桜狂いと書き狂い

 桜を見に行った。近所の河川敷まで。風の強い花曇りで春らしい気候であった。

 桜を見て「これはいけないな」と思った。何て言ったって桜はちょっと美しすぎる。ある季節になると、これだけ太い無骨な幹から、淡く小さな花々が一面に咲いて辺りを染め上げてしまったら、困ってしまう。だって否応なく美しい。しかも長くは続かず、散ってしまう。その散り際も甘やかなこの季節特有の風に乗って、はらりはらりと舞うように落ちてしまうのだからたまらない。これは歌だって詠むし、集まって愛でるし、物語にもなるし曲にもなる。愛されてしまうわけだ。桜が咲けば喜んで、散ると悲しんで、桜が無ければと思ったり、散るからこそと惜しんだり、その美しさに妖しさを覚えたり、桜の樹の下を考えてみたり。今でも春の新曲は桜が歌われ、薄いピンクの花びらのデザインで我々は春だなと思う。桜は変わらずそこに在るだけなのに、ずっと桜に魅入られてこの地に生きる人々が桜を作品にしてきたことを私は文学を学んで知った。つくづく文学を学んでいて良かったなと思った。

 話は変わるが、これが最後のブログらしい。思えば三年間、先生にひょいと引き抜かれて、だいたい月に二回、よく書いたものだ。ブログ部に抜擢されたときにも先生に話したが、月に二回も文章を書ける場を与えてもらえるのはありがたかった。私は自分の文章が好きだし、読んでもらえるのも好きだが、自発的にはなかなかやらないので。忙しいときもあったけれどやはり楽しかった。今月は何日だから、と覚えて、間に合わないことも多かったのだが、何を書こうと考えるのは、忙しい生活から、自分の好きなことを、創作を行える時間を引っ張り出してきてくれた。本当に感謝している。その記念にこのブログの内容、主に創作部分を印刷会社に依頼して本としてまとめるつもりだ。自著をまとめて本にするなんて恥ずかしくないのかい?何の意味が?だまらっしゃい。私が楽しいからいいのだ。他にも大学生中に書いた創作をまとめたりしたいし、そういえば卒論の製本もまだだった。でもきっと形にすればこの先も生きていけると思う。

 文章を読むのはもちろん書くことが好きであること、文学を学んだこと、そのどちらもがあったから、先に書いたように桜に対する思いを自分の言葉で書けたし、それをとても嬉しく思っている。どうやら私のアイデンティティや私自身が私に感じている価値は、芸術を嗜むことができる能力と芸術を表出できる能力なんだと思う。少し大きくでてしまったかな。だからこのブログ活動は楽しかったし、ブログを書き続けられたことに価値を感じている。創作を月に二回書けたのは我ながら自信にもなった。できればこの先もこのような活動を続けていきたい。これを読んでる方へ。他の日付の「はるか」名義のブログも読んでいただいてご興味おありでしたら何卒。
 ただまあこの四月から始まる仕事は文章を書く仕事ではない。ええ、そこはどうにも上手くいかなくて。しかしなんとか物を書く仕事もやっていきたいので頑張る所存。いつも作家を憎く思っているからね。物を書くことが仕事になるなら、仕事の時間外で物を書く時間を捻出しなくて良いではないか。羨ましい。ご興味おありでしたら何卒。

 4月からは将来の関係で北の方へ三ヶ月だけであるが引っ越しをしなければならない。社会人になるのも嫌だったし、社会人になりたくないし、社会に貢献なんてしたくない、と思春期の感傷のようなものを未だに引き摺っている愚かな私である。気持ちはすっかり花曇り。しかし今日桜を見ながら「この地域では卒業式には間に合わず入学式の頃には散ってしまうから悲しい」と呟いていたら、ふと4月1日には盛りであることに気づいた。桜の満開の時期は新社会人の時期らしい。なるほど。などと思えば、春の憂鬱にうなされていた心もほんのりと色づいた。今日の夜バスに乗って、北へ向かう。桜前線を追いかけて。

