耳に小さなスピーカーをさしこめば、桃源郷のせせらぎに浸かることが出来る。

澄んだ空気が体を透明にして、静かに溶けていく。音色に染まりながら溶けていく。

*****

まいです、ごきげんよう❀

近頃、心の中が穏やかです。

不得意な電車、最近はイヤホンをはめてヒーリングミュージックを聴いています。自律神経を整えるとか脳の疲れが取れるとか効能をタイトルにしたリラックスミュージックたち。プラシーボ効果で生きてきたといっても過言では無い私にはとても効果がありました。これまでイヤホンをする習慣は全くありませんでしたが、涼しい車内でハープの音色や鳥のさえずりを聴いていると不思議と心に凪が訪れ、力んだ身体が許されていきます。

電車に乗っているのはわたしの肉体で、わたしはどこか遠くの森の木漏れ日にいるんだ。

想像力というもののおかげでわたしは今日も息をしています。

*****

ズボラな私が日焼け止めを塗るようになったらそれは「サマーウォーズ」の時期になったということです。

細田守監督の「サマーウォーズ」は私にとって夏の風物詩になっています。

今年は15周年ということで、つい先日、姉と共に「サマーウォーズ」のフィルムコンサートに行ってきました。

ここで言うフィルムコンサートとは、映画を上映しながら劇中の曲をその場で生演奏するという形態のコンサートです。

とても贅沢な時間でした。有名なナンバーが演奏された瞬間、テンションボルテージがぐわっと上がり思わず姉と顔を合わせてにやにやしてしまいます。コンサートだけれどサマーウォーズに限ってはタオルをぶんぶん回したい感じです笑

盛り上がる曲はもちろんですが、良かったのはそれら以外のBGMを生演奏で聴けたことでした。ストーリーに合わせて緊張が高まった瞬間、指揮者がふっと手を上げ弓が動き出すと、そうかここでこんな曲が流れてたんだと新たな感動に出会いました。

映画の本編終了後、物語の山場である「こいこい」のシーン(観たことのない方すみません)が再度映され、観客たちでライトを灯して「なつき」を励まします。エンドロールに自分の名前を流してもらえるという特典もありました。

大満足のコンサート、様々な映画とコラボレーションしているのでまた行きたいと思います。みなさんもぜひ。その時は会場のどこかで私がにやにやしているかもしれません。

耳元のハープが奏でる音のおかげか視界がだんだんと細くなってきました。暗号を書いては困るのでここら辺で目を閉じたいと思います。

それでは。

青春とは

まいますです!💟

「大学生してる」なんて言葉を聞いたことがあるでしょうか。

みなさんはどんなときに「大学生してるなぁ」と感じますか?

日本女子にいた間、ああ東京の大学生だ!

と感じたことが何度もあります。

学校帰り、目白のサンマルクカフェでだべった時、池袋でご飯を食べた時

空きコマにもんじゃを食べにいった時

高校の友達と授業後に集合して、原宿でカフェに行き、渋谷までぶらぶらした時

授業後に雑司ヶ谷からディズニーに行った時

いわゆる青春を感じる素敵な時間です。

そして、京都には京都の「大学生してる」

が存在します。(まいます的視点)

本日はこれを紹介しようと思います。

実は京都には、高校時代の部活の友達がひとり住んでいます。

先日はそんな友人と、放課後に四条へディナーを食べに行きました。

中学生の頃から夢だった、納涼床!!

鴨川を望みながら頂くイタリアン(大好物)は絶品でした。

高校時代の話に花を咲かせ、お店を出たあとは記念にプリクラを撮りました。

友人の寮の門限が近付くまでスタバで時間を潰し、解散しました。

この日の中で、「京都の大学生!」と感じた点は以下の通りです。

・放課後に四条

・納涼床に行っちゃう(🥺)

京都の栄えているところと言ったらやはり四条の辺りだと思っています。

行きたいお店があったり、集まりで遊びに行ったり、通り道として歩くだけだったのですが、「放課後」にというところが大きなポイントです。

なんとなく、京都に友達がいなさすぎた私は、そもそもこっちで放課後に友達と遊ぶことにちょっぴり憧れが(笑)あったので、

大変胸アツでした。

つい先日には、放課後にユニバに行ってきました♡

やはり、「大学生」といえば放課後なのでしょうか。

「JK」してるなあと感じるのも大抵放課後です。

放課後にはなにか特別なドキドキが詰まっている気がします。

みなさんはどんな放課後を過ごしてきましたか?どんな放課後を過ごしていますか?

今思い返すと、「高校生」していた私の放課後は、

汗を滝のように流しながら部活に明け暮れたり、

帰り道にみんなで写真を撮りあったり、

教室でケーキを作ったり、

プリクラを撮ったりクレーンゲームをしたり、

図書室で自習をしたり……

1日オフの日に朝から夜まで遊ぶのももちろん楽しいです。

それでも、思い出の中で格別に輝いているのは、「放課後」だと私は思います。

そんな放課後も今だけなのでしょうか。

社会人、今はまだ想像したくない(することもできない)ですけど、退勤後に友達と集まってご飯に行ったりするのも、同じ感覚なのかなあ

それならちょっと早く大人になりたい気もするなあ

と考えたりもします。

今しかないこの時間も大切に、将来にもポジティブな希望を抱きながら日々を過ごすと、有意義な一生を送れる気がします。

1ヶ月後にはようやく夏休みにはいる時期になりましたね。

テスト勉強にレポート、考えたくないですが、放課後に友達と勉強するのもまた青春です。

百二十年館で閉館ギリギリまで勉強して、警備の人に追い出された日を思い出します。

きっと私は、またもや期限ギリギリになってしまう気がしますが、試験頑張ろうとだけ思いながら、1ヶ月後の夏休みを心待ちにしたいと思います!

それでは!

まいますでした〜♡

では!💟

引き出しにはたくさんの言葉を

人間が活動する気温ではありませんね。こんにちは、さゆりです。

六月に入ってから日光を浴びる機会が少なかったからなのかあまり元気がなく困っていたのですが、意識的に自然光を浴び、運動をし、ストレッチをし、二十二時には布団に入るようにしていたら体内リズムが整ったようで戻ってきました。人間の身体って面白いですね。

最近も変わらず特段面白いことはなく、平穏すぎて逆に心配、何かを達成せねばという漠然とした焦りに追われつつもさほど変化のないゆるやかな日々を過ごしています。とはいえ一か月前にブリーチした毛の根元は着々と黒の範囲を広げているので、変わった実感がなくても常に変化しているものだと実感させられます。

変わった事、強いて言うなら一か月予約を舞った教習所の技能教習が始まった事ぐらいでしょうか。といっても模擬運転をやっただけで、実車に乗るのはもう少し先です。教習所って本当に予約が取れないんですね。

実車に寄せた機械を使って運転の練習をするのですが、これが難しく。ハンドルを回し過ぎてわけがわからなくなりますし、アクセルとブレーキはどこまで力を入れればいいのかわからないし、焦りすぎてハンドブレーキで混乱してブレーキをかけたままアクセルを踏んだりしていました。ついでに普段使わない筋肉を使ったからなのか、右足が筋肉痛になりました。教官を左に乗せてるのに序盤からこんなもので大丈夫なのでしょうか。なんせ自分の体の幅もわからず扉に肩をぶつけるほど空間認知能力が全くないので、自分が大きな車を動かす想像がつきません。なんとか頑張りたいものです。

そういえば最近初対面の同期の子と話す機会があったのですが、好きな音楽を尋ねられて椎名林檎氏の名前を挙げたところ「めっちゃ椎名林檎ぽい!!」と言われました。変な意味じゃなくて、と続けていたので多分率直な感想なのでしょうが、「それって、ちょっと尖った人……ってコト……!?」と内なるハチワレが呟いていたのでどの辺がそう見えるのか聞いておくべきでした。ちなみに椎名林檎氏やファンを非難する気は一切ございません。私自身普通にファンですし、彼女のファンは語彙が豊富だったり感受性が豊かで広く鮮やかな世界を見ているんだろうな、いいなと思う事がよくあります。つまり基本ポジティブなイメージで好きなのですが、自己肯定感バリ低オタクなので気になっただけです。

沢山の言葉や知識を引き出しに入れている人って素敵ですよね。インプットのみには意味がないなんて唱える人もいますが、箱に入れていないものは取り出しようがないので言葉も同じだと思うんですよね。まず入れる事で始まるんだから、なんぼあってもいいじゃないですか。一つの事に対して色んな言葉で表現出来たら面白いですし。

ちなみにネット情報なので信憑性は微妙ですが、椎名林檎氏の愛読書は広辞苑だそうです。納得ですね。

少々話が逸れました。自分としては似合うものに共通項があってモード系の洋服を着ているからだと思うのですが、真相はいかに。そんなに深い意味はないかもしれません。ちなみに共通項があるとはいっても決して近いというわけではなく、私は気さくさや軽さが大事なタイプなので椎名林檎っぽいハードな個性はやりすぎ感が出てしまいます。いつも「似合う」を守っているわけではないので人からの見え方も日によると思いますが、参考になりました。

中途半端ですが、今日はこの辺で。では、また。

仲の良いとはなんとやら

先日友人と「伊藤潤二展」に行ってきました。

彼の作品に出会ったのはもういつだったでしょうか。幼い頃からホラーやミステリーが大好きでしたので、もう気付いたら……といった感じですね。作品の質は非常に高くいつ読んでも、何度読んでも面白いと思うのですが、なんせグロテスクでもあるため他人に勧めるのは少し憚られます。

ちなみに一番好きな作品は「グリセリド」です。いつ読んでもうわぁ~~っ、となります。もし気になって読まれる方がいたら少し覚悟した方がいいかもしれません。

展覧会の情報を知ったのは、百年館八階の日本文学科の図書館に寄った時です。日本文学科の方なら分かると思いますが、壁に大量の展覧会や舞台のチラシがありますよね。あそこに一際目を引く伊藤潤二展のチラシがありました。

チラシを鞄に入れ、家に帰った私はSNSで呟きました。

「伊藤潤二展あるんだって。行くか迷う」

ちなみにこのSNSは高校時代から仲の良い3人にしかフォローされてません。ほとんどグループLINEのようなものです。

そんななか1人の友人が「私も行きたいかも~」と餌にかかってくれました。

正直3人のなかで釣り上げられそうだったのはこの友人のみだったので内心引っかかってくれてホッとしました。ひとりだとめんどくさがって行かなかったと思うので。

3人は高校時代の部活が同じだったメンバーですが、高校時代から仲が良かったというよりは卒業してから仲良くなったといった方が正しいです。1人は高校時代から一番仲が良く、大学1年生の頃は週1で遊んでいましたし、今でも月2.3回は会ってます。グループ自体は2ヶ月に1回集まってどこかに行く、という感じでほか2人とは個人で出かけることは滅多にありませんでした。

ですから、こうやってこの友人と大学生になり、2人きりで出かけるのはおそらく初めてです。高校時代に一緒に塾に行き、ご飯を食べるなどは頻繁にしていましたが。

展覧会の前に新宿で昼食を取ろうということでルミネエストの韓国料理屋に行きました。前菜が食べ放題でトッポギとナムルがハチャメチャに美味しかったです。おかげで私にトッポギブームが到来し、カルディでトッポギセットを買い占める奴になっています。

お互い白い服で真っ赤な辛い料理に舌鼓を打ちながら「私たちって意外と仲良くないよね」なんて話をします。

「仲良くないよね」などという話題は仲が良くないとできないと思うのでこの話題自体戯れのようなものです。しかしお互いに別の親友はいるからその子に比べれば仲はよくない。でもグループとしては2ケ月に一回会っているのだから、まぁ仲がいい。

友達とは複雑な関係だなと思います。

伊藤潤二展の話をしようと思っていたのですが、普段二人きりで遊ばない友人と遊んだことが新鮮でそちらが記憶に残っていました。もちろん伊藤潤二展も素晴らしかったので皆さんぜひ足を運んでみてください。

伊藤潤二展https://jhorrorpj.exhibit.jp/jiee/

グリセリドhttps://sonorama.asahi.com/comic/itocolle-107.html

忙しい方がQOLは上がるのか…?

皆さんこんにちは。みちこです。

今回は、今の生活を続けてこれまでの自分と今の自分がどのように変わったのかを確認?していく趣旨の記事となります。

まずは比較として、一年次の私と二年次の私(現在)がやっている活動について記そうと思います。

一年次(2023年度)

学業・サークル(バンド)・バイト(週一回→始めて一か月後に週二回)

二年次(2024年度)

学業・サークル(放送)・バイト(週二回。尚、職種を変更。)・ブログ部(この活動)・オープンキャンパス委員・ボランティア(月一回)・自主ゼミ(中古)

ご覧いただけば分かると思いますが、四つも増えましたね。

なぜこんなに増やしてしまったのだろうと、自分でも驚いております。

今までは、余裕のある生活をしたくて、忙しくなるようなことや、興味のあることに挑戦するといった機会は設けてきませんでした。

そんな私が、急にこんなやりたい気持ちだけでやっている活動がすべてそれなりに回っているのは本当になんでなのでしょう。

今回は、そんな私の疑問に、自分で答えを見つけていく記事となっております。

私の書く記事、ほぼ自分語りしかしていないので、そろそろ何か別のものを紹介する記事でも書きます。てか書かないと、多分私のイメージが、とんでもなく自己主張の強い人間になってしまう(笑)

では、始めていきます。

結論から言うと、自分のキャパシティーが自分が思った以上にあるのだ、ということに尽きるでしょう。

自分で自分のことを理解するのは難しい、とよく言いますが、私はこれだけは自分で理解しています。

「同時並行で物事を処理することがすこぶる苦手な人間なのだ」ということ。

そう思っていたので、無意識に自分で限界の壁を作ってしまっていたんです。

しかし、そんな壁は私の興味の前、そして大学と言う自由な環境の下には通用しませんでした。

大学の空気に感化され、見事に心の赴くままに色々なことに手を出し始めます。

でも当然、最初から勢いよく色んなことが出来たわけではありません。

一年次の前期あたりまでは、学業の様子も分からなかったので、様子見をしつつ(しかしその中でもバイトやサークルは始めていった)、大学の空気にも慣れてきた後期から様々なことを始めていきました。

そこで徐々に肩慣らしをしていってからの二年次前期(現在)という形ですね。

一年次で徐々にキャパシティーを増やしていくという行動をとっていなかったら、今の私はどこかでパンクしてしまっていたかもしれません。

そこである程度の成功体験をしていたからこそ、二年次ももっと幅を広げて挑戦してみようと思えたのかもしれません。

あとはまあ、身も蓋もないことを言いますが、これらの始めたことを続けられているのは私の性格が起因していると思います。

ここで関係する私の性格とは、「一度始めたことは最後までやり遂げる精神(根性)」と「計画性がある」ことの二点です。

ホント、ここまで続けられているのは正直なところ、根性によるものが大きいです。

自分で蒔いた種なのだから、自分でしっかり回収する、そんな自分に対する責任感のようなものもあるからかもしれません。

計画性は…なんか中途半端にあります(笑)

少し話がそれますが、皆さんは夏休みの宿題をいつ終わらせるタイプでしたか?

早めに終わらせるタイプ、最後に焦ってやるタイプ、計画的にコツコツやるタイプ…

ここら辺まではカテゴライズ化されると思います。

しかし、私は正直言って、このカテゴリーのどこにも当てはまりません。

答えは、「夏休みの中ごろ」です。

ーーーなんだこれ、ってなりますよね。

私の夏休みの宿題を終わらせるスケジュールはおおむね、「計画を立てる→一週間くらいは計画通りに進む→途中からずれてくる→再度計画を立て直し、この日までには終わらせると決めて取り返しにいく→ずるずる中だるみしながらおおむね計画通りこなしていき、夏休みの中盤に宿題を終える」という、なんともめんどくさい図式になっております。

中途半端ではありますが、ある程度の計画性は持っているため、様々な予定ややるべきタスクを把握し、逆算して遂行し、軌道修正しつつ、余裕をもって終わらせるという形をとっています。

 成功体験と、私の性格。この二点が、私がここまで倒れずにやってこれた理由かと思います。

で。話はここからなんです。これまでの話は、いわば前説。前座。本当に伝えたい話はここからです。

二年次になってここまで忙しくなった私ですが、そんな私は、今まで苦手だったあることを徐々に克服しつつあるのかも知れない、という話です。

その「苦手なこと」とは、「メリハリをつける」ことです。

今まではなんとなくだらだら頑張り続けることをしていたのですが、今は割と明確に「頑張る時と休憩する時」のメリハリをつけられるようになった気がします。

何故って、やらなければならないことが多すぎるから。だから頑張ってその目標を達成させたときに、頑張れた~!と思えるようになっていったんです。

そして、そんな自分に「ご褒美の時間」と題して、その時間は目いっぱい好きなことをして楽しむ時間を設けるようになりました。

なので最近、課題を家に持ち込まず、どんなに疲れていても極力大学で終わらせるようにしています。

しかしそのお供には、毎回お菓子か飲み物を買っています。

一限から四限まで授業がある日は、四限終了時にまず大学の購買にお菓子や飲み物の調達に行きます。

そのあと、それらとイヤホンでの音楽を楽しみながら課題をするのが二年次から私が編み出したルーティーンです。

これが本当に心の健康には良くて。頑張った~という感覚と、まだ課題あるけど頑張ろう!という二つに気持ちを思い起こさせてくれるので、本当にこのルーティーンは気に入っています。

もし私が忙しくなかったら、こんなルーティーンは編み出せず、この感覚も味わっていなかったのかと思うと、恐ろしくてなりません。

人はある程度は忙しくしておいた方が、自分への学びにつながりますね。

さて。締めの代わりにこの記事のタイトル「忙しくてもQOLは上がるのか…?」について答えましょう。

結論から言うと、上がりました。

忙しいからこそできる経験や感情、充足感は、今後の私の人生にきっと役立ってくれることでしょう。

といったところで、今回は締めたいと思います。

次は少し趣向を変えようかな…?

日文の何かについて紹介しようかしら…。

まだ未定ですが、ここまで私の自分語りに付き合って下さった読者の皆様、本当にありがとうございます。毎度のことながら、ここまで自分のことを語る人も珍しいのではないかと思っております。はい。

最後までお読みいただいて本当にありがとうございます。

それでは、失礼いたします。

スマホ壊れたことある?

 スマホってさァ、儚いよ……。

 ある日突然スマートフォンの電源が入らなくなったことはありますか。私はある、今。
聞いてほしいのですが壊れる予兆がなくて。あぁ本当にあるんだこんなこと、と思いましたね。まあ4年以上使用していた端末だったので充電の減りが毎日激速だったし、よく熱をもっていたし、動作に大きく支障はなくともじわじわ替え時を感じていた矢先ではあったんですけれども。だからって、こんなこと、ある?
幸い、今の時代あらゆるタイミングでバックアップとることを勧められたりアカウントさえ覚えていればどの端末からでも様々なものが引き継げたりなどしますのである程度は被害を抑えられたのではと思いますが、それでも恐らく失ったデータもまあまああり……。非常に悲しく悔しく。もっとマメにバックアップとっときゃよかったなと。アナログデータも大概脆弱ですが、デジタルだからといって油断してはならない、壊れるときゃ壊れる。それもデジタルの方が一気に多くのものがなくなりがちである、と身をもって学びました。気をつけますね、卒論とか。

 スマホ使えないし積読とか消化しようかななど思っていたのですが私にはパソコンがあり。パソコンがあるということはYouTubeも見られるしTwitterも開ける。あとなんか謎に今まで一回もやったことなかったのに思い立ってオンライン麻雀に手を出してしまい、そうなったらなかなかね~本は読まないですよね~。麻雀って難しいんだなと思いました。あとはオンラインオセロとかオンライン大富豪とかもやりました。これはスマホでもたまにやるんですけれどもね、アナログ遊び好きなんでしょうね。子どもの頃を思い出しますね。脳がそっち方向にシフトチェンジしてるのでUNOとかしたいですもん。合宿の夜みたいになってるな。アナログゲームはたまにやると面白いなと思います。ぜんぜんアナログでやらずにもっぱらオンラインですけども。
本、ここでいう本は主に小説って私の場合読み始めたら読み終えるまでの体感は一瞬なので早く読めよの一言しかないなと。ただ本読むタイミングはここ数年布団入って寝るまでの間とか休みの日の寝起き布団に入ったままとか、そんなんが多くてですね、紙の本を授業関連以外であまり読まなくなってきている気がします。昔はデジタル書籍にだいぶ食ってかかっていたので紙で読んだ方が良くない?デジタルなんて……とかいう頭硬すぎる考えをもっていましたが、デジタルって便利!小学生の時どうしてもお話の続きが知りたくて夜部屋の電気を母が消してから超薄明りで小説を頑張って読んで目を悪くした私ですが、スマホなら薄明りで頑張らなくてもいいんですよ。どっちにしろ目は悪くなるので少年少女には勧めたくはないですが。まあこれも失って気が付きますよね。おかげでこの数日入眠スピードは普段から考えられないくらい速かったです。部活の合宿とかスキー教室の夜ぐらい速い。目瞑ったらもう朝。健康的ですね。

 スマホが当たり前に普及している今、スマホがある生活とない生活どちらが文化的かと言われたら難しい問いだなと思いますが、でも10年前ってこうじゃなかったわけじゃないですか。この数年は感染症の影響も相まって、スマホ、インターネット等の普及による生活スタイルの変化っていわゆる「近未来」を感じて面白いなと思います。こうやって書きだせるくらいスマホの恩恵を改めて全力で感じているので早く新しいスマホを買ってどこまでデータが復元できるか試します。では。

太陽のような人

太陽のような人が好きだ。
誰かのために太陽になってくれる人が好きだ。
そして私も、そのような人でありたいと、思っている。

小学生の頃、親のiPadでニコニコ動画を見ていたら、親にバレた。
当時親は「ニコニコ動画はニートが見るもの!」みたいな偏見があったようで、「ああいう人たちみたいになっちゃうよ!」と言うようなことを言われた覚えがある。
実際間違っていないし、ニコニコ動画は教育に悪い。絶対に。
実際、こんな人になってしまった。ニコニコ動画を見ていたから。

中学生になり、自分のスマートフォンを買ってもらい、私はとある文化にどハマりした。
「歌い手」
今一番有名な歌い手は誰だろう。Adoかな。
ボカロ曲やJPOPをカバーして、動画サイトに「歌ってみた」動画を上げる人たち。
元々ボカロ曲が好きだったのもあり、のめり込んだ。

歌い手文化は、間違いなく私の青春である。

当時はなかなか痛々しいオタクだったが、クラスのカーストトップにいた子達もオタクっぽかったし、
何より通っていた女子校はみんな仲が良かったので、それはそれは元気に黒歴史を量産した。
しかし、お互いがお互いの黒歴史を握り合っているのでそれは特段恥ずかしくはない。
女子校だったので、学年が上がるたびに謎の自浄作用のようなものが働いて、
私のようなオタクも少しずつ垢抜け、オタクな部分はそのままに痛々しい部分を隠すことができるようになった。

そして、コロナ禍が始まると同時に私は「歌い手」文化にあまり触れなくなる。
ボカロ曲は好きだった。歌ってみただって。
しかし、別の推しができてしまったのだから仕方ない。
正直、後半の方はライブに行く以外はあまり推しへの熱量も低くなっていた。

そうなっても変わらず聞いていた歌い手が1人だけいた。
その人だけは変わらず聞き続け、歌ってみたも、オリジナル曲も、投稿されるたびに必ず聞いていた。
彼の太陽のような歌声が好きだった。
その人の書く歌詞と、その人の作る曲が大好きだった。

その人のことはもちろん大学に入ってからも追いかけ続けていて、
推しとまではいかなくとも好きなアーティストとして名前をあげたくなるくらいには好きだった。

先日、その人の活動休止が発表された。
太陽のような人だった。その人は、私たちのために、誰かのために太陽な人であり続けていた。
そんな日々に、疲れてしまったらしい。

私もそうだ。人といるときは常に気を張る。
常に私でいようと、元気に振る舞う。
演じているわけではないし、どちらも私だ。
でもたまに、自分の置き場所がわからなくなる時がある。
眠れない夜、呼吸する姿勢を忘れるように。
そんな日々に疲れる気持ちが、よくわかる。
想像でしかないけれど。

今までその人のライブに行かなかったことを激しく後悔した。
もっと、その人の歌を聴いておけば良かった。
発表された活動休止前のラストライブ。
衝動だけで、二日間の通し券を一枚分予約した。
初めてのライブソロ参戦が決まった。

そして迎えた1日目。1日目はその人の友人を詠んだフェス形式、2日目はワンマンライブという構成だった。
1日目。中学時代の私の推しもいた。久しぶりに聞いた歌声だった。
元推しの歌声は変わらず、性格だって変わらなかった。
ああ、こんな人だった、そう思った。
推しでなくても、中学時代に私が青春を捧げた人たちが次々と出てくる。
数年前と違う客層に驚きながら、青春を懐かしんで、1人で泣きながらペンライトを振った。
ボカロ曲も、彼らのオリジナル曲も、すべて大好きだった。

ボカロ曲も、歌ってみたも、サブカルチャーだ。
あまり大声で人には言えない趣味だったように思う。特に大人には。
でも、その会場は愛で満ちていた。当時中学生だった、私たちみたいなファンたちが大人になったのだと思う。

2日目のワンマンライブも、本当に素晴らしかった。
眩しくて、目が焼けそうだった。
太陽のような人だ。この人は、太陽でいてくれたんだ。
そう思うと、彼の言葉一つ一つが涙を誘う。
ライブの締めくくり、彼は「あなたたちひとりひとりが僕にとっての太陽です。」といった。
ファンにとっての太陽もまた、きっと彼だったのだろう。

