ヒガン

ご無沙汰しております、みちるです。

ギターの弦を張りかえるとき、毎回のように思い出すことがある。
見様見真似でバイオリンのチューニングをやってみた幼い自分の左頬を、ぷつんと切れたA弦が掠めていく。当時は何が起きたのかを理解していなかったのだと思う。ただとても近くで風が吹いたのを感じていた。
中学生の頃の記憶。6本の弦をそれぞれ張るときにもどうしてか脳裏によみがえる。
そしてその度、恐れではなく爽やかな焦りのような感覚がやってくる。

 

(間奏)

 

自分が何を恐れていて何を恐れていないのかが分からない。

先日、アルバイト先で初めて意識を失った。突然耳鳴りがして、外の空気を吸うために制服のまま店の扉を出た途端の出来事だった。客席からもスタッフからも見られたくないと思い素早く扉を閉めたところまでは記憶があるが、それを最後に床へ倒れ込んだらしかった。
スタッフの一人が偶然外へ出てきたのですぐに発見されたが、誰にも見られずに倒れることが良いわけがない。しかし誰かに見られて良い訳でもないため、自分はいざというときに助からない側の人間なのだと覚悟を決めるほかない。
意識が回復してから普段の状態に戻るまでには丸一日を要した。その間、肉体には大きな負担が掛かり、立ち上がって姿勢を正すのも苦しかった。勿論、苦しかったのは誰にも見られていないからであって、愛する誰かに見守られていたら苦しくはなかったはずだ。

体内の酸素が減少し続けた場合、意識喪失から8分間回復しなければ二度と戻ってこられない。私は自力で目を開けたとき、そこに自分の理性が関係しているようには考えられなかった。ただ自分の肉体の仕組みのために、きわめて自然に再び光を認識するようになったのだと思った。
自分がどこにいて、誰が近くにいて、それを度外視しても死ななくてよかったと素朴に感じる。しかし再び危険にさらされるかも知れないとか、死ぬかもしれないとか、先の出来事についてとか、そうした事柄の数々を恐怖しているような気がしない。恐怖に関して一切合切が曖昧にさせられている。

自身について、「楽観的にはなれないが目の前の事態を解決する力はないため明るい諦観がある」という状態を基本的なものとして把握している。今回のようなことがあって、この基本状態がスカしでも何でもなくきわめて真剣な真実であることがわかった。
「嫌だけど仕方がない」ことは、行動と覚悟次第でどうにでもなるならどうにかすべきである。これは明白なことだろうが、殊に自分自身の生き死にに関してはどうにもならない場合があまりに多すぎる。それは自分の生命について自分一人で全てを掌握しなければならないためであり、私は人間の生命について余りに知らなすぎる。

金木犀が香ってきた最初の日。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

モーニング・ベーコン

ご無沙汰しております、みちるです。

 

どこでも構わないので遠くへ行きたくて、結局映画館へ行く。映画が好きな数人の知人たちと作品の話をするのが楽しみで、私にしては珍しく「期待の最新作」なども観てみたりする。それでも、今どき縦長狭めの雨漏り二箇所、湿った匂いのするシアタールームで半世紀前の作品を眺めるのが自分には合っているのかもしれないと思う。

夏休みの間、親しい人と会う回数より映画館へ足を運んだ回数の方が多かった。一つの館を住処にしていると居飽きてしまいそうだから、いくつもの劇場を転々とする。一本観て、電車に乗り、また一本。たまに移動がかったるくなって、同じ館でポップコーンの余りを消費する。しかし冷静になって「今月食べたポップコーンのキャラメルを溶かしたら何リットルあるんだ」と考え、かなり怖くなる。致死量かもしれない。食料がなければ映画が観られないなんて、そんな馬鹿な話はないが、飲み物を買うとつい、甘いものに手が出てしまう。暗い館内でかつ周囲に人のいない席をとるので誰かにものを食べる場面を見られることが殆どないと思うと、気が楽になるということもあってだろうか。

最近、インプットの時期が続いている。
もうこれはどうしようもなくて、「今の自分の身体は摂取することに適している」と言うほかない。ご飯も食べられるし。

 

(間奏)

 

最近また息が出来なくなることが増えた。学生としての自らを意識すると、何かの役に立っているわけでもなく、どれほど呼吸をしても無駄であると結論付けられる。
昨年、知人の紹介で初めて参加した催しは心底楽しかった。自分の持ち物で勝負して、人々の間に生きている感覚を取り戻すことの出来る機会がいかに必要不可欠なものであるかを知った。今年もまたその季節がやってきて、今度は何を書こうか、誰と言葉を交わすことが出来るか、そうしたことを楽しみにしているはずだ。しかしその期待をはるかに凌ぐ不安が全身を苛み、抜け出すことができない。自分以外の何者も近くにはいないから、またしても壁の前に独りで佇み、やるべきことをやるしかない。
やることがあるのは素敵な事ですね。

気楽になれず、やはり遠くへ行きたいと思う。
映画館へ行きたいという意味ではない。

スマホで天気予報を見て、徐々に下がっていく最高気温を確認すると、全身が蒼ざめていくような気がする。体温が下がって背筋が冷えるあの感覚がやってくると、この現状はとても大変なことなのだと、ひたすら焦るようになる。眠ることが出来ないならその時間でPCに向き合うべきだが、PCに向き合うことは決して本質的ではない。加えて、文字数を増やすことよりも、その後で文字数を減らすことの方がよほど本質的である。文章の作成は筋トレのようで、つまり一度しっかり増量したのちに不要なものをそぎ落として体を作る必要があるようだ。増やすことには時間がかかり、減らすことには胆力がいる。夏の間、時間をかけて体を大きくしてきたはずなのだが、増やしては減らしてを細かく繰り返しすぎて何もかもが足りなくなっている。書き連ねた文章を眺めるとまるで痩身の自分を鏡で見ているようで嫌になる。自らの成果に感動できない。すべての体力が尽きる前に、人の間に投げ込まれたい。人間に向かってみたい。しかしそうしている場合でもないことを理解しなければならない。

全て良くなるまで、あとどれほどかかるか。

 

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

フレンズ

ご無沙汰しております、みちるです。

 

もし誰もが自分の数字を持っているのだとしたら、あの人は《8》だと思う。
共に生きるなかで、彼の良し悪しの理由を《8》に求めることは有り得ない。ただ《8》だ、《8》かもしれない、漠然とそう感じているにすぎない。

 

「そうであるならば君は」

 

私は《8》でありたいし《12》でありたい。実際は殆ど分からないままだが、ある瞬間にふと確信が訪れて自らが《》であることが明らかになる。
それはおそらく流動的で、必ず不随意的である。
私はいつもその瞬間を、確信を待っている無機物だった。

 

(間奏)

 

大学院の出願時期が迫っており、必要書類の準備に追われている。またしてもぎりぎりになって終わりが見えない危機的状況に陥り、焦れば焦るほど足が、全身が映画館の方角へ向いてくる感じがする。脳が痺れて、

「そろそろ映画が観たい」

口に出てしまう。しかし一服するより映画一本の方が遥かに長いのは当然で、後者は作業の休憩時間としてはあまりに長い。
それでも耐え切れない平日、地元の館で新作一、二本分のチケットを買って座席に着く。私は広い上映室であればF列、狭ければD・E列の中央で観ることにしている。加えて基本的に両隣二席は無人の状態であることが好ましく、むしろこちらの条件の方が優先される。これらをもとに座席を選択すると、何となくたった一人でスクリーンを独占している気分になれるので快い、場合が多い。私自身、他人の立てる音が気になってしまう質なので自分がポップコーンを咀嚼する音が周囲にどのように・どの程度聞こえてしまっているか、近くに他の客がいるとそれが気になってしまって注意が削がれるのだ。

座席に腰かけて上映前の予告を眺めながら、平日の昼から夕にかけて――一般的に定時前とされる時間帯。この作品をわざわざ見ようとするのは一体どんな顔をした人々なのだろうと気になってこっそり辺りを見回すことがある。作品によってご老人ばかりのときもあれば女性や学生風の団体が多い場合もあり、総じて人が少なければ少ないほど銘々に対して自分と同じものを感じやすい気がする。

高校時代は月に一度必ず劇場で新作映画を観るという縛りを自らに課していたが、コロナ禍による家籠りのため徐々にその習慣は失われ、大学三年次にはすっかりサブスクで月に一本観るかどうかという具合になっていた。思えば小説や哲学書、論文等読まなければならないものが増え、それらをアウトプットする機会もコンスタントに与えられるようになってきたため映画に対する熱も冷め始めていたのかもしれない。
それがこの半年間で再び昂り、月に五本以上の映像を消化するようになったのは、ひとえにホラー映画というジャンルのおかげだと思う。昨年冬にジョーダン・ピール監督作「NOPE」を鑑賞し、これは久々に音と画で驚かせ恐怖させてくるホラーが登場したな、と心底嬉しくなった。怖くない、驚かない、意外ではない、しっとりとしたホラーが増加の一途を辿っていると感じていた私は、現代映画界におけるホラーというジャンルの傾向や新作の数々をもっと確認したいと思うようになった。そして同時に、怖いと感じるホラーに出会いたいと思うようになった。

面白い映画、であればいくらでもあるだろう。どうしようもなく退屈で下手な映画が腐るほどあるだけに良作は秘宝の如き輝きを放つ珍しいものであるように思われるが、ある程度の教養があったり映画を頻繁に観るような人間であれば優れた作品を探すことはそれほど難しいことでもない気がする。
ただ、怖い映画を探すのは難しい。これは例えば(実際に涙を流して)泣ける映画を探すのと同様、同じ刺激に対しても感情を揺さぶられる度合いは各人で異なるという理由もある。実際、誰かが怖いという感想を残した作品も、私にとってはそうでないという場合が多すぎる。自分が特に何を恐怖するかを認識することは、恐怖できるほど作品世界にのめり込むことが出来るような場面づくり、設定、演技などがあるかという作品側の問題と同程度に重要である。
私は暗闇が怖いし失敗が怖い。ちょっと開けられた扉や夜道で聞こえるもう一つの足音も怖い。明るすぎる部屋や太陽も怖く、大勢で歩く女性たちも怖い。大人が怖い。父が怖い。不協和音が怖い、平成のリコールCMが怖い。あなたに見られるのが怖い。私はこんなにも多くの対象が怖い、こんなにも恐怖と親しいのにも関わらずどうしてスクリーンに映る世界には鮮烈な恐怖がないのだろう。

怖がらせすぎる映画には客が入らないうえ、映倫の年齢指定の問題が発生する。そこそこの恐怖感を演出するというとりわけ邦ホラーに見られる傾向については、こうした背景に鑑みると仕方がない部分もあるのかも知れない、と半ば諦めてしまいそうになる。
ただ、そうした事情を取り払って開き直った映画が非常に強いということは、事実として認められるべきだ(本来ここでは夏を前にしてごく少数の館で上映された『テリファー 終わらない惨劇』を参照すべきであるが、またの機会に譲る)。

恐怖の探究は止むことがないが、そうした目的を抜きにしても観たい映画は尽きない。劇場への用事が無くなったかと思えば、二週間ほど経つとまた気になる新作が登場する。そういった有様なので、ついに地元の館のポイントカードを買った。五本観ると一本無料の特典がもらえるらしいということで、このままだとひと月で一度特典をもらうことができてしまう

恐怖の探究は止むことがないが、そうした目的を抜きにしても観たい映画は尽きない。劇場への用事が無くなったかと思えば、二週間ほど経つとまた気になる新作が登場する。そういった有様なので、ついに地元の館のポイントカードを買った。五本観ると一本無料の特典がもらえるらしいということで、このままだとひと月で一度特典をもらうことができてしまう。が、後期が始まればそういう訳にもいかないだろう。数字と共に、記号と共に過ごす数か月が始まる。そしてその前に、今PCの別ウィンドウで開いているWord文書を完成させなければならない。そう、私は急がなければならないのだ。映画館を出るときも、いよいよ床に就いて眠るときも、何かを終わらせるとき、「あれをやらなければならない」と焦らなかったことがない。

序破急の 急 の部分。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

楽園

ご無沙汰しております、みちるです。

 

胃が痛くなることばかり起きます。
心安らかに過ごすためには、自分には対処することが出来ないほどの質量をもった問題を眼下に繰り広げて「どうしようもない……」と空を仰ぐのが一つの手でありますが、かえってぎりぎり自分で何とか出来てしまうような事柄に悩まされているような場合には案外こちらの方が気が滅入ってきます。

私は旅をしたい。遠くへ、遠くへと歩いていきたいのです。しかしこうも胃が痛くては中々かなわないということで、旅に出る力を養う方向で最近の生活を考えております。

 

(間奏)

 

音楽を聴く。私以外すべての地球人たちが日々スピッツを発見していた。しかし今は私だけが自転にあわせてスピッツを見つけているし、その間ずっと犬のイメージを纏わりつかせている。

本を読む。嘘、全然読んでいません。ので現在と進学後の研究対象について明日は神保町からサルベージを。

文章を書く。私にはやるべきことがあるのに、と思いながらいつも私以外の誰かが書けるものを書いてしまうから、こんなことはいつでもやめていい気がする。

連絡を返す。何を返しても角が立つLINEは「~」をつけて投げてみるが、どうにもならず全てが嫌になった。お世話になっている方が私の文言に刀剣乱舞のスタンプで返してくれる、少し気が楽になった。

映画を観る。この記事は一日遅れで更新しているので、本来であれば明日公開であるはずの一作、そしてそうじゃないもう一作を観た。もし自分の魂の現実的な表現が炎であったら、それは殆ど消えかけのアルコールランプの小冠である、そんなところに意地悪く染み渡るのでやはり彼は頼れる大人かもしれない。

音楽を聴く。変わった、私の長らく好きだったものがついさっき観終わったものと激しく(程度)静かに(様子)親和する。しかし気が付けばまたしても私はひとりの地平に立ち、何もかも、聴いている場合ではなかった。

ちょっと休憩します。
アルバイト先の女性客が川上未映子のなにかを読んでいて、タイトルまでは確認できなかったのですが何だろうなあ話してみたいなあと思っていたら、いつの間にかお帰りになっていました。残念。そんなお姉さんがわりとたっぷり肥えている青い箱を置いていかれたので、私が引き取らせて頂きました。
あまり馴染みのないものですが、巷に聞く「あいぶら」なるものだそう。かなり軽く、しかしいじめを疑うレベルで苦い……赤ちゃんなので中々敬遠したくなるような味わいです。しかしお姉さんがこの苦みを嬉々としてあるいは苦しみの中で受けいれていると考えると、私も、となる。

ああ。

蝋燭を吹き消して、寓話の怪物がやってくる。
ホラー映画のワンシーン、はやく夜明けがこないかと願う一秒はとても想像の一秒じゃない。その小道具はこう映してくれ、と祈りまじりにスクリーンを見つめて実際その通りになると気持ちがいい。気持ちがいいだけで評に直接関係してしまうのは皆の秘密なのだろうか、無論そう簡単な話でもないのだが。

ともかく、炎は何とか体勢をととのえられる程度の大いさを取り戻した。難を逃れたのは誰のおかげか……少なくとも、あなたではありません。

二回目の鑑賞はいつ叶うのだろうか。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

発光体

ご無沙汰しております、みちるです。

 

音楽を聴く。人から勧められたアルバムをサブスク上で探すとき、決して胸が高鳴るわけではないというほどの期待を込める。

文章を書く。ブログ部の更新も滞りがちだし、某誌に掲載されるものの第二稿を戻さねばならない、それに卒業研究と夏期課題も、それぞれ着々と推進させなければ。

映画を観る。長編アニメを一気に見るより体力を使う映画などそうそうありはしないものだが、劇場へ足を運ぶという工程が、一人の自分を疲れさせる。

 

摂取して全身から吐き出す、摂取して全身から吐き出す、この繰り返し。長期休みは人を機械にするのかと思われるが、しかし私にはやるべきことをこなす時間が必要だ。

 

(間奏)

 

二週間ほど前、SNSで見知らぬアカウントからのフォロー通知がきた。ハンドルネームとID、そして一人の共通のフォロワーを見て、はてさてこれは一体どこの誰なんだとしばらく考える。全く知らない他人が私に興味を持ってやってきた可能性は普段であればそれなりにあるのだが、そのアカウントと私との共通のフォロワーは私が昨年から現実で付き合いを持っている顔の広い友人であったので、彼の知人の誰かであることは間違いないだろう。
――こう考える間にも、私の中に一つの答えが出ていた。上の条件に当てはまる友人で、確かにIDも彼のあだ名をもじったようなものに見える。そしてアイコンや発信の内容・温度、自己紹介のbio、様々な事項に照らせば、やはり彼ではないかと思われた。

私が彼を「見つける」のは二度目だった。一度目は鴨川の騒ぎの中で、そして今再び。
IDに組み込まれていたあだ名は私たちが呼んでいたものだったが、他の誰かだって同じように呼んだかもしれなかった。私だけが何をわかっただろう。前も、今も、彼の思いが少しでもわかっただろうか。
彼はただひたすらに見つめるだけの「大きな眼」になりたいと、そう書いたことがあった。こっそり一人で喧噪の場を離れ、静かに眺める者でありたいのかもしれない。ただ私に言わせればその傾きの向かう先はおそらく見ることからも離れた「眼」であり、その像は彼の目論見とはまた異なるものなのではないだろうか。
このように詮索した後で何かしら疑問が晴れるようなことはない。私と彼はそういう間柄で、つまり親友でもなければ日常的に連絡を取るでもない、日ごろは殆どまったくの他人、しかしそれでも私にとっては貴重な相手だ。だから私は知りたかった、神出鬼没の彼と謎のアカウントが果たして結びつくかと。

意を決し連絡を取ってみると、そのアカウントはあっけなく彼本人であるとわかった。
不思議なものであれだけの要素が揃っていながら当人に聞くまでは「本当に彼だろうか」と疑っていたのに、「そうです」と返されてすぐに「やっぱりそうか」と得意げに思う。
彼は大学を出て、現在は東海の大学院へ通っているはずだった。

「今どこにいるの」

学校の話でも聞くつもりでそう送ると、

「利尻」

と返してきたから大笑いしてしまった。じっとしていられないのかと思う反面、やはり私は彼のそういうところを尊敬して羨んでいた。
人は誰しも、どうしようもなく遠くへ行きたいと願うことがある。自分を知る者が誰もいないところへ行って、解放されたい。それだけではないはずだ、しかしそれだけだと思ってしまう。彼はただ遠くへ行くというそれ自体を目的とした営為によって、際限なく見える若いエネルギーと故郷を持たない者の精神を表現してみせる、そんなわざとらしい意識もないままにやってみせる。昔から私も似たようなことを試みて、周りの人間よりは幾分か遠くに行ったものだが、思えばそれでも東京、関東、そこいらに鎖で繋がれているようなものであった。私はどこへだって行けるはずで、それでもどこへも行けるようにという可能を求めては動かなかった。だから彼の身軽さを羨ましく思うし、そのまなざしが非常に情けない。

私はTHE YELLOW MONKEYの「楽園」を思いだす。利尻島から道央へと向かってくる彼の旅を忘れて、今度は自分の旅を始めたい。私の煙草はメンソールじゃないし連れていく猫もいないが、それは私の行くことが出来る範囲とは関係がない。

どこかへいってしまいたい、という投げやりな仕方ではなく、どこかへ行くのだ。勝手に。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

君は薔薇より美しい

元始、貴方は白薔薇であった。

二人が出会った「発生」のとき、世界と呼べるものが生まれた。二人が共に生きることの出来るレベルが、その他の世界から区別された。
そこから今に至るまで、私たちは出会うことのなかった46億年間を駆け戻りながら、同時に、一日を一日として、一秒を一秒として今を歩んでいる。

前に私が贈った白い薔薇を、枯れて紙のようになるまで大切にしてくれたのを覚えてくれているだろうか――私は過去に、女性を花に喩えるということについてのアイロニーを文章にしたことがあるが、そんなことも忘れて白薔薇を貴方だと思った。いやむしろ、あの時の貴方が薔薇のような印象を与える人間だったという方が正しい。
貴方はナイーブで清潔で、傷がつけばすぐに目立ってしまうような性をしていた。見えないけれど棘もあるし、今よりも静かでつめたい皮膚を持っていた。

 

「君は果たしてその子を見ていたのか」

 

ええ。見すぎるくらいに見ていたと思う。だから貴方が私について貴方でなく貴方の見ているのと同じところを見てほしいと言ったとき、いちばん痛い棘に刺された気がした。

そして今はもうその棘が、自分の掌にある自傷の道具であったとわかっている。

 

(間奏)

 

貴方は変わったし、私も。少なからず変わったと思う。
私は、貴方の香りや洋服や髪型が変わるところをどうかこれからも余さず見届けられますようにと願いながら眠る。だけどそうじゃなくて、そうじゃないところで貴方は変わった。自分が一番よくわかっていると思う。
空間を、世界を、物語を見る目が変わり、他の人には秘密にしたい様々なところで貴方は変わった。例えば声が出るようになったので横の道を通る車の音に負けずに会話が出来るようになってきた、が、私の耳が悪いのでこれからも戦いは続くだろう。背筋が伸びてきたので、並んで歩くときに少し私が見上げるようになった気がする。ギターを始めて、映画を観始めて、私が好きなこと(と一致すること)を始めて、だから私も歩み寄ってあの映画を観てみようと思う。

 

なぜか今日は君が欲しいよ
違う女と逢ったみたいだ
体にまとったかげりを脱ぎすて
かすかに色づく口唇

 

快活な女はよくて、「かげり」のある女はわるいのか。そう思って聴いたものだけど、貴方の不要だった「かげり」が薄れたとき、心の底から見違えるほどの美しさを感得した。だから毎度走ってこちらへ駆け寄ってくれなくても、今の貴方を好きでいられる。
二人は今も「かげり」を宿したままでいる、しかしそれは若い時分に必要なものだと思う。身に受ける光も翳も、時々刻々と変化して然るべきものだ。これも、貴方と居て気付かされた。

 

歩くほどに踊るほどに
ふざけながらじらしながら
薔薇より美しい
ああ君は変った

 

薔薇「より」といって他者との比較のなかで測れる相手ではない。貴方を比較の中で考えることは、私にはもう出来ないだろう。
それでも私は貴方を、「薔薇より美しい」と思うことがある。この思いにはきっと妥協があるけれど、それでも私の中で嘘でないのは、「元始、貴方は白薔薇であった」ためだ。
薔薇は元始の貴方、今の貴方は、ただひたすらに貴方である。

貴方は変わって、前よりもずっと美しい。しかしそのために今、貴方を薔薇に喩えることがなくなってしまった。
私は貴方に生活の全てを捧げようと思ったし、本当の自分というものがあり得るならばそれはきっと貴方の家畜人であろうと信じようともしていた。ただ、そも私が捧げるべくは生活ではなく魂であったのだし、そして今やそれは私がすべきことではない。
貴方はどうなのか分からないが、二人は互いを人間として見られるようになったのかもしれないし、そうであるならばこれほど自然なことはない。

 

賞賛に俯いてしまう薔薇の貴方ではもうないから、心置きなくこういったことを書くことが出来る。
共に朝陽を見る者として伝えます。美しい貴方、ありがとう。

今度はあなたへお手紙を書きますね。  みちる

マリリン・モンロー・ノー・リターン

ご無沙汰しております、みちるです。

この世はもうじきお終いなんです。

「この世が?君が、ではなくて」

何もかも誤りだ……。

「それは誤りである」と言われるとき、私は大いに失望する。他でもない自分自身に失望する。整合性の取れた解釈や憶測を生むために充分な程度の説明を与えてこない世界のほうへ責苦を浴びせたくなるところだが、世界あるいは任意の個人などがつねに開放的でありそれ自体が露出したマニュアルであるケースのほうが稀であろうから、私は黙る。

あなたが誤るとき。素知らぬ顔をして私は見ていた。誤りだと判断して、後はそのまま。哀愁も寂寥も本質的ではなく、ただ脱ぎっぱなしにして裏返った靴下のように。あるいは――

――あるいは、二度と戻らないマリリン・モンローのように。

 

(間奏)

 

肘から手首にかけての部分を何と呼ぶべきなのか。一瞬の躊躇いがあって、「前腕」と口を吐いて出る。この話は全く本質的じゃない。
つまり私が伝えたいのはその前腕ふたつを風に晒しながら外へ出られるような季節になってきましたねということなのだが、しかし今以上のじりじりと焼かれるような暑さが襲ってきたとしても全てを吸い込んでしまう黒の上着に汗を吸わせてしかめっ面で歩くことがあり得ることを書き洩らしてはならないとも思う。

 

孤島の夜の明るさは容易に表象可能であるのに対して、都市の煌々とした街灯の表象は余りに散漫で確からしさに欠ける。
自分が知らない風土が肌に馴染んでくると、知らない視界が開けてくる気さえするのだ。氷の上に佇んで一人で白夜を生き、砂漠の荒野で月を見ながら便りの途絶えた友人と歌を詠み、人喰い部族の供儀に立ち会う中で、”これ”は非人称の視野となる。
ほら、これで表象を検証できる。検証は、一定程度固定される表象の蓋然性に寄与するのではない。肌に触れ、脳に触れ、口から侵入しては消化管に触れる、風土そのものの体感こそが検証であり、そこで表象は既存の表象に上書きされる形で形成されるかに思われて、実のところまったく新規に、その後の表象の土台としての役割を果たし得る形で成立するのである。

これが私の言いたいこと。これだけではないのは当然としても、ひとつ。
そう、ひとつ、誰も聞こうとしなかったことだ。どれだけ他者を恣に選別したとしても、最終局では誰も聞かなかった!
私の恣意性、否、選別には結局、意味がなかったし、実際には選別ということを徹底してやってはこなかったのだろうと思われるから科学実験としてはナンセンスだ。無論、そのことに後悔はない。しかし寂寞たる無人の夜に迎えられて果たして私は――いまやそうした”いつもの”領野に留まり得ない存在となってしまった私は――。あらゆる風土を訪問し往来する者として生きるほかない多動の私の語りを一体誰に打ち明ければ良いのだろう。

