ご無沙汰しております、みちるです。
人は死にますから、と言われた。
その人のシャツは知らない土地の空気を纏って、それを私のアルバイト先まで配達する。その人の指先からはきっと毎月違ったハンドクリームの香りがするのだが、しばらく会っていなかったから本当はどうなのか私にはわからない。他の色々なひとほど、私はその人と親しくない。何を見ているのか、何を考えていたり、考えていないのか、冗談以外のすべてがいつまでたっても分からない。それでも昨日は坂本龍一が死んだという話をして、少なくともその時だけは、互いにリアルな面持ちで向き合っていたのだと思われる。
(人は死にますから。僕だってもう死にそうだし、肺に穴も開いたし。)
冗談では済まないのに、笑っていなければやっていられないので笑う。
おいで、と言われて手の甲を差し出すと、両手に余るほどたっぷりのハンドクリームをくれる。花のいい匂いがしたけれど、去年のいつかに分けてくれたマスカットの香りの方が好き。
「春とは、何だったのかな」
春は骨になって埋まってしまった。
「では」
「春とは、何なのかな」
春は、項垂れた滲むピンク。
春は、一目で明らかな異常。
春はあなたの肌の温度も知らないくせに、我が物顔であなたを抱き寄せ、切りつけていった。傷つけても構わないのだと。
私は何をされたら嫌なのかがわからないから春を壊せない。本当はあなたに触れることも許せないはずなのに!心の底から嫌なのはいつも、鏡に映る一つの生き物だけだと感じられてやまない。
(間奏)
誰かがその場所を譲るたび、汲み尽くされるたび、私が代わってやればよかったと本気で悔やむ。私は時代を愛していない、人類その個体をそれぞれ愛している、だからもう春など来なければよいのだと怨む。次も、その次の春も私が祟る。この春も、昔の私に祟られている。そしてその祟りを私が一人で引き受けているのだ。意味もなければ快楽もなく、そうであれば責苦と焦りだけが残っているこの自然さは説明するべくもない。
四月になったら、四年生になったら、地面を蹴る足がわずかに軽くなるのではないかと考えた。そしてそのわずかな軽さこそが私を救い出すだろうから、きっと私は都会の真ん中に立ち尽くして泣くのだろうと考えた。しかし思えばこれまでずっと、誕生日になっても、年を越しても、梅雨が明けても、試験が終わっても、祖父母が亡くなってその家までもが喪われても、それらはそういう季節であるだけだったのかもしれない。それらは自ら行わなければならないし、自ら参入しなければならない――ある局面ではずっとそうしてきたはずだろう。
・・・
好きだ。
いま突然、人を好く気持ちの波が高まった。
・・・
そうか、春も骨になって埋まってしまったのではない。私が骨にして埋めてしまった。そう、それが良いよ。
その人はいつも、私の知らない高校の空気を背広に纏って私のアルバイト先まで配達する――冒頭の彼とは別人。
職場でもないのに「先生」と呼ばれては気疲れしないだろうかと心配するのだが、毎度つい「先生、」と言って話しかけてしまう。先生は私と齢四つほどしか変わらないのに、落ち着いていて怜悧そうな顔つきをしているから羨ましい。彼の立ち居振る舞いなんて身近にいる誰よりも優雅で瀟洒なものだから、「女の子なんだから女の子らしい言葉遣いをしなさい」「女の子なんだから靴下脱ぎっぱなしにしないの」などという小言教育はすっかり敗北していると見てよい。きっと先生は解いたネクタイをまっすぐにアイロンがけするだろうし、未亡人の靴下も見たことがないのだろう。産まれたその時に彼を刺激した分娩室の過激な光を、掌で遮ったのだろう。
先生は私の居ないところで私の話をするとき、私を「変な人」とだけ表現するらしい。
私は先生じゃない先生、実際の恩師を思い出す。彼に言われたことを思い出して、彼らが見る「変」さは類似のものなのではないかと思ってしまう。
「変」だと断じられることを甘んじて受け入れているこれは果たして妥協なのか。諦念なのか。敗北なのだろうか。そう思ってこなかったというだけで、そうである可能性が高まっていく気がする。
自分が愛されているその形式がどれだけ純粋だろうか、その中にどれだけの屈辱があるだろうか。気が付けば常にそうやって他人を上目遣いで見ているんじゃないかと思い巡らし、血を見るまで強く頭を打ち付けたくなる。精神の潔癖だ。息がしづらくなってきた。
先生――恩師の方には暫く連絡を入れていない。教育実習に行かれないことをどうやって前向きな表情で伝えようか迷っていたら、ついに年始の挨拶もできなかった。次に連絡するのはいよいよもう会えなくなるという時なんじゃないかと思ってしまうほど、恩師のイメージは遠ざかってしまった。合わせる顔がないので遠ざけているのかもしれない。
多大な功績を残し名をあげた人物が逝去することの表現として、”巨星堕つ”というものがある。 ”堕”ちてこそ巨星なのかといえば、それは”堕”ちてみなければわからない。そうなったことがないからわからない。今こそ、というとき、我々は名をあげるか”堕”つかして自らを巨星たらんとする。それが自ら参入して然るべき領域であるかは、またしてもそうしてみなければ以下同文である。
急いで何かしなくてはならない、焦る、眠れなくなる、頭痛がおさまらない。
最近わかったのはLINEの未読通知が丁度100件溜まったときに叫び出したくなるか、キリの良い数でラッキーとだ思うか、それがその日の調子のひとつの指標になるということ。
誰より物知りになったって梟になるだけならば、いっそパロールを強く信じて外側へ向かっていきたいし、その方が健康だ。
しかしどうしてか芸術の内側や夢の中で見る景色は、現前する昼間の世界よりもずっと明るい。
「そんなのはずるい、私だって楽しい思いをしたいし明るいところで生きてみたい。それでもそこに這い出るために力むことができずにいる。生の途中や終わりに具体的なヴィジョンがないことが苦しみになるような世界を誰が作ってほしいと言ったのだろう。誰か、助けてほしい」
情けないことを言っていないでしっかり立ってほしい。自分のあり方について疚しい思いをしないでほしい。頼むからフリーズしないで、大きく動いてくれ。助けてほしいと呟くだけでは誰も助けてくれなかったのだから、今度はそいつの目の前まで詰め寄って直訴してくれ。頼むから私は私を困らせないでくれ――こんなことを言ったって、抑圧が重くなるだけかもしれない。自分に期待するほどに力が減退していく。
つまりは、任意の領域に自ら参入する必要がある。それはおそらく芸術で、自らの生で、愛で、文芸で、彼女で、彼で、あなただ。だから勝手に消えないで。何だってこれからだから。
またお手紙書きますね、大好きです。 みちる