テクノロジー

 秋って季節、いつの間になくなったんですか?十年一昔なんて言いますがひと昔前はまだギリ秋ってあったと思うんですよ。8月末とか9月頭は夏に比べて朝晩なんか少し涼しい風が吹いて、秋を感じるなって思っていた気がするんですけれども。今年は9月に入っても基本はまだ半袖で過ごせますもんね。と思ったらやや肌寒い日もあって何着たらいいか分からない。クーラーのやめ時も分からない。風邪ひかないよう気をつけましょうね。

 向ける対象はなんでもいいんですが、皆さま、「推し」っていますか。私は推しって言葉があんまりしっくりこないので普段なかなか使わないんですが、まあそんなことは置いておいて。世間的に使われる、いわゆる推しが私にもいます。その方、歌を歌われる方で。今ってインターネットの普及の影響もあり音楽へのハードルが下がってきているじゃないですか。特にインターネットを介してなら「生歌」を「リアルタイム」で聴くことがかなり容易だと私は思っています。そんな中ですが私の応援している方、16年くらい活動してきて一度もライブをしたことがなくて。インターネット発の歌い手なんですが「歌枠」みたいな形で生歌を歌うこともほとんどなくて。しかし、ここにきて彼女がライブに出演すると。なんでも彼女、こんなに長く活動しているのに顔どころか姿を見せたことすらなくて。かなり謎に包まれた方ですがここ数年Live2Dや3Dアバターを用いて少しずつ姿を見せてくれるようになり、そして今回その3Dアバターでライブに出演することになったんですね。Live2D、3Dアバターを彼女が初めて使った時も衝撃的でしたが、ライブをするなんて、と界隈が一旦ひっくり返ってました。今でこそ例えばゲームキャラクターの3Dアバターライブ、Vtuber、MMD、VRChatなんかにもだんだん見慣れてきてそういうこともあるかと思えますが、彼女の活動してきた16年間、そして私が応援してきた9年ほどを考えると技術の発展ってすごいなと思う出来事でした。良い時代になったなと。こういう技術が出始めの頃、私も「初音ミクのライブってなにするんだろう、モニター見るの?じゃあパソコンで良くない?」とか思いましたが、この辺徐々に上手くリアルとバーチャルの融合がされてきているような気もしますね。最近は生バンド生演奏で歌うライブも多くその辺りからもリアリティを感じます。尤も私がバーチャルに対して肯定的な気持ちをもっているからであり、世間的に見たらまだまだなのかもしれませんが。でも近い未来、もっと境界が曖昧になっていくんだろうなと思いますよ。こういう話をしていると私は必ずサマーウォーズを思い出します。
 だいぶ話が逸れましたが、その彼女が出演したライブが14日にありました。結果から言って、本当に最高でした。あぁ、彼女は生歌も上手いし運動神経も良いんだと実感させられましたね。めちゃくちゃ良かった。余談ですがこの手のライブ、つまり3Dアバターを用いるライブは歌が別撮りだったりダンスはアクターがやってたりどちらも本人だけど全篇収録で生で行われているわけじゃなかったりなどすることもありますが、どうも本人の話を聞く限り全部生で行われたらしい。歴は長いとはいえ初めてのライブで割としっかり踊りながら全然音外さずに踊るのただただすごいなあと思いました。夢のような幻のような日でした。

 好きなものの話、久しぶりにした気がします。当たり障りじゃない根っこに近い部分の好きなものを誰かに話すの私は割と避けがちなんですが、昂ってたくさん書いちゃった。これもまたある程度の匿名性がこちら側にも読み手側にもあるからなんだろうなと思います。これはたまに書いてる気がしますが、第一私は私の書いたブログに読者がいないと思って書いてますからね。読み手を意識したらなにも書けないかも。顔を突き合わせての付き合いも大事だけど、インターネット越しの付き合いも程よく楽で有難いなと思う質だからこそバーチャルを受け入れやすかったのかもしれませんね。便利な技術には正しく乗って人生を豊かにしよう。では。

アーカイブ

 なんとなくこれを更新するにあたって昔のタイトルを見返してみたんですね。52個もありました。一回一回特に意識せず更新していましたが通算だとそんなに書いてたんだ。かなり驚きです。ちなみに私は本文を書き終わった後いつも感覚で題をつけるのでどの題の時になんの内容を書いたのか自分のことながらほぼ覚えていません。内容にリンクしたタイトルつけているならまだしも全然関係ないこととか適当なこと言ってる場合もまあまああるのでね。なんのこっちゃで開いてみて「あ~こんなんかいたかもな~」になってました。ひとつ例を挙げると、今年の更新なのに全く内容が思い出せなかった『辰年ってモチーフが難しい』という題がありました。なにこれ。今年の1月16日の更新で、ブログ書初めだったらしくあけましておめでとうございますから始まり己の冬休みの生活リズムと卒論執筆の苦しみを語っていました。読んで尚中身がない上に題と内容も乖離していて、なんだこれ。こういうよく分からないタイトルがごろごろ転がって52個積み上げられているようです。

 今唐突にオススメしたい動画のことを思い出したので唐突に紹介しますね。『「カチカチ山」とかいう和製サウスパーク、いつからヌルくなったのか』というタイトルの動画で。バーチャルYouTuber、いわゆるVtuberの月ノ美兎さんが投稿されたものなんですがざっくりと日本文学の分野の浅瀬に生きる人間としてかなり興味深かったです。正直めっっっちゃ面白かった。「カチカチ山」の”グロ”部分がいつから消えたのかを調査していく内容で、かなり本格的だったのが良かったです。国会図書館に足を運んだりオンラインで見られる資料を駆使したりしながら赤本から現在も売られている絵本まで読み話の筋を整理し推察し……と、我々からしたらわかる~の部分がかなり多くまた動画の結論も面白くそれでいて恐らく我々のような人間以外でも楽しめる動画で、超良かった。オススメです。本当に面白かったし頼むからそれで一本論文書いてくれ~と思った。

 唐突なオススメパートは終わって過去のブログをちょこちょこ読み直した話に戻るんですが、私は過去の文章ってこっぱずかしくて読めない方です。ただ気が向いた時にたまにこうやって昔の自分が書いた文章を読み返すこともあり。そうしているとわかるのが、私昔から文章のくせが全然変わらないなと。小学生の時に書いた文章とか日記とか、出てきて読んでてもこれ絶対書いたの私だろってわかるんですね。絶対自分じゃ気が付いていないくせもあるでしょうしね。ブログもずっと書いてきて毎回更新の型が決まってきている気がします。型があると更新しやすいんですよ。物事を長く続けるために「習慣化させる」タイプと「新しさを求める」タイプがいますが私は前者ですね。テンプレート、サイコー。
いつもこんな感じでだらだら喋って風呂敷を畳めず締め方わかんないな~になりがちなんですけれども、過去の私が強制的に締める挨拶を作っていたので今回も有難く型にはまっていこうと思います。では。

引退

 大学生、というよりは児童、生徒、学生でいる期間とも言い換えられるかもしれません、当たり前にそこに属しながら過ごしてきたその時間ってひとまずはもうすぐ終わるんだなあと思う夏でした。

 急に夏の総括を述べ始めたのはもうすぐ8月が終わるからという理由もあり、また私が大学4年生だからということもあり。去年も一昨年も8月のブログ更新の時っていつも部活の話をしがちなんですが、今年も例に漏れませんよ。私は硬式庭球部に所属していまして、8月は私たちが一番力を入れている試合があるんですね。なのでまあ今年も部活しかやってないみたいな夏だったんですけれども。そんな夏もこれでおしまいでして。なにせ一昨日部活を引退したので。全然実感ないですけどね。高校3年生の時はコロナの流行り始めで学校にも行けなかったし試合なんか当然なくて、なんとなくフェードアウトみたいな形でテニス部を引退したのでちゃんと区切りがあるのって中学生の夏ぶりでした。7年とか?時の流れ怖すぎる……。とっても真面目に、とは言えないかもしれませんが一応一生懸命部活に打ち込んできたので大学生活のうち部活が占める割合が大きいなあと引退してみて思います。1年生のうちなんか、まだコロナの影響が濃かったので授業は対面で全然なかったけど部活はあったので時間数で言えば教室で授業受けるのとテニスしてるのと同じくらいだったかも。思い返せば色々と世の中の変化が大きい4年間で、部活もずいぶんと影響を受けあれこれ対応を求められたような気もしますが、でも楽しかったな。運動が苦手な人間なので技術向上ができたかどうかは自信がないけども。部の運営側をやって色々社会を学ばせてもらったなとは思いますね。大変なことも悔しかったことも全部合わせて楽しかったです。
 夏の間、私誕生日を迎えまして。毎年大体合宿中に年を重ねるんですが、そうすると同期が祝ってくれるんですね。私自身は割と自分の誕生日に頓着がなく一人だったら何にもしないので若干の申し訳なさのようなものを感じつつも有難いなと思いました。それこそ学生として年取るの最後かもしれないし。いい仲間に会えて良かったな、嬉しいなとあたたかい気持ちになった日でした。普段ぼーっと生きがちなので色々気付かず取りこぼしているかもしれないけど、こうやって「終わり」を意識しているからじゃなくても当たり前になっていることにひとつひとつ感謝できる人間でありたいですね。

 ぼーっと生きている私でも、ほんの小さなことにも「終わり」を感じる今日この頃。ブログ部もまた同様だなと思います。まだあと半年はあるけれど、でももう半年しかない。楽しく完走できるよう頑張ります。では。

 大人になってから出す高熱、同じ体温でも子どもの時よりマジで辛すぎる、と大学生になってからちょくちょく思います。この間夏風邪を引き39度まで熱が出たんですが体が痛すぎて眠れやしない。熱出すと解熱鎮痛剤の偉大さを痛感させられますね。あと昔より長引く気がする。今年の私は特に体力の欠片もないので完全復帰までが長い長い。大人の言う「まだ本調子じゃなくて~」みたいな文言、小学生くらいまであんまりぴんときていませんでしたが、徐々に理解できるようになっていくのが人間か~なんて思ったりします。

 先日、トーハク、東京国立博物館に行ってきました。見たい展示があったとかこのイベントが興味あってとかではなく、近くに用があったため思い立って寄ってみただけではあるんですけれども。というのも「キャンパスメンバーズ」なるシステムがありまして、日本女子大がそれに加入しているため我々は学生証を見せると常設展は無料で見せていただけるんですね。ふとそれを思い出してじゃあ見てくるか~と立ち寄ったわけです。私はあの辺割とアクセスしやすくて昔からそこそこ馴染みのある地ではあるんですが、多分トーハクは初めて行った気がします。少なくとも自分でちゃんと色々を認識できるようになってからは。動物園とか科学博物館の方とか、あとは公園自体はそれなりに行く機会あったんですけどね。で、特にお目当てもないままふらっと入ってまず思ったのが「ウワー時をかける少女だー!」でした。これ人によってどの「時をかける少女」を想像するか異なるところではありますがここでは細田守監督のアニメ映画を指しています。この作品、原作の小説から各ドラマ、映画で味が結構違うのが面白いなと思います。私は子どもの時に金曜ロードショーで見たアニメ映画が入り口だったので原作読んだ時かなり衝撃を受けましたね。「なんだこれは、同じタイトルの違う本選んじゃったのかな」と。こう、原作のラストの何とも言えない不気味さ、不思議さ、冷たさに若干恐怖すら覚えました。でも私的にその原作のひんやり感に近いのが映画ではトーハクのシーンなんですよね。あのシーンってすごく静かで、無機質で、少し暗くて、夏の暑さを全く感じないじゃないですか。小学生の時の金曜日、ちょっと夜更かしが許されているくらいの時間、妹たちは寝ていて、家も静かで、みたいな状況で見ていたのも相まってですかね。あの冷たさを思い出して足を踏み入れた瞬間非現実感に浸りました。実際は主に海外からの観光客が多くて博物館の割にはそれなりにがやがやしていたんですけれども。まあでも私、夏に行く図書館とか美術館、博物館とか、静かで日の光が入ってこなくて涼しい場所が大好きなので混み具合はそんなに関係なく楽しかったしテンション上がりましたけどね。変体仮名で書かれた書物見て錆びついた記憶を取り戻そうとしてみたり、出来るはずのない写経の解読を試みたり、能の面を見て受けた講義の内容思い出したり、水墨画って無駄がなくて好きだなあと思ったり、こんな鎧着て武士は重くないのかなと思ったり、ぼんやりしながら色々眺めて帰りました。日本の歴史みたいな博物館だと日本文学科で教わったことがあれこれ思い出されて興味深いなと思いますね。楽しかったです。また行こ。

 私はそんなに芸術とか文化とか、詳しい方ではないけれど、た~~~まに博物館、美術館、科学館みたいなところに行くと無知ながらも知的好奇心がびったびたに満たされて楽しいなと思います。文章でも絵でも音楽でも何か生み出そうとするときにはこういった刺激を受けるのが一番だなと私は思っていますしね。あと本当に夏場の博物館、美術館、図書館なんかは最高です。映画館もいい。暑すぎて毎日溶けそうですが、涼しくて暗くてしかも楽しい場所、気が向いた時にはぜひ足を運んでみてはいかがでしょう。私のような高尚の対岸に居る人間でもまず涼しいというだけで楽しめます。あと観光客が多いところはハードル高くなくていいなと思いました。静けさを求める方には向いていないかもしれないけども。マジでやることないな、の瞬間が来たら近くの博物館とか調べてみると面白いかもしれません。では。

Writing

 人生には「うお~~~何もやりたくね~~~~~」のタイミングってあるじゃないですか。最近暴力的と言っていいほどの暑さが続きうんざりしております。外出するのにかなり気合が必要なんですよね。真っ昼間に外歩くのとかってもはや誇張ではなく決死の覚悟だなと思っています。人類、水を持ち歩こう。なんなら塩飴とか塩分タブレットとかも持ち歩こう。日傘も持ち歩こう。頑張って夏を乗り切りましょうね。

 正直暑いを言い訳にしたら世の中の暑さに負けず生きている方々に顔向けできないレベルなんですが、本当に何をするにもやる気がでなくて。今人生でかなり「寝る」をやる時間が長い怠惰な生活を送っています。で、そんなことをしているためブログに書けるようなこともなくない?となるわけなんですね。まあこの私、書くことないなをネタに書くこともしゅっちゅうなので非常に慣れております。書くことないネタに走ることに躊躇がない。迷いなく舵を切れます。ただ、書くことないをネタにし続けてきた結果そんなにパターンもなく、そろそろジリ貧感は否めない。手札がだいぶ薄ーくなって、札というかもう厚さはティッシュくらいかもしれない。かき集めかき集め行数を稼いでいきます。小学生の頃の夏休みの日記みたいなね、しかも毎日ちゃんと書いてなくて後でまとめて書く時の。あの頑張って思い出しながら記憶の欠片を伸ばし伸ばし文字数をかさましする、それでもって小学生ならではのたどたどしくて同じ内容を何回もぐるぐる書いちゃうみたいな。今日の更新はそんな感じなので、まあ正味言ってしまえば内容なんてあるかないかくらいの雰囲気ですがこれを読む人間がいらっしゃるなら語感を楽しんでください。ほら、近代の作家とかも書くことがないことをネタに随筆のような文章書いたりするじゃないですか、それが許されるなら私も許されたい。
 私の感覚ではあるんですが、書くことがないよ~で本当に何も書けない人って日本文学科には少ないような気がしていて。当たり前と言えば当たり前ですが「日本文学科」で勉強したいと思う人間ってある程度日本語だとか文章だとかに強くて、「書くこと」をどうしようもなく苦手としている人はそもそもこの分野を選ばないのかなと思います。私は逆に数字とか英語とか運動とかには弱い。で、書くことを不得意としていない人間は書くことがないのになにかを書かなければいけない時、なんとなくなんとかするんですよ。でも私が数字や英語や運動を不得手としているように書くことを不得手としている人間もいて。私先日、反省文の書き方を教えたんですよ。色々ふわっと濁しますが、中学生に「反省文を書かなきゃいけないけど書くことがもうないからどうすればいいか」と聞かれて。まあこの場合は得意/不得意以前に書き方が分からないというところもあったんでしょうけれども、大学入ってからは書ける人間が多かったので「書けない」に久しぶりに遭遇したような気がします。言葉や内容を引き出しつつ書き方の枠の部分だけを教え、私の言ったことをそのまま書かないように、押し付けないように注意を払うのはなかなか難しかったです。文章としては正しくはないが、本人から出た言葉や文章はそのまま尊重して残すべきかなあ、みたいな塩梅って、難しすぎる。しかも高校の時の同級生の文章添削してた頃とはまた勝手が違いますからね。書けるようにサポートするのってこんなに難しかったっけと思いながら見守っていました。感覚でなんとなくできることがあなたの得意なことだよと教えてもらったことがあり、私は割とそれが文章にあたるんですが人によってそれぞれ異なるなあ、面白いなあと思います。その中学生が得意な運動は私はてんでダメですし。世の中色んな人間がいますね。

 そんなこんなで今回もまた感覚で書いてきましたが、そろそろもうネタ切れになってきているのでちゃんとネタを仕入れられるような生活を送らなければ……と反省しております。真面目な話私はもう少し人間生活を頑張った方が良い。ちゃんと生きます。次回への決意が出たところでだいぶ苦しいので終わらせていただきますね。では。

スマホ壊れたことある?

 スマホってさァ、儚いよ……。

 ある日突然スマートフォンの電源が入らなくなったことはありますか。私はある、今。
聞いてほしいのですが壊れる予兆がなくて。あぁ本当にあるんだこんなこと、と思いましたね。まあ4年以上使用していた端末だったので充電の減りが毎日激速だったし、よく熱をもっていたし、動作に大きく支障はなくともじわじわ替え時を感じていた矢先ではあったんですけれども。だからって、こんなこと、ある?
幸い、今の時代あらゆるタイミングでバックアップとることを勧められたりアカウントさえ覚えていればどの端末からでも様々なものが引き継げたりなどしますのである程度は被害を抑えられたのではと思いますが、それでも恐らく失ったデータもまあまああり……。非常に悲しく悔しく。もっとマメにバックアップとっときゃよかったなと。アナログデータも大概脆弱ですが、デジタルだからといって油断してはならない、壊れるときゃ壊れる。それもデジタルの方が一気に多くのものがなくなりがちである、と身をもって学びました。気をつけますね、卒論とか。

 スマホ使えないし積読とか消化しようかななど思っていたのですが私にはパソコンがあり。パソコンがあるということはYouTubeも見られるしTwitterも開ける。あとなんか謎に今まで一回もやったことなかったのに思い立ってオンライン麻雀に手を出してしまい、そうなったらなかなかね~本は読まないですよね~。麻雀って難しいんだなと思いました。あとはオンラインオセロとかオンライン大富豪とかもやりました。これはスマホでもたまにやるんですけれどもね、アナログ遊び好きなんでしょうね。子どもの頃を思い出しますね。脳がそっち方向にシフトチェンジしてるのでUNOとかしたいですもん。合宿の夜みたいになってるな。アナログゲームはたまにやると面白いなと思います。ぜんぜんアナログでやらずにもっぱらオンラインですけども。
本、ここでいう本は主に小説って私の場合読み始めたら読み終えるまでの体感は一瞬なので早く読めよの一言しかないなと。ただ本読むタイミングはここ数年布団入って寝るまでの間とか休みの日の寝起き布団に入ったままとか、そんなんが多くてですね、紙の本を授業関連以外であまり読まなくなってきている気がします。昔はデジタル書籍にだいぶ食ってかかっていたので紙で読んだ方が良くない?デジタルなんて……とかいう頭硬すぎる考えをもっていましたが、デジタルって便利!小学生の時どうしてもお話の続きが知りたくて夜部屋の電気を母が消してから超薄明りで小説を頑張って読んで目を悪くした私ですが、スマホなら薄明りで頑張らなくてもいいんですよ。どっちにしろ目は悪くなるので少年少女には勧めたくはないですが。まあこれも失って気が付きますよね。おかげでこの数日入眠スピードは普段から考えられないくらい速かったです。部活の合宿とかスキー教室の夜ぐらい速い。目瞑ったらもう朝。健康的ですね。

 スマホが当たり前に普及している今、スマホがある生活とない生活どちらが文化的かと言われたら難しい問いだなと思いますが、でも10年前ってこうじゃなかったわけじゃないですか。この数年は感染症の影響も相まって、スマホ、インターネット等の普及による生活スタイルの変化っていわゆる「近未来」を感じて面白いなと思います。こうやって書きだせるくらいスマホの恩恵を改めて全力で感じているので早く新しいスマホを買ってどこまでデータが復元できるか試します。では。

睡眠第一

 人生って信じられないくらい眠くても絶対に寝てはいけない時ってあるじゃないですか、ここのところ毎日それだったんですよ。本当に眠くて久しぶりに電車で寝過ごしました。

 ここ3週間、週6で24:00に寝て5:30に起きる生活送っていたんですね。睡眠時間でいったらまあ6時間弱とかは寝てたのでそれなりではあったんですが、私は許されるなら1日10時間寝たい人間なのでとにかく眠くて。立ったまま気絶しそうになったりしてました。睡眠時間短くても平気な人ってどういうカラクリなんだ?気合い?寿命の前借り?私は到底それにはなれない……。いっぱい寝るのが幸せです。寝てないと分かりやすく体調悪くなりますしね。やはり寝るべき。
 大学生になってからそんなに電車で寝ることってなかったんですが中高の頃はほとんど毎日登下校両方で寝ていました。というのも、部活で疲れて寝ていた他、電車ですることがないことも理由でした。登下校中原則スマホ使用禁止の校則で生きていたので本読むか単語帳見るか課題やるか、それでも暇なら寝るか、みたいな感じだったんですよ。まあ課題やりながら寝落ちることも多かったんですけれども。個人的に地下鉄の揺れって寝るのに本当に適していて。これってわかってくれる人結構いるんじゃないかなって思います。車よりバスより新幹線より地下鉄が一番眠れる。思いっきり持論ですが。あと地下鉄って、というよりこれは電車ってという方がふさわしいかもしれませんが、私は作業がめちゃくちゃ捗るんですよね。30分みたいな限られた時間、限られたスペース、限られた環境だと今この時間でこれをやるしかないって状況になるので私はかなりスイッチ入ります。どうしてもやる気が出なかった時に作業するためだけに電車乗ったことがあります。ほら、ブログを書くのなんかもね。昼間の人がガラガラの電車とかサイコー。気軽に電車に乗れる通学定期って偉大。考えをまとめたりするのも電車に乗ってるときとか、あとは風呂、歩いている時などが多いですね。ある意味乗り鉄かも。電車、好きです。でも電車で寝るのって日本人くらいらしいんですよ。てことは感謝すべきは日本の治安なのか?ありがとう治安の良い日本。海外の人って電車で眠くならないのかな、気張ってるから眠いとか思わないのかな。でも海外の人でも信じられないくらい眠い時はあると思うので、頑張って抗っているんですかね。家でたくさん寝よう、私もみなさまも。

 いっぱい寝たいね~という話でブログを書くことが私は結構ある気がします。そういう内容を書いてる時って大体眠いんですが、これもまたそうなんですね。眠いです。では。

パソコン作業をする時、椅子は低い方が良い。

 世はゴールデンウィーク、皆さんは今年何をされましたか。私は天気のいい日も暑くて半袖を着るような日も家にこもって卒論を書いておりました。腰肩首がありえないほど凝り固まり痛みも生じ悲鳴をあげていたので、絶対今週整骨院に行きます、今週の必須タスクです。
 卒論の話を始めるときっと私はずっとずっとしてしまうので程々にしておきますが、私の卒論、なかなか面白いぞと思って書いていました。まずテクストが面白くて先行研究や集めてきた資料も面白いので、まあそりゃ面白くなるしかないだろとは思いますが、私もその面白研究たちに参入するぞ〜という気持ちで書いております。何とか自分の手で面白いものを生み出したいという気合いだけは十分。でも結局自分が面白いと思えるか、興味を継続できるかって大事だと思うのでそういう意味では私は良い卒業研究ライフを送れているのかも。対象テクストにはおととし受けた講義で出会ったので感謝ですね~。
 卒論のはなしはほどほどにと言いつつ今回の更新は卒論に関係した内容になるんですが、私の研究しているテクストが『楢山節考』という棄老説話を下敷きに書かれた小説でして。これを初めて読んだ時、思わず私は自分の祖父母のことを考えました。小学校高学年まで私は曾祖母が二人存命だったのではっきり記憶があるお葬式は彼女らのものでした。曾祖母たちとは話したことはあったけれど、二人とも私が物心つく頃には徐々に認知症を患っていたようで、どんな方だったのかは両親や祖父母、親戚から聞く程度でした。その頃曾祖母たちやかわいがってくれた親戚の方が立て続けに亡くなりお葬式に出ました。生死の概念は分かっているのだけれど、それでも彼女らと一緒に生きた時間が短すぎて死の影響みたいなものがあんまり分からなかった。まあ小学生ってそういうものなんでしょうけど。自分の中で死は遠くて、でも大人が悲しんでいるのは伝わってきて、ぼんやりと死って怖いな~とか思ったような気がします。死生観って言葉がありますね、私のそれは非常に簡潔です。私は健康に300歳くらいまで生きたい。だってやりたいことも知りたいこともきりがないから。終わりがあると思うから人生を頑張れるのも分かるんですけどね。実際私は「今苦痛でもいつかこの先の自分にとっては意味あることになるんだろうな」と思いながら嫌なこと辛いこと乗り越えるタイプですし。ただ私はできるだけ元気に生き続けたいし、なんとなくできると思っている。いや、実際に300歳まで生きられないことは分かっているんですが、でも漠然と私はずっと生き続けることができるんじゃないかと思っている。それが若さなのかもしれないですね。そして私はそれを自分だけじゃなく両親や祖父母、家族、人類皆にも漠然とそう思っている。変わらずに続くものはないんだけれども、変わりながらも日常は続いていくと思っている。いやこれも分かっているんですよ、祖父母が身体の不調で手術を受けていることも病院に通っていることも。深層にある変わることへの恐怖を、変わらないと思いこむことで表に出さないようにしているんだろうななどと自分の心理を分析してみましょうか。変化って、怖ぇ~!と思う質なのでね。結局この手の話って限りあるものを大切にしようね~という結論に至りますが、まあそれに尽きますよね。私はできた人間には到底なれないが最低限どこか一部分だけでも人に誇れる人間でありたいと思うのって、私自身が家族や今まで関わってきた人間のことを大事に思っていて、人の顔に泥を塗るような人間にはなりたくないと感じているからだろうなと最近は思います。自分を大事にすることって人を大事にすることと直結すると思っているので。なんか今回、主題の重くて暗いテクストと向き合ってると自分の頭の中も暗くなっていくっていうのが手に取るようにわかる内容ですね。私という人間、影響を受けやすすぎる。
 テクストを読み込んで研究していく時、こういう感情の面は一旦置いておいて、あくまで論理的に何が言えるか考えるのが基本です。だから実際書いている途中はこういうことは頭にありません。でもこのテクストを研究しようと思ったきっかけは初読の感想で今回のブログに書いたようなことを思ったからですし、ちょっとキリがついた今なんかはこういうことを思い出すわけです。卒論を書く上で、テクストと向き合い先行研究と向き合い自分の論理的思考の部分と向き会う必要がありますが、感情の部分とも向き合って自己の在り方を見つめてしまうようなこのテクストはやはり面白いなと思います。少なくともあと七か月は卒論のことで日々頭を悩ませる生活が続きますが、これも限りあるものとして楽しんでいきたいです。では。

あざらしのすゝめ

 4月半ばのこの時期、何のシーズンかお分かりですか?そう、赤ちゃんあざらしにあっちこっちの水族館、動物園で会える時期です!!!
 あざらしって白い毛だと思ってる方もいらっしゃるかもしれませんがそれって赤ちゃんの時の2週間くらいだけで。しかも種類によっては白くない赤ちゃんもいて。だいたいみなさんが想像する白い赤ちゃんあざらしはゴマフアザラシだと思いますが、かの有名な鼻セレブのあざらしはタテゴトアザラシの赤ちゃんで。とか何とか言っておりますが私もめちゃくちゃあざらし詳しいぞ〜という訳でもありません。好きな気持ちだけはたくさんありますが!もともと私の家族があざらしを好きで、家でよく色んな動物園や水族館にいる子たちの写真や動画を見たりしていたんですが、昨年秋に「オホーツクとっかりセンター」という北海道の紋別にあるあざらし専門の保護施設で初めて生あざらしを見ました。初めて見るのがあざらし専門の保護施設!?あざらししかいないところで!?しかも紋別!?と思うじゃないですか。まあこれも自分で決めたというよりは母きっかけで行ったんですけれども、あのねぇ、あざらしって見てるとびっくりするほど時間が溶けるんですよ。あざらしとかいう生き物、可愛すぎる。虜になっています。その時の二日間、そう、あざらしたちに会うためだけに北海道に飛んだので一拍二日弾丸旅みたいな感じだったんですが、それがかなり楽しくて。そうなると人間どんどん欲が出る生き物なのでホワイトコート、つまり白い毛の時の生まれたて赤ちゃんあざらしもいつか自分の目で見てみたいな~と思ったんですね。と思っていたらなんと、今年2月下旬にしながわ水族館でゴマフの赤ちゃんが生まれまして。生後1週間くらいの時に見に行きました。まさかこんなに早く叶うなんてと驚きつつ、ちっちゃ〜〜かわい〜〜〜!!!とでろでろになってきました。今シーズン1番早く生まれた子がその子で、その後全国各地で続々生まれ、今は色んなところでホワイトコートちゃんたちがよちよちしています。嬉しい季節だ……。私のTwitterのアルゴリズムにはあざらし好きがバレているので、ずっとあらゆるあざらしの画像や動画が流れてきます。TLが白モフたちで埋め尽くされるの本当に良い。かーーーなり健康に良いです。
 赤ちゃんがかわいいのはもちろんなんですが、ホワイトコートが抜けてゴマやらワモンやら、それぞれの柄が出てきた子たちも、大人になった子たちも、みーんなかわいい。先ほどオホーツクとっかりセンターという保護施設を挙げましたが、アザラシランドとアザラシシーパラダイスの二つの施設に分かれていて、かわいいあざらしたちが住んでいます。なんとここ、かなりSNSの更新の頻度が高く毎日InstagramやらTwitterやらであざらしが見られるのでおすすめです。一度覗いて見てください。すごく幸せになれる。ここのアカウントのコメント欄覗いてると日本語以外の言語でもコメントされてる方がちらほらいて、あざらし好きって世界中にいるんだな~と思います。ここに行くのが夢だ!って言ってる海外の方もいたりしてかわいいは全世界共通だ~と思うし嬉しい気持ちになります。私もまた行きたいな。ここ以外にもあざらしが日本全国色んなところにいて、TwitterやInstagramで見かけるたび会いたいなと思う子もどんどん増えて。よく母や妹とそういう話をするんですが、あざらしを追うには人生って短い!時間が足りない!お金も足りない!どんな趣味にもいわゆる「ガチ勢」みたいな方っているじゃないですか。SNS見てるとあざらしにもいるんですが、そういう方が全国のあざらしを発信してくれるから助かっております。SNSがある時代に生まれてよかった~!まあ逆にそのおかげで行きたい場所もどんどん増えているんですけれども。いつか行きたいな~。
 色々書いてきたけれど、一言で要約するなら「あざらしってさァ、かわいいよねェ……」というだけの話です。これに尽きます。なんの動物が好き?みたいな話って結構話題としてありがちだと思いますが、犬!猫!うさぎ!パンダ!などなど皆様の中のかわいい動物ラインナップの中にちょっとでもあざらしの場所を開けておいてもらえたら、私は嬉しいです。あざらしを見て幸せになろう!今日はこれで終わり!では。

コンテンツ

 4月!出会いの季節ですね。先日、ブログ部の先輩方が私たちにメッセージを残し卒業されていきました。去年まではそれをもうそんな季節か〜などと思いながら少しの寂しさを感じつつ眺めていたのですが、今年はなんだか自分のブログ部としての活動の「終わり」を猛烈に意識しました。あと1年、どうぞよろしくお願いいたします。
 日本文学科に入学し、1年生の時の必修科目に「文章表現法」というものがありまして。その中でロラン・バルトの『作者の死』を考える講義がありました。ざっくり、「作品」と「作者」を切り離して考えましょうってやつですね。ここまでの大学生活3年間で、テクストを読む時もレポートを書く時も卒論に向き合う時も、ずっとずっとこの『作者の死』のことを頭の片隅に入れておりました。でも、よくよく考えたら私は割と作品と作者をあんまり結びつけることってなかったなと思うわけですよ。小説の向こう側の作者を意識したことってそんなにないし、たとえ作者がどんなに気に入らなくても作品自体はそれはそれとして評価できるタイプだと自負しているし。私にとって、「誰が」が大事なこともあるけど、「何が」の方が大切なんですね。
 この考えって、自分が読み手として、研究する側の人間として、心がけておきたいものでもありますが、一方で私自身にも当てはまるものがあります。たとえばこのブログを書く私と中の人の私は同じであって同じではない。と、思ってほしい。常々自分の身を削って書いてると思っているこのブログであっても、これは私ではなく私によって生み出された創作物の意識が強いです。「創作物」というのは決してフィクションという意味ではなく、ノンフィクションであっても脚色がなくても、単に私から生み出されたものという意味の創作物です。日本語ぐちゃぐちゃしてきたな。めんどくさくて小難しい話になってきてしまったけれど。こういう面倒な事を考えているからめんどくさい人間になっちゃうんですね〜。まあそんなことはさておき、ブログの他にもツイートだったりイラストだったり、私が生み出した創作物は私ではない、そこに私の自我を見出さないでほしい、みたいなことをいつも思っています。私は絵を描くのが趣味でそれをTwitterやInstagramに投稿することもしているし、文章を書いて頭の中身を整理する人間なのでTwitterを日記がわりに使いよく呟いています。もちろんそれらに私の考えが反映されているのはそうなんだけれども、安易に私と結び付けられるものではない。それは私という自我から出てきたものが私の中で練られて、絵なり文なり何かしらの形を借りて出力されるうちに私とは別のものに成る。みたいな。これ以上どう言ったら上手く伝わるのか皆目見当もつかないのだけれども、なんかそういうことをこの3年間でぼんやり考えるようになりました。難しいねぇ。自我のあり方として創作物に滲み出たらそれはノイズになると思っているからそうなりたくないし、なんならインターネット上では顔を合わせて話す場合と異なって自我までをコントロールできるからこそ、その「自我」もコンテンツにしたいとすら思っている。私は私というコンテンツになることで私自身と私を強制的に切り離そうとしたいんだなぁと。そういう人に私はなりたい。のかも。ぐちゃぐちゃになってきちゃった。自分の中身を晒すことに不安があるのかもしれないですね。ウーン、あまりにも、哲学……。いや哲学をなめすぎですが。

 思春期、アイディンティティ・クライシスなんてのもありますが、自我のあり方とか収まる位置についてこうやって20歳過ぎてもうだうだ練っているんだから自分が何者でどうあるべきかなんて一生分かんないんだろうなと思って生きています。私前々回くらいにも拝啓十五の君へに関連してこんな話をしてなかったか?まぁいいでしょう、今回はなんちゃって哲学回だったし。小難しいこと考えて生きてるな〜と思われるかもしれませんが、これもまた私であり私ではないので。小難しいを演出してるかもしれないですしね。掴みどころのない飄々とした人間になりたすぎる。皆様方にはぜひ私の更新するブログは「私」の存在を意識せず読んでいただければと思います。では。