アルバイト先でやましい出来事の生じるたびに「私のこと嫌いになった……?」と上目遣いで伺ってくる女性がいる。私は「出来る」ことにも「出来ない」ことにも、他者について好き嫌いを判断する場面では等しく意味がないと思うし、元々彼女は私の意識の舞台にせり上がってくることも殆どなかった、即ち彼女が備品を破壊しようが誰と恋をしようが嫌いになるも好きになるもない。ということを考えるときにだけ、私は彼女の姿を想像するのだ。こうした経験を重ねるたび、反対に、私が強く惹かれる他者とは、とても尋常ではない彼等は一体何なのだろうかと考える。私が同僚の彼女に語らず、ひどく認識を働かされる彼等には語るのはなぜか。

簡単なことだ、私は期待しているのだ。

期待の矛先は、私の意識の敏感な部分ではなく、私の身体が選別している。そして身体は期待が打ち砕かれた場合に帰るべき夜の荒野の座標も、きちんとわかっている。

都市の街灯は、100円のミカンジュースの表象を伴って、あるいは強風にも耐えるターボライターの表象と癒着してあらわれる。日常で”その”ジュースや”その”ライターを手に取れば、街灯に照らされ、照らされず、照らされる自分のアニメーションが見えてくる。そこから、30分あったら何が出来るかとか、そろそろ煙草の銘柄を変えてみたいとか、自分もルーブルへ行きたいとか、2014年のアニメのこととか、自分が語ろうとしない相手の抽象的な姿とか、友人がグループラインに送り付けてくる野坂昭如の物真似ボイスメッセージの稀代のくだらなさとか、「夜半の寝覚」の結末とか――そう、結末は私だけが知っているから――、歩いている自分の色々の思考が再生される。そのたびに街灯の表象は様々に上書きされていく。

私の前腕もまた、物凄いスピードで上書きされて今やタブラ・ラーサといった具合。ここにきて初めて「前腕」は本質的になる。なった。全くおかしなことだと思わないか。しかしこのおかしさゆえに、やっぱり誰かには語ろうと思い直すのだ。
全体主義者御用達のドリンク(!)を片手に、夏未満。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

メロディー

ご無沙汰しております、みちるです。

静謐なるホール、講義室、その他それに準ずる空間。すれ違う学生、住民、他人、私。
いつ爆破されて粉々になってもおかしくないのが変だし、いつ鞄をひったくられたり刺し潰されてもおかしくないのがおかしい。他人がそれほどまでに私に興味を持たないのはおかしいし、私の方はといえば、赤の他人たちに対して異常に興味がある。

「しかしそのために傘の持ち方を替えるというのは、過剰そのものだ」

いいえ、何だってやらなくちゃいけない。火を焚いて絶叫し、文明のイメージをそこかしこに点在させなくてはならない。
しかし私たちの肉体が対称にできていたら、また違った方法を採ることが出来たかもしれません。

 

(間奏)

 

深く潜ることと、沈み込んで戻らないこと。両者の間には音楽性の側面から決定的な差異を見出すことが可能で、かつ、そうされるべきものたちだといえる。
言うべくもなく我々にとって前者が重要なのは個々の細胞の隅々に至るまでが(深く潜れ!)と指令を受けて働く潜水艇だからであり、よくよく注意してみればファッショナブルな沈み込みの仕草とは似ても似つかぬ代物だ。

現実に、芸術に、スムーズに潜行するためには、誰かの話を聞いて「わかりません」と言う強度が必要だし、エクリチュールのたんなるメディアになってはいけない。
「ディグる」という言葉を用いるときの恥ずかしさもまた、遠出するための荷造りみたいな必要コストとして数えられるのだろうし。

最近は、たとえ潜行した先の世界がどれだけ美しくあっても、人々は自らの家を忘れられないものだと思うようになった。そう、深く潜るということはある種の異界入りであって、そこで療された存在はその瞬間から訪問者として確定される。それが惜しいのでいつ終わらせるかといったことが問題になっていたのだが、喪失してどうこうなるほどの潜行体験は未だ私のもとに訪れないままでいるのだから、何も大したことではないのかもしれない。

今はというと、久々に高校時代以来の程度に早起きをしたので、船を漕ぐしかやることがない。人と人に挟まれた図書館の一席で、誰よりも浅く昼間の国を漂う。私が目を醒ます頃にはこの子の方が電池切れだろう。金属の塊を背負って帰る面白さよ、まったくしょうがないんだから。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

Now’s your chance to be a Big shot.

ご無沙汰しております、みちるです。

 

人は死にますから、と言われた。

その人のシャツは知らない土地の空気を纏って、それを私のアルバイト先まで配達する。その人の指先からはきっと毎月違ったハンドクリームの香りがするのだが、しばらく会っていなかったから本当はどうなのか私にはわからない。他の色々なひとほど、私はその人と親しくない。何を見ているのか、何を考えていたり、考えていないのか、冗談以外のすべてがいつまでたっても分からない。それでも昨日は坂本龍一が死んだという話をして、少なくともその時だけは、互いにリアルな面持ちで向き合っていたのだと思われる。

(人は死にますから。僕だってもう死にそうだし、肺に穴も開いたし。)

冗談では済まないのに、笑っていなければやっていられないので笑う。
おいで、と言われて手の甲を差し出すと、両手に余るほどたっぷりのハンドクリームをくれる。花のいい匂いがしたけれど、去年のいつかに分けてくれたマスカットの香りの方が好き。

 