27分05秒

 はい、お待たせしました。ブログRTAさっそく始めていきたいと思います。走者のはるかです。よろしくお願いします。
 まずレギュレーションですが、バグありAny%で走らせていただきます。はい、Any%なので特に文字数とかの規定はなく、書き上げて投稿したその瞬間がタイマーストップとなります。ということは、短文でも良いのでは、と思われた方もいらっしゃいましょうが、はるかがいつも投稿しているブログのプライドにかけまして、さすがに1000字きることは無いと思います。
 次にタイマースタートの瞬間ですが、今回はネタは先に考案済みで、0:00の瞬間からスマホのカウントメモに文字を打ち込むその瞬間からタイマースタートです。PCからでも良かったのですが、開くのが面倒だったのと改行やUIの使いづらさから、スマホのアプリに書き込んだものを、スマホからWord Pressにコピー&ペーストという形にしております。本当はPCでの入力が推奨されておりますので、皆様は決して真似しないようにお願いします。
 それではカウントダウンお願いします。5カウントで行きます。5,4,3,2,1……スタートです。good luck.
はい、まずはアプリを開きます。このときにホーム画面をアプリのある欄にしておくことがポイントです。メモを開き、内容を書き出します。書き出しが少々もたつきましたね。走者以外に解説を付けようとして悩み、解説のくだりを削除しました。おおよそ2行分のロスです。さっそくGABAりましたね……。次にレギュレーションの説明を書いておりますね。字数制限が無いことへの記述で表現を迷いました。ロスですね。タイマー設定の説明です。ここはスマートに行きたい。ここでバグを使い、RTAの動画を音声ごと思い出すことで、考える時間をカットしております。上手くいきました。カウントダウンもスムーズに行きましたね。時間の短縮になったのでは?そのうえで今は内容を見返しながらこの部分を書いておりますね。ここからはあまり設定を詰めてないので、即興の書き出しになります。成功するでしょうか?皆様お祈りください。
 文字を打ち続けるのは右手の親指でございます。またキーボードはフリックを使っております。おっとここで、フリック入力を右に入れたまま、行の端までスペースを入力しております。そしてフレームに文字を打ち込んで、はい、壁抜けが成功です。おおよそ20秒の短縮ですね。これはえらい。
 次に頭の回転を止めないために、一瞬他のことを考えます。処理落ち回避ですね。うまく決まりました。
 おっと一瞬詰まりました。気を取り直していきましょう。
 ここからはスライディングの方が早いので、アプリ内の移動は常にスライディングして行います。そしてここで一旦セーブ。ホーム画面に戻り再開すると、なんと文章が一気に飛びます。謎のバグですね。
「やはり解説があった方が良かったのではないか、説明が無いと何も分からないし、説明があっても分からないし、RTAを見たことない人はほとんど分からないのではないか」
 脳内のNPCに話しかけると返ってくる会話ですが、この会話をストレージしておきましょう。会話テキストボックスを開きつつ行動することで、イベントの発生が妨げられます。だから会話をストレージしておく必要があったんですね。
 さらに加速しましょう。ボスをスキップして、ラスボス戦に入りたいと思いますが、戦力がほとんど初期なため、最低限の防具を買う必要があります。
[内容が明快でないブログ形態は別に今に始まったことでは無い]
強力な防具を手に入れましたね。メニュー画面で常識は売っておいて金策にしましょう。
 あっという間にラスボス戦です。中ボス等はもちろん飛ばしております。
[これをブログにして良いのか?]
 このボスを倒す方法は簡単です。ハメ技があります。
[もうあと1回か2回で終わる人のブログなんて何やってもいいに決まってるだろ]
 はい、ダメージがよく通りますね。
 タイマーストップもうすぐです。タイマーストップの瞬間ですが、この文章を書き上げコピペし、Word Pressにログインして投稿をおすだけのタイミングでタイマーストップになります。その時点の記録をタイトルで示します。
 完走しての感想はここには間に合いませんが、完走まで頑張りたいと思います。

物語税をお支払いください。

物語税

「こんにちは。いやこんばんはかな? どちらかは不明だけれど、おはようございますはちがうだろうな。全く君はいつも書き始めるのが遅い。夕方か夜が多いよね」
 いつも通りさぁ書くかとスマホをいじっていると目の前に見知らぬ人物がいた。私はこの人の正体を知らない。しかし私宛の来訪者であることはなんとなく、分かっていた。いつからそこに。そして何様で。スーツを着込んだ兎に話しかける。
「ああ、またスマートフォンで書いてる。PC開くのが面倒だったのでしょう。何せあなたの机の上はいつも乱雑だからねぇ」
 ひどいなぁ。言い返すことはできないけれど。机の上が散らかっているのは紛れもない事実であるし、その為にPCを開くのが億劫で、最近はもっぱらスマホで投稿しているのも事実であるからだ。
「いやまあ、文章の質が変わらなければ私としてはPCのキーボードをカタカタ打ってもらっても、スマホのフリック入力で親指を忙しくしていてもどちらでも良いのですけれど。皆さんもそう思ってますでしょう」
 うさぎは、やれやれとでも言いたげな表情をした。私はうさぎの表情に詳しくないが、絶対そのような顔をしている。私には分かる。
「あ、今途中でメモを閉じて他のアプリ開いたでしょう。いつもながら集中力が無いですね」
 なんで分かるんだそんなこと。もう500字以上書いているんだ。ちょっと休憩しても良いだろう。
「ま、あなたがメモ開いて一度も閉じずに書くときなんて、だいたい〆切間際に焦ってるときくらいなので、今更あまり気にしませんけど」
 全てバレているのである。
「それは兎も角、うさぎだけに。あなたから物語税を徴収したく、私は訪れたわけでございます。あなたが自由に書き散らした物語、ここらでちゃんと整理してもらいますよ。まさに年貢の納め時って奴ですね」
 物語税?そんなもの聞いたことないが?
「初めて知ったという顔をしてますね。とぼけても無駄なのですけれど。仕方がないですね説明しましょう」
 うさぎはそう断りを入れると、どこからかホワイトボードを引っ張って来た。
「物語とは通常、ある世界の一片を切り取ったものだと考えられています。つまり、物語を書いた時点で、一つの世界が生まれているのです。シリーズものでしたら、その世界の続きや別視点を切り取っていることになりますし、作者が同じ世界線であると明言していれば、その作品の全ては一つの世界となります。しかしそのどちらでもなければ、物語は一つ生まれるごとに、一つの世界の誕生を共にしており、物語ごとに世界が生まれていることになります」
 なるほど。理屈は分かった。一つの物語につき一つの世界。単純で分かりやすい。
「で、その世界を生んだ分の管理費、維持費に税がかかるんですけれど」
 そこですよ。なんですか税って。誰に納めるんですか?
「勿論その世界の住民でございます。あなたの手によってぽんぽこ生み出された世界は、あなたの手を離れて回っているにせよ、あなたなしでは生きられません。あなたからの税が必要になります」
 ええ、そんな。税がかかると知っていれば、こんなにぽこぽこ話を生み出したりしなかったのに!
「あなたは月に二回ペースで世界を生み出していたものですから大変ですよ。しかも共通の世界線では無く単独で。ショートショートも考えものですね」
 月に二回。確かにこのブログのシステムならそういうことになるが、それにしたって。
「それでですね。あなたが物語形式にして新しく世界を生んだ記事を確認してみましたが、その数全31話でございます」
 31話も書いたのか!?客観的に眺めるとなかなかのものでもあるし、31回分、自分の近況というブログ本来の目的から外れて、好き勝手していたのかと思うと、怒られるのが怖くもある。
「なので、31世界分の税がかかるわけですが」
 それは、おいくら万円なのでしょうか……。
「あなたにかかる税は、そうですね」
 勿体ぶりますね。
「ずばり、責任ですね。世界を生んだ責任。勝手に生まれた側にもなってくださいよ。こちらは頼んでもないのに。春の夜の夢から生まれたこの世界たちの責任をとってくださいよね」
 責任?そんなこと言われても。というか春の夜の夢ってもしかして。
「そうですね。この話の結末に嘘ですと書くことで、あなたはフィクションを書いても許されるのではないかと甘く考えて、物語を書き始めたのですね。これは現実と延長線上で、嘘ですと記載されているため、世界と数えるのはやめておきました」
 なるほど。そういえばそうだったような。
「次に気がついたら球体人形になっていたあなたから、税が発生してますね。現実の延長線でホラーにすることでぎりぎり許されると思ったのでしょうか」
 図星ですね。
「荒野からのラジオ放送も届いています」
 JLDchannelのことか。彼はタフだから生きてるとは思うけど、なかなか大変そうだよね。でも元気が出るからまた聞きたいな。
「何年後から閉鎖され独立都市国家となった東京の話だって」
 あれよく怒られなかったよな。でも時勢を面白おかしく茶化してしまいたくなる気もあるし、東京という都市はあまりにも物語との馴染みが良すぎる。恋物語としても、SFとしても。
「美味しいお昼が食べたいお嬢様のお話もありましたね」
