こんにちは、あこです。
いよいよ、最後のブログ更新です。
大学生活4年間を振り返ろうかな。ブログ部での活動を振り返ろうかな。家族や友人、先生たちへの感謝の言葉を綴ろうかな。卒業式の話をしようか。4月からの抱負を書くのもいいかも。
考えてないようで、色々考えていた、最後のブログ。
けれど、何事も予定通りにはいかないものですね。
書きたいこと、いや、私が書かなればならないことが、分かってしまいました。
最後くらいカッコよく終わりたかったけれど、カッコ悪いまま終わるのもまた、あこらしいのかも。
乱文の予感。
そうかもね。いや、きっとそうだ。
“痛い”ブログになるかも。
うん。私もそんな気がする。
やっぱり、内容を変えた方が良い?
それもアリだね。でもきっと、3月中には間に合わないよ。
そもそも、ご自分が”上手い”ブログを書けるとお思い???
確かに。それもそうだ。
今更、何も気にすることはない。
いつも通り、とりあえず書いてみよう。
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昨日、弟と大喧嘩しました。
もちろん「お前なんて大嫌いだ!」「バーーカ!バーーカ」「バカって言う方がバカなんだ!バーーカ!」みたいなかわいい(?)喧嘩ではないですよ。
姉(22歳)と弟(20歳)が己の命と誇りを賭けて闘う、例のヤツです(激やば)
序盤は、いつもの喧嘩でした。(”いつも”とは)
①些細な出来事が起こる→弟不機嫌になる
②(弟曰く)あこが棘のある言い方をする→弟かちーーん
③かちーーんの態度に対して、あこが一言申す
④弟、更にかちーーん
⑤口を出すなと言われ、あこもかちーーん→解散
はい、ここまでは世間様でもよくありますよね(圧)
些細な出来事始まり、険悪ムード終わりってヤツです。
こういう時は、時間が大事。
とにかくその場を離れて、それぞれの部屋に引っ込む。お互いに顔を合わせない。
大体、それでどうにかなります。(あこ調べ)
ただ、昨日はそうはならなかった。
色々あって前日の出来事が持ち出され、互いが感情的になり、昨日どころか過去の出来事まで遡り、母も巻き込んで、更にヒートアップという、稀に見るカオス具合でした(恥を知れ)
因みに、”前日の出来事”とは、昨日の前日、つまり一昨日の夜に行われた、弟に関する話し合いのこと。
まぁ”話し合い”と言うよりは、弟が話をして、私と母が「いやちょっと待て」「〇〇についてはどう考えてるんだ」「⬜︎⬜︎はどうするの?」と、ツッコミ&質問をしながら聞いている、という感じ。
本当は話の内容を書いた方が分かりやすいと思うのですが、その内容があまりにアホ&突飛すぎて、今の段階で人様にお話できるような話ではないので、内容は伏せておきます。
まぁとにかく、突飛でアホだけど、真面目な弟の話を、私は前日に聞いていたワケです。
ただ、それは私にとってあまりに衝撃的で、昨日もずっと、頭のどこかに”その話”がありました。
だからこそ昨日はいつもより感情的になったし、私自身がカチンときたし、”落ち着く”ことができなかったのだと思います。
そしてその大喧嘩の中盤。私は弟にこんなことを言われました。
「あこはいつも、俺を見下してる。それが本当に許せない。俺が中学の時だってそうだった。
俺が、テストで学年1位だったって言ったら、「あなたは〇〇中学で1番なんでしょ。そんなの大したことない。私は日女で3番なんだから。」って、言ったじゃないか。そういうところが、本当に嫌なんだ!!!」
衝撃でした。
正直、その発言自体は覚えていません。ですが、似たような事に関する別の発言で、母にこっぴどく怒られた記憶は鮮明にあります。つまり、こういった発言は1度や2度ではなかった、ということです。
自分の発言について、弁解するつもりはありません。学校の知名度や偏差値について何かを言う、更には、比較してバカにしたような発言をするというのは、最低な行為です。
自分の発言を正当化するつもりもありません。というか、どこをどう切り取っても、どんなに”良い”解釈をしようとしてもできないくらい酷い発言だから、正当化なんてできるはずがありません。
ただ、そんな発言をしておいて「信じてくれ」とは言えませんが、今のあこは、あの時とは違います。
結果として、弟は大学受験をし、他大学へ進学しました。ですが、もし彼が受験をしなくても、そしてもちろん、弟ではない方々に対しても、あの時のような思想を持って、あの時のような発言をすることはありません。
