👻🍭🎃🕸🦇

こんばんは、めいです。

推し!!
カムバ!!!
しました!!!!
わ〜〜〜い!!!!!(パチパチパチパチ)

今回も最高です。かっこいいです。すきです。
MV、ダンス練習動画、ビハインド動画、音楽番組、バラエティ番組etc… 活動期間に入ると途端に供給がハイペースになるので、追いつくのに必死です。でもそれすら嬉しいので、ニヤニヤしながら一つ一つ観ています。

前回のブログでカムバの前に気が重い予定があると書きましたが、それもなんとか完遂することができました。
想像通り、もしくはそれ以上にハードだったはずなのに、終わってしまうとそこまで言う程でもなかったような気がしてしまうのは何故なのでしょう…。都合が良い頭なのかなんなのか、こういうパターンがよくあります。が、何はともあれ、無事に終えられたので良かったです。

そして先日は、ゼミの後期発表がありました。前期はZoomでしたが、後期は対面。スクリーンにパワポ資料を映して皆の前で喋りながら、「ゼミっぽい…!」と思いました。どんな感想?
Zoomだと皆の顔も見えずパソコンに向かって一人喋りだったので、多少緊張はしますがやっぱり対面の方が良いなぁと。こちらも無事に終えることができて、一安心です。発表後新たにやるべきことがいくつも出てきたので安心は嘘かもしれません。ガンバルゾーー ^_^ ^_^

ちょこっと近況報告でした!

カリカリ

夏のような暑さが10月も続き、おかしいなあと思っていたら、あっという間に肌寒さが到来しましたね。秋の心地よさは何処へ??風邪をひかないようにしなくては!

本日の担当は…(略)

突然ですが、みなさんに質問!鰻はふわふわ派?カリカリ派?

私は、絶対にカリカリ派〜。昔からカリカリな鰻しか食べないという愛知出身の母や親戚のおかげで、私もそれが当たり前だと思っているのです。関東ではふわふわの鰻が主流かもしれませんが、ちと未知の世界で…あっ、これでも1回口にしたことはあるんですよ。ただ、うーんなんか違うっていう思いが😣ちょっと冷めていたからかもしれませんが、そのとき断然カリカリ派を確信しました。よって、家から徒歩5分の鰻屋も未だチャレンジできていないのです。まあ、いつかね^^;

さて、先日祖母の病院の付き添いで愛知に行ったのですが、その帰りに行ってきました~「あつた蓬莱軒」!名古屋で有名な鰻屋です。この鰻のために10月のあの課題もこの課題も頑張ったのですから😼残念ながら、関東で味わうことはできません。名物「ひつまぶし」はまあまあボリューミー。鰻に染み込んだタレも味わい深いもの。「宝石箱や〜」なんて上手な食レポはできないので、これは実際に味わってくださいね♪はじめは鰻本来の味を楽しみ、二膳目は海苔やわさび、ねぎといった薬味を加える。そして、三膳目はお茶漬けにして食べ、それ以降は好きな食べ方で楽しむというのが「ひつまぶし」です。歴史のあるお店ということもあり、お店はなかなか賑わっていますし、雰囲気も趣があります。地元の人が多く来店する中、関東に住む私はこのカリカリな鰻が自分の目の前にある嬉しさ、これを食べ終えたらしばらくは食べることができない寂しさを感じながら、大事に大事に食べました。大げさかもしれませんが、何度も言うように関東では巡り合えない貴重なお食事なので。鰻を思う存分頬張り、うまく表現できないほど大満足なのですが、やはりカリカリな鰻しか勝たん🥺と改めて思った瞬間。(~しか勝たん🥺と言っておきながら、言葉に見合うだけのキラキラさを私が持ち合わせていないことはわかっていただきたい。)ふわふわな鰻にはまだ当分チャレンジできない気がします。ぜひふわふわ派の方は、美味しいお店を私にプレゼンしていただけると!みなさんは、この食べ物は断然〇〇派というものがありますか?大学は様々な出身地の学生が在籍しているので、いろいろ意見交換してみるのは面白いかもしれませんね☺️

それでは、また!本日の担当はあやでした〜

再会

私が日本文学科に進もうと考えたきっかけは、高校2年生前期に古典の授業で和歌に触れたことでした。更に後期では、古典は『伊勢物語』現代文は夏目漱石の『こゝろ』を読み、この2作品で日文への進学の思いは固まったのでした。
今は中世で卒論を書いていますが、振り返れば高校生の時に『こゝろ』を読んだことで今の私がいます。
「自由と独立と己れとに満ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」※
この一文を読んだ時の衝撃、「私」と「私以外」を自覚した時の悲しみと戸惑いが、生き方の一端を作っているといっても過言ではありません。

通っていた附属高校では、作品を抜粋ではなく文庫本で読みます。そのため、2年生最後の数回は「下 先生と遺書」を読んだと思うのですが、授業を聞きながら私は一人涙をこらえるのに必死でした。それは、「先生」が悪いとか、そういう単純なものを越えて、正しさや倫理観をかざした「利己心」は誰にでもあることを知り、そして人生の上澄みの純白な部分だけを掬って生きることはできないのだと実感したためでした。自分にどう責任をとって、孤独と向き合っていくか、生きることは思っていたよりも淋しさとともにあることを意識しました。
更に、ちょうどその頃(振り返ってみれば)色々な面で一番辛い時期だったため、その時の体験や思いと『こゝろ』の内容が心の内で深く重なっています。その意味でも、『こゝろ』は忘れられない作品です。

ただ、授業時に使っていた文庫本を私は紛失してしまいました。その文庫本は、中学1年生の夏休みに購入した新潮文庫のプレミアムカバーでとても気に入っていたのですが、高校卒業後もう一度読みたいと思った時部屋の隅々まで探しても見つからなかったのです。授業内容はほとんどノートに取っていたので見返せば良いのですが、多少は本にラインを引いたり鉛筆で印をつけており授業を受けた時の軌跡が残っていたので、失くしたと気が付いた時は相当ショックでした。
そして今年、もう見つかることはないと諦め、夏にプレミアムカバーの文庫を買いました。材質は変わっていましたが、真っ白なカバーと金の刻印は同じで素敵な装丁です。読むというより、手元に置いておきたかった、という方が強いかもしれません。

そして、夏が過ぎ秋を迎え、卒論提出が近くなってきた今日の朝。
寝ぼけたままリビングでお茶を飲んでいた私は、キッチン横の籠の中から微かに見える本の背表紙、「文庫」の文字に不思議と引き寄せられました。母の書類などを入れているので私は中身をよく知らないのですが、恐らく籠の中の光景はずっと変わっていなかったはずです。けれども、今朝は妙にその「文庫」に目がいったのです。
私はてっきり母が友人に借りた本だと思っていて、しかし本のタイトルが気になり、中から引っ張りました。
それは、あの失くしたと思っていた『こゝろ』でした。

数年ぶりの再会に驚くとともに、ずっと身近にあったはずなのにどうして気が付かなかったのか不審に思いました。母に聞いたら、籠の中の方は普段見ていないから分からなかったと。そもそもなぜその中に紛れてしまったのか、若干顔を出していたにも関わらずどうして目に留まらなかったのかと、何もかもが不思議な出来事でした。
でも、ともかくも長く紛失した思っていた大切な本は、私の手元に帰ってきました。

本を開くと、5年前、確かに書き込んだ跡が残っており、重要なページには付箋もついていました。パラパラと拾い読みをしていると、授業で『こゝろ』を読んだ時の心の動揺と、その時に抱えていた苦しみが思い起こされました。
私はあの時、毎日を生きるのに精一杯でした。自意識過剰な気もしますが、終わりのない悲しみの海にいるような気分でした。日文に進学することは決意していたけれども、大学生になる自分を全く想像することはできなかったし、まして卒論を書く姿は、星のように遠い気がしていました。