好きな人のライブにもっと行こう。
推しは推せる時に推せ、なんていうけれど、推しじゃなくても好きになれる間にちゃんと好きでありたい。

うそ

ごきげんよう、あやめでございます。最近は色々様々やらねばならぬことが、わたくしの力量不足(主に体力不足)によってできずにおりますおかげで、口癖が「終わらない」になりました。はて、なにが終わらぬのやら。全貌も把握できぬまま、「終わらない」気になっております。いややはり季節の変わり目は苦手です。しんどくて仕方がない。そもそも湿度が高い私を、実際に湿度が高い環境においてはいけません。保管はどうか、冷暗所に。

だだっ広い空間のど真ん中に、私は捨てられた。

嘘だ。だだっ広い空間なんて知らない。雑多な、それほど田舎でもそれほど都会でもない、特徴のない街に生まれて育った。例えば海は「だだっ広い」かもしれないが、海無し県出身だから、旅行で何度か行って見たことがある程度で、とても、そのど真ん中に、捨てられたことなんて、経験はない。 捨てられてもいない。別にめちゃくちゃ良い親、家族、だとも思わないけど、かと言ってまあ、酷い家族でもない。普通。普通に喧嘩するし、普通に喋るし、普通。捨てられるとかは、まあ、ないと思う。まあ、一応尊敬もしてるし。育ててくれてありがとう、とは、一応、思う。 成績も見た目も運動神経も、普通。ものによっては中の下くらいで、ものによっては中の上くらいで、つまり普通。目立ちたくないし、怒られたくないし、要領悪いし。 これで、自分がどれだけ普通か、まあ、一般?的かわかったと思うし、これ以上やったら自分が傷つくのでやめる。だからなんか、就活とか?で個性が必要になったらヤバい。ガチで。なんもアピれる部分ないし。普通だし。目立ちたくないし、てか面接嫌すぎるな。 普通〜に流行りに乗るし、普通〜に恋人欲しいし、普通〜に勉強嫌だし、普通〜にマンガの設定に憧れるし。え、普通だよね? こういう人間だから、自信とかは、ない。自信の塊みたいな人見ると、うわ、って。それでまた、自信無くすし。 だから今日、学校でディスカッションみたいなことするダルい講義あったんだけど、いやダルかったんだけど、なんかめっちゃアイディア出す人がいたから助かったは助かったけど、やっぱりへこむな〜とは、思った。何食べてたらそんなこと思いつくんだろう、とか、なんでこのタイミングでそんなこと言えるんだろう、とか、ぐちゃぐちゃになって、ああ、自分って無力だな、何かできることってあるのかな、って、不安になった。しかも同い年。だから、「〇〇さんってすごいね、どうしたらそんなにいろいろ思いつくの?」って聞いた。雑談的なノリで。そしたらその人は、「ほんとですか?嬉しいなぁ…でも私そんなにすごくないですよ〜」って、ニコニコしながら返して、そのあともまた凄いことを思いついていた。 あれからずっと、その人が気になっている。ああいうひとが「主人公」なんだろうな、と思った。難しいことをたくさん、楽しそうに話してる。成績とかめっちゃ良いんだろうな。でも、「テストいやですよね…」と言って、困った顔で笑ってた。嘘つき。どうせめちゃくちゃ良い点取るに決まってるのに。 こっちがどれだけ頑張ってもがいてあがいて絞り出しても、むこうはなんでもないような顔でそれ以上を出してくる。生まれた時から決着がついている。何をしても勝てる相手じゃない。私がぶち当たっている壁は相手にとって壁じゃない。あーあ、起きたら天才にならないかな。

とでも、思っているような目で、睨め付けられるのに、もう、慣れている自分がいる。 ある授業で一緒の班になった人が、どうも最近、よく話しかけてくる。その度に「あやめちゃんはすごいよね…自分なんて…」と自分を卑下して喋って、満足して帰る。人を×××とでも思っているのだろうか。 同時にその人は、私を×××か何かだと勘違いしている。一応念の為申し上げるが、断じて×××ではない。人外ではない。歴とした人間、としてやらせていただいている(真相がどうであれ)。が、アレは多分私のことを信仰している。そうでなければ説明がつかない。ことあるごとに「アドバイス」を求めてきては、全くその通りにして、それで新たな「アドバイス」を求めて、の繰り返し。私が飽きてテキトー申し上げても、その「言いつけ」をチミチミ守って、四角四面に、解答を提出して、テキトーに褒めたら(褒めないと終わらない上に泣いたりしょげたり面倒が発生する)、救済されたかの如く大喜びして、大満足で、勇足で帰っていく。バカバカしい、と笑うなかれ、アレはアレで精一杯生きている、と、何故同類・同種・同年齢の×××に、「お慈悲」を差し上げてやらねばならないのだ。もう一度断っておこう。私は×××でもなんでもない。一匹の人間である。醜くつまらない、一匹でしかない。 ただ少し、「理性的」で、「合理主義」で、本質を追い求めて三千里、物分かりの良い子供を「演じる」のが得意で、勉強が好きなだけ。それだけ。人には何か一つくらいは特徴があるものだし、好きな思考傾向(パターン)があるものだし、好きなものの一つや二つあったってなんの違和感もないはずだ。それがただたまたま「勉強」だっただけである、知識欲が人より強いだけで、つまり「強欲」なのだから、(無欲を「良し」とする、と仮定すれば)ともすれば私は悪い人である、枠からはみ出すところが多いのだから、(枠に収まるのを「良し」とする、と仮定すれば)ともすれば私は欠陥品である。良い子、偉い子、真面目な子、これらは全く見当違いな評価であり、そして私は正当な評価以外は一切受け付けない主義であるから、学校の先生のあたりは、アレは少しも×××ていない。全く。あんなのその辺りに転がしておけば×××と大差ない。だから広く大人一般を×××ていない。なんだこんなものか、とその真実を知ったときは×××した。私如きのかわいい「うそ」にコロッと騙されるほど×××なのだ。 要するに、×××ではない、この一点である。だから嫌なことも緊張することも焦ることも不安なことも経験したことがないことも、当然ある。故に「あやめちゃんって何が起きても大丈夫そうだしめっちゃ頼りになるよね」とか言われても心外なのである。あんな目で見られたら、気分が悪くて×××たくなる。大した努力もしたことないくせに。大して脳みそ働かせたこともないくせに。お前は今まで一度だって自分の脳みそのせいで×××したことがあるのか。好きなことを好きと言えなかった経験があるか、口が裂けても「勉強が好き」だなんて、言えるか。「勉強が好き」と悟らせないように生きたことがあるか。「頭が良い」と悟らせないように気を配ったことがあるか。なんでも完璧を言外に求められる者の気を知らずに、言外の「言葉」を耳ざとく聞き分けて生きる人間の気を知らずに、「×××てやる」方の気を知らずに!お前は今まで一度だって自分の脳みそのせいで×××になったことはあるのか。毎日毎日その×××の繰り返しでうんざりしてガッカリしてまた「×××」を知って×××られて×××して×××して×××て×××ている、私の気持ちを、その小さな×××で考え直して、それからその×××ない口を動かしてみたらどうだ。お前の「ソレ」で、×××そうな人間もいることを、自覚しろ、×××のクセに。 私は醜い化け物たるアレが、憎くて羨ましくて、アレが羨ましいなんて信じたくなくて、苦しくて悔しくて、こんな×××しかいないド田舎抜け出したくて、地域で1番賢い学校に進学することを夢見て、それだけを心の支えにして、発狂しそうなのを堪え、なんとか生きながらえた。
X=おはな
 と、思っているのは?その原因は?と追求したところ、自意識過剰によるものだと判明した(当たり前)。実際にはあの人も、それほど私を見てはくれていませんヨ。残念こちらは、気付きたく無いところにハッキリフォーカスを当てる自動照準搭載の脳みそであります。醜さ汚さつまらなさ、これら私の恐れた全てが詰まったお得用ボリュームパックは如何ですか?残念でした!自分を追い詰めるのも高めるのも自分、自分を救うのも殺すのも、勿論、自分なのです。神様ごっこは終わりにして、良い加減現象を見ましょうネ。現代アートぶるのは主に私が恥ずかしいから止して、歴とした今を生きましょう。泥臭いのです。そんなモンです。 

拝啓、あの頃の荒んだ私へ。 あの頃あなたが気に病んで苦しんでいた「敵」は、その後大きな病気をもたらしました。 あなたがどうしても行きたかった高校に、あなたのその力量で見事合格して、そしてそこに、自らのせいで行けなくなりました。 おかげで3年を無駄にしました。 けれど私にはどうしても必要な、3年でした。 あなたの敵は、あなたが大学生の頃に、大都会・東京の、高層ビル群のど真ん中で、灼熱のアスファルトに熱されて溶け出し、溢れ、弾けて大都会に吸収されました。 あなたが「特殊」かどうか、なんて、あなたが思うほどの問題では、ありませんでした。 ×××(自主規制)だらけになってしまった、「醜き」叫び、「凡庸」にアイデンティティクライシスを発症したあなたの脳みそ。∴あなたの「敵」は、大したことのない、凡庸でしたよ。

親愛なる私へ 大学三年生になった「愚かなる」私より 大学三年の初夏、燕の鳴く頃 敬具

追伸:世間ではすっかりペーパーレスが、「定着」しました。

……きっつ笑。

誤って敷居を踏んだら…

家族と暮らしていると、どうしても自分の部屋というものが必要になってきます。私も例外ではなく、毎日自室で寝起きしています。私の部屋は床が畳になっている所謂和室で、ドアは襖、収納スペースは押し入れと背が高い箪笥(上の引き出しはほぼ母の着物)と、いかにも和。天井からぶら下がっている照明とか壁紙もいい感じに「和」です。如何せん語彙力がないものでこんなアバウトな説明しかできませんが、皆さんのイマジネーションで補完していただければ幸いです。

畳だから寝転がっても痛くない。まあまあ広いし、本もたくさんある。床に布団を敷いて寝るから転がり落ちても痛くない。窓とエアコンがないことを除けば理想的な自室ですが、先日その自室の入り口の洗礼を浴びてとんでもなく痛い思いをしたのがついこの間の土曜日の話です。おかげでブログのネタは見つかりましたが、代償は大きかったです。そして身に染みて感じました、「敷居を踏んではいけない」と。

あれは土曜日の午前中、自室で課題をしていたときのことです。襖の向こうから母が呼んでいる声がしたので部屋の外に出ようとしたその瞬間、足裏に鋭い痛みが走りました。何かと思って見てみると…確実に1cmはある棘がグサリと。しかも場所はよりによって小指の付け根。慌てて引っこ抜きましたがまあまあ太い上にしっかり刺さっていたせいでそれはもう痛かったです。抜いた後も棘が刺さっていた方の足は暫く痛みが残っていました。でも、すぐに抜けて良かった。場合によっては病院にかからなければいけないときもあるので、自力で何とかなったのは不幸中の幸い…だと思っていました。

その日の夜。お風呂から上がって自分の部屋に戻ろうとすると、足裏に何かに刺されたような痛みが…。嫌な予感がして見てみると、潜っててわかりづらいですが、棘が深々と刺さっていました。しかもがっつり中に入り込んでいてとても取れそうにありません。

あれ、これもしかして病院行かなきゃ抜けないやつですか?え、もう病院閉まってるよ?月曜までこのままでいろってこと?足に異物がもぐってる状態で月曜まで待てと?「サーっと血の気が引く」という表現がよくわかりました。いつだったかブログで書いた金縛りとは別ベクトルで怖かったです。とりあえず親に相談しようと母を呼ぶと、まさかの回答が。

「これ、指で押せば出てくるんじゃない?」

言うやいなや棘を押し出そうと足裏を指でぐいぐいしてくる母。しかも結構容赦なく強く押してきました。痛いなんてものじゃありませんでした。「痛い」以外に近い言葉がないので仕方なく痛いと言いますが、とんでもない刺激でした。何とも言語化が難しいですが、棘が抜けるまで私がずっと断末魔みたいなものを叫んでいたくらいには痛かったです。今年二十歳になるというのに何とも恥ずかしい話ですが、仕方ないじゃないですか。いくつになっても痛いものは痛いんです。まあ元はと言えば、私が敷居を踏んづけなければ起きなかったことなのですが。

結局、母と我が家の毛抜き君のおかげで無事棘は抜けて病院行きは免れましたが、もう二度とあんな目には遭いたくありません。何故「敷居を踏んではいけない」なんて言葉があるのか、20年近く生きてきてやっとわかった気がします。

皆さんも和室に入る時は気を付けてください。さもなくば敷居の洗礼を受けます。それではまた次回。ありがとうございました。

ご近所さん

こんにちは、ゆきほです🍵

空きコマにのんびり課題をやるなどしていたら、近くの席で同じく課題をしていたっぽい人がおもむろにバッグからミスドの袋を取り出してフレンチクルーラーを食べ始めました。

い、いいな~~!?と思いつつ数分我慢しました。一応我慢はしたんです。

でも我慢できなくなって生協にシュークリームを買いに走りました。

シュークリームは美味しく食して、現在次の授業の教室にいますが、今度は目の前の席に大きめの蜘蛛が現われて怯えています。

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私の今学期は2限に授業があって次の授業が5限という、空きコマが2コマもある日があります。2限の授業はどうしても取りたくて、3.4限にはこれだ!という授業がなくて、5限は絶対に取るしかない授業があるためしょうがないんです。

空きコマ2コマってどんなもんなんだろう……?と思う高校生の方もいるかもしれませんが、2限が終わるのが12時半で5限が始まるのが17時、でも昼休みは友達とお昼を食べて喋っているので、1人で持て余している時間は4時間弱といったところでしょうか。

昨年までだったら、課題や学会委員の仕事など「この1週間以内に終わらせないとヤバい」というレベルでやらないといけないことがたくさんあったので4時間くらい一瞬で潰れました。ただ、何といっても今年は4年生です。「やることがない」とは言いませんが、去年までのように鬼気迫って何かをやらなきゃ!という気持ちにはなれないんですよね。

そんなこんなで空きコマ2コマを持て余していた先々週のある日、昼休みにパンを食べていたら、ふと思いつきました。

あれ?この4時間があればコナンの映画に行けるんじゃない????

友達と喋りつつ、手元で池袋近辺の映画館の上映スケジュールを調べます。

14時20分から16時20分までというちょうどよさげな映画館がすぐに見つかりました。行きは昼休みギリギリまでのんびりしても1時間余裕があって、帰りは40分ある。これはいけるぞ……!!

「ねえ、私今からコナンの映画見に行ってくる!!」

昼休みが終わる直前に突然宣言して、友達に「え!?」「急すぎない!?」とびっくりされてから学校を飛び出し、有楽町線に飛び乗りました。一応学校から池袋って普通に歩けるらしいのですが、自他ともに認める方向オンチなのでおとなしく電車で行きます。

行きは余裕で到着し、平日ゆえにガラガラの映画館で映画を見て、あっという間に2時間が過ぎました。今年初めてコナンを観たときの新鮮な感動は、4月前半に更新したブログに書いたのでそちらをご覧ください。

https://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/blog/index.php/2024/04/13/

劇場が明るくなった瞬間、余韻に浸る間もなく映画館を飛び出して学校に戻ります。

5限がはじまるまであと40分。周りを見ていると寄り道したくなってしまうので一切見ないで駅へ直行し、電車に乗った点で16時半過ぎくらい。

これは、勝った。

護国寺駅からはもう急ぎませんでした。

悠々と学校へ戻り、5限の教室で4限が終わるチャイムを聞いて1人ニヤニヤしていた私は、さぞ怪しかったことでしょう。

ではまた。