でも。
今の私がどんなに反省し、あの時から”変わった”と言っても、あの時の言葉が、あの時の”傷”が、”なかったこと”になることはありません。
私はあなたのことを見下していない。あの時はそう言ってしまったけど、少なくとも”これまでずっと”見下していたなんてことは、絶対にない。本当は、怖かっただけ。秀でていない自分を認めるのが、怖かっただけ。
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ずっと、弟より秀でていたいと思って生きてきました。
「優秀でありたい」というプライド以上に、「秀でていなければ」という焦りがありました。
生まれながらに心臓が弱かった弟。入退院を繰り返し、幼い頃は、目の前で何度も、救急車で運ばれていきました。
その度に、私は祖父母に預けられ、母はポテトチップスと短い手紙を置いて、付き添いのため、足早に病院へ向かいました。
祖父母は優しすぎるほどに優しかったし、その頃は曽祖母も生きていたから色々な意味で活気もあって、普通の家族のようでした。
小学生になると、私は”弟の姉”になりました。
弟が休むたび、職員室へ、連絡帳を届けに行きました。
「〇〇君のお姉ちゃん」
私のことを尋ねた校長先生に、担任の先生は、そう答えました。
「ああ、〇〇君のお姉ちゃんね」
校長先生はそう言って、教室から出て行きました。
他の友達は、その子自身として認識されているのに、私は”〇〇君のお姉ちゃん”でしかない。
姉や兄を持つ子達が、「〇〇ちゃんの妹さん」「〇〇君の弟くん」と言われるのは、分かる。
だって、姉/弟より「後」に、入学しているのだから。
でも、私は、弟より2年も「先」に入学した私は、なぜ「〇〇君のお姉ちゃん」と呼ばれなければならないのか。
私は、「私」ではない。
「〇〇くんのお姉ちゃん」という言葉は、重く、重く、私にのしかかってきました。
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命の危険がある息子と、命の危険がない娘。
病を抱えた孫と、病を抱えていない孫。
手術が必要な弟と、手術の必要がない姉。
どちらが”大変”か、どちらに手をかけるべきか、それは明らかです。
もちろん、私も分かっていました。小学生、何なら弟が生まれた時から、分かっていました。
それでも、やっぱり、心のどこかで、私を優先してほしい気持ちがありました。
私の話だけを、聞いてほしい。私のことだけを、見てほしい。私のことだけを、考えてほしい。
何かがあった時、もしも何かが起きた時、私はきっと、”優先”されない。
例え、”その時”までは、私のことだけを見ていたとしても、”その時”が来たら、きっとみんな、弟の方へ行ってしまう。
当然のことです。別にそれが「弟」と「姉」でなかったとしても、人として、それは正しい選択です。
だけれど、最後に選ばれるのは、私ではない。
その悲しさと一抹の不安感は、言葉にできないモヤモヤ・イライラとして、心のどこかに、居座り続けました。
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私は中学受験をして、女子校へ入りました。
女子校なので、弟は入って来られません。
「弟がいる」
そう言わない限り、私に弟がいることは誰も知りません。
「〇〇君のお姉ちゃん」
そう呼ばれることも、もちろんありませんでした。
弟は、中学受験をして地元の私立へ入りました。
本当は、別の中学を受験したいと言っていました。塾の集団クラスに入って、皆と一緒に勉強して、皆と同じように受験をしたいと、思っていました。でも、それは体力的にできないから、個別教室で対策を重ね、地元の私立中学へ入学しました。
そして、勉強に目覚めて、ぐんぐん成績を上げていきました。
私はそれが、怖かった。
小学生時代、私の方が勉強ができました。
中学時代も、紆余曲折はあったけれど、そこまで”悪い”方ではありませんでした。
「勉強と運動だけが、判断基準ではない」
「人間としての豊かさとは何か」
勉学はもちろん、運動や芸術に長け、様々な経験を積み、自分たちらしく、自分の人生を強く生きようとする友人たち。
勉強はその人の”一部分”でしかない、ということはさすがに分かっていましたが、それでも自分が”頑張っている”対象としては、やはり”勉強”がありました。
私と弟の道が、再び重なるような気がしました。
ただでさえ”関心”を引く弟なのに、私よりも”優秀”になってしまったら、私はどうなってしまうのか。
私の分野に入ってこないで。これ以上、私を”サブ”にしないで。「〇〇君のお姉ちゃん」にしないで。
負けたくない。そういう気持ちも、もちろんありました。
だけれど、ええ、この際、ハッキリ言いましょう。
私は、弟にコンプレックスがありました。
人に優しく、人に愛される弟へのコンプレックスと、家族に構ってもらえることに対する嫉妬心とが、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っていました。
実際、「私の分野」と言うほど、私は成績がめちゃめちゃ良かった訳でも、周囲から一目置かれていた訳でもありません。
でも、当時の漠然とした「弟より秀でていなければならない」という焦りは、真っ直ぐそのまま”勉強”に向かっていました。
正直、その焦りがいつまで続いたのか、私は覚えていません。
こんなに「焦りが〜」とか「不安感が〜」とか言っといて何だよって思われるかもしれないけれど、本当に、分からないのです。
個人的には高校2年以降は色々安定してきてた(気がする)ので、高校1年生の時には抜けてきていたのでしょうか。よく分かりません。
でも、きっと、弟にそう言った時には、まだまだ”渦中”だったのだと思います。
だから許して、なんて言えないけれど、あの時はごめんね。本当に、酷いことを言いました。
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3年間、ブログ部員として、自分と、そして自分の言葉と、向き合ってきました。
卒業式では、答辞という大事なお役目をいただき、多くの方々の前で自分の言葉を話すという、大変ありがたい機会にも恵まれました。
あこちゃんの文章はリズムが良くて、心にスッと入ってきたよ。
あこちゃんの文章は、穏やかさの中に”熱さ”があるよね。
あこさんの優しい人柄が、滲み出ていたと思います。
そう、言ってくださる方々がいました。とても嬉しかったです。
言葉は、目には見えません。
書き残したり、録音したりしない限り、記録に残ることはありません。
しかし、言葉は残ります。
人の心に、人の思い出に、記憶として、残ります。
なかったことには、できません。
“撤回”することも、できません。
言葉は、時に優しく、時に厳しく、誰かを勇気づけるかもしれません。
言葉は、時に寄り添い、時に励まし、誰かの傷を癒すかもしれません。
言葉は、時に鋭く、時に無遠慮に、誰かの心を引き裂くかもしれません。
誰かを思い浮かべる時、どんな言葉が浮かびますか。
人生を振り返る時、どんな言葉が思い出されますか。
あなたは、どんな言葉と共に生きてきたのだろう。
そして私は、どんな言葉をかけて生きてきたのでしょう。
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ブログ部員として活動した約3年間。
3年間の私の言葉が、ブログとして、ここに残っています。
これらの言葉に、嘘はありません。
もちろん、今日のブログにも。
その時、その時に、思ったこと・感じたことを書いてきました。
心は常に、変わっていきます。
心は、ナマモノです。
その時でなければ、感じることができません。
その時でなければ、書くことはできません。
だけど、”言葉”は違います。
(筆者/発話者の意図に関わらず)、”その言葉”として、相手に、そして未来に、残ります。
4年間、言葉と向き合ってきました。
22年間、言葉を使って、生きてきました。
これからも、言葉と共に、生きてゆきます。
私の人生の側には、いつも言葉がありました。
あなたの人生の側にも、きっと言葉が、ありました。
人は、言葉を紡いで生きてゆく。
私は、私の言葉と共に、生きてゆく。
どんな言葉を、かけたいか。
どんな言葉を、残したいか。
どんな言葉と、生きたいか。
これまでにかけられた言葉。これまでに紡いだ言葉。これまでに、出会った言葉。
全部、全部抱き抱えて、私たちは前へ進みます。
ありがとう。そして、ごめんね。
お世話になった、全てのひとへ。
あなたの人生が、あなたにとって、素晴らしい日々でありますように。
健康で、幸せで、そして平和な日々で、ありますように。
あなたがあなたとして、生きられる日々でありますように。
また、どこかでお会いしましょう。
それでは、また。