今、私は卒論を書いています。
これで良いのかと毎日迷いながらも、確かに今までの知識の蓄積の上に立って、試行錯誤を繰り返しながら進んでいます。
その時に知り得なかった私になっていることに深く感動します。そして卒論でくじけそうになっていた私に、『こゝろ』は日文に進もうと考えたことー初心や原点ーなるものを思い出させてくれました。読んでいた過去の私が今の私を励ましてくれたのです。

あの時の苦しみが、今の原動力になるなんて。
本を見つけるタイミングが、あまりにも運命的です。
時は一方方向にしか流れない、この瞬間から過去を眺めることしかできないと思っていたのですが、時間、時間の中で紡がれる経験はそれぞれが反照し合う、相互補完的なものだと知りました。そして、あの時に流せなかった涙がこぼれました。


過去から今に投げかけてくるもの。愛おしい本との再会は、今の私を助け、そして悲しみの記憶を少しだけ解放してくれるものでした。

過去の私に、心からのありがとう。

卒論提出が迫ってきています。
不安は尽きないけれど、今できることを精一杯する以上のことはないのだと信じています。
来週は大学生最後の演習発表です。悔いのないように頑張りたいと思います。

※夏目漱石『こころ』(新潮文庫、1952年、改版2004年)p.47

一期一会。

こんにちは、あこです。

最近、晴れた日には外へ出て、空を見上げるようになりました。

きっかけは、”雲研究者”の荒木健太郎さんに密着した某番組を観たことでした。荒木さんは気象庁の研究機関である「気象研究所」に勤務する研究官の一人で、防災・減災のために”雲”の研究を行なっています。Twitterで色々な雲の写真を発信したり、『天気の子』の気象監修を担当したり、『天気の図鑑』を始めとした様々な本を出版したりなさっているため、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。お恥ずかしながら私は存じ上げなかったのですが、この番組を観て「こんな雲があるんだ」「私も見てみたいな」「雲の名前がわかったら面白いだろうな」と思い、今は図鑑・写真集の情報を集めています。ですが「これだ!」という運命の一冊には未だ出会えず。気長に探そうと思います(笑)

話を空に戻しましょう。

今お話ししたように私は某番組を観て”雲”に興味を持ったのですが、と同時に「あれ、空を最後に見たのっていつだっけ」と思いました。週の半分以上がオンライン授業とは言え、アルバイトや近所のお出かけ、散歩などでそれなりに家の外へは出ています。ですが、空を見た記憶が全くと言っていいほどなかったのです。

もちろん、道を歩くときは前を向いていますし、電車には大きな窓がついています。空が全く見えないということはあり得ません。私が”見て”いなかったのです。”視界に入れた”だけで、”見て”はいなかったのです。

それからというもの、晴れた日には極力外へ出るように心がけ、外へ出た日には必ず空を見上げるようになりました。雲の名前なんて全く分かりませんし、写真を撮るわけでもありません。だけれど、空を見るとなんだかホッとして、今日も幸せだなって思って、でもちょっぴり寂しさも感じて。

心が洗われる。

そんな気が、するんです。特に何か嫌なことがあったわけでも、精神的に追い詰められているわけでもありません。ただ、目まぐるしい日々の中で、ゆっくりと、しかし堂々と流れていく雲を見ると涙が零れそうになります。頑張ることに疲れて、自分を奮い立たせることに疲れて、でも頑張りたくて。そんな気持ちが、サァーっと流れていくのを感じるのです。

*****

私たちは日々、色々なものを見ています。でも、それは本当に”見て”いるのでしょうか。”視界に入れる”だけで、”見えない”ふりはしていませんか。”見る”べきことから、目を背けてはいませんか。

大人になるにつれて、”見ない”ことが上手くなったような気がします。”見えた”ことを、あたかも”見えていない”ようにする技術も、備わってしまいました。

“見ない”方が楽なことは多いです。”見えなかった”と言えば、誰からも責められないのですから。でも、誰もが”見ない”選択をしたら、それは、その人は、”なかった”・”いなかった”ことになってしまいます。それはあまりに寂しくて、悲しいことです。

*****

空を見るようになって、他のものも”見たい”と思うようになりました。全部を”見る”ことは無理かもしれないけれど、少なくとも”見ない”という選択や、”見えない”ふりは、したくない。そう思っています。

皆さんは最近、空を見ましたか?顔をちょっとだけ上げて、目線をちょっとだけ上げて、是非見てみてくださいね。荒木さん曰く、「雲は一期一会」だそうですから。

それでは、また。

原稿やってねえなら

ご無沙汰しております、みちるです。

健康と信念の問題が我々を闘わせるんです。

「違うだろ、違うだろ!!!」

どう違うの?

