桜を見に行った。近所の河川敷まで。風の強い花曇りで春らしい気候であった。
桜を見て「これはいけないな」と思った。何て言ったって桜はちょっと美しすぎる。ある季節になると、これだけ太い無骨な幹から、淡く小さな花々が一面に咲いて辺りを染め上げてしまったら、困ってしまう。だって否応なく美しい。しかも長くは続かず、散ってしまう。その散り際も甘やかなこの季節特有の風に乗って、はらりはらりと舞うように落ちてしまうのだからたまらない。これは歌だって詠むし、集まって愛でるし、物語にもなるし曲にもなる。愛されてしまうわけだ。桜が咲けば喜んで、散ると悲しんで、桜が無ければと思ったり、散るからこそと惜しんだり、その美しさに妖しさを覚えたり、桜の樹の下を考えてみたり。今でも春の新曲は桜が歌われ、薄いピンクの花びらのデザインで我々は春だなと思う。桜は変わらずそこに在るだけなのに、ずっと桜に魅入られてこの地に生きる人々が桜を作品にしてきたことを私は文学を学んで知った。つくづく文学を学んでいて良かったなと思った。
話は変わるが、これが最後のブログらしい。思えば三年間、先生にひょいと引き抜かれて、だいたい月に二回、よく書いたものだ。ブログ部に抜擢されたときにも先生に話したが、月に二回も文章を書ける場を与えてもらえるのはありがたかった。私は自分の文章が好きだし、読んでもらえるのも好きだが、自発的にはなかなかやらないので。忙しいときもあったけれどやはり楽しかった。今月は何日だから、と覚えて、間に合わないことも多かったのだが、何を書こうと考えるのは、忙しい生活から、自分の好きなことを、創作を行える時間を引っ張り出してきてくれた。本当に感謝している。その記念にこのブログの内容、主に創作部分を印刷会社に依頼して本としてまとめるつもりだ。自著をまとめて本にするなんて恥ずかしくないのかい?何の意味が?だまらっしゃい。私が楽しいからいいのだ。他にも大学生中に書いた創作をまとめたりしたいし、そういえば卒論の製本もまだだった。でもきっと形にすればこの先も生きていけると思う。
文章を読むのはもちろん書くことが好きであること、文学を学んだこと、そのどちらもがあったから、先に書いたように桜に対する思いを自分の言葉で書けたし、それをとても嬉しく思っている。どうやら私のアイデンティティや私自身が私に感じている価値は、芸術を嗜むことができる能力と芸術を表出できる能力なんだと思う。少し大きくでてしまったかな。だからこのブログ活動は楽しかったし、ブログを書き続けられたことに価値を感じている。創作を月に二回書けたのは我ながら自信にもなった。できればこの先もこのような活動を続けていきたい。これを読んでる方へ。他の日付の「はるか」名義のブログも読んでいただいてご興味おありでしたら何卒。
ただまあこの四月から始まる仕事は文章を書く仕事ではない。ええ、そこはどうにも上手くいかなくて。しかしなんとか物を書く仕事もやっていきたいので頑張る所存。いつも作家を憎く思っているからね。物を書くことが仕事になるなら、仕事の時間外で物を書く時間を捻出しなくて良いではないか。羨ましい。ご興味おありでしたら何卒。
4月からは将来の関係で北の方へ三ヶ月だけであるが引っ越しをしなければならない。社会人になるのも嫌だったし、社会人になりたくないし、社会に貢献なんてしたくない、と思春期の感傷のようなものを未だに引き摺っている愚かな私である。気持ちはすっかり花曇り。しかし今日桜を見ながら「この地域では卒業式には間に合わず入学式の頃には散ってしまうから悲しい」と呟いていたら、ふと4月1日には盛りであることに気づいた。桜の満開の時期は新社会人の時期らしい。なるほど。などと思えば、春の憂鬱にうなされていた心もほんのりと色づいた。今日の夜バスに乗って、北へ向かう。桜前線を追いかけて。