ描いていた将来の私、一つも達成できてないな…と時々悲しくなります。そういうものを抱えて歩くのが人生なのでしょう。切ないですね。
私、まだ脳が子供なので、キラキラOLになれるんじゃないかという淡い期待がないではないのですが、これもきっと裏切られるんだなあ。

がんばって理想の自分になりたいものですね。

それでは。

原点回帰

みなさん、こんにちは。卒論に毎日悩んでおります。ここです。

新しい年度が始まり、早いものですでに2ヶ月が経過しようとしています。4年生の私は、粛々と卒業論文をすすめなければならないのですが…

難しい!

何がと言われると困るのですが、こう、情報の整理をするだけでてんやわんやになってしまってそこから先に全く踏み出せなくなります。なんていうか、まだ泳ぐ術をしっかり身に付けていないのに荒れた海の中に放り込まれた感じ。

私は深夜に思考がはかどるタイプなので、深夜に一人机に座って考え込んでいるのですが、整理しきれていない情報が頭の中で氾濫しているので、思考がとっちらかってしまいがちです。そういうときは、Twitterに誰に見せるわけでもない感想のノリで呟くと少し頭がすっきりするんですよね。「いや、てかこうじゃね?」「そもそもこの人行動がおかしすぎるやん」みたいな感じで。たまに優しい友人が相談に乗ってくれたり意見をくれたりするので本当に助かっています。ありがとう。深夜に奇怪な長文を連投する人に優しくしてくれる人がいる。世の中捨てたもんじゃないですね。

そして最近思ったのが、「え、そもそも私なんでこの作品面白いと思ったんだっけ?」ということでした。「何言ってんだ?」と思われてしまうかもしれないのですが、「卒業論文」という大きな目標にばかり目がいってしまって、そもそも私は何故この作品を扱いたいのか、なにが面白かったのか、という最初のスタート地点を見失ってしまっていました。「面白さ」の部分を見失ったまま作業をすると本当に苦しくなってくるんですよね。

そういう意味で、「おもしろ!」というとても単純な感情は大事にしておくべきだなと思いました。それだけで卒論はかけないですが、それがないと絶対に苦しいんじゃないかと思っています。

まあ、原点を思い出しただけで私の頭が良くなるわけではないので、相変わらずろくに前に進めず毎日泣いていますが…以前よりは楽しさがあるので良しとします。

それでは、また。

ますく

みなさん、こんにちは。ここです。

もうすぐ五月ですね。四月もあっという間でした。気が付いたら終わってる…四月の思い出と言えば就職活動くらいなもので、悲しい限りです。

最近、スマホの画像フォルダを整理しました。
この一年はほとんど写真がなかったのですが、もう少し遡るとマスクをしていない写真が出てきました。

その時「そうか、この時はまだマスクをしなくてもいい時期か!」と思ってしまいました。

慣れというものはすごいものだなあと。マスクをしていないことに違和感を抱く時が来るとは思いもしませんでした。私はもともとマスクがとても嫌いで、最初の頃は本当に苦痛でした。それが今はマスクをつけていないことに違和感を覚えますし、外に出るときに口元が覆われていないと落ち着きません。
なんなら、ちょっとマスクを外した顔を見られるのが恥ずかしいとさえ感じます。ここまで書いていて、まるで平安貴族の女性みたいだなあと思いました。当時の女性もこんな気持ちだったのでしょうか。

流行り病が終息して、元の生活が戻った時、世間の人々はマスクを外すのでしょうか。なんだか、備えあれば患いなし的な思想でそのまま外出時はつけるのが当然という風潮になるような気もします。

こうやって生活とか世界は変わっていくのかもしれませんね。そのうち、「元の生活」ってどんなだっけ、と思うようになりそう。ちょっと怖いですね。


それでは、また。