こんにちは、あこです。
関東甲信は梅雨入りしたというのに、カンカン照りの日が多くて困ります。日傘を持って行くか、雨用の折り畳み傘を持って行くか。迷った挙句、雨用の折り畳み傘を常備し、晴れた場合には雨用の折り畳み傘を日傘として使うことにしました。果たして、意味はあるのでしょうか…(笑)
******
5月下旬から6月上旬にかけて、自身のタスクと家庭のハプニングが重なって、精神的にも体力的にもギリギリを生きていました。何をするにも上手くいかなくて、どうしたらこの状況から脱することができるのか分からなくなって、久しぶりに「もう無理かも」と思ってしまいました。
ですが、ひょんなことから精神的に回復し、「もう無理状態」から抜け出すことになります。
では、「ひょんなこと」とは何か。
それは、アルバイト先(個別指導塾)の先生の冗談です。
今月から私の弟も同じ職場で働くことになり、名字が同じで紛らわしいということで、弟の名前は「名字+名前の1文字目の漢字」で記すことになりました。(名字が「日文」で名前が「花子」の場合、「日文(花)」)
すると、名前の1文字目の漢字が「真」である弟は、「〇〇(真)」となります。
それを見た先生がひっそりと、「あこ先生、あこ先生。このままだとあこ先生がニセモノになっちゃいますよ」と言ったのです。(*「真」と「偽・贋」は対の関係)
正直、くだらないです。でも、言い方と状況と全てがおかしくて、思わず笑ってしまいました。
すると気分が軽くなって、その日の夜は「今日は良い日だったな」と思いながら眠りにつくことができました。
*****
人は、言葉によって無意識のうちに他人を救うことがあると思います。
もちろん逆も然りです。
小学生の時に、クラスの男子に「あこは見た目も頭脳も運動神経も全て”普通”だからな」と言われ、そんなわけないだろうと思いました。少なくとも、自分は頭が良いんだと。頭脳だけは”普通”のはずがない、と。
しかし、中学に入学すると、彼の言葉が本当だったことに気付かされました。初めての成績表は、”普通”と更に下の数字ばかり。今思えば、”普通”にすらなれていませんでした。
それ以外に自分の強みがあるわけでもなく、自分にあるのは”中”と”中の下”の成績のみ。
絵は描けない、字は汚い、楽器は弾けない、歌は下手、スポーツはできない、リーダーシップはない。得意なことも、趣味も、誇れることも、ありませんでした。
「挫折」とまではいかないけれど、「自分は特別じゃない」と思うには、十分すぎる経験でした。
*****
それからというもの、私は”普通”とか、(上中下の)”中”とか”二流”という言葉に過敏になりました。そして、残念ながら今も、そのしがらみから逃れることはできていません。
“普通”でいたくない、”特別”になりたい、と思う一方で、「どうせ自分は”中”だし」「頑張ったって、”一流”には手が届かない」と、自分を諦めています。でも、正確には諦めていなくて、というより、諦めきれなくて、もがいてもがいてもがいている。それでも抜け出せないから、諦めていると自分に言い聞かせて、傷つかないように守っている。でも、そんな嘘っぱちな慰めなんて、何にも役に立たない。何の意味も、何の効果もないから、しっかり傷つく。
努力するしかないって、わかってる。
行動しないと変われないって、わかってる。
意識から変えないといけないって、わかってる。
何もかもがわかりすぎて、でも本当はわかっていないから、私はまだ抜け出せていません。
*****
「あなたの言葉にずーっと傷ついてきた」「あなたのせいよ」なんて、彼を責めるつもりは毛頭ないし、彼に非がないのは誰の目にも明らかです。
私が勝手に「私は”普通”じゃない。」と反駁して、”普通”に打ちのめされて、彼の言葉を言い訳にしているだけですから。
それに、どんな時にも自分はどうせ”普通”だと思う私は、ある意味では傲慢です。
明らかに”普通”以下の時にも「自分は”普通”」だと思っているのですから。
だって、彼は私の「すべてが」普通だと言ったから。
彼の言葉は私を苦しめる一方で、私を救ってもいるようです。
大丈夫、私は”普通”、と。
*****
私たちは、無意識のうちに他人を救い、他人を傷つけています。
でも、その「無意識」にこそ、生きている意味があるのだと思います。
意識的に人を救うことはもちろん素晴らしいことだし、意識的に人を傷つけることは許されることではありません。
でも、意識的に人を救うことは難しいけれど、無意識的に他人を救っているかもしれない。
例のバイト先の先生も、あのくだらない冗談(←失礼)が、私を救ったとは思いもよらないでしょう。
意識的に人を傷つけることは避けられるかもしれないけれど、無意識的に他人を傷つけているかもしれない。
もちろん無意識だったとしても人を傷つけることが「悪」であることに変わりはありませんが、それだけ私たちが周囲に対する「影響力」を持っているということだと思います。誰にも影響を与えない、害も利益も与えない人なんて、いないのではないでしょうか。
自分の存在価値なんてわからないけれど、誰かを傷つける可能性と誰かを救う可能性がある限り、そこに私たちが生きている意味があるのだと思います。
たくさんの人を傷つけて、救って、生きてきたから。たくさんの人に傷つけられて、救われて生きてきたから。
全ての人に感謝と謝罪を込めて。
それでは、また。