ご無沙汰しております、みちるです。
さて、ここに二つの運命がある。
ひとつは栄華そのものといってよい真白の光
ひとつは深海の底より見上げる玉虫色の光
光の認識こそが我々の生であるならば、この数年、私は確かに生きながらえていたことになる。
いずれの運命が己の必然であっても、それで後悔するほど自分は人間じみていない。
予感がある。きっと終わりが近い。
(間奏)
私が紡いだ言葉が、いったいどれほどの質量をもってこの世界に位置づけられているか。
考えるだけで気が遠くなるほど、それは重たい。
自分の存在がいかに矮小なものであると考えても、言葉だけは違う。言葉は鼠からくりのように増えていき、信頼や確信や祈りなどを伴ってあなたへ向かう。
言葉に絶対的な価値がある、とは言わない。しかし言葉はあなたに向けられて初めて特別な愛着を生じさせる物理的なオブジェとなり得る。小説も、手紙も、そうしたオブジェの連なりとしてあり、即ち我々の解釈によって高く昇っていく煙のようなものであるかも知れない。
私が煙を欲するのも、言葉への欲に重ねてのことでしょうか――笑ってください。
あなたはきっと、私の手紙のすべてを受け取ってはいないでしょう。ヒントは、耐荷重。
けれど、きっとそれでよい。
膨大な詩のなかの一行、一行きりでも、あなたに到達したなら、こんなに幸運なことはありません。
私は振り子のように気分を揺らしながら、つねに気高くありたいと願う。
そうした矛盾に苦しめられた4年間だった。
今は、この矛盾に助けられて聖なるものへの志向もまた生じるとわかった。
それで何かが楽になったり、救われたりといったことは何もないけれど、私はこれでよいと言える。
高貴な私の言葉なら、あなたへ淀みなく届くだろうと思う。そうならなかったということが、私の青さの証明になるかは知らない。
そしてこれからは、到達できないこと、実現できないことの原因を「若さ」や「青さ」といったものに求められなくなっていく。少しずつではあるものの、確実に変化していく。そうなって、大学に残る私は再び追い詰められていくのだろうか。それともひたむきな求道者として地獄の深くまで歩んでいけるだろうか。
卒業の時を迎えて、こんなにも分からないとは予想していなかった。加えて、わからないことをこんなにも負債として把握しないとも考えていなかった。
自分が日々新しくなっていくなら、その方が素敵だ。知っている人や分かる人、たんにそうなったとしても虚しいなら、「分かる」瞬間は聖なるものへ向かう過程にすぎない。
愛を語り、しあわせになろうねと言って死に、刑に服し。繰り返して今は一体何度目の命か。
それでも私。4年間、沢山書いてくれてありがとう。
沢山歌ってくれてありがとう。
沢山恋愛してくれてありがとう。
誰かを傷つけ、悲嘆に暮れさせ、生活を奪い、転向を招き、沈黙させ、取り返しのつかない逃げ方をさせて、復活させないままに冬を越し、にもかかわらず自分だけは生きながらえてくれてありがとう。
あなたがそうかは分からないけれど、朝を迎え床に就くまで、世界より発せられる責苦を浴びて暮らす人間がいる。私も、きっと誰かも。いつ背負ったかもわからない罪を抱えながら、それが罪ではないと発覚するまで苦しみ続ける。
けれど逃げないでいたい、まだあなたに伝えていないことがある。春の夜の夢には運命の女が現れること、絶対の母はもういないこと、青春の幻影は――これは語るべきでない。
「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」
私はそう答えた。
誰に?
世界に。
私も、あなたも、二度と停止することがないように。
生きてさえいれば、とまではまだ言えない。しかし「生きてさえいれば」はユークリッド空間における特別な点となっている――あまりにも自明であるためか、この事実はひどく霞んで見える。
きっとあなたは私の仕草を忘れるけれど、私は忘れない。
あなたに書いた手紙――正しくは、ボトルメールのすべてを。
二つの運命がある。
それらの間でひき起こる交感はあまりに共時的で、私たち、まるでお隣さんのようだった。
気が遠くなるほど遥か遠くにいるなんて、誰が想像しただろう。
さて、これが最後の種明かし。
真白の光は、純白の便箋とオーヴァーラップしてくれただろうか。
私はあなたのおかげで、玉虫色の月光を眺めることが出来た。
これを最後に、もうあなたへ手紙が届くことはないでしょう。
1870年、ジュール・ヴェルヌからの便り。
2024年、天体に惹かれて満潮。
満潮”ではない”という仕方でいずれ来る干潮のとき、私たちが最後に認識する光がどうかこの世で最も美しくありますように。
ずっと、ずっと祈っています。書き続けながら、祈っています。
どうかみなさんお元気で。水の色に名前をつけながら、届かないお手紙書きますね。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる