TONER

ご無沙汰しております、みちるです。

洗うか、洗われるか。という問題があるんです。

「「洗い」は、洗礼なのか。性行為なのか。」

その二つの選択肢はまったく別の方向を示している。
すなわち「洗い」はそれでしかないということを前提とするならば前者であろうし、「洗い」がそれ以外のものを表現する隠喩であると考えるならば後者であろう。そうとは云っても前者の考えは今日突然湧き立ったものだからよくわからない。
しかし、数年間考えてきた事柄が解決しようとしているのだからまともに向き合わなければいけない。「洗い」は或る批判の先に拵えられた実践なのか、それとも僧職者へ向けられたイコンなのか。何と共に描いてもゼロにならない「愛」であることに間違いはないと思うけれど、計算式の結果は結果としてあるのであって、それが描かれる場自体は別に存在させられることを忘れてはならない。

 

(間奏)

 

こんなことばかり考えて、起きてから眠るまで読んで書くだけの生活。話すことも考えることも身体化されていて、起きることや眠ることは実感として全くそれらの対極にある。読んで書いてをやることは、その中間くらい。
私の身体は書くしかない身体なのに、書くという行動は完全に身体と密着していない。つまり私の生はやっぱり何にも保障されていないということです。

あなただってそうですよ、あなたの実存だって何にも保障されていないし、足元には何もない。
その不安に苛まれて駄目にならないために最も手っ取り早いのは、人が人を生かすメカニズムのうちに取り込まれることです。出来て当たり前のことを当たり前にこなし、普通や平均に執心しないながらも過激なものには触れ合わない――そうすれば自ずと普通な感じになりますから。
平均化教育への反動は現代の精神病患者をあぶり出し、平均化教育の名残りがあぶり出された彼らをそのままにする。”普通”へと治療することも、そのままの有り様で社会へ参入することも許さない。それは治療が杜撰なため、適切でないためであり、また社会という動物の系譜に照らせば”普通”への志向がひとつの適応であるといえるためでしょう。そして彼らが異常であることを社会は容認し始めている、私たちが、いいえ私が、おかしいということを許されている。勿論、近づくことは許されないけれど、生きることを社会に許されている。私という実存への報復は私を生かすなかで達成されるのだ。

しかしこれでは大多数が不安で駄目にならないとして、我々は大多数を駄目にしないそのメカニズムによって、駄目であるという判断を下されてしまう。

それでは元も子もなくないか。

ジャン=ジャックの一般意思が政治的背景を当然に考慮して案出されたものだとして、現代社会にみとめられる一般意思は精神医学的背景を前提として形成されるのかもしれない。だってそう思わざるを得ないほど、不健康はそこらじゅうで膨らみ続けているじゃないか。
これはニーチェ以降の元も子もなさなのか、否、神の死以降のそれなのか――否、愚問である。すべて宇宙即ち己、自身によって決定されたことなのだ。しかし社会を己として鑑賞するには、社会はあまりに遠く私と隔たっている。
あまりに遥か、あまりに霞み、あまりに、あまりに色のない。

デカルトが死に、ベルクソンが死んだ世界。ケッチャムが死に、バロウズが死んだ世界。キューブリックが死に、澁澤龍彥が死んだ世界。彼らは生活のなかで忘れられる。研究の功績がなんだ、アカデミックがなんだ。私たちは彼らを誰も彼もに忘れさせないようには出来ないじゃないか。それなのに、忘れられずにしぶとく生き続けている全体主義者たちがいるというのは、あまりに残酷じゃないですか。
しかしそれでも我々を生かしてくる社会に、”生かされない”という方法で抗うのはクールじゃない。それは抗う者の運動の停止を意味するのみであり、大きな全体にとっては何の痛手でもないのだから。ああ、なぜこんなことを書かなければならないのでしょう。誰も、数であってはならないはずだ。それなのに。
私たちは、もっと賢くやらなければならない。21世紀の私たちは。

ブログ部で執筆するにあたって、政治・宗教の話題はタブーであるという説明を受けたことをよく覚えていて、そのきまり自体に了承して私はここにいる。ただ、政治的な身体については話をしなければいけない。どこどこのセクトがどうとか岸田政権がどうとかアベマスクがどうとか、そういう話がしたいわけじゃない。今自分が立っている場所を知らないことも考えないことも綴らないことも、ひどく危険だと言いたい。特定のセクトや思想に誰かを扇動するような文章だけは、上の禁止の存在理由というか趣旨に反すると踏んで書かずにきたし、これからもそんなものを書きたくはない。実際、私は「政治」の話をしたことはない。しかしあくまで政治”的”であること、政治的なものの話を、実存に関わる範疇内でやることはあります。そうしたことを検討しなくて良いのは、何も望まない者だけなので。
社会の中で生きようが或いは外側で生きようとしたって、何かを望むのであれば我々は適切に自分の置かれた位置と、己の実存とを見据えなければならない。それは勿論、我々自身の仕方でなくてはかないません。生活の素敵なことを書けるならそうしたいし、そうできるときはそうするでしょう。そうでないから、毎度あなたを困らせる話ばかり綴るのかも。

あなたにルンプロの気持ちがわかりますか。
私にはわかりません。
あなたにうまくやっている人の気持ちがわかりますか。
私にはわかりません。
私にわかるのは、そうですね、例えば適応から外れて、元も子もなくなって、駄目にされてしょんぼりした気持ちとか。だからちゃんとしようと思う。普通に頑張ろうという仕方では失敗するから、誰かと一緒に、そして、元も子もなさの前に項垂れてしまった人たちのためにも。

書いているうちに、これは誰かの受け売りだよなあということが意識されたりする。同じ物を見ようとすると、ついそこを見る者の轍を踏んでしまうことがある。

最近のインターネットでは千坂恭二の影響からか、バクーニンのつけた轍――それも再三踏まれたそれ――を踏みなおそうとする者たちの姿が見られる。どんなに偉大な者を追ったとしても、どんなに卑俗な者を求めたとしても、誰もかも変わらない。私はそうしたものを目にするたびに、自分もまた同様に誇らしく同時に恥ずかしいと断じられる存在なのだろうと想像する。
しかし私たちは或る轍を目にすれば、それを付けた者の人格を知ろうとするだろう。そういう健康さが、今もまだ息をしている誰かと誰かの間にも必要なのだとは思う。そう、私はボルシェビキを追いかけている場合じゃないのだ――実際、追いかけてもいないし。何かを追うのと同じだけのエネルギーをもって、煙草であなたに口づけなければいけない。

そう、ずっとこういう内容を書きたかった。また別のメディアで書く機会がありそうだから、アイデアが煮詰まったらそちらで更に筆を尽くすことにする。

今回は少し書きすぎてしまったかもしれません。飽き飽きさせてしまっていたらいやだな。
そういえば、一般入試ももう殆ど終わる頃でしょうか。思い出したように云ってはみたものの、まったく入試に関係のある内容ではありませんでしたね。
しかしみちるは受験生の皆さまを陰ながら応援しております。受験が終わった後にまず何を読むか、そう考える方とはお友達になれそうです。日本文学科にいらっしゃる方は、小林秀雄とか読んだらいいんじゃないですか。終わったらやりたいこと、入学したらやりたいこと、色々考えちゃいますね。

入学時点での必須教養みたいなものも正直無いと思いますし、春休みの間に急いで頭よくなる必要はないです。ご友人と沢山遊んだり、なんか、そう、色々したらいいんじゃないですか。
ちなみに文学部日本文学科は、思想哲学やら文学理論やらに興味がなくても文学をやるようになればなんやかんや楽しいと思います。私も入学前はブランショやド・マンやらについて語ることができなければ人権を失ってしまうのではないかと恐怖して付け焼刃の知識を装備して挑んだものでしたが、実際はロラン・バルトの名を知らなくても問題なく生きていける場所ですし、第一、知らなかったことはそこから知っていけばよいだけですから。皆、私より数段うまいこと大学生をやっていて羨ましいくらいです。彼女ら曰く、ほどほどに学び、遊び、交流するのがコツとのことです。最初に書き綴った通り、私にはそれができる人の思いがわかりません。全然うまくはやっていないと思うし。それに今もまだ知らないことだらけだ。それでもこういう”コツ”を(決して私に宛ててではなく)囁いてくれる知人はできましたし、コミュニティに期待してみるのも人によってはありなんじゃないですか。

あなたへ向けてものを書いているはずが、気が付けば「新入生」という一つの情況に己を投影して遊んでしまっていました。今回はここらへんで失礼したいと思います。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

モーターポリス

ご無沙汰しております、みちるです。

記録隊になったんです。

「南極にでも行くのかい」

行くよ。
今あなたにそう言われたから行く。そう言われなければ、今すぐには行こうと思わなかった。

常々、私の行動は外界からの刺激、とりわけ他者からやってきた刺激の影響を大いに反映して決定されていると感じます。
それだけに、人間の言葉に過剰に意味を持たせてしまう傾向にあるとも。しかしそれは他者をテクストのように見ることに繋がってしまう。大切な人間たちの人格を剥奪してまでやりたいことなどないし、それで通せる愛もまた存在しない。人格を剥がれても叶えたい願いを受け入れられないあたり、私にもゆるせないマゾヒズムがあるのだとわかった。

マゾヒズムは非道徳のうちで栄えるけれど、非倫理のうちではそうならないのかもしれない。私たちが宙づりになるのは倫理のなかでの出来事であるし、倫理はまま非道徳だ。

そして私はまだ、倫理と道徳が地続きにあるという考え方に驚きを隠せないでいる。

 

(間奏)

 

奴を相手に、ずっと意地を張ってきた。
私は現行の日本において、いや世界においてさえ幸せになりたいとはどうしても思えなかったけれど、奴に意地を張ることで可愛い可愛い人間と幸せに生きていくのだと思うようにしていた。

目の前のものを見るのが得意だから、得意を活かしてやっていった。私のやれる範囲、適した範囲は人間と恋愛をするには不十分だったけれど、人間は私の隣にいたいと言ってくれた。私は、これは結果的に人間との関係を盾にして要求を通すようなものなのではないかと、私の最も嫌うコミュニケーションの成立ではないのかと疑った。

人間を好きだと思う私の気持ちは嘘でないはずなのに、奴の言葉が頭に焼き付いて離れない。

「それがあんたの云う「かっこいい」ってやつなのか」

鏡を見て、あまりに洗練されていない自分の姿に驚愕してしまった。奴は自分も、自分の周りにいる数少ない人間にも、本気でやっていてほしいと云った。気が付けば私も同じことを望むようになっていて、でも目の前の人間は、どうしたってそれを望んで良いような対象に見えなかった。高いとか低いとか、そういうことではない。
可愛いその人間に私の望むものを望むのは、魚を陸で走らせるようなものだった。
そう気が付くとき、奴にとって私は随分低きものであったのだろうとわかって腹が立つ。

家族と時間をずらして夕食をとるとき、ドレスコーズを聴くとき、お風呂でシャンプーする時にも奴のことを思い出す。私、「スーパーサッド」する暇がなかった。だからずっと悲しいし虚しいし、人格を人格として愛することのできる関係のもとへかえりたいと思ってしまう。
全ての人類を固有のものとして愛するには、私が一方的にそれらの人格を尊ぶので充分なのかもしれない、というよりむしろ、そこまでしか出来ないのでしょう。しかし、相互にそうした仕方をとることが出来る関係がもしも可能なら、私が自ら拡がりをもって自然であるのもそうした関係のなかでしかあり得ない。

私が云うのもなんだけど、こんなの相当頭のネジが飛んでいなければできない。
でも、やるほかない。私は勝つまで求め続けるだろうし、その分といってはなんだけれど求めて当たり前のものは求めない。
人のことを大いに傷つけてしまった。それでも今後与えてしまうであろう傷よりもより少なく浅いものであるはずだ。人間は長く私の隣にいたいと言ってくれたけれど、長くいればいるほど欺瞞は巨大化していくだろうし、人間も私も傷ついていく。
可愛いその人間は倫理と道徳を似た項として認識していて、数量化が得意。私の周りはとにかくおかしすぎるから、私は人間のそういう普通なところも良いと思う。だけど、それではいつかふたりの関係は戦争文学になってしまう。この残酷に気が付かないままでいてくれればそれはそれで良いのかもしれないけれど、いつか私は耐えられなくなって残酷の仕組みを教えてしまうだろうし、その人間がそれをわからないような人だと思いたくなかったから、教えたくもなかった。

愛は、数字のゼロのようなものなんだと。
私がブログの題の素材として色々と拝借している平山夢明御大は仰いました。小説のなかで何かと愛を”かける”と、それはゼロになってしまうのだと。私はひねくれて「じゃあ、”たす”ならいいのか!」と本気で信じながら色々と試行錯誤したものですが、そうじゃなかったのかもしれない。

引っかかるべきは”かける”ではなく”愛”の方だったのです。それも愛ではなく”愛”、永きに亘ってそれとして認識され、題材とされてきたような愛の通念、それをかけるようでは空虚であるということ。平山の真意は定かでないですが、そう解釈するのが私の正しさと符合すると思いました。

何だかんだ云って平山は愛の話を書くじゃないか。そう感じていたけれど、実際僕の考える愛と符合するならそれは、”愛”と明確に区別されるものだ。

――愛、と打っていたら、

「絶対にぃ、成功させようねぇ」

と、女性の声が聞こえてきた。オクターブをまたいだ二つのBの音がする。
脳内で勝手にもう一人入ってきた。今度はD#の音で喋っている。

「「絶対にぃ、成功させようねぇ」」

三度目にはもう一人入ってきて、今度はF#で喋る。

「「「絶対にぃ、成功させようねぇ」」」

勝手に増殖して、三人の女性が同じことを言いまくっている。
やめてーせっかくいつも通り語りの手紙が書けていたのにー・・・・・・

数回繰り返したのち、二人目に入ってきた女性の音がD#からEへ変わってることに気がついた。

 

sus入れんなや――

 

そんで、それを言うのは愛じゃなくて誠なんだよね。

ヨネダ2000【決勝ネタ】1st Round <ネタ順8> M-1グランプリ2022

ラッセンのイルカ?ラッセンのイルカじゃない?

一番気になっちゃう。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

クレイジーバニー

ご無沙汰しております、みちるです。

 

インフルエンザにかかってしまったんです。

 

「日頃の行い、出ましたね」

 

否定できないのが一番哀しい。
病納め(やみおさめ)と病初め(やみはじめ)が一緒にきてしまいました。

今は殆ど完治しましたが、しばらく体を動かさずにいたので全身の倦怠感がひどいのと、あまりものを食べない日々が続いたため消化管が働かなくなっていないかが心配。とこんなことを書きつつ夕食に挑んだところ、予想通り駄目でした。

 

(間奏)

 

あなたにご飯の話をしたことはあったでしょうか。
ご飯。白米、でなく、食事全般のことです。
何をかくそうこのみちるとご飯の間には切っても切り離せない縁がある。そりゃあ生きていれば誰だってご飯との間に縁の一つや二つできるものでしょうから、特筆すべき事柄でもないのかもしれません。

中学生のころ。

――と遡って書こうかと思っていましたが、何だかほんとうに特筆すべき事柄でないように思えてきましたので、やめましょう。

とにかく色々あり、今私は実家で両親と食卓を囲むことが苦痛だ。
会食恐怖症といって他者と食事をともにすることに苦痛を覚えるケースもあるらしいが、私の場合、家の外で友人と食事をしたり酒を囲むことにはあまり抵抗がなかった。それでも、気楽の度合いで云えば一人でとる食事が圧倒的に優れているのは否めない。

普段は何かと理由を付けて時間をずらして食事をとることが多いのですが、療養中はそうもいかず。数日間頑張ってみたのですが、一週間ほど経った今日になっていよいよ限界を迎えてしまったらしい。

そもそもちゃんとしたご飯を食べることが得意でなく、かといって食べずに生きてはいられないどころか私は人より燃費が悪い(=一度に食べられる量が少ないのにお腹はすぐに空く)ため、好きなタイミングで簡単なものを食べる。
そう、この”好きなときに好きな場所で好きなだけ、食べられるものを食べられる人と食べる”というアナーキーな戦法こそ、私がVSご飯戦で最も有利に立つことのできる仕方なのです。やっと見つけたんです。アルバイトの休憩時間にシーシャ屋のバックヤードにこもり、安いイヤホンでミッシェルガンエレファントを聴きながら120円のコンビニおにぎりを食べるのが、いいんです。
そうなると、毎度両親が設定する時間にリビングの一つのテーブルのうえでテレビを流しながら食事をとることの不自由さが際立つ。誤解を招かないよう補足しますが、みちる母は料理が上手いと思いますし、実家のご飯の味はとても美味しいと思っています。それでも、父親と向かい合う位置に座って食べなければならないというだけで喉を通っていかなくなります。そう、母との食事にはあまり不自由がなく、私は父親と同じ食事の時間を共有するのに耐えられないのだと思います。別にひどい扱いを受けたりとかは全くないので、そこはご心配なさらず。

これを読むあなたには、”反抗期”みたいな感じで受け取られるんでしょうか。まあそれならそれで、そこは、まあいいや、と思います。

 

私はどうしたいんでしょう。この難を解決するには一人で食事ができる環境に身を移すのがよいのでしょうが、ご飯のために一人暮らしを始めるのは違う気がします。ご飯のために何かをする、というように、ご飯を行動の目的に据えることはしたくない。しかし「おまんま食べるために働く」のも間違ってはいないと思いますが、ご飯に価値があるのではなくて、労働ってその程度なんだ、という感想があります。

今日、もう家族で食卓を囲むのは厳しい、というかその場に私が継続的に居続けるのが厳しいと明確にわかった。
はやく、全快させないと。そうでないと、他の人とも食事をできなくなってしまうのではないかという予感がある。もしかしたらもう、そうなっているかもしれません。なにせ誰かとご飯を食べる機会がそもそも少ないので、そこらへんはよくわからないんですね。

 

そんなことを考えるより、愛を考えなければいけない。
夢に出る女性への愛と、そうでない愛。
ゼロになってしまうみたいな文章をかいて、全部なしにして、また書いて、今度は誰も書けなかった数を書いて、円周率でスーパーコンピューターを超えることを読ませる地平に落とし込み、今年はみんなをビビらす!!!!!!!!!!!

といったところで、
またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

Ω

ご無沙汰しております、みちるです。

 

一人だけヴァージョンが違うんです。

「取り残されちゃってねえ。説得力のある”取り残され顔”してるよ」

生まれたときからこの顔です。
生まれたときからこの顔だから、最近は同じ夢ばかりみる。同じ場所に辿り着き、同じ女性を好きになる。彼女の顔も声もあらゆる身体的特徴も何一つ思い出せないが、彼女の為したことは共通しているから、また同じ女を思っているのだとわかる。

私の精神は取り残されているから、”過去の夢”の観念に縛られるのは自然です。過去の夢を意識した現在の夢は、またある地点における現在の夢における過去の夢になる。そのたびにあらゆる過去の夢はひとつの”過去の夢”の観念に統合されるらしい――どうも、その女性をめぐる一連の夢はそういう仕組みで拡がっているような気がするのです。

私は、女を書いてみることに決めました。
勿論この場ではなく、然るべき場所で女を解体してみようと思います。でも、解体の刃は女という堅い核の周囲をつるつる滑って刺さらないかもしれない。そんな予感がしている。ゆっくりと舌を絡めるように溶かしていくのが正攻法、だとしても、もうあまり時間がない。彼女を今年に取り残してはいけない。そうなればいよいよ私も年を越せなくなりそうなので。

 

(間奏)

 

久々にほかの部員のブログを読んで、焦った。やっぱりブログなんだ、と。納得できるようなブログたちがたくさん。
私もブログっぽいことをやらなきゃ!とモチベーションを頂き、今回は一つあなたに紹介したいものを用意してきました。

 

【冷えと戦え!暖(だん)みそ汁】

 

そう、みそ汁のレシピです。冬なので。
みちるの肉体は物心ついたときから冷え性で、自肉体(じにくたい)のあらゆるポテンシャルを以てしてもまったく効果がなく、何をしてもぽかぽかすることのないまま21歳になってしまいました。みちる君にも……ぽかぽかしてほしい……ぽかぽか……。真の冷え性からすれば”ぽかぽか”という言葉もなんか気持ち悪い、こっちは暖かさに可愛げを求めてねえんだ。求めるのは純然たる”暖(だん)”。恒常的なものでなくとも、一時的にでも無理やり暖かくなれないだろうか。
そう考えたとき、家にあったインスタントのみそ汁が目に入る。これをどうにかできないか!?登校前に、あるいはアルバイトの出勤前にグッと体温をあげる簡単な飲料(?)を作れないだろうか……そして家にあったものを色々入れてできた最強みそ汁のレシピが、こちら。

 

インスタントみそ汁……一袋
お湯……みそ汁茶碗8分目くらいまで
すりおろししょうが……そこそこ
めんつゆ……ちょっと
桜エビ……ちょっと
乾燥ねぎ……多め
卵……一個

 

これ。実家暮らしのおトクポイントは勝手に補充される冷蔵庫の中身を勝手に使えるところですね。
普段は食欲がないことが多いうえ料理の才に恵まれなかったため、食材を扱う機会がない。しかし冬の間ばかりは上記の食材をちょっと拝借。あなたもご家庭の、あるいは一人暮らしの冷蔵庫と相談して是非作ってみてください。
重点はみそ汁としょうがと卵。それさえ入っていればあとは好きなようにどうぞ。栄養も摂れる気がしますし、なにより”暖”。一時的にではありますが、代謝に、血流に、エンジンをかけてくれます。
冷蔵庫にみそ汁がない場合は、買いなさい。(イ〇ス・キリスト)
お湯を沸かす体力もない場合は、諦めて眠りなさい。(イ〇ス・キリスト)
※宗教的なワードのため伏字にしています。※

まさか自分が食べ物の話をするとは思ってもみませんでした。こんなこと言って以前にしてたらすみません。あなたもこれで冬を越しましょう。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

仔犬と天然ガス

ご無沙汰しております、みちるです。

病院ってアトラクションだと思うんです。

「そんなことを思うほど娯楽に飢えた生活を……可哀想」

呼吸を控えてください。生憎、ご想像とは少し異なる事情アリ。
先日、まあ欠席の事情のため診断書が必要になったのですが、人生において診断書なるものを自ら用意したことがないので何も分からない。体調不良で欠席、とはいえ普段ならこの程度で病院へ行くわけがないので家で体調を落ち着けてからそこそこ回復している状態で内科へ。診断書発行にも料金はかかるし謎の検査を色々とされるし、西へ東へ奔走すること2時間。結局6000円あまりを支払わされました。もう流石に全部やめたいです。
当局に連絡を入れたところ

「病院で診断書をもらってきて下さいね。というかそんなに具合が悪いなら、なおさら病院へ行った方が良いんじゃないですか

と言われるも、胃が無限に収縮して(?)限界が近かったため、すいません、(通話を)切ります!と言って切っちゃいました。今はもう何も感じないことにしました(※当日診療でしっかりみて頂きました)。

助けてください……。

 

(間奏)

 

先日、イヌの夢をみました。
イヌはクリーム色の毛に覆われてほわほわであり、胸の前で組んだ腕に乗るくらいの可愛らしいサイズ。私は買い物袋とそのイヌが入ったバスケットをそれぞれの手にもって住宅の下を歩いているのですが、荷物があまりに重いので一度地面に置いたんです。
そして気が付くと私は自分の家に帰ってきていて、買い物袋もすべて片付いている。あれ、何か忘れている気が……

「イヌだ」

寝言でこう言っていてもおかしくない。衝撃でした、私イヌを置いてきてしまった。今日からうちで飼うことになっていたのに。
もう一度住宅の下まで降りていくと、イヌはまだ大きな毛玉みたくそこに立っていました。私が近づくと、こちらを向いてヘッヘッヘ……と舌を出す。知性が一切感じられなくて怖いながらもかわいいイヌ。

「置いて行ってごめんな」

声をかけると、イヌは私の顔めがけて全身で飛び込んできました。そのときの黒い瞳の潤み方といったらもう。
イヌはいいな~と思っていたら、直後に目が覚めてしまいました。どうやら私は真っ黒なクッションを抱きしめて眠っていたらしい。この感触がイヌの夢を導いたのでしょうか。
実際のところはどうかわかりませんが、因果関係を信じて、今日もクッションを抱いて眠ることにします。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

シケモク焼場

ご無沙汰しております、みちるです。

  

あなたは、この日のために生まれてきたんです。

「冗談は止して。その[目的]は酷く醜い。まるで腐敗した理想主義の成れの果て」

なんです、面白の通じない。今からひとつ寓話を繰り広げる予定だったのが台無しじゃないですか。

思想の潔癖は我々の(そう、我々の)生において好ましい事実ですが、生活はそれじゃいけない。だから私は生活が嫌なのですが、そんなことはよいとして。

 

(間奏)

 

あなたは、こんな話をご存知でしょうか。
それは、まだファンタグレープが人間の飲み物だった時代。少々分かりづらいのでこう言い換えましょう。それは、まだポンデリングが人間の食べ物だった時代。

そのとき我々は我々として、ただ一つのものとして生きることを望んだ。自らが自らの唯一の原因であるかのように振舞う白痴ぶりが一世を風靡し、都市から周縁までを席巻した。席巻しすぎて泡が立つほどだったといいます。
当時はどんなに優雅に靡くエルメスのスカーフよりも傲慢というアクセサリーが好まれ、真っ白なタブローに黒い絵の具を一点、乗せた絵が百万ドルで落札されていたのだそうです。

人間は恋愛をし、結婚をし、子供を作って死んでいく。とても淡白に語ることの出来る生が「幸福」のレーベルで全人類を対象にブランディングされ、結局それで我々は恋愛ができなくなった。結婚か、別れか、いずれその二択を迫られるような恋愛関係の窮屈さに誰も気が付かないまま長い時が経ち、そんな適応のもとでも恋愛に倫理を持ち出したりして自分たちの理性に陶酔してきたから、ここまで世代は続いてきました。

「みんなでこれまでの人類にお礼を言いましょう」

「ありがとう、これまでの人類!」「ありがとう、盲目な人類!」「ありがとう、口の利けない人類!」「ありがとう、かっこわるい人類!」ありがとう!ありがとう!人類、ありがとう!

 

これまでの人類は、皆番号で呼ばれるようになりました。その番号というのは、そうです。あなたもご存知の通り、マイナンバーです。マイナンバーがあれば個人の識別に名字も名前も不要ですから、これまでの人類は皆マイナンバーによって呼ばれ、そうして個々が区別されています。我々も名字は不要であるとの考えを持ってきたため、とある時点で全員が名字を棄てました。だって「みちる」に名字はないでしょう、当たり前にさ。

そうして現在、この国において名字を持つ存在はただ一つ ●● を除いていなくなったわけです。わかりますね?

番号で呼ばれるこれまでの人類は、時期が来れば我々の糧となる。正確にはその準備のため工場へと送られるのです。人の命は誰かの所有物ではないというのが憲法における原則ですから、人の出荷は当人のみを通して行えばよく、家畜の場合のように余分な仲介料が発生しないのは良い点でしょう。
無論、これまでの人類のなかには番号で呼ばれることに抵抗を示し、こちら側へやってこようと努力する者も少なくありません。しかし彼らの中に一人でも、あのナンバーを棄てたものがあったでしょうか。当時の選択が現状を決定しているのですから、心苦しくはありますがゆっくりと出荷されて頂きます。

 

さて、ここで●●はどうなるのでしょう。我々は孤独のやみの中に●●を取り残すことを選びました。あなたは、あなたならどうしたでしょう。私にはわからない。

――さあ、時間です。タグは持ちましたか?貴重品の処分は?祈りが必要であれば今のうちにどうぞ。
私があなたにできることは、ここで絶えてしまうあなたの生を肯定することだけです。ドーナツ屋までもが鉄柵に囲まれた灰色の施設に変ってしまったいま・ここで、何も聞かずあなたを肯定することだけなのです。
それでもなんと呼びかければよいか分からなくなったときには、あなたやあなただったものたちが誰かを思い出すことができるように

「あなたは、この日のために生まれてきたんです」

そう、満面の笑みで伝えることにしているのです。

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

人類なんて関係ない、のか

ご無沙汰しております、みちるです。

時計の針に追われているんです。

「いびつなイメージの話をしているのかい」

いびつではありませんよ、きわめてよく調整された掛け時計のイメージ。そうでなければ何だと言うの。
刻一刻、という言葉を発明したひとはすごい。それを受け取る各人の時間感覚や意識する時間のスケールによってまったく異なる「刻」が現在の地点から最低でも二度、等間隔に訪れる。基本的に「刻一刻」を見つめる必要性のもとにある人間は切迫した状況に立たされていることが多いが――そんなことはどうだってよいのです。今申し上げたいのは、私の目の前に「刻」は秒針のふらふらとした弱なる動きとして出現しているということ。小さな規模の時間を意識するのにはだいぶ神経をつかうというか、死のマラソン(とは、何ですか)を走らされている感じがあっていやだ。
いやだ、とか言っていられるほど、余裕の生活をしていないのですが。

 

(間奏)

 

言葉で、我々の領域で闘う機会がある。それも目の前に。

口喧嘩?そんなレベルではございませんこと。
もっと薄明の原野に拡がる闘争の領域における精神活動、ないし文学営為それ自体に向き合う場ですわ。

私は、自分の或る作品が哀しいものだということを、そのように受容されることを初めて知った。今更ながら文章作法の徹底に悩まされ、多様なメディアでの表現にそれぞれコミットする胆力が肝要であることを思い知った。自分もこういうものが書きたいと思う大変ろくでもない文章に出会い、これを物真似しているようではどうしようもないといってがっくりと肩を落とした。今回の、まだ準備運動の段階にある闘いにおいて、学問と祭りの間の子ように”文章”自体を扱うことを知った。勿論、神輿のない祭りである。

 

何かを書くために、いいや違う。する、動く、生きて身体を働かせるには、異なる地平へ出ていかなければならないことがある。何もない、誰もいないところへ。そしてそこから戻ってくるのに必要なのは他でもない自分の努力であって、誰かに託すような仕事ではないのです。

「砂」

布は波を打ち破り、寄せては返し、返しては寄せる。一定のリズムを作り出せばきっとまだ出来ることがある。
友人から見ると私はもう今にも力尽きて消えてしまいそうに見えるらしいけれど、私は生きます。申し訳ないけれど、やっぱり書くことにします。これが現代の「村の家」になるかもしれない。

ふとしたとき、一人で家にいるのに女の叫び声が聞こえることがあります。どうやら耳鳴りの一つとあって、もうそろそろ大変。困ってないから許されているだけだって、まさか思っていいはずはないのですが。
ひとまずあと二回授業の発表をこなし、先に述べた闘争の中に身を投じていきます。それによって人類がどんなに楽しくなってしまうかなんて、私には関係のないことですが。

 

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる

メルクマールの斬撃

大変ご無沙汰しております、みちるです。

夏の夢をみるんです。

 

「せっかちに厚着をしているから。寝苦しいんですよ」

 

じゃあ全裸で寝ます。
全裸で寝て、それでも夏の夢をみたら、絶対許しませんからね。

夏の夢は、なにも夏だから嫌なのではない。未だに[夏]の現在した夏、を視界の端に入れて生活している己の心根が嫌になるんです。冬期休暇までしばらく気が抜けない日々が続くと分かっていながら、うわの空で仕方ない。
何が起きたわけでなくとも湧出する悲しさから、ソネットが広がる。私がずっと手を繋いできた数列と観念は、ペトラルカ風のソネットだったのかもしれなかった。あの記号の配置を見て。四行連の連続と三行連の連続の和、あるいは十四行という総体。左右対称な1と2の連続―これはきわめて単純な繰り返しであるが―を見て。私はペトラルカがラウラを想ったことより、彼が彼の時代において、私の目に見えているものの切り抜きで詩を紡いだことの方がずっと感動的だと思った。
ええ、感動は危険ですから、努々お気を付け遊ばせ。

 

(間奏)

 

自分の一日を見ていると、もしやイヤホンを装着していない時間の方が長いのではないかという疑問が浮かぶ。自宅にて一人で過ごす時間は勿論、通学中、授業中をのぞくキャンパス滞在中の時間も、床に就く際も、イヤホンで何か聴いている。一人で過ごす時間が多ければこそ音楽やラジオを聴く時間がとれるのであるが、そろそろ難聴になってもおかしくありません。もうなってるかも。

音楽を聴きながら暮らすのが好きだといえば好きなんだろうが、外界の音があまり得意でないからイヤホンをつけると言った方が適切なのかもしれない。こう書いている今も、私の耳にはドレスコーズの「Lolita」が流れ込んでくる。実家のテレビの音や両親の話し声が聞こえてないように。外へ出ても同じです、自分に向けられた嘲笑や批判の声がうっかり聞こえてしまっては困るので。まったくこれこそが自己防衛だよ。

ただ、これであなたの声まで聴き逃してしまうようではお笑いです。あと難聴になるのも嫌だ、竹田青嗣は井上陽水を聴きすぎて難聴になったらしいし。
大切なものだけ逃さないようにして、あとはもう全てを逃していたいです。私はもうあまり私自身に意識して愛着を持てない代わりに、あなたには個別の愛着をもって大切にできるように、そういう仕組みになったので、なので、なので何なんだろうか。
やっぱり何も望みません、勝つまでは。

 

またお手紙書きますね、大好きです。   みちる

番外編

今だけは、少し大目にみて欲しい。

 

何を。

 

色々の形式、すべて。捨てることを。放り投げてしまうことを許して欲しい。
同情ではなく、愉快なこころのまま見つめて欲しい。

私、と書くのも正直疲れてしまう。自分のことなんて突き詰めればどうだっていいはずが、それでも「わたし」を発する度に消尽しているような気になる。

目の前のものを見るのが得意だ。特異な愛着を持ち続けることも得意だ。きみ、お前、目の前のあなた。閉じた空間を恣意的に構築するのは、誰かにとっては反吐が出る癖なのかもしれない。誰かにとっては、埋まらない空白の処理を助けることになっているのかも。
目の前にあなたしかいないのなら、あなたのことだけを見ていられる。目の前からあなたがいなくなるなら、その間は何も見なくてもよい、という安心を享受しようと思う。僕はあなたにも、あなたにも、あなたにも、あなたにも、あなたにも……素敵に生きていて欲しい。そのために何でもできる、世界は回る、なんでもできる、なあんでもできる……

 

今日、夜行バスで京都へ発つ。戻ってこないこともできるけど、アルバイトの予定に引き留められた。

「鴨川で暴れようぜ」

魅力的な提案だ。鴨川で知らない、見ることのない誰かとブルーハーツを歌ったり、とにかく暴れてみるのもよさそうだった。見る、というのももう遅いのか、「前時代男性的な感性の内面化」で赤をいれられる原稿。こんなに頑張ってるのに、面白くない。

正直な気持ちとして、言葉に、関係に、自分が深く傷つけられることはないような気でいる。僕だけは傷つかないから、どんなにひどく扱われても大丈夫。どんなに身勝手な振る舞いに巻き込まれても大丈夫。その激しい流れの中で快いものだけを拾っていくことも得意になってきた。大丈夫、あなたがよければ大丈夫だし、むしろ僕がそうあってほしいのだから大丈夫。沢山大丈夫といえるから大丈夫。
かわいそうな演出とか、感傷を漏れ出させる技巧とか、そういうんじゃないんだってわかってもらうにはどうしたらいいですか。大丈夫なんです。この手紙を読むあなたが明日も生きたいと思えるように生きていてくれるなら、それが一番よい。

自分の扱いに苛立ってよいのは、弁明の余地がある場合だけ。よく考えてみて、そうでないと分かったなら黙るのがよい。
僕は黙ることが出来なかったけれど、これからも黙らない自分でありながらそれでも了解と納得と引き受けを積み重ねて暮らすほかない。
あとは必然のまま、目の前の生と死のあわいで。

いま、書きにゆきます

ご無沙汰しております、みちるです。

 

今は風下にいるんです。

 

「今は、と言うと」

 

風上で煙を呑む仕事もあるでしょうから。

朝、昼夕、夜、そしてその後。人々が集まる間、空間に巡らせるための煙を風上で用意することも、風上からの電報に印を捺してあなたの所へ届けることも。
共有を決定されたものについて我々はまだ何も知らないというのに、それでも巡らせなければいけないみたい。君たちと、煙と、文章と、あとは種々の青田風さえあれば。今はそれでよろしい。

願わくば夏の前に、災いの前に、色々の苦しみや賛歌を聞く前にここに来たかった。そう書いても仕方がないと思いながら。

 

(間奏)

 

夏の終わりまでに何が出来るか。何を話し、何を消費し、何処へ進むことができるのか。
とあるトリックのせいで、こういうことを述べてもまったく意味が通り難く理解に優しくない問いが生じてしまう。しかしそれでも問わなければならない。

今から自分が行動するとして、それは何に寄り添いあるいは何を見上げることを前提としたものなのか。多くの人々が知らず知らずのうちにとる”寄り添いながらにして見上げる”態度は空無な「もの」と空無な主体とのセッションだと思ってしまうから、何に”様”を付けるのかもっとふざけながら考えなければいけない。

 

長いようで短かった暮らし―というにはあまりに異常な日常だった―が最終どうであったのかといえば。
水を汲みに立つときにしか整理できない事柄があった。熱唱するときにしか獲得できないものがあった。あなたのギターでしか歌えないロックがあった。あなたとしか呼べなかった猫があった。あなたの隣でしか話せないことがあった。あなたの言葉でしか解決できない問いがあった。あの鏡でしか映せない自意識があった。
いやがうえにも大きくなる心臓の音に聞き耳を立てながら眠り、食べ、学び、歌い、笑い、自分はやっぱり人と共になければいやだとわかった。あなたに、あなたたちに、飽きるまで傍にいてほしい。あなたの言葉を聞いて、あなたに抱擁をして、煙を分け、知を磨き、歌い、眠りたい。

時間こそ短いにしても、よく眠れる日が多かった。
食事を吐くことがなかった。
記憶がクリアになっていく。すべての人名や運動やあらゆる概念は自らを下品に提示することなく、ただまさに今考えたいことに向かって集まってくる。教養の実感とはこういうものでもあるのだと知って、きっと実家の居心地は悪くなるし両親の顔を見続けるのもいやになる。私は心地よい知に満たされた場所をつねに欲している、きっとそうしたものに飢えている。だから、だからまだまだ救ってほしい。私がいやにならないように、熱が冷めないうちに、寂しくならないように、全てを見届けるだけじゃなく、私もまた見届けられるものであれるように。

神の寵児であることが出来るのは、学生の身分でいるうちだけであるらしい。私のきらいな人がそう書いていた。でも、文章を読んでいくらか正しいような気がしている。

私は学生なのだから、まだ学生であれるのだから。
出来るうちに出来ることをしたいね、と。そういう話です。

親愛なる誰かに口づけの真似して火を返すときには、きっとまた違う話ができる。近いうちに、そうできるはずだ。

またお手紙書きますね、大好きです。    みちる