「物質-非物質の問題、その止めどない分裂から[闘い]が巻き起こるんだ。言うべくもなく、議論は踊る」

・・・
闘いって、なんの闘いですか?我々って誰なんでしょう。

「君も当事者さ。そしてもうすぐ法的にその議論のフィールドへ”或る立場”をもって入り込むことになる――もうすぐ二十歳になるでしょう、そういうことです」

そう、もうすぐみちる(の中の生物)は二十歳になります!叶うなら、お誕生日にはあなたの愛を一滴くださいな。
――それはそれとして、質問の答えになってますか、それ。

「・・・未成年らしい理解力に感心するよ。”闘い”は”闘い”でしかなく、かえって”我々”はまさに今「垂るる夜長」にいろいろの思いで何かを言わんとしているすべての”我々”だ」

・・・流石にそれは、わざとらしすぎないか?

議論は踊る。
長くなりそうだから、私も踊っておこうかな。

(間奏)

原稿が終わりません。

思い返すと中学時代から、”原稿”に追われ、時には原稿を追ったりする生活を送るようになっていました。学園の機関紙や生徒会の仕事、趣味でやっている小説やエッセイ。そういったところで原稿を書いたり書かせたりというワークと手を取りあって歩んできたわけです。
そして大学生の今、みちるは授業の用で小説の原稿を進めているところ。これがまあ終わらない。終わらない原稿は無いというけれど、例外を作ってしまいそう。

小説は読者が作るものである――そんなことは承知している。しかし目の前にある生成りのテクストを書くのは私以外に有り得ず、半端に断ち切られた文章の尻こそが”書くしかない実存”を逆照射しているともいえる。
書くしかない。これは疲労からくる厭々の文句や愚痴の類である前に、必然的に立ち現れる身体の要請である。命令にも欲望にも意志にも嵌らない、と思う。

だからそう、書くしかないんですよね。

加えて私は「書けない」と発言するその行為が、嘔気を催すほどに途轍もなく嫌いです。
結局書くんだから、甘ったれんな。数多の「書けない」の背後には・・・とこれ以上はあなたにとって余りに”厭”かも知れないので省略致しますが、私は(好みの問題で)個人的に「書ける」態度をとっている。それ以上でも以下でもありません。

嗚呼、言っていても仕方のないことばかり言っているなあ。
私は、こういうことを書くのを意義深く思っている、とは(実際そう思ってないので)言いませんが、書かざるを得なくてそうしているのは確かです。
しかし沢山の偉い大人のひと”など”は「だから何?」「そう言ったところで意味がない」と仰る。適切な反応かと思います。私はそう言われる――ないしその場面を想像するたび、「言っていても仕方ないよなあ」と一応保険のつもりで言っておく。わかっていますよというポーズをしておくのです。
勿論、本段落の一行目もその一環と捉えて下さって大丈夫です、と、ここまで卑屈そうだといっそ清々しくなってきませんか?なにせあなたへのお手紙は「超爽快」をモットーにしたためていますからね。ハハ、ハ、ハッハハ。ハハハーハ・ハーハハ。

さてさて、そうこうしているうちにべらぼうな高温に設定しておいたオーブンがスタンバイ完了。今からここに原稿を突っ込みたいと思います。
実際には全く料理ができないのでオーブンをどうやって何度に仕込むかは存じ上げませんが、ここに原稿を入れて温めるとなんだかんだホカホカに完成するらしい、と”あの”ひろゆきさんが言っていた、と知人が言っていたので、ここは信じましょう。どのひろゆきさんなんでしょうか。

原稿は踊る。そして今や原稿はスゲーあったかくなる。原稿やってねえなら是非、みなさんも!

