しんせい

ご無沙汰しております、みちるです。

 

さて、ここに二つの運命がある。

ひとつは栄華そのものといってよい真白の光
ひとつは深海の底より見上げる玉虫色の光

光の認識こそが我々の生であるならば、この数年、私は確かに生きながらえていたことになる。
いずれの運命が己の必然であっても、それで後悔するほど自分は人間じみていない。

 

予感がある。きっと終わりが近い。

 

(間奏)

 

私が紡いだ言葉が、いったいどれほどの質量をもってこの世界に位置づけられているか。
考えるだけで気が遠くなるほど、それは重たい。

自分の存在がいかに矮小なものであると考えても、言葉だけは違う。言葉は鼠からくりのように増えていき、信頼や確信や祈りなどを伴ってあなたへ向かう。
言葉に絶対的な価値がある、とは言わない。しかし言葉はあなたに向けられて初めて特別な愛着を生じさせる物理的なオブジェとなり得る。小説も、手紙も、そうしたオブジェの連なりとしてあり、即ち我々の解釈によって高く昇っていく煙のようなものであるかも知れない。

私が煙を欲するのも、言葉への欲に重ねてのことでしょうか――笑ってください。

あなたはきっと、私の手紙のすべてを受け取ってはいないでしょう。ヒントは、耐荷重。
けれど、きっとそれでよい。
膨大な詩のなかの一行、一行きりでも、あなたに到達したなら、こんなに幸運なことはありません。

私は振り子のように気分を揺らしながら、つねに気高くありたいと願う。
そうした矛盾に苦しめられた4年間だった。
今は、この矛盾に助けられて聖なるものへの志向もまた生じるとわかった。
それで何かが楽になったり、救われたりといったことは何もないけれど、私はこれでよいと言える。

高貴な私の言葉なら、あなたへ淀みなく届くだろうと思う。そうならなかったということが、私の青さの証明になるかは知らない。
そしてこれからは、到達できないこと、実現できないことの原因を「若さ」や「青さ」といったものに求められなくなっていく。少しずつではあるものの、確実に変化していく。そうなって、大学に残る私は再び追い詰められていくのだろうか。それともひたむきな求道者として地獄の深くまで歩んでいけるだろうか。

卒業の時を迎えて、こんなにも分からないとは予想していなかった。加えて、わからないことをこんなにも負債として把握しないとも考えていなかった。
自分が日々新しくなっていくなら、その方が素敵だ。知っている人や分かる人、たんにそうなったとしても虚しいなら、「分かる」瞬間は聖なるものへ向かう過程にすぎない。

 

愛を語り、しあわせになろうねと言って死に、刑に服し。繰り返して今は一体何度目の命か。
それでも私。4年間、沢山書いてくれてありがとう。
沢山歌ってくれてありがとう。
沢山恋愛してくれてありがとう。
誰かを傷つけ、悲嘆に暮れさせ、生活を奪い、転向を招き、沈黙させ、取り返しのつかない逃げ方をさせて、復活させないままに冬を越し、にもかかわらず自分だけは生きながらえてくれてありがとう。

あなたがそうかは分からないけれど、朝を迎え床に就くまで、世界より発せられる責苦を浴びて暮らす人間がいる。私も、きっと誰かも。いつ背負ったかもわからない罪を抱えながら、それが罪ではないと発覚するまで苦しみ続ける。
けれど逃げないでいたい、まだあなたに伝えていないことがある。春の夜の夢には運命の女が現れること、絶対の母はもういないこと、青春の幻影は――これは語るべきでない。

 

「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います」

 

私はそう答えた。
誰に?
世界に。

私も、あなたも、二度と停止することがないように。
生きてさえいれば、とまではまだ言えない。しかし「生きてさえいれば」はユークリッド空間における特別な点となっている――あまりにも自明であるためか、この事実はひどく霞んで見える。

きっとあなたは私の仕草を忘れるけれど、私は忘れない。
あなたに書いた手紙――正しくは、ボトルメールのすべてを。

二つの運命がある。
それらの間でひき起こる交感はあまりに共時的で、私たち、まるでお隣さんのようだった。
気が遠くなるほど遥か遠くにいるなんて、誰が想像しただろう。

さて、これが最後の種明かし。
真白の光は、純白の便箋とオーヴァーラップしてくれただろうか。
私はあなたのおかげで、玉虫色の月光を眺めることが出来た。

これを最後に、もうあなたへ手紙が届くことはないでしょう。
1870年、ジュール・ヴェルヌからの便り。
2024年、天体に惹かれて満潮。

満潮”ではない”という仕方でいずれ来る干潮のとき、私たちが最後に認識する光がどうかこの世で最も美しくありますように。
ずっと、ずっと祈っています。書き続けながら、祈っています。
どうかみなさんお元気で。水の色に名前をつけながら、届かないお手紙書きますね。

 

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

BABY DOLL

ご無沙汰しております、みちるです。

 

お別れの季節です。
今日も今日とて私はキャンディーズの「微笑みがえし」をイヤホンで聴きながら街を歩きます。

新たな出会いのための別れではなく、目の前の誰かとの離別。その先のことなんて到底考えられないような寂しさを抱えて歩く。

そして私はほんとうに、長らく連れ添ったあの子と別れたのでした。

 

「さようなら、昨日の幸福」

そういって二人の並んだ写真を削除する。

「さようなら、明日の苦痛」

そういってあの子にもらった感情を忘れていく。

 

今度は本当にさよなら。
友人として、あの子と話せる人物でいたい。そう言ってみたはいいものの、私は多分、あの子と関係するのに疲れてしまった。あの子との新しい関係を構築するには、どれくらいかは分からないけれどとにかく時間が必要だった。

そういうことさえ説明できずに、またあの子を苦しめて、責められ、いやになって、投げ出すこともしたくないので、幼子をあやすような柔らかく丁寧な言葉をいくつか選んで発する。

神経質でせっかちで落ち込みやすく言葉にするのが不得手でとても鋭く生きるあの子が、時間に怠惰で無神経で鈍くて言葉と人間とを無意味にも愛していて同じくらい神経質な私に、よく付き合ってくれたと思う。
いやでいやで仕方なかったんじゃないかな。きっと何かあるごとに苛々して、不快に思い、摩耗していたと思う。それでもあの子が私と共に居てくれたのは、そうすることで互いに変わっていけると信じていたからだろう。シリアスになりやすいあの子は私の軽口を嫌い、ユーモアを建前に本音を隠す私はあの子の冷めた態度を嫌った。それでも、少なくとも私にとってあの子は心から尊敬する相手で、今も変わらず美しいと感じている。

あの子という志向性そのものを愛している。
私は、あの子をして初めて、人間を「力への意志」として認識した。
あの子は気高く、それゆえに美しかった。

 

私はあの子に釣り合うような、高貴なものになろうと努めていただろうか。
私はあの子をほんとうに知ろうとしたか。
私は、やりきれなかった。動いているようなそぶりを見せて、変わろうとしなかった。

下賤。今の私を形容するに適した語。

 

(間奏)

 

誰の隣にいても、どんな高さ深さに生きていても、どの貌をして世界に差し向かう場合も、気高くなければいけない。
率直にそう考えられるようになったのは、自分がいかにどうしようもなく項垂れ切った者であるか実感したある瞬間からだった。即ちそれは、あの子と別れ、別々の傘を差して歩いた駅までの道でのことだった。

私はいつまで同じ地点で足踏みしているのか。
変わりたい、変わるぞ、という意気込みだけ見せては幾度も人を失望させてきた。今の自分を愛してくれなんてよく言うけれど、そんなことを望んでも虚しいだけだ。

 

いつかあの子に違う誰かの口癖がうつって、違う音楽を好きになって、私が憧れるような素敵な誰かと生きていくと決めたとき、一言何か伝えられるようでありたい。

私が言う「愛」はきっと中途半端な形であの子に伝達されており、このままではすべて台無しになってしまう。まだ、きちんと話さなければならないことが沢山ある。
新しい恋なんてしている場合じゃない、と思う。
恋をしている間は、あの子のことなんて考えている場合じゃないと思うはずなのに。おかしいな。

何を諦めて、何を貫くか、いい加減決め切らなければいけない。
大学生の私はいつのまにか誰かと生きていて、いやそれも「いつのまにか」ではいけないのだが、誰かと生きるということを軽薄に把握しすぎた。

私を必要としてとか、かえって私を忘れてとか。
遊びじゃないんだから。
ぜんぶ、ぜんぶ、遊びじゃないんだから。

学問。文字通り学びと問いの次元へと引き戻されるとき、私は安心する。我ながら自分はふざけた奴だと思うけれど、そうじゃない私が生きていて、まだ必死になれる。本気で愛を語り、どんなに無意味で虚しい人生も遊びなしにやれる。
耳ざわりの良い「意味」や「価値」に靡かずに気高く立っていられる。そう確信できる。

私がここを出てあと二年間取り組むのは、そうした態度で力へと向かっていくことである。
私を愛する人も、私を憎む人も、そのどちらをも抱えた誰かも、ごめんなさい。恥ずかしくても、私は生きていくことにしました。まだ青くいられる二年間、今度こそ美しく、そう誓う相手に、あの子とその他すべての「あなた」を選んでも良いでしょうか。

手始めに、度が過ぎるくらい正直になって、資格とか立場とか、何にも気にしないで大声上げて泣いてやる。

 

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

春一番

ご無沙汰しております、みちるです。

 

すべては身体なんですねー。
そういわれてもこちらは困惑してしまうものですが。
私の身体について、私がまだ知らないことがあるみたい。それはきっと最期の瞬間まで続いていて、ぎらりと光ってみせるのはいつのことになるやらわからない。

数々の試練を突破した先にあるのが桜色の輝きでなかったなら、私はこの道を引き返すべきなのかもしれない。しかしもう、そんなことを言っているうちに、別れのときが近づいてくるからやるせない。

 

(間奏)

 

「春一番」

そうね、もう。その季節になった。

「春一番」

そう聞いて連想されるのは、「もうすぐ春ですね」という新しい靴の第一歩の響きか、それとも「私たちお別れなんですよ」という引っ越し前夜のさびしさか。
長らく私は、「雪が解けて川になって流れて」ゆくさまを想像して満面の笑みを浮かべる嬉しい生き物だった。けれどこうも「卒業」を意識せざるを得ない時間が訪れてしまっては――そう、きわめて最近のこと――否応なしに「お別れ」の表象が優位になって困る。

バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達したとき、当時どこを彷徨っていたかもわからない私の細胞もまた、悲嘆と喜びを意識したはずだ。きっとそのようにできているから、あなたが悲しみに暮れる日も近いと思うのです。
私という神経細胞が、吸血鬼が、オオカナダモが、ハルキゲニアがそうであるように、あなたも悲しみ、慈しみ、そして愛することができるはずですから、心配せずに鼻歌を歌っていてほしいのです。

 

今年も春一番が吹き荒れ、愛の胞子を飛ばして去っていきました。
私のわがままを聞く暇もなく颯爽と逃げていく彼は、きっと来年には別人なんだわと思いながら、煙草をふかす。この一本にも別れを言わなければいけないでしょうか。

しかし、センチメンタルな様相を呈してやってくるのが春というものですから。
いましばらく、耐え忍んで。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

チュープリ

ご無沙汰しております、みちるです。

 

あなたは「キスプリ」派ですか、「チュープリ」派ですか。
口づけのシーンをプリクラで撮影したもの、の呼称についてです。

私はめっぽう「チュープリ」と呼んでおります。
プリクラの狭い箱の中は外界から隔絶されているようでいてその実、大きな暖簾二枚を軽く腕押しすれば容易に覗き込まれてしまう。「プリント倶楽部」という字面のいかがわしさ。たった数分、たった数百円、たった数ショット。プライバシーも、その中で育まれる秘密も、すべてはインスタント。であれば、「キス」という爽やかな響きよりも無垢を装った「チュー」の発音のほうが、このチープさに相応しいと感じるのです。

しかし「チュープリ」にはそれの尊さがある訳で、それは断じて捨象できません。
大きな秘密は大きな喜びにもなりますが同時に背負うべき重い十字架でもありましょう。それに比べればチュープリの秘密は二人でお揃いの十字架のネックレスをつける程度のきわめて愛らしいものですから、恐れるに足りませんね。
また、「チューしよう」とは言えなくても「チュープリ撮ろう」とは言える、そんないじらしい心理も考え難いものではないはずです。ポッキーゲーム同様、遊びの一環としてあわよくばチューしてやろうという魂胆があるわけですが、そんな下心さえ受けいれさせてしまうのが「チュープリ」という響きではないでしょうか。

・・・

(間奏)

・・・

チュープリ、一度だけ撮ったことがある。
当時はプリクラ自体に不慣れだったもので、正面以外を向いて写ることなど考えられなかった。しかしよく考えられなかったからこそ、前のショットから次のショットへと移行する数秒の間での思い付きをそのまま形に出来たのかもしれない。女性ナレーターの高い声に重ねて私は

「チューしていい?」

と尋ねたのでした。
たしか「ああ」とか「うん」とか言われて一枚撮ってみたのですが、私の目論見通り大抵のプリクラ機は正面顔に対応して加工を施しますから、90度横向きの見るに堪えない中途半端な仕上がりである私がそこにおりました。印刷用にも送信用にも回さなかった気がします、思い出とはいえ自分の盛れていない写真を撮っておけるほど心に余裕がないので。

技巧的な話をしますと、二人でチュープリを撮影する場合おそらく互いが45度程度ずつ顔を相手の方に向け、口の端か頬あたりに唇をつける。これくらいだと世の中に出しても恥ずかしくない具合に中々良い画像が出来上がると、私は踏んでいます。
再挑戦する機会が中々ないのですが、宜しければあなた、いかがですか。

・・・

02:20

<体調、大丈夫?心配。ちゃんと寝てね。> 3分前

蛇も踏めないような、優しくて臆病そうにも聞こえる彼女の声が聞こえてくるようだった。
僕が待ち合わせに遅刻してしまったときの「ゆっくり来てね」、仕事終わりの「今日も遅くまでお疲れ様」、精神を悪くしている真夜中の「大丈夫?」。このツイートには、そうした言葉のどれをとっても見つからないような醜悪さと、今すぐ夕食を吐き出したくなるほどの悪臭が漂っていた。
僕ではない誰かに向けられたエアーメッセージ。彼女が、僕じゃない誰かの体を気遣っている。彼女のアカウントのBIOを見ると、

<睡眠!>

みたいなことが書いてある。本当の言葉は無論、克明に記憶してあるのだが、最悪過ぎてとてもじゃないがここには書けない。
一体誰を寝かしつけようと言うのだろう。検討はついていた。僕が会ったことのない、彼女と仲のいいあの男。僕はもはや怖いもの見たさの領域を逸脱してオートマータのような挙動で彼女のいいね欄を窃視する。

02:22

<睡眠botじゃん。ありがとう、ちゃんと寝るよ。> 2分前

手に持っていたスマホを家じゅうの出来るだけ固いところへ打ち付けてぶち割ってやりたくなった。
気持ち悪い、心底嫌だ、勘弁してくれ、僕はここまで書くのにもう二回嘔吐している。
お前に礼を言われるようなことじゃない、彼女は誰にだってとても優しくて、でも誰にでも心を開くことは出来ない人見知りの恐怖症で、だからお前への声掛けだって義理に決まっている。そう言いたくても言えないのは、事実として彼女とあの男の間に深い親交があることを僕が知っているからで、そうなるともう僕の負け。
現在進行形で行われている二人のメッセージ合戦を、どうして間男のようにこそこそ目で追わねばならないのだ。どうして、二人のこのやりとりが行われるまでのいきさつをあれこれ考察しながら体を震わして泣かなければいけない。涙のほうだってこんな事情のために流されては不本意だろう。

――二人が日中会っていたことは明白で、しかし僕にそれをどうこう言うことはできない。本当はあんまり会って欲しくないけど、ただの友人である僕にどうしてそこまで言うことが出来るのか、そしてそんな束縛を仮に彼女が受け入れたとしても、僕にその責任が取れるかは想像できないのだ、だから端から望むべきでない。彼女を独占することも、彼女を僕の望みで縛ることも、するべきではない。
僕たちは最近頻繁に会っていて、その間少なくとも1ヶ月余りは彼女があの男と対面することはなかったはずだ。僕は内心そのことに安堵しながら、彼女に対してはあの男に好意的であるような態度をとっていた、それが出来るほど心に余裕があった。

「○くん、カッコいいよね」

本当にこう言ったこともある。その時僕の顔面の引き攣れが如何であったかは知らないけれど。
とにかく今日、彼女は奴と会い、このやりとりを行っている。彼女のアカウントはきわめて小規模で、対して男はインターネットでそれなりに広く活動しているようで、説得力のあるフォロワー数を有していた。その男が今、彼女のためだけにエアーメッセージを投稿している。彼女は誰の眼から見ても魅力的で、センスのあるイケてる誰かと気が合ったり、僕の知らない誰かから注意を向けられるのは仕方がないことなのかもしれない。
けれど間違いなく、僕の眼から見た彼女が最も魅力的。僕はここ数か月の間ずっとそのように信じてきた。
僕の知らない奴に認められないで欲しい、僕の知らない誰かと仲良くしないで欲しい、あの男はとくにいけない、僕は彼女という項を世界から抜きにしても、きっとあの男に勝てない。こんなことをくどくど書いてしまうように、僕はあまりに醜く、貧しく、悲しい。

02:30

仮に僕が今、彼女の不安や心配をあおるようなことを言えば、彼女はきっと僕にも「大丈夫?」とメッセージをくれるだろう。しかしそれは僕と彼女だけのプライベートなやりとりで、世界に見せつけ”得る”ような仕方ではあり得ない。本人たちだけがばれていないと思い込んで、逢引のようにやりとりするのとはわけが違う。勿論、逢引きを見つけた誰かが僕のように気を狂わせて叫び出せばよいなどと、最大多数の最大幸福に反するようなことを願う道理はない。ないけれど、僕だって誰にも目配せをせずに胸を張って彼女と逢引きをしたい。僕以外を思いやる心なんて、なくしてしまった方が幾分かましだと本気で思った。

 

――数日後、僕はうわの空で彼女と、数人の知人たちと共に珈琲を飲んでいた。
彼女も始めこそ頑張ってあれこれ話題をこねくり回していたが、途中で何かを察したのかスマホの画面と差し向いになっていた。僕は彼女以外の久々に会う友人に頻繁に話しかけ、わざと彼女が知らなそうな小説の話題を振りまくった。その間、彼女は長いことスマホを眺めて過ごしていた。

一人、また一人と後の予定のために席を立っていき、最後に僕と彼女が残された。
彼女は喫茶店の店員に何か小声で話しかけられて、僕だけにわからない変なポーズをしながら楽しそうに会話していた。

「最近どう?」

僕が何の感情も込めないよう努めて聞くと、

「え、特に変わったことはないけど」

少し困り気味といった感じに答えた。
僕は、こいつ、しらを切る気か、と思った。
僕か彼女か。どちらでも良いから、どちらかをはやく裁いて欲しかった。

彼女はいつものようにふざけて両手でハートマークを作り、

「ファンサあげる!」

と、それを僕の方へ近づけてきた。いつもならこれに乗っかるところだが、僕は出来るだけ不機嫌に聞こえないような声色を意識して

「いらなあい」

と答えた。彼女は何も気にしていないと言った風で、この時僕は本気で「今日がこの女を嫌いになる日だ」と考えていた。

去り際、僕は最後の当てつけにと思って

「今日は疲れたから、よく<睡眠>をとるようにしようと思う」

す・い・み・ん、と、死にかけの老人にだって聞こえるほどはっきり聞こえるように発音した。
すると彼女は

「……出来るだけ早く、何らかの形で説明するね」

と言ってその場を後にした。
僕は見逃さなかった。彼女が最後の言葉を吐く直前に「今気が付いたような顔をしなければ」という念を巡らせて表情筋を駆動させ始めたまさに最初の痙攣を。

僕は幼稚で、面倒な気質をしていて、女々しく、妬み深く、感情を激しく変動させやすく、自分で見つけた絶望の淵を再び発見することに困らない、そういう重病人だった。今もなおそうである。
ここまで書いていて既に、これがいかに僕が一人で苦しくなって恐怖して憤って気を狂わせているだけの身勝手な記録であるかは明白であろうと思われる。僕はそれらをすべて承知して行動している積もりだが、そこに他者への配慮は一片も存在していなかった。僕は誰かを呪い、憎み、妬み、自分を辱めることしかしてこなかった。

僕の性根が完全に捻転していて戻らない限りにおいて、優しい彼女の顔を見ることももうないだろう。

言うまでもなく、以上は変化することができなかった場合の僕の記録である。
いつの日かこれが破り捨てられ、新規に記録が上書きされることを望む。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

ご無沙汰しております、みちるです。

 

12月24日(日)、29日(金)、1月1日(月)、19日(金)、20日(土)、27日(土)、2月2日(金)

メモです、よろしくおねがいします。

「なんで?」

メモが必要な時がありますね。これは今などを指します。

「左様ですか」

イエス。

 

(間奏)

 

ノスタルジーについて。
ノスタルジックなものへの憧憬、があることは誰もが知ることであろう。では、「ノスタルジックなものへの憧憬」への憧憬、はどうか。
今更こんな話をするのも馬鹿馬鹿しいと思われるだろうか。そう新しい話題でもないから、飽き飽きといった顔つきで見守る方もいるだろう。

もはや有り得ない種類のこのいわば二階のノスタルジーは、端的に言って滅んで然るべきものだ。
我々の方法は、こうしたどうしようもないものからなるだけ離れたところで考えられるべきだろう。しかし、身体が受けとる刺激としてのノスタルジーについて否定することは不可能である。この状態に鑑みて私がとるべき態度は、ノスタルジーから逃避することでもなければ、それに甘んじて幸福に生きてゆくことでもない。ノスタルジーを破壊し、現在を生きる私の身体に対する現在のものとして再構築することである。

この考えに私を導いたのが、「伝説」と呼ばれるに相応しい一夜の出来事、或るバンドの一公演であった。
ここでは評を述べることも、対象について明かすこともできない。ただひとつ、あれは私の陳腐な「あこがれ」を打ち壊すのに充分なエネルギーとベクトルを有する何かだった。

「これはこうだから、ここがこれに基づいていて、ここにこの意味があって、ゆえに素晴らしい。ではなく、何だか分からないけどすごい、で良い」

これは非常に正しい言説であったが、しかし既に失効してしまったものだ。「何だか分からないけどすごい」を受け入れることは、あらゆる批評家やそれでさえない者たちにとっての克己になり得る行動だった。
もはやそれもクリシェと化し、それ以前にも戻ることができない。こうして身動きの取れなくなった我々に、何十年も前のその作品が光を見せた。

何者にも詮索させず、意味を棄てさせ、身体にアプローチする。そのような目論見を有した作品はそう多くないまでも僅かと言うにはよく見られる。ただ往々にして、それを成功させるために必要な「有無を言わさない何か」が欠けている。少なくとも私は、指折り数えるほどそうしたものに出会ってきたのだろうか。

彼らは、それをやってのけた。

当時日本ではライブ映像が真夜中のシアターでのみ上映されたことにならい、一晩だけ、人々の眠る時に我々だけが五感を研ぎ澄ませていた。私の隣には友人が立ち、ヴォーカルの身振り手振りに合わせてきままに音を楽しんでいる。私は私を見ている者は誰もいないことにして、霊感ともいえるような具合に彼らの姿を感じていた。
スクリーンに蘇った彼らの細い肉体が、爆発にも近いような衝撃を生じさせる。そこには奇妙なルールがあり、しかしそれはクラシック”な”文脈では説明不可能であるように思われる。彼は私の数列やルールを理解するだろうか――勿論「何故」ではなく、そのルールが存在するということを承知するか、という疑問。私はこれを切り捨てることができない。

愛している。疑いなく、私は彼らを愛しているし、加えてそれで何かが返されることはない。それが普通のこととして私自身に受容されるという事態が何を意味するか、説明するべくもない(現状、日常において何かを意味することについては否定あるいは拒否することができない)。

エッセンスは、目に見える最少の一粒で構わなかった。それが溶けた水はもはや、人間をして飲み下せるものではないから。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

ご無沙汰しております、みちるです。

 

さて、そろそろ学生らしい話題を出してみることにします。

来月初頭、弊学科の老年生は卒業論文まつわる口頭試問を経て、いよいよ卒業へ向けて学部生最後の期間を過ごすことになります。
学業、勉強、運動・活動、趣味、仕事、交遊、それぞれにおいてコンディションや熱量の値は大小さまざまな波を作り続け、光も翳も強く深く身に受け、目まぐるしき四年間でした。

大学関係者やあるいはそれに近い周囲の大人たちは高校時代の我々に、「大学は高校の延長ではない」と教えました。
学業もそれを支える生活リズムも変化するだろうし、あらゆる面で自身を律する必要があるとも。
これは本当に正しかった。勿論学業も生活も大きな変化を迎えましたが、変化の最たるものは、自らの内的な領域におけるものであったと思います。

高校生の私は、シリアスな表情をしながらその実自分は救われると思っていたし、一日一日はうまくいかないのに三年間は総じてうまくいくと信じていて、格好つけた態度がどうも鼻につく奴でした。
周囲の高校生の誰もが知らない”何か”を知っているような表情をしていたけれど、私が知っていることは恩師がすべて御存知でした。

現在の私は知っている。学者にも格闘家にもサラリーマンにもプロレタリアートにもブルジョワジーにも、「見える」人々がいる。これは必ずしもスピリチュアルな話ではなくて、場合によってはそこから最も遠い領域に属する事態だ。
見たい、と考える人々に見えることは有り得ない。見える可能性はそうと願わない場合にある。昔の私は、自分にはきっと見えるし、誰よりも見たいと渇望した。ゆえに、まったく何も見えなかった。今は、見えることに、見えるという状態に然程興味が沸かなくなっていた。それ以外の苦しみや焦燥に魂をすり減らされる事態のほうがよほど重要だったためだ。するとどうだろう、衰弱した私の魂が光を認識し、背後の眼は翳を認識し、光も翳も強くはない或る一点にそれを見た。

――ここまでの話において私は「見える」者であるという自負を抱えて生きているということになっているかもしれない。それは誤りである。

私は恒常性のもとで「見える」者ではない。
私は誰にも秘したままある一時点において「見た」者である。これは私の望んだことではない。しかし同時に、これからの私を救ったり絶望へと追いやったりするものではない。いまや私は何かを知っていることも、何かが見えることも、どうでもどちらでも構わない。そこに特権性があることは全面的に認めるが、しかし自分がそこにどう参与したいかという願望がない。
私は愛するあなたと、周囲の人々と、美しく楽しく元気に生きていきたい。救ったり救われたりする者としてではなくありたい。

そのようなことは到底叶わないとしても、願っただけ叶わなくなるとしても、今は願い、宣言するほかになす術がない。

華々しくもなければ人に語るほどのこともない大学生活でしたが、人には語れないものを感得した日々でもあります。

 

(間奏)

 

今日、父親の誕生日でした。

すっかり忘れていたので今からメッセージを送ります。

それでは、またお手紙書きますね。大好きです。   みちる

木綿のハンカチーフ

ご無沙汰しております、みちるです。

 

この処遇の不完全を呪う。これはあまりに平成の出来事すぎる。
そう悔いていたら、キーボードを叩くときの私の「叩く」は 触る と 叩く の中間だと気が付いた。

目玉商品、目玉企画という場合の「目玉」は一体何。まなざし優位の人類、正直しんどい。なにしろ人類が、正直しんどいのだ。
もはや視る機能を有さない目玉、を我々が認識する場合。本来であればいくつかの定理が必要になるのだが、生活のなかでそれが行われることはない。

さて目玉は、果たしてオブジェに数えてよいものか。

 

「見ないでください。話しかけないでください。こちらに近づかないでください」

 

さようなら、私たち。
さようなら2023年。

 

(間奏)

 

2024年の皆さん。

皆さんはきっと、私たちよりも素敵な存在様式のうえに成立していることでしょう。

大きな災害が続くでしょう。そこで我々は試され、消耗させられ、愛した土地を離れなければならないときが来るかもしれない。

「あなたが本日始めた営みの土台は、次の夏にきっと崩壊しますよ」

だまされた気がした。それで私の生活や学びが左右されることはないだろうし、崩壊の日にも私は悲しくなることがないだろう。
しかし心底、そういうことははやく教えてくれと思った。

まともに考えて、あらゆるサービスは期限つきである。それらはいわば隠匿されているに過ぎず、冷静な人々にとっては、永続するものがあると信じ込むほうが難しい。ただ、明確に期限を設定されたうえで開始する営みに対してどういう表情をつくったらよいかもわからない。寿命を知らされて生まれる人々の気分がこれにあたるのだろうか。そうした側面があるのなら――不謹慎な願いが生じてくる。

 

「――する気なら相当、――に生きなきゃいけない」

 

後の部分は「苛烈」と言ったか「過激」と言ったかは定かでなく、どちらであったかにより、話が変わってくる。
努力か死か、それしかないらしい。ならば2024年は努力を、それこそ苛烈な努力をしていかなければならない。
しかし過激に、投げやりにではなく過激にやっていく。私はそれがやりたいのだった。そしてそれが出来ないままここまでたどり着いてしまった。

開き直ることが出来ず、世界を統合することが出来ず、並列つなぎで最後は一つになる人間関係。

上目遣いで「よければ」と言われてすぐさま、心拍数が上昇する。困ったことになった。困ったことにはなっていないのにそう思い込んで判断を下すから、のちのち実際に大変困ったことが生じる。

アキ・カウリスマキの『枯れ葉』を観た。

各々の理由で職を転ずる労働者の男女。彼らは酒と歌の領域で出会い、のちに二人で映画館へ行く。そこで女は連絡先を書きつけて渡し、男が紙きれを失くしたことを知る由もなく彼の便りを待ち続けることになる。
男は彼女を待って、二人だけで行った唯一の場所である映画館の前に毎日通う。約束はなく、一生待っても女が来ることはないかもしれない。
女が映画館へ向かったのは、彼が帰ってしまった後だった。入口の扉の前には、見覚えのある銘柄の吸い殻が固めて捨てられている。そしてここに、偶然に支配された必然が存する。虚構でありながらきわめて理の領域にある演出だった。

私に心というものがあると考えた場合、明確に上の場面で掴まれたことになる。

その後も二人はすれ違い、そして両者は一つの場所へ、一つのシチュエーションへと向かい、別々にやってくる。
女は彼と二人の食事のためにアペリティフを買い、男はおそらく女が女であることを根拠として彼女のために花を買う。花を選ぶ男のまなざしは(おそらく脚本の意図に反して)優しく映り、私はこういう場面で素直に胸を高鳴らせてときめくことができる、そういう自分のことだけは好意的に把握している

 

『枯れ葉』が終わり、ケリー・ライカートの『ファースト・カウ』が終わり、2023年は終わる。
私の素直なときめきは錯綜した他者他者(人々、のような調子で)にぶつかり、鈍い音を響かせるだろう。

私の名を知りたいという相手に、望み通り名乗ってみると、

「あなたが そう であるという証拠を提示してください」

と厳しく受容されたのがとんでもなく可笑しい。
そう である、というのは?名称・記号と私が一致することを示した後は、私が私であるという証拠を提示しなければ不完全だ。しかし、私であるという状態についてその同一性を根拠づけるものを提示することは簡単ではない。まずは物として、次にあなたの前にある何かとして、そして自分として、の、私。どうでもよい誰かではなく、あの相手であるからこそ、論証を試みる必要があった。

日常の場面では丁度不自然に思われる程度の長考を経て、私は仕方なく相手の眼前に保険証を翳した。

相手は黙してそれを見つめたあと、

「本当だ、名前が。――っていうんだね」

と意外そうに呟いた。
名前が本当で助かった。

そんな誰かは2日の始発で羽田へ向かうわけで。だいたい、年越しなんてしたくない。私はやめようって言ったからね。こういうこと言ってくる人間、いますよね。こういうこと言ってこられるのも困るので、来年からは廃止にします。

ああ、私のせいで世界が終わってしまいました。

まだ終わっていない皆様におかれましては――。
災害に、戦争に、抑圧に、病に、希望に、愛に、どうかお気を付けください。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

Rainy Runway

ご無沙汰しております、みちるです。

 

都合の良い内容ばかり耳に入れて喜び、怒り、悲しむ人々のことを私は軽蔑していた。いたって冷静であるように軽蔑することで、彼らと違う場所に立っていたいのかもしれない。
人の話を聞かないとろくなことになりません。というようなことを語っても、同じくろくなことにはならないのですが。
かつて親しかった人、母親、多くの同胞たち。古い言葉を遣えば、彼らのきわめて女々しい部分が私は許せなかった。
けれど今はすべてがどうでもよい。

シリアスなものの話をしなければいけない。

 

(間奏)

 

SNSで誰かの投稿を10年間分遡ってみると、面白い発見が。あったら多少はマシというものだが、たんに心乱されて終わる場合が大半である。
私と4年離れて大学を卒業したひとの卒論完成報告、さらに数年前にバンドをやっていたひとの話。9年前にあった花火大会の日、既に削除された投稿に対する複数のリプライは今もしぶとく残されたままだ。

投稿には宛先があり、「いいね」欄にはそれがない。広くはそう考えられているのだろうか。
自らが恣意的に見たものを恣意的に管理して外に見せる試みは、自身の直接的な表現よりも遥かに対他的意識を含み得るものではないか。「いいね」欄を管理する、という或る種潔癖な営みにどれほどの人間が参与しているのかは確かでないが、最近の自分はとくにこれに偏執しているから語らずにいられない。私の、そしてあらゆる人々の「いいね」欄は誰に宛てられたものなのか、これはおそらく解答を得ることが出来る類の問いである。


曲の歌詞のワンフレーズを自動で発信し続けるアカウント「任意のラブソングの歌詞」……。
動物の赤ちゃんの画像や動画を投稿する海外のアカウント「大型犬」……。
煙を吐く人「煙の情報」……。
出版社の公式アカウント「新刊情報」……。
伊豆にある動物園の公式アカウント「コアリクイの親子」……。
誰か「生存」……。
あなた「何か」……。
貴方「私信」……。
誰か「貴方が「いいね」した投稿」……。

・・・・・・

 

【今もどこかで行われているかもしれない恋などの姿】

「(誰にも教えたくない任意の歌詞)」♡1
 「とても愛し足りない、人生じゃ もう」♡2
  「貴方は私の一生もの」♡4
   「不器用に君を想うと綺麗な星が光った」♡1

 

「いいね」欄を用いたコラージュの遊びが二人の流行り。
始めはふわふわした動物、次は二人が好きなバンド、次はあらゆる歌の歌詞を。一枚の絵を作るように、一筆ずつ。次は、次は、次は――組み合わせる素材を探すのはなかなかに難しい。こんなところで詰まるのは私の方だけだろう、そう気が付くと君を本気で憎みそうになる。

「クリスマス、何します?」

もしや、もはや、歌詞でもないのではないか。これは。
自分で言うのも憚られるが、私は人より多くのバンドを好きになってきたと思う。曲の単位でもそうだ。小説でも、詩でも、絵画でも。とにかく多くのものに触れてきたし、その分、人より多くのものを世界に返してきたつもりでいた。
しかし今になって、それらが全く思い出せない。脳という脳のすべてを捻転させても出てこない。ただ「君と居たい」と、「夜の散歩がしたい」と、伝えたい。そのすべが全く奪われてしまったようで、私は、貧しい。

私たちはキリンジや稲葉浩志、あるいはやくしまるえつこの言葉を貸衣装のように扱って、即ちさっさと脱ぎ着を繰り返すようにして互いに普段通りでない自分を披露しあっているのだ。彼らの詩は、私が”このような仕方で”手に取ったとき、すでに本当の言葉ではない。だからいずれは自分の口で、まさにその時、手ずから紡いだ言葉で君に語りたい。この語りたい、という願いのために、二人は遊んでいる。

「クリスマス、何します?」

「夜 の」

削除。

「君 と」

削除。

「あなたと」

削除。

「ふたり」

……。

「ふたりで歩こう 寒い街並 ショーウインドーで止まって 少しながめたり」

検索。
該当。

 

「ふたりで歩こう 寒い街並 ショーウインドーで止まって 少しながめたり」♡1

本当は街へ出るより二人で映画を観たいけれど、今はこれでよい。
さて、恋の行方を任せられたと知ったらベンジーはどう思うだろう。わからないけれど、ありがとう。

チバユウスケのいない世界で生きていかなければいけない私と、チバユウスケのいない世界で生きていかなければいけない君として話し合ってくれた人。どうか一刻もはやくこれを見てくれ。私の一手を。

――こうして二人は、決しない盤を作る愉しみで恋を知る。

 

・・・・・・

深い悲しみから逃れようというその気晴らしは、徹底的に無意味である。
ならばいたって真剣に、遊んでみるのも良いのかもしれないと思う。どうしても明日が見えなくなったら。

ところで私は55歳まで生きるのかしら。

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すごい速さ

ご無沙汰しております、みちるです。

 

生きるのがとても速い私の歌は、信じられないほど短い。

「きっと世界の終わりもこんな風に味気ない感じなんだろうな」

いや、世界が終わる日にはきっと私たちのぎらぎらとした記憶があらゆる地平を、海を、風の一つ一つを駆け巡って輝くはずだ。
そうじゃないなら、もしそうじゃないとしたら。きっと私もあなたも、本当に生きていなかったんだ。

「あのバンドの新譜と牛乳を買いに部屋をでたけれど」

そう、GLIM SPANKYの新譜が出たとのことである。
私の愛する長髪のベース弾きが二曲参加している。彼はかの有島武郎の曾孫で、しかしもうそういう売り方はしていません。
彼も、最愛のロックスターも、バンドメンバーをとっかえひっかえの尻軽男である始末。高速移動する指先で安寧の地を蹴とばし、破壊!破壊!破壊徹底!!!

「大切なものも、無くしちゃいけないものも、全部なげうって蹴散らして生きてきました。」

そう語る私服のロックスターのしゃがれた声を聞いて、聞いて、教えて、話して、黙って、ダンスを踊る。

「5分前に出会ったふたりも今じゃベッドでささやきあって」

将来の夢は大好きな人とキスをすること――妄想疾患のお姫様がダンスを踊っている。
私はコーラスをやりながら、生まれる前に誰かと交わした約束を思い出す。瞼の上の真っ赤なアイシャドウ、真っ黒な神学徒の服、長髪。猫のような、といって誉め言葉になるか知らない。

なんて狭い箱の中で飛び回るのだろう、今夜は必ずあなたが世界一美しいのに。そう思うけど、何処へも行かないでほしいとも願っている。

「くだらないTV消してはじまりのおわりのはじまりのおわりの話をする」

解釈を変更できないから部分にフォーカスすることなく、やがて豆粒のように極小の標的を睨みつけることになる。誰に言っているのかもはやはっきりしないのは、私の前にそうした”患者”があまりに多く現れては消えてゆくためだ。

「すごい速さで夏は過ぎたが」

「ラララララララ」

「熱が胸に騒ぐ」

 

(間奏)

 

この後は、私の話ではない。
上のことだって別に私の話ではなかったが、そういう問題でもないか。

私は私の感傷を許していないし、今だっていつでも誰も彼も突然置き去りにしてどこかへ行ってやる、という一見センチメンタルで実は攻撃的な意志に肉体を突き動かされている。
andymori「すごい速さ」は、行き場のないエネルギーを費やしながら走る先が映画館だったから私と共鳴した。私は「何かやれそうな気がする」し、何か言えそうな気がする。ずっと惜しいところをさわさわうろうろしているのではないかと思われる。ああ、そこじゃなくてさ、もっと上、もっと奥の方に……自分の肉体じゃないのにわかるわけないじゃない、自分の肉体だってよくわからないのに。どうして指先が動くのか、どうして脳が痺れるのか、どうして心臓が拍動するのか、どうやって、いつ、何のためにか。

欠伸が出た。

破壊も逸脱も自傷他傷も、欠伸くらい呑気な出で立ちであったら気を揉まずに済むのに。

 

加速の果てに或るものは何なのか、誰も分からないのではないか。
領土化と脱領土化、これを人が話すたび、自分が異邦の民となってインドへの道を直接経験するかのような気分になる。

すごい速さで生きる私の怒りは深く、そして短い。なぜならこの怒りは、私の生と同じ長さしか持たないためである。

 

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TIME

ご無沙汰しております、みちるです。

 

街の中央通りに人々が集まる様子を見るとき、人の消えた周縁を想像する。
人の流れと状態とを視覚的に感じながら、在東京少女であることを悔しく思う。

じきに我々は、死者の日を迎えることでしょう。
生とは光を感じることであって、決して見ることではない。私は人を感じることで、死者の日に舞い戻る予定のジョーイ・ラモーンに成り替わることを計画する。

「そこ、ほくろの位置をまちがえないように」

その通り。たったひとつ、唯一あなたにだけは看破されてしまうような身体的特徴に細心の注意を払わなければいけない。
しかし、局部のほくろを自分で見るのはあまりに勿体ないと思いませんか。

 

(間奏)

 

年末を意識するのにも早すぎないような時期だ。

私は年内にリリースされるという『クロックタワー』の復刻版をずっと待ち続けているのだが、夏以来めっきり続報が絶えている。
数年前に友人宅でPS3版をプレイし、想像を絶するほどの長い時間をかけてようやく真っ当なエンディングに到達した。「真っ当な」という表現をとるのは、本作では序盤に用意された複数の死亡ルートもエンディングの一つとして数えられるためだ。マップやアイテム、トラップが初期化ごとに変化する『クロックタワー』の絶望を味わいながら、辛くもジェニファーの生還を見届けたとき、私は(もう続編をプレイできないかもしれない)と思うほどに一つの完結した物語を愛していた。
結局、正式な続編ではないながらエッセンスを継承した『DEMENTO』も友人のプレイで確認したが、やはり『クロックタワー』ほどの満足感は得られなかった(のちに私が極端な犬派へと転向したことで犬ゲーの側面を併せ持つ『DEMENTO』の評価は一変する)。

『クロックタワー』は、出産の悲劇を描き出した作品として読むことができる。この点については『DEMENTO』も共通しているのだが、後者はより観念的に産むことについての問題を含むうえ、操作キャラクター・フィオナにはある程度敵を退けるすべが用意されている。
『クロックタワー』において操作キャラクター・ジェニファーはひたすら逃げ回り、アイテムを回収し、イベントをこなす。ジェニファーは基本的に逃走しながらマップを開拓していくことになるので、通常アクションに「攻撃」の選択肢はない(非常時のパニック対応を別として)。
10代の孤児であり少女であるジェニファーらがなす術のない脅威に相対してエンディングにかけて意図せず成長してしまうさまは、怪母メアリーが孤独と共に膨張させてきた問題と、あるいは問題の発端となった出産という出来事と重ねられる。

後作でのネタバラシというか伏線回収で怪児の生まれる理由や怪児出産そのものについて言及があるようだが、無印単体を考える場合はあまり気にしないほうが得策ではないかと思われる。
例えば小説版では、シザーマンとなる怪児は或る一族の女性の腹に出現する次元の扉を通して生まれるとされており、つまりメアリーと初期シザーマンおよび地下洞窟の嬰児との間に血縁関係はないことになる。私はこの設定について膣を経由した巨大嬰児の出産の不可能性に鑑みて追加されたものではないかと考えているが、実際のところ小説版における出産についての詳細な設定は不明であるから、予想の範囲を出ない。ただ個人的には、少なくともメアリーは血縁関係を当然のものとして把握していてほしいという希望があるので、小説版はあくまで別作として確認している。

即ち少女の成長、女の出産、喪の作業、という三種類の問題が(前者二つについては「女性の」)肉体の不随意性というひとつの軸をもって展開されるのが『クロックタワー』であった。多少古い作品なだけあって人物の造形があまりはっきりしなかったので、そういった面でも復刻版には期待しているのだが、果たして年内に発売されるのだろうか。生前のウォルター・シンプソンの形影は登場するのだろうか。望むらくは、私の愛する『クロックタワー』が卒論完遂ののちすぐに新たなパッケージを我々の前に披露してくれるように。道端のカラスに祈るばかりだ。

 

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