「春とは、何だったのかな」

春は骨になって埋まってしまった。

「では」

「春とは、何なのかな」

春は、項垂れた滲むピンク。
春は、一目で明らかな異常。

春はあなたの肌の温度も知らないくせに、我が物顔であなたを抱き寄せ、切りつけていった。傷つけても構わないのだと。
私は何をされたら嫌なのかがわからないから春を壊せない。本当はあなたに触れることも許せないはずなのに!心の底から嫌なのはいつも、鏡に映る一つの生き物だけだと感じられてやまない。

 

(間奏)

 

誰かがその場所を譲るたび、汲み尽くされるたび、私が代わってやればよかったと本気で悔やむ。私は時代を愛していない、人類その個体をそれぞれ愛している、だからもう春など来なければよいのだと怨む。次も、その次の春も私が祟る。この春も、昔の私に祟られている。そしてその祟りを私が一人で引き受けているのだ。意味もなければ快楽もなく、そうであれば責苦と焦りだけが残っているこの自然さは説明するべくもない。

四月になったら、四年生になったら、地面を蹴る足がわずかに軽くなるのではないかと考えた。そしてそのわずかな軽さこそが私を救い出すだろうから、きっと私は都会の真ん中に立ち尽くして泣くのだろうと考えた。しかし思えばこれまでずっと、誕生日になっても、年を越しても、梅雨が明けても、試験が終わっても、祖父母が亡くなってその家までもが喪われても、それらはそういう季節であるだけだったのかもしれない。それらは自ら行わなければならないし、自ら参入しなければならない――ある局面ではずっとそうしてきたはずだろう。

・・・

好きだ。

いま突然、人を好く気持ちの波が高まった。

・・・

そうか、春も骨になって埋まってしまったのではない。私が骨にして埋めてしまった。そう、それが良いよ。

その人はいつも、私の知らない高校の空気を背広に纏って私のアルバイト先まで配達する――冒頭の彼とは別人。
職場でもないのに「先生」と呼ばれては気疲れしないだろうかと心配するのだが、毎度つい「先生、」と言って話しかけてしまう。先生は私と齢四つほどしか変わらないのに、落ち着いていて怜悧そうな顔つきをしているから羨ましい。彼の立ち居振る舞いなんて身近にいる誰よりも優雅で瀟洒なものだから、「女の子なんだから女の子らしい言葉遣いをしなさい」「女の子なんだから靴下脱ぎっぱなしにしないの」などという小言教育はすっかり敗北していると見てよい。きっと先生は解いたネクタイをまっすぐにアイロンがけするだろうし、未亡人の靴下も見たことがないのだろう。産まれたその時に彼を刺激した分娩室の過激な光を、掌で遮ったのだろう。

先生は私の居ないところで私の話をするとき、私を「変な人」とだけ表現するらしい。
私は先生じゃない先生、実際の恩師を思い出す。彼に言われたことを思い出して、彼らが見る「変」さは類似のものなのではないかと思ってしまう。
「変」だと断じられることを甘んじて受け入れているこれは果たして妥協なのか。諦念なのか。敗北なのだろうか。そう思ってこなかったというだけで、そうである可能性が高まっていく気がする。
自分が愛されているその形式がどれだけ純粋だろうか、その中にどれだけの屈辱があるだろうか。気が付けば常にそうやって他人を上目遣いで見ているんじゃないかと思い巡らし、血を見るまで強く頭を打ち付けたくなる。精神の潔癖だ。息がしづらくなってきた。

先生――恩師の方には暫く連絡を入れていない。教育実習に行かれないことをどうやって前向きな表情で伝えようか迷っていたら、ついに年始の挨拶もできなかった。次に連絡するのはいよいよもう会えなくなるという時なんじゃないかと思ってしまうほど、恩師のイメージは遠ざかってしまった。合わせる顔がないので遠ざけているのかもしれない。

多大な功績を残し名をあげた人物が逝去することの表現として、”巨星堕つ”というものがある。 ”堕”ちてこそ巨星なのかといえば、それは”堕”ちてみなければわからない。そうなったことがないからわからない。今こそ、というとき、我々は名をあげるか”堕”つかして自らを巨星たらんとする。それが自ら参入して然るべき領域であるかは、またしてもそうしてみなければ以下同文である。

急いで何かしなくてはならない、焦る、眠れなくなる、頭痛がおさまらない。
最近わかったのはLINEの未読通知が丁度100件溜まったときに叫び出したくなるか、キリの良い数でラッキーとだ思うか、それがその日の調子のひとつの指標になるということ。
誰より物知りになったって梟になるだけならば、いっそパロールを強く信じて外側へ向かっていきたいし、その方が健康だ。

しかしどうしてか芸術の内側や夢の中で見る景色は、現前する昼間の世界よりもずっと明るい。
「そんなのはずるい、私だって楽しい思いをしたいし明るいところで生きてみたい。それでもそこに這い出るために力むことができずにいる。生の途中や終わりに具体的なヴィジョンがないことが苦しみになるような世界を誰が作ってほしいと言ったのだろう。誰か、助けてほしい」
情けないことを言っていないでしっかり立ってほしい。自分のあり方について疚しい思いをしないでほしい。頼むからフリーズしないで、大きく動いてくれ。助けてほしいと呟くだけでは誰も助けてくれなかったのだから、今度はそいつの目の前まで詰め寄って直訴してくれ。頼むから私は私を困らせないでくれ――こんなことを言ったって、抑圧が重くなるだけかもしれない。自分に期待するほどに力が減退していく。

つまりは、任意の領域に自ら参入する必要がある。それはおそらく芸術で、自らの生で、愛で、文芸で、彼女で、彼で、あなただ。だから勝手に消えないで。何だってこれからだから。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

俺が公園でペリカンにした話という話

大変ご無沙汰しております、みちるです。

 

未だかつてない程の財政難なんです。

「何にそんなに使うことがあるかね」

わかりません。使途不明です。
毎月毎月、普通に実家で暮らしていればさほど困らないくらいにはアルバイトで稼いでいるはずが、どうしてこのようにかつかつの生活をおくらなければならないんでしょうか。

しかし使途不明と言いつつクレジットカードの月ごとの請求画面を見てみれば
「ああ、こんなこともあったね」
と、何だか卒業アルバムを眺めるときのような言葉が口からこぼれてきます。どうやら毎月定額を支払う用事に加えてそれなりに大きな出費を2,3ずつ繰り返しているせいで一分の隙もみせられない状況が続いているようです。
財布の口周りは厳戒態勢、しかしキャッシュレス社会においては来月の約束が通用するので詮無い。今月は先月分の”約束”を果たし、旅行の予定まで立ててしまいました。これくらいであればぎりぎりなんとかなるかなという感じがするのですが、好きな作家の新著情報(限定版予約受付3/13〆切)が目に入り、熟考の末に購入。今月に入ってから後払いを多用していることもあり、4月の支払いが不安でたまりません。
来月には新学期が始まるので大学と家の往復+アルバイト、それぐらいしか外出の用事はないでしょうし、なんとかやっていける気もしますが。果たして。私ってどうなっちゃうんでしょうか。

 

(間奏)

 

先に少し触れたが、敬愛する平山夢明御大の新著が出た。正確にはこれが四月上旬発売となるため、新著が出る、ということになる。先程この情報を目にしたのだが、これは嬉しい。
ウォッカを呷ったように目の覚めてくる嬉しさというか、嬉しさでなくとも眩暈のするような強い刺激を受け取ること自体が私の生活においては稀なことだから、正直今の自分の状態には驚きさえおぼえている。
平山さんの書く小説についても、とりわけ初読の際は大きく文藝筋と情緒とを揺さぶられる。私は毎度疲弊してしまうのだけれど、こういうのも悪くないと思ってしまうから不思議だ。

今回新たに出版されるのは『俺が公園でペリカンにした話』という話で、これが2011年に『小説宝石』で表題作を発表して以来現在に至るまでぽろぽろと産み落としてきた短篇を纏めた冊子になっている。『小説宝石』への作品掲載という事実については何度かネット上で観測したことがあるが、内容についてはどれも未読のはずである。
どうしようもない登場人物たちが酷い目に遭わされたり遭わせたりという物語が目にも耳にも馴染みのないような頓狂な言語表現を以て展開される平山作品は一話読み切るのに莫大な体力を消費するものも多いが、どの作品も一頁読むと次を確認せずにはいられなくなってしまう。毒か薬かといえば毒寄りの猛毒(しかも激臭を放っている)なのだが、こちらは元より毒の幻惑を快として受け取る身体だから有難がってこれを食らってしまう。あなたの身体がどうであるか、パッチテストをやるなら「ミサイルマン―平山夢明短編集(光文社、2007年6月)(※1)がおすすめ。このセレクトに対する賛否は様々あるでしょうが。
平山フリークとしては何を読んだって面白いんだからとにかく全部読め、と「文字禍」よろしく相手が圧死するまで本を押し付け続けることも出来てしまうが、実際のところ平山夢明の名を広く世に知らしめているその由縁ともいえそうな「東京伝説」シリーズ、実話怪談の類から入門するよりは上に示したような短編集から読みはじめる方がはるかにその文章的魅力を受け取りやすいことだろうと思う。後は映像化もされている「DINER」という長編が有名でかつ大変な傑作なのだが、個人的にこちらは平山の書くものの基礎体温めいたものに肌を馴染ませてから見てみるとより退屈せずに読めるのではないかと思っている。しかしまあ、もし興味を持ってくださるのであれば何からでもよろしいので一度眺めてみてほしい、出来れば創作の小説を。

 

――いけない、気を抜くとすぐシュミを押し付けてしまう。今はそう、ペリカンの話だ(本当はペリカンにした話の話だ)。そのペリカンは常識的なサイズの単行本で出るらしいのだが、それとは別に限定版として物理的に巨大なサイズの書籍となって様々の特典を引っ提げて22,000円で販売されるという(!)

どんなユーモア?

電子書籍で情報が摂取できる現代に芽生えた反骨精神の一番馬鹿馬鹿しい部分だけを抽出してアウトプットしたんだろう。そうじゃなきゃ、こんな企画が通るわけがない。そしてそんな馬鹿馬鹿しさを好んでそこに金を出す方も方。

買いました。

特典のなかには京極夏彦さんを呼びつけて開催するオンラインイベントのチケットも引っ付いており、特大のため息を吐きながらもこんなのはもう見ないほうが馬鹿をみるじゃないかと思ってしまった。嗚呼、かくして巨大な本が届いてしまうことが確定。巨大な、巨大なペリカン。内容についてはまた後日。以上、財政難の解消されないただ一人の人類でした。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

※1:2010年「ミサイルマン」に改題