「原稿が煙を吐き出してる・・・」

闘いじゃん。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

「イタギモチイイ」を習得

お久しぶりです、れいかです。

先週小さな夢が叶いました。
それは、「足つぼマッサージ」に行くこと!

芸能人が足つぼの施術を受ける動画を見たのがきっかけで、興味を持ちました。
足つぼの正式名称は、リフレクソロジー、または反射療法。
フットチャートを初めて見た時、あまりにも細かく部位が分かれていてとても驚きました!
足裏が、上半身の内臓や顔と対応しているのがなんだか信じられなかったです…。

発祥はアメリカで、手術中の患者がベッドの梁などに手足を押し付ける行為を観察し、研究してみると、痛みを和らげる効果があることが分かったそう。
日本では英国式・台湾式が有名で、今回は台湾式を受けました!

半ズボンに着替え、足を洗い、いざマッサージへ!
優しい女性の方が施術をしてくれました。

「足つぼはよく行くんですか?」
「初めてです!」
「マッサージは行かれるんですか?」
「それも行ったことなくて…」
「足つぼが最初って渋いですね…」
「はい(笑)」
「ガチガチに緊張されてますね。」「初めは優しく揉んでいきます~」

体の力を抜いて、施術を受けます。
痛くはないのに「こりこり」と足裏とは思えないような音が鳴り、「凝ってますね~」と言われました。
でも「かたいけど、ほぐれるのが早いです!」とのこと。
「痛いほど良いということではなく、痛気持ちいいくらいがいいので、我慢しないでくださいね」
「はい」「あ、痛いです。それはなんですか?」
「ここは大腸ですね。」
「大腸か~。あーいたーーいーー」
動画で見て憧れていたやり取り。
気持ちよさそうなのに、不意打ちでやってくる「痛い!」の瞬間。
今回は罰ゲームではなかったから、絶叫をあげるような痛みはなかったけれど(笑)

20分くらい経って慣れてくると、「もう少し強めにお願いします!」と言えるようになりました!嬉しい!
施術師の方の本領発揮!
「もしかして、今までのは相当優しくしてくれてた?」と思うくらい強かったです。
気持ち良いけれど、これは痣もできるよな…と納得する力の込め具合。
それでもなんてことない顔をして、されるがままにしていると、「揉まれ上手ですね!」と嬉しい一言が。
60分の間に7回くらい言って下さって心の中でガッツポーズが連発でした。
「わたし、初めてでこの強さでやられたら叫んで暴れてますよ(苦笑)」とおっしゃるのを聞いて、少し調子に乗りました。
そして、「今日の最初は、きっとジェットコースターに乗せられてこの先何されるのか分からない怖さに近かったね」と。
無理やりではなく、どうしてもやりたくて自分で予約したのに、いざ座ってみると、がちっがちに緊張してしまったのは少し恥ずかしかったです……(^^;)


「マッサージのお仕事長いんですか?」
「うーんと、7年目です!」
「長いですね!」
「この仕事の前は、事務職だったんです。実は、初めて足つぼに行ったときにとても衝撃を受けて。よく眠れるし、体調が良いし、あまりにも感動して職業にしちゃいました!」
「ええええ!すごいですね!」
「足つぼで人生が変わりました😊」

人生を変えてしまう足つぼ……!
世間話のつもりでなんとなく聞いたのですが、一番印象に残ったお話でした!

「揉まれ上手(笑)」の私が特に凝っていたのは、小腸・大腸・左脳・腰でした。
ちなみに、右足の親指のはらが左脳、左足の親指のはらが右脳。
右足の方が明らかに痛くて、予想通りでした。(日文生だから仕方ないよね。)


血流が良くなる、むくみの解消、よく眠れる、冷え性の改善、老廃物質を流す、など、良いこと尽くしのリフレクソロジー♪
冷え性に悩まされる私も、施術後はしばらく全身がポカポカしていて、睡眠の質も上がり、大満足でした!
親切で、足つぼを愛してやまない施術師の方にもまたお会いしたいなぁ♡


しばらく停滞していたことがようやく動き出して、日々新しいことに取り組めるのが楽しいです。
深夜に思い立って、足つぼの予約を入れてくれた2週間前の私。ありがとう!
それでは、また。

色好覚書

みなさん、こんにちは。
ここです。

なんだか一気に秋が深まりましたね。それでもやっぱり本格的な冬とは違って、昼間はあたたかいので、毎日着る服に困っています。

さて、今日は少し日本文学生らしく、文学的(?)な話をしてみたいと思います。というのも、卒論の為に調べて面白かったこと、考えたことがあったので、感想というか、主観が入りまくりな解釈というか、そういうものをダラダラ書き連ねてみようかな、という感じです。
一応調べたことに基づいて考えたものではありますが、全くをもって正当と言える情報ではありません。
こういう風に思う奴もいるんだなあ、と思いながら読んでいただけると幸いです。

「色好み」という言葉は聞いたことがあるでしょうか?簡単に言うと、恋愛を沢山楽しむ人のことです。
王朝時代は、こういう類の人々が評価される時代でした。かの有名な光源氏も、数多の女性と様々な恋愛をしていますよね?近代の女性から言わせてみれば、「とんだ遊び人だ!浮気者!」といった具合になりそうな人ですが、彼は王朝の時代にあって、理想的な貴公子だったわけです。
それは、この「色好み」と評されるような、多情な人に当時の人々が憧れたからに違いありません。現代からすると「うん?」となりそうなところですよね。

ちょこっと文学を齧っているだけの私のような人間でも、こういう価値観のギャップには苦しむことはとても多いです。
近代に生まれ育った私たちが、意識せずに古典文学を読んだ時、その本当の面白さはたちまち消えてしまいます。「え?なんでこんなことするの?」とか「え?なんでこんな人に恋するの?」とか…色々な疑問に邪魔されて、「うーん、なんかよく分からない話だな」という感じになってしまう。

それで、じゃあ今度はその価値観を理解してみようと色好みについて調べ始めると、難解な言葉に翻弄されて、結局自分の体の中に落とし込みきれずに終わってしまったり。(と言うか私はいつもこれです)

まあ、卒論に使う時などは綺麗で正しい言葉を使って述べられている方が良いので、そのままでいいのですが、自分の世界に少しでも引き寄せて砕いて考えてみた時、(それが正確かどうかはひとまず置いておいて)面白い!と思える瞬間があるんじゃないかなあ、と私は考えています。

で、まあ、要するに、「色好み」なんて言葉で言われるとちょっと遠くにお綺麗に見えるけれども、結局は「モテ」に社会的に広く価値を認めていた、ということなんじゃないかなあ…と私は思ったわけです。

「モテる男/女」に憧れる!って言葉になると急に分かりやすいような気がしませんか?
清少納言が『枕草子』に書き残した、いろいろな男性とウィットに富んだ掛け合いをするような女性は、現代でもかっこいいなあって思われるような気がします。男性についても同様。学校1のモテ男(チャラい)と恋に落ちる!という感じの物語は沢山あります。モテる人は魅力的、要約するとこれだけなのでは。と思うわけです。

一夫多妻制で、社会が全面的に「モテ」に価値を見出している世界で行われると、流石にちょっと乱れ過ぎじゃない…?と言った感じで、我々からすると少々ぶっ飛んでいるというか、変に見えてしまいますが、根本的な人間の思想というか価値観は、すごく身近に感じられるものなんじゃないかと思います。

実際、一夫一妻制である現代でも、明確な恋人関係を結ばずに色々な人と遊ぶのが良い!楽しい!という価値観の人も結構いますよね。それがデフォルトの世界が王朝の世界だったということなんじゃないでしょうか。

まあ、もちろん当時でも嫉妬深く束縛する人はいたようですし、庶民は全くこんな風じゃなかったという見解もあるようなので、一概に全員が全員そうだったとは言えないのですが、こういうゆる〜い見方というか、自分の世界に引き寄せて考えてみると、古典が読みやすくなると思うのです。

多分もっと早く気づいて取得しておくべき技術だったのだと思うのですが、なんだかんだ頭で分かっていても自力で辿り着くにはしっかり4年かかってしまいました。
でもやっぱり、こういった自分の中でちょっと成長したな〜と思える瞬間があるととても嬉しいです。前より古典を広い視点で楽しめているような気もするし。

最初にも書きましたが、これはあくまで「色好みを調べてみて何となく浮かんだ私の感想」でしかないので、全く役に立つものではないし、しっかりとした論拠があるわけでもありません。
でも、単純に作品を読むだけならこれくらいゆるく噛み砕いて読むのも面白いのでは?思ったので語ってみました。

卒論は大変ですが、楽しいです。こういう全く卒論に関係ないような思考に耽るのも楽しい。まあ………大変ですけど……。
いい勉強になるなあと日々思っていますが、そんな呑気なことを言っていられる時期でも無くなってきてしまったので、気を引き締めて頑張りたいと思います。

それでは。また。

幸せを感じる時。

皆さん、こんにちは!ずきです。

本日は10月24日。「て(10)に(2)し(4)あわせ」(手に幸せ)の語呂と手乗り文鳥が出回る時期であることから、「文鳥の日」として制定されているそうですよ。手に幸せ………皆さんが「幸せ」を感じるのはどんな時ですか?

・・・

私は、人と連絡が取れること、自分磨きをすること、好きなこと・ものが楽しめることの3つに幸せを感じます。

まず、人と連絡が取れること。家族でも、友人でも。実際に対面するでも、LINEでも。自分との関わりを持とうとしてくれる人がいることに感謝しなければならない、そしてその人達と共有できる時間を大切にしたいと感じるようになりました。
このように感じるようになったのは、高校時代からの友人と連絡が付かなくなってしまったことがきっかけ…。大学に入学して別の地域に住むことになってからも、月に一度は必ずLINEで連絡を取っていた仲でした。近況を報告したり、たわいもない話で盛り上がったり…。しかし、ある時からメッセージの既読が全くつかなくなったのです。始めのうちは、「きっと忙しいのだろう、そのうちメッセージに気が付いて見てくれるだろう」と軽く思っていたのですが、私が最後にメッセージを送信してから半年が経った今も、相変わらずメッセージに既読はついていません。「LINEのアカウントが変更になった」「私が何か不快になる発言をした」…原因はいろいろ考えられますが、相手からの反応がない以上、どうすることも出来ません。
落ち込むこともありましたが、今も仲良くしてくれる高校までの友人、大学で知り合って仲良くしてくれる友人は沢山います。これはすごく幸せなことだと気が付きました。「失ったものを嘆くより、今あるものを大切にする。」このことに気が付かせてくれた友人には感謝したいです。

次に、自分磨きをすること。私自身、最近まで少し悩んでいたことがありました。それは、髪の毛の傷み具合。小さなことかもしれませんが、髪の毛がパサパサだと、何をするにしても気分が上がり切らない感じがして…モヤモヤ…。一年以上美容室に行っていないというのも原因の一つのような気がしますが、何か手軽にケアできないかと思っていた際、こんなウワサを耳にしました。「リンス→シャンプー→リンスの順で髪の毛を洗うと良い。」…え?これだけ?これだけでうまく行くならぜひ試してみたい…。ということで早速実践。あら不思議。日を追うごとに毛先がまとまりやすくなっていきました。セルフケアとしてはかなり状態の良い髪の毛になったような気がしています!個人差があるかとは思いますが、試してみる価値ありです!以上、実践してみて良かったと思った「自分磨き」の方法でした!

最後に、好きなこと・ものが楽しめること。私の場合は、好きな声優さんの活躍を見ること、絵を描くこと…。応援している人の活躍を見るのはやっぱり楽しい!先日、朗読劇を配信で鑑賞しました。笑いあり涙ありの内容、加えて昨年の朗読劇と繋がる描写もあり、昨年も鑑賞していた私は画面の前で大号泣。声優の皆さんの素晴らしい演技を堪能することが出来ました。いつかこの朗読劇は現地で鑑賞したいです…!
そして最近、「ファンアート」を描くことと見ることに夢中になっている私は、早速この朗読劇に出演されていた声優の皆さんを描くことにしました。ちょうどこの時、提示されていた課題が普段よりも少なめだったこともあってイラスト制作に集中することが出来ました。3時間ほどかけてイラストは完成。…非常に楽しかったです!!!朗読劇を鑑賞された方のファンアートも沢山見ることができ、心が満たされました!

・・・

そんなわけで、今回は私の「幸せを感じる時」を紹介しました。このような時間をこれからも大切にしていきたいと思います!

急激に寒くなってまいりました。くれぐれもお身体を大切にお過ごしくださいね。
それでは、また!

開拓と創作

こんばんは、まなです。みなさまいかがお過ごしでしょうか。最近はめっぽう寒くなってまいりまして、私は寒暖差アレルギーで鼻水に悩まされています。それでも、寒いからといって嫌なことばかりではなく、今日の夜空はとても星がきれいに見えました。空気が澄んだ夜に見る空は、また格別なもののように感じます。

さて、私事ではありますが、先日アップルペンシルを購入しました。iPadの利便性の向上を見込んでいたのですが、想像以上の便利さに驚愕。PDFに手書き入力できる……!?しかもデータはそのまま別端末と共有できる……!?そもそもタブレット端末すら最近になって入手した自分、かなり遅れているのでは?間違いない。とても重宝しています。当初は「印刷要らずでいいなあ」と思っていたのですが、すぐ引っ張り出せて素早く書き取れる紙の方がやりやすく感じてきています。使い分けが大事ですね。

ところで、アップルペンシルを購入してやりたかったことがありました。お絵描きです。デジタルでのお絵描き楽しそうだな~といつも指でちまちまスマホで落書きしていた自分。ついに指を卒業してペンで描きます。当たり前ではあるんですが、指より断然描きやすいです。ほぼノートに描いている感覚で、すらすらと。描くことはできる。しかし、「描き上げて完成させる」ことがすごく難しい。下書き、ペン入れ、着色、仕上げ……工程が多い。私は下書きでいつも断念してしまいます。頑張って仕上げてみても、「下書きの方が上手く描けていたのでは……?」と頭を抱える始末。

何かを一から作るというのは想像を絶するほど難しく、それを完成させることはとても素晴らしいです。創作の難しさを改めて痛感しました。でも楽しいから止められないんですよね。創作万歳。

それでは、また。

THE FIRST

こんにちは!ゆうなです〜

ここ最近は20℃を切る日も多く、いよいよニットを着ても良さそうな…コートを着ても良さそうな…そして、もう少し経つとタートルネックを着ても許されるんじゃ…!!!

私、大のタートルネック愛好家なもので、その時期を今か今かと待つのが、自分の中での毎年恒例行事だったりするのです☺️

ところで、こんなに寒くなってくると布団の吸引力もすごいことになっておりまして…日テレを付けると既に「スッキリ〜!」のお時間に…水トちゃんに全くお目にかかれません😅

スッキリといえば、つい先日までAAAのSKY-HIさんが主催するオーディション番組THE FIRSTの特集を連日やっていたのですが、ご存知でしょうか??私も最終審査から追い始めたので割と終盤だったのですが…色々見ていくうちにすっかりハマってしまいました笑

歌やダンスの実力が高いのはもちろん、仲間同士で協力して切磋琢磨していく姿が素晴らしい…✨最近『Kick Start』という曲が配信されたのですが、オーディション中に使われた曲の歌詞やメロディーが入っていたり…感慨深いし、それでいて爽やかで、朝起きるのに最適な1曲になってるし…最高。

BTSなどの高いパフォーマンスが好きな方にもおすすめなので、調べてみてください!

(来週のマツコ会議にも出るみたいなのでぜひ!)

では、今回はこのあたりで~👋