ご無沙汰しております、みちるです。
時計の針に追われているんです。
「いびつなイメージの話をしているのかい」
いびつではありませんよ、きわめてよく調整された掛け時計のイメージ。そうでなければ何だと言うの。
刻一刻、という言葉を発明したひとはすごい。それを受け取る各人の時間感覚や意識する時間のスケールによってまったく異なる「刻」が現在の地点から最低でも二度、等間隔に訪れる。基本的に「刻一刻」を見つめる必要性のもとにある人間は切迫した状況に立たされていることが多いが――そんなことはどうだってよいのです。今申し上げたいのは、私の目の前に「刻」は秒針のふらふらとした弱なる動きとして出現しているということ。小さな規模の時間を意識するのにはだいぶ神経をつかうというか、死のマラソン(とは、何ですか)を走らされている感じがあっていやだ。
いやだ、とか言っていられるほど、余裕の生活をしていないのですが。
(間奏)
言葉で、我々の領域で闘う機会がある。それも目の前に。
口喧嘩?そんなレベルではございませんこと。
もっと薄明の原野に拡がる闘争の領域における精神活動、ないし文学営為それ自体に向き合う場ですわ。
私は、自分の或る作品が哀しいものだということを、そのように受容されることを初めて知った。今更ながら文章作法の徹底に悩まされ、多様なメディアでの表現にそれぞれコミットする胆力が肝要であることを思い知った。自分もこういうものが書きたいと思う大変ろくでもない文章に出会い、これを物真似しているようではどうしようもないといってがっくりと肩を落とした。今回の、まだ準備運動の段階にある闘いにおいて、学問と祭りの間の子ように”文章”自体を扱うことを知った。勿論、神輿のない祭りである。
何かを書くために、いいや違う。する、動く、生きて身体を働かせるには、異なる地平へ出ていかなければならないことがある。何もない、誰もいないところへ。そしてそこから戻ってくるのに必要なのは他でもない自分の努力であって、誰かに託すような仕事ではないのです。
「砂」
布は波を打ち破り、寄せては返し、返しては寄せる。一定のリズムを作り出せばきっとまだ出来ることがある。
友人から見ると私はもう今にも力尽きて消えてしまいそうに見えるらしいけれど、私は生きます。申し訳ないけれど、やっぱり書くことにします。これが現代の「村の家」になるかもしれない。
ふとしたとき、一人で家にいるのに女の叫び声が聞こえることがあります。どうやら耳鳴りの一つとあって、もうそろそろ大変。困ってないから許されているだけだって、まさか思っていいはずはないのですが。
ひとまずあと二回授業の発表をこなし、先に述べた闘争の中に身を投じていきます。それによって人類がどんなに楽しくなってしまうかなんて、私には関係のないことですが。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる