こんにちは、あこです。
猛暑日が続いていますね。皆さん、いかがお過ごしですか?
私は、水を飲んでも飲んでも喉が渇きます…(笑)熱中症を防ぐためにも、こまめな水分補給を心がけましょう!!
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突然ですが、皆さんは占いって信じますか?
私は、微妙です。(答えになってない)
全く信じていないとも言えないけれど、自分が上手くいかない時や迷った時には「血液型+星座+性別(女性)」で検索してしまいます。
でも、そういう時に限ってその日の運勢はめちゃめちゃ良くて、「そんなわけないやん!」と突っ込む。
でも時間が経つにつれて「もしかして、今日の運勢がめちゃめちゃ良いのは本当で、そのおかげでこの程度で済んでいるのかも。」とか、「今日の運勢が悪かったらもっともっと失敗してたのかも。」とも思ってしまって、「運勢に自分を寄せるのはやめよう。」と思えるようになるまで「運勢のせいにしちゃダメ」「運勢のせいにしたい」という2人の自分を闘わせています。(笑)
私と同じ血液型・星座の人なんてたくさんいるからこそ、”今日の運勢”は適度に曖昧で、私にとってはちょうど良い逃げ場になっているようです。
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私には、逃げ癖があります。放っておくと、楽な方へ楽な方へと逃げようとします。
でも、今までの人生で何かから逃げ切れたのか?と聞かれれば、答えはNOです。
逃げ癖はあるのですが、その度に何かしら・誰かしらとの出会いがあって、最後までは逃げ切れないのです。
例えば、太宰治。
中学生の時、課題図書として太宰治の文庫が指定されたことがありました。
○月△日までに読まなくてはならない課題図書。
期日に間に合うように、いつものように、少し早めに読み始めました。
しかし、
私は、課題図書を読み切ることができませんでした。
読んでも読んでも、ページが進まない。
どういう話なのか、全くわからない。
何を言っているのか、何を言いたいのか、全然理解できませんでした。
そんなことは、初めてでした。
本を読むスピードや理解力にはそれなりに自信があったからこそ、そんな自分が信じられなかった。
そして、その経験は私に、”太宰治”に対する強烈な苦手意識を抱かせました。
それから4年。
私は、1年次の必修授業”日本文学の基礎Ⅱ”で、太宰に再会しました。
今度こそ、読まないといけない。
事前課題がありました。作品を読まないと、書けない課題が。
何とか、読み切りました。
事前課題も、出しました。
でも、「語り手」と「視点人物」の違いが分かっていなかったから、私の提出したものは的外れで、先生の解説を聞きながら「あぁ、全然違う…」と絶望しました。
その後も、課題を出しては他のクラスメートの考察に圧倒され、先生の解説を聞いてやっと自分の課題の勘違い(そもそも理解できていなかった。)に気付き、新たに出された課題に取り組む。。。という日々を過ごしました。
ただ、中学生の時と違うのは、太宰の作品を最後まで読み切れた、ということ。
太宰の作品を面白いとまでは思えなかったし、「先生の解説を聞いたら自分の理解と全然違った」みたいなことは多々あったけれど、作品を最後まで読むことができて、作品について自分なりに考えることができるまで成長(?)したことがとても嬉しかったのは事実です。
7回の授業をやり切って、「よし、これで悔いなく太宰から卒業することができる。」と思いました。
しかし、2年次の演習の授業で抽選に落ちた結果、私は太宰治の演習授業に参加することになりました。
絶望、再び。
最終的に決断したのは自分だとは言え、通年の演習授業として扱うには、自分の知識量と読解力が不足していることは分かりきっていました。
でも、通年の授業だし、4単位だし、何より、途中で投げ出すのは負けた気がして悔しいし…と、言い訳と鼓舞を繰り返して、何とか1年間生き延びました。
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なんだか、「要するに、苦手な太宰頑張ったよってこと?」とか、「太宰のことよく知らないくせに、ちょっと学んだからって分かった気になっちゃって。」とか言われてしまいそうな書き方になってしまいました。
でも、そういうことを言いたいわけでは、ないです。
様々な太宰の作品を扱う中で、「読める作品」ではなくて、「好きな作品」に出会えました。特に好きだったのは『ヴィヨンの妻』と『桜桃』。これらは、この演習授業を取るまで知らない作品でした。
他の受講者の発表や質疑応答では、自分では思いつかなかった視点や考えに出会えました。「もっと考えなくちゃ」「もっと準備しなくちゃ」「もっと頑張らなくちゃ」と思わされました。この授業で養われた「もっともっと魂(仮)」は、今も私を支えてくれています。
授業の最終回には、「あっという間だったな」と思いました。「楽しかったな」「もっとやりたかったな」と、思ったり、思わなかったり。
あの時、抽選に落ちていなかったら、そうは思えなかったのかもしれません。
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私は、嫌なこと・苦手なことから逃げようとしがちです。でも、逃げようとすると大体何か・誰かが現れて、私は捕まります。
やだーやだーって、人並みに抵抗してみるけど、仕方がないから受け入れる。すると、自分が「嫌だ」「苦手だ」と思っていたことがそれほど嫌じゃない、むしろちょっと楽しいかも。みたいなことが多々あります。
だから、あんまり自分の直感は信じられません。
逆に、自分で「よし、これが楽しそうだ。」と思って選択したことが案外楽しくなかった、ということなんて、ざらにあります。
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どこからどこまでが自分の選択で、どこからどこまでが運勢なのか。
時々わからなくなります。
これは自分の意思だったのだろうか。それとも、偶然の産物なのだろうか。
昔、中学時代からの知り合い兼友人が、「運命と運命的」について意見を述べていました。
運命はないけど、運命”的”なことはあるのだと。
妙に、納得したのを覚えています。
運命か運命じゃないか、感じるのは、決めるのは、私。
楽な方へ逃げようとした時に限って何かが起こるのは、誰かに出会うのは、きっと運命。
そう思えば、私は頑張れます。
私が逃げようとしたら、また何か・誰かが現れるはず。
それまでは、全力で逃げようかしら。
私の人生は、運命”的”な出来事で溢れているようです。
それでは、また。