 あー。あの油麺の食べ方、本当に美味しいんですよ。お嬢様もお気に入りのようで良かったですよね。世場さんと仲良くしてくれてるといいんだが。
「今年の夏を嘆く後輩と先輩なんかも」
 そうですね、やはり夏という概念は美しいって話ですね。あの温度と湿度が鬱陶しくて、けれども物語としては良いんですよね。現実じゃあ懲り懲りだけど。
「夏子さんと秋子さんのお話も書かれてましたね」
 やはり夏という概念が好きなんでしょうね。春も冬も秋も全部好きですけど。今年は冬子姉様が、しんしんと猛威を奮っておりますねぇ。
「PCの中に住んでいる電脳世界の少女は?」
 ネッツはいいですよね。きっと頼りない彼とまだまだ一緒に遊んでいると思います。
「〇〇の秋、とか」
 あー、その話はやめよう。結局ヒューエネって何って、テレビで説明していたでしょう?
「おいしいものが大好きな森の仲間たちの話とか」
 そうですね。かれらはたのしく暮らしているんじゃないでしょうか。この話もやめましょうね。
「ハロウィンを楽しみたい子たちの話は?」
 そうですねぇ、今年もまだ縮小しちゃったので、来年は人間たちに混ざって楽しんでくれるんじゃないでしょうかね。題名が好みです。
「特別な朝食とか」
 ……そうですね。美味しい朝ごはんは大切ですよね。実はこれブログに載せるのが初めてではなくて、他の企画で描いたものだったんですよね。お気に入りだったので再掲しました。
「特別でもないクリスマスとか」
 クリスマスなんてね、特別なことが起こらない方が珍しいのでね。彼は元気にやってると思いますよ。
「春の七草の話は?」
 春の七草、みんなチャーミングに見えたら良いなと思っています。挫けずに毎年頑張ってほしいです。
「部屋の中のロボット執事の話とか」
 エリックさんね。実はネッツのPCを使ってる男の子とエリックさんが世話してる女の子は姉弟という設定があります。でも世界観が違うから税は別?駄目ですか。
「雛祭りの物語はどうでしょう」
 個人的に気に入ってはいるんですけど、私のあの記事以降、前のサイトが使えなくなったの、結構気にしてます。やはり長年のものをてきとうにいじってはいけませんね。愛情はあるんですけど……今年は出そうかどうしようか。
「エイプリルフールの話もしまたね」
 4月1日の彼らは結局どうなったのだろうか。どこまでが本当で嘘だったのか。これは彼らしか分からないんですね。
「自問自答の繰り返しは?」
 これは就活に行き詰まった自分が反映されていて、創作として楽しむレベルに切り離すことが未だに難儀するんですが、ちゃんと自分に向き合おうとしたのは良いことだと思います。私の行く先にどうか幸運を。
「雨の日の喫茶店の話は?」
 かわいらしい話になりましたよね。マスターも客である私も、きっと今もコーヒーブレイクを楽しんでいると思います。雨の日の喫茶店のしっとりとした雰囲気と珈琲の香りってなんでこんなに良いのだろう。
「ある魔法の話とか」
 力作ですね。いやどの話も頑張ってるんですけど、推理小説が好きな人間の腕の見せどころって感じの話でした。なかなか頑張れたと思います。魔法って良いですよね。
「浴槽の住人は?」
 しっとりとした話になりましたね。短命と長命の埋まらない差は愛おしいものです。美しい話になりました。彼女たちもなんとかやってると思いますね。
「七夕に想いを馳せたり」
 織姫と彦星を結ぶカササギに想いを馳せたりしたり。彼女の複雑な心境は昇華されたのでしょうか。なんとも。
「おまつりの話とか」
 おまつり好きなんですよね。雰囲気が。ええ。現世と幻世の淡い、人も妖もよいよい。一瞬だからこそ記憶に残っているのは全部終わったあとの話。
「夏をもたらす魔女とか」
 やはり夏が好きなんですね。暑いだけなのに不思議ですね。いつか季節が無くなると聞く度に危機感を覚えてしまうのは、面倒な四季が彼も私も好きだからでしょうね。
「星の旅人の問いかけもありました」
 地球の外にいる存在が我々を慈愛を持って眺めていてくれたら、とても素晴らしいことだと思いませんか。スケールの大きい存在の愛が好きです。てんやわんやしてますが、今も優しく眺めてくれていると助かります。
「月に還る話は中秋の名月に捧げて」
 月とか星とか、好きなんでしょうね。彼女は今もちょくちょく月に帰ったりしながらも、地球で彼と仲良くしています。
「西部劇もやってみたりして」
 いいですよね。ダイナーにガンナー。ちょうどそういった漫画を読んだばかりのときで、影響を受けまくってますね。彼女は良いガンナーになりますわ。
「妙に掴みどころのない文章は?」
 たまには良いでしょう。読みづらいけれど、読みやすいだけが良い文章じゃない。雰囲気で酔える文はなかなか高級な味がして好きです。
「12月24日の話とか」
 クリスマスイブに警察沙汰(未遂)を起こすのがクセなんですかね。彼らは今も仲良くやってると思います。
「その年までのおやすみは」
 純粋に年明けを祝えば良いものを天邪鬼で駄目ですね。彼が満足する年もきっと来ます。そのときは楽しんでほしいですね。
「冬の朝にランニングする話も」
 まるで普通の話なんですけどね。つまらなかったらすみませんね。普通の日常の話なんでね。

「とまあ、このように長くなりましたが、あなたは数多の世界を生み出したわけで」
 そりゃあ月に2回も書いてりゃね。それにしても多かったな。
「いや私はあなたの創作でないエッセイの体のブログも好きでしたがね、創作で新しい世界を節操なしに生んでいくのが好きでしたよ」
 ありがとうございます。
「ということで、領収いたします。物語税。あなたが生み出した物語に責任を持ってください」
 どう持てば良いか分からないけれど、とりあえずこの記事を書き上げるので、どうかな。
「そうですね、こうやって一言でも振り返るのは良いと思います。気にかけてもらった世界も喜ぶでしょう」
 それは良かった。しかしなぜ今。
「おやおや、もうお終いも近いじゃないですか。せいぜいあと一回か二回なんですから、この場で物語を生むこともないでしょう。だから最後に、というわけで」
 なるほど。
「この物語税の話もまあ、世界の一つであるので税がかかるわけですけれど」
 ……ややこしくなってきたぞ。これもかかるのか。
「ええ、もちろん。あなたの一人遊びに過ぎないですけれど、物語は物語なので」
 そういうことになるのか。では私は登場人物だ。
「いかにも」
 ああ、ではあれだ。きみ。そこのきみ。そう、この文章を読んでいるきみだ。すまないが、この物語税を払っておいてくれ。頼む。なに、読み終えてくれたらそれで満足なのだから。一人芝居を誰かに見せられるなんて、素敵なことだから、それで充分、ということで。いつもより長くなってしまったが、読んでくれてありがとう。キミの前にこの形で登場す?のはもうあと一度、二度も無い。去り際は美しい方が良い。いつまでも執念深く残っていると醜くなってしまうのでね。ということで、

「まいどあり」

冬の朝は

 すん、と冷たい冬独特の空気が鼻の中を通り抜ける。からからに乾いた雰囲気と凛とした温度。木々を凍てつかせ、土の下を凍らせるこの季節は嫌いでは無い。はぁと息を吐くとマスク越しに息が白く曇る。冬の朝は良い。うん、と一人頷いて足を前に進める。ステップは軽快に、されどリズムは崩さず。一定の足音で景色が変わっていく様は心地良い。静かな冬の朝の澄み渡った空気を、肺の中いっぱいに満たすように、息を吸った。
「おはようございます!」
 通りすがりに明朗な声が響く。声の主の方を向くと、自分と同じようにジャージを着てジョギングしている青年と目が合った。
「おはようございます」
 彼の名前はわからない。なぜ走っているのかも分からない。ペースの速さと身体の肉付きの良さ、ジャージの裾から覗くふくらはぎからは、スポーツを嗜んでいることが予想できるが落ち着いて話したことはない。けれど毎朝のジョギングコースで顔を合わせる度に、お互い「がんばってるな」と確認する仲になった。彼の運動靴が土を踏み締め軽々と駆ける。馬のようだと思う。若く毛並みの良い元気な馬。スッと軽やかに走っているように見えても、その力強い足は私の倍以上に開き、ぐんぐんと進む。冬の野原を駆け回る彼の走りに背中を押され、私も少しペースを上げた。
「おはよう、精が出るね!」
 向かいで太い声がする。よくすれ違うおじさん。今日は冷えこむから、耳当てにマフラーにダウンに、と完全防備だ。
「おはようございます! ジョンも!」
 明るく挨拶を返して、おじさんの足元に目をやる。黒のラブラドールがワン!と吠えた。おじさんは毎朝ジョンの散歩のためにこの道を通る。時間があるときは足を止めて何度か話をした。ジョンは毎朝元気いっぱいでおじさんを起こし、散歩に引っ張る。おじさんもジョンについていくことで、肥満対策になる。一石二鳥の散歩でもある。けれど最近はジョンが走っている子を見かけると、早く走りたがるからリードを持つのも大変だと言っていたっけ。ジョンは今も前を見て足をうずうずさせている。でも私はおじさんのことを早く早くと急かしたち気持ちを抑えながらも、横で誇らしげに歩いているジョンが好きである。
 しばらく走ると交差点に差し掛かる。信号をよく見てちょっと休憩。息を整えながらその場で足踏みをしていると、交通整理のおじいちゃんに話しかけられる。
「今日は冷え込むね」
「ええ、寒いですね」
 走って体があったまってきたとはいえ、指先はすぐに寒さに握られてしまう。はぁ、と息を吹きかけても一度冷えるとなかなか温まらない。
「毎日偉いねぇ」
「日課ですから!」
「頑張ってね」
「ありがとうございます!」
 おじいちゃんに励まされてもう一息。横断歩道の白い線だけを踏むのは、無意識の癖。そのままとんとんと進んで行く。すると、オフィススーツのお姉さんとすれ違うので、ぺこりと会釈。お姉さんはにこやかに会釈を返すとカッカッとハイヒールで歩いていく。ピンと伸びた背筋はいつ見てもかっこいい。思わず見惚れてしまうが、ペースは落とさないようにしないと。そのまま走り続けると、私の横を猛スピードでウィンドブレーカーを着た小さな影が走って行く。また遅刻寸前かな?おそらく朝練がある中学生。余裕があるときは挨拶してくれるが、ないときはこの通り。他にもたくさんの人とすれ違う。よく見る人、初めて見る人、声も名前も何してるかも知らない人。この一人一人に違う人生があると思うとなんとも不思議である。想像できるような、想像もつかないような、知っているようで何も知らない人たち。本当は私の想像できないぐらいすごいことをこなしてるのかもしれない。
「あ」
 折り返して家に帰る途中に、エルフの女の子とすれ違う。私が軽く手を挙げると、彼女も手を振りかえしてくれた。なかなかレアだ。彼女に会うのは二週間に一回ぐらいの割合なのだ。次の曲がり角では、足元に注意。町内会のグリーン運動の一環で花壇があるのだ。今は冬の花、シクラメンが咲き誇っている。隣ではスイセンが蕾をつけていた。明日か明後日には咲きそうだ。
「おつかれさまです!」
 花壇に水やりをしているドワーフのおばあちゃんに話しかける。手袋とマフラーでふわふわになったおばあちゃんはこちらを見てにっこりと笑った。花壇の奥にはピクシーも見える。朝露はやはり格別だと前に聞いたことがある。
 朝にランニングを日課にし始めてから、いろんなことを発見する。日常にちょっと色が足された感じだ。早起きは三文の徳とはよく言うけれど。
「おっと」
 家に帰る頃に尻尾を見ると、濡れてしまっていた。やはり鱗部分には温度が伝わりづらいらしい。生垣に引っ掛けたのに気づかなかったようだ。角は大丈夫そうだ。
「うん」
 ふーっと息を吐くと炎がふわりと舞う。うん、今日も好調だ。

次こそ君の年を

 コールドルームは久しぶりにその扉を開いた。スタッフコードを入力された楕円形のホワイトの扉が緩やかにスライドする隙間から、冷気が溢れる。
「寒い。最近は空調の効いた部屋に篭りきりだっからよう沁みる」
 博士は息を白くさせながら、部屋に踏み行った。部屋といっても入り口は廊下でありまた先に扉が現れている。霜の降りた灰色ののっぺりとした壁に博士の靴音が反響する。室内は四隅に設置された冷房により0度を切っている。博士は手首の装置を起動させ熱気を発生させた。
 再び現れた扉の横のパネルで、生体認証を行う。青い光が博士の身体を上下に動く。ピピと軽快な電子音が鳴り、扉が厳かに開いた。先程の廊下よりさらに低温の風が吹き込んでくる。博士は着用している防寒スーツを確かめるように撫でると、意を決して踏み込んだ。奥へ進むと開けた空間が見えてくる。その中に並ぶのは、2メートル前後の半ドーム型のプラスチック。3台が2列に並ぶ凍てついた空間は棺と安置所を思わせた。
 博士は迷わずに左奥の棺桶に向かい歩いていく。つるりとした半透明の青い蓋に触れる。すると、蓋はディスプレイを作動させ、中身の人間の情報を表示する。
「いやあ、久しぶりだな。何年ぶりだ?もう数えるのも忘れたな」
 博士はディスプレイにシリアルコードを入力し、手のひらを押し付けた。「認証中」の文字が赤く浮かぶ。ピピピと電子音が鳴るとロックが解除され、青い蓋がパカリとその口を開いた。
「おはよう」
 博士が声をかける。中の人間は煩わしそうに目蓋を開けると、口をぱくぱくと動かした。
「まだ声が出ないか?後から水を持ってこよう。あけましておめでとう、君。よく寝たね」
「……もぅ、そんな時間……ですか」
 君、と呼ばれた人間の喉から掠れた音が発せられた。
「そうだよ。君が設定した通りにちゃんと起こしたんだからね」
 博士はふふん、と胸を逸らす。彼は固まった表情筋を小刻みに動かしながら、不満気な表情を作った。
「なんだね、そんなに心配かね?」
 博士は腕の装置を起動させると、暦を表示させた。彼は重い頭をもたげ、暦を眺めると、また眉を下げた。
「ああ、正月を過ぎている。だが仕方ないだろう。私は年中研究室に篭りきりだ。碌な生活をしていないのだから、もちろん外のことも分からない。一月もまだ7日しか経ってないのだかから許せ」
「なら……あけまして、おめでとう……では、ないでしょう」
 彼はメキメキと鳴る体を動かして起き上がった。ぐぐぐ、と背を伸ばし、腕を伸ばして、改めて博士を見つめた。
「老けました?」
「老けるだろ。10年経ってるんだぞ」
「そうか……10年も」
 彼は視界を博士の全身に視界を巡らせる。彼が10年コールドスリープ〈冷凍保存〉している間に、博士は身体の節々にガタがき始めていた。当たり前のことだが、今しがた起きたばかりの心地の彼にとっては一瞬で老けた目の前の人間を理解するのは理屈で分かっても、頭が追い付かなかった。
「それで……ここ10年で何か……」
「ああ、そのことだが、技術の進捗を簡単にまとめたものを送ろう」
 博士は彼の目の前にディスプレイを表示する。彼は恐ろしい速さでそれらを読み下した。
「まだまだだ。まだ、僕の想定範囲内ですね。ああ、予測できる段階でしか進化はしてないのか」
 彼は失望を顕わに溜息を漏らした。
「そう言うな。今の技術では対処不可能な病や災害など、技術の停滞を余儀なくされた。そして無能なコミュニティにおけるいざこざもあり、倫理とか言うくだらない価値観もあり、よく頑張った方だよ」
 博士は彼の嘆きを汲み取りながらも、丁寧に諭した。
「あと100年は、眠っていれますかね」
 彼は起きたばかりというのに、早々に再びの入眠の準備をしている。
「100年後までこの世界が進歩し続けてるとは限らないし何とも言えない。そして私も死んでるだろうし、君を誰が起こしてくれるのかね?」
 博士の言葉に彼は驚いたように目を見張る。
「君、忘れているかもしれんが、私にも寿命があるんだ」
「けれど人間の平均寿命は3桁を超えた、と……。あと博士もてっきり身体を機械改造するのかと思っていたものでしたから」
 博士は老いた自らの身体を目でなぞる。
「機械改造か。機械の身体に私の脳を植え付けたとして、それは私と言えるだろうか。私とそっくりの思考のロボットと変わらないのではないかね?」
 博士は彼の教師として、諭すように言葉をかける。その言葉を受け彼は師の身体を眺めた。節くれ乾燥により割れた指、火傷によるケロイドが残る腕、膝の骨が特徴的な脚、実験の失敗で焦げた頬、彼の頭を撫でてくれた成人男性にしては小ぶりな手、そして穏やかに目尻を下げながらも物事の本質を見逃さない鋭い眼。これら全てが機械と入れ替わったとして、果たして自分は博士と認識できるのだろうか。その自信があるか。彼は斜めに目を逸らした。
「そしたら10年で良いです。また10年後に起きます。博士はなるたけ長生きしてください」
 彼は大きな欠伸をして、再び背をポットの中におろした。博士は彼を見つめにこやかに笑う。
「早過ぎた人智、神に寵愛された君の思考に追いつくようにこの10年頑張るさ。そして次こそはちゃんと1月1日に起こそう。新しい年でちょうど良く君も人生を始めたいだろう」
「頼みますよ」
 彼の眼が閉じる。博士は彼の姿を見納めると、黙って蓋を閉じた。スイッチを押すと冷気が溢れ、彼の身体が凍り始める。
 おはよう、おやすみ。彼にとっては一瞬の10年を博士はまた過ごす。次こそは彼を驚かせられるように。
 

ただの12月24日

 みなさんこんばんは。メリークリスマス!いつもの商店街に明かりが灯って、イルミネーションなんて電飾が光っちゃって、ステップを踏みたくなるような軽快なクリスマス・ソングが流れるそんな夜を楽しんでいますか?元々はとある方の誕生日パーティーだったとか。今ではすっかり季節のイベントとして馴染んでしまってますが、いやはや商売魂逞しいと言いますか、文化の馴染みが柔軟と言いますか、好きですけどね。ところで、クリスマスはどんなディナーにしましたか?ケーキは食べました?プレゼントはどうします?いいですね!僕はといえば、命を脅かされています。

 暗い部屋にコツコツと男の靴音が響く。男は僕の額に銃を構えながら、僕の前を行ったり来たりする。目深く被ったキャップのせいで顔は見えないが、黒のダボっとしたパーカーと身体の線に沿ったジーパンの感じからして、歳はいってなさそうだ。僕は男の様子を注意深く伺いながら、手首と足首に巻かれた縄を確かめるように動かしてみる。隙間はあるが、解けそうには無い。どうしてこんなことになったのだろう。記憶では、バイト終わりに疲労困憊で電車に乗り、とても眠かったことまでしか覚えてない。寝たんだろうな。そうだな、寝ちゃって、気づいたらこんなことに。いや電車で寝て誘拐されると思わないだろ。平和ボケした僕が悪いのかな。いや悪いのはどう考えても犯人だよなあ。
「お前、サンタクロースはいると思うか?」
 突然男が口を開いた。サンタクロース?なんで?クリスマスだから?僕は呆けて思考停止しそうになる脳を必死に動かす。大抵の場合犯人を逆上させることは悪手だ。ここは穏便に。大体犯人の思惑がまだ見えてこない。身代金を取る様子も無ければ、どこかに連絡する素振りもない。大人しくしながら動向を観察し、あとは……まあ見つかるのを待とう。そして肝心な質問の答えはどうしようか。いや、これ真面目に考える意味あるか?何?サンタクロースがどうしたって?
 ちらりと男の顔を伺うが、男は表情を見せず、銃をふらふらと振っている。考えるんだ。わざわざ「いると思うか?」と聞いてくるなら、一般常識における存在を聞いているのでは無いだろう。いないが前提の問いではないことを考えると答えは……、
「いると思います……」
「じゃあなんで良い子にしている俺の元には来ない?」
「ええ……」
 これは無理だろ。この逆ギレの仕方は分からないよもう。しかも人攫ってる時点で良い子じゃなくないか?
「なぁ、クリスマスっておかしいよな。外の国の文化でさぁ、精通してないのに当たり前のようにこの国でも導入されてさ、元はただの12月の24日ってだけなのに、一人で過ごしてることの何が悪いんだよなぁ」
「はあ」
 男は苛立ったようにカンカンと音を立てて歩き始める。
「ちくしょう、周りの奴ら皆人と群れてよぉ、やれ恋人だ家族だ友達だ、一人でいるやつは可哀想だなんて余計なお世話だと思わないか?なあそうだろ?」
「そ、そうですね」
 とにかく共感しておく。でもまだ話の流れが掴めない。こいつはクリスマスが嫌い。ぼっちだから。そのことに僕は関係なくないか?
「だよな、そう思うよな。ムカつくよな」
 男は僕の相槌を満足そうに聞いてうんうんと自分に言い聞かせるように頷いた。お、いい気になってきてるな。今ならワンチャン……。
「それで、僕は何のために……」
 恐る恐る聞いてみる。これが逆鱗に触れることにはなりませんように!
 男はぴたりと歩みを止めた。
「お前がこの場にいる。俺がいる。二人だ」
「何が???」
 思わずつっこんでしまった。この馬鹿!と自分に軽くお叱りを入れながら、ひぃと肩を窄める。今のは悪手であった。反論と余計な質問はすべきじゃない。誘拐に詳しくない僕でも想像がつく。誘拐に詳しい人は果たしているのか別だが。
「何が、じゃない。お前にはクリスマスイブなんてふざけた只の24日が終わるまでここにいてもらう。おっと逃げようとするなよ、無駄だからな」
 男は銃を手にバウンドさせながら、物分かりの悪いこどもに説明するように話した。
「えっとつまり、クリスマスに一人が嫌ってこと?」
「は?」
 あ〜重なる悪手!さっきの反省を1mmも活かしていない!ただ一つ分かったことがある。さっきから翳してる銃だが、あれは明らかにおもちゃである。手の上で跳ねてるときの様子が軽すぎる。本物であればもう少し重みがあるはずだ。刑事ドラマをよく見る家で良かった。
「そんなわけあるかよ」
 男は明らかに図星を突かれた人間の怒り方をしている。ああ〜マズった。けど銃が本物じゃないと気づき、ちょっと勇気が出た。
「いやでも分かりますよ。確かにほら、クリスマスイブって何人かでいないと駄目って強迫観念ありますよね。分かります。あれ嫌ですよね〜」
「分かるか?」
 苛立っていた男の声が少し弾んだ。おっと案外ちょろいぞ。あと一押しでは?ちなみにもう一つ気づいたことだが、この男、たぶん僕と年齢近い。声の感じが意外と若めだ。
「僕も一人でいるのが嫌でバイト入れちゃったんですけど、結局バイト終わって帰る頃には一人だし、それで電車乗ってるの、嫌でしたし。で、寝たふりしようと思ってたら寝ちゃって気づけばこんなんですけど」
「そうだよな、一人で悪いかよってな」
 男が座り込んだ。一気に距離が近くなった。ちょっと怖い。
「でもさぁ、仕方ないと思わないか?俺大学生なんだけどさ、地方から東京来て、そんで2年間、結局授業リモートでさ、元々人見知りで友達作るの苦手なのにさ、友達できるわけないじゃんそんなの」
「はあ」
 男が帽子を取りながら語り始めた。なんだ、僕と同い年じゃんかよ。
「それで友達もいなくて、地元にも帰りづらくなっちゃって、バイトも始めたけどご時世でバ先潰れちゃって、もうどうすればいいか分からないわけよ」
「うんうん」
 どんどん泣き言になってきた。
「クリスマスだってこんな状況じゃ一人に決まってるだろ。でもそれを笑われてる気がしてきて、そんで電車乗ってるてきとうな人を友達のフリして、何寝てんだよとか言って、連れて来ちゃった」
「それで連れて来られたのか……」
 突然の独白でいきなり真相が明かされた。明かされたところでなんだが。
「ついでにここどこよ」
「俺の部屋の隣。ぼろいアパートだから、誰も住んでない部屋なんだけど、ドア捻ったら開くんだよ」
「やべぇな」
 それで連れて来られた、と。
「じゃあ誘拐とかじゃない」
「そう」
「お金とか目的じゃない」
「そう」
「クリスマス一人だったからパニックになったんだな」
「……そう」
 なんだか可哀想になってきた。
「まあさ、友達、作るの大変だよな。気持ちは分かるよ。僕も同い年だし。でも拉致監禁は良くないと思う」
「そうだよな……。正直何も考えなくて、連れて来たはいいものの、どうすればいいか分からなくて、これもおもちゃだし」
 男が銃のトリガーを引くと、ぱすぱすと空気が出た。ごめん、それがおもちゃなことは知ってた。この国銃刀法違反あるし。
「てゆうか、どうする?俺、え、どうしようこの後。帰る?つーか、これ誘拐になるのかな。誘拐だし、監禁だし」
「まあなるだろうね」
「終わったじゃん、どうしよう……」
 男が頭を抱え始める。傍観者だったら笑い飛ばせるような状況なんだろうな、とぼんやり思う。でも笑えなかったし、憎めなかった。なんとなく彼の気持ちも分かるから。
「まあ、それじゃあさ、こうしよう。まず縄解こう。これじゃあまりにも捕まってるみたいだから」
 僕が腕を差し出すと、彼はわたわたと解いてくれた。
「縄の結び方とか分かんなくててきとうにやっちゃった」
 そうだと思った。刑事ドラマで見た結び方とかは違ったし。
「本当に悪意は無かったんだね」
「悪意とかじゃ無かったのはマジだよ……。怖かったよな、ごめんな。あ〜どうしよう。警察とか来るのかな」
 彼はしゅんとして、見るのも可哀想なほど狼狽してる。縄を持った手が震えて、肩がびくびくしてて、なんだかそれを見てたら自分が怖い思いをしていたのも忘れてしまった。
「じゃあ、こうしようよ」
 僕は彼の手を取った。
「今から友達になろう。そうしよう。犯人と被害者だから駄目だったんだよ。友達にしようよ。友達同士で誘拐ごっこ、そうしないか?うん。そしたら刑事案件じゃないよ」
 我ながら苦肉の策である。けれど彼は目を輝かせた。
「本当にそれでいい?そしたら警察に言わなくて済むかな」
「ま、まあ……」
 そこは本当は僕の匙加減だが、まあ言わないでおいてやろう。
「それでさ、隣の君の家行こう。近くにコンビニあったらケーキ買いに行こうよ。ケーキ買って、チキンとかあったら買って、それ食べてさ、クリスマス一緒に過ごさないか?これで、友達と一緒にクリスマス、みたいな」
「本当にいいのか?」
「ま、あ……。良いけど、良いけど友達の作り方として、この方法は学習しないでくれよ。普通に間違ってるからな」
 僕も一人で家で寂しく過ごすだけだったし。
「そうだよな!ごめんな。ありがとう、ありがとう!もうこんな怖い思いさせないから!マジでごめんね!じゃあ、奢るから一緒に飯食おう!」
 彼は初めて僕の前で笑った。意外にも人懐っこい笑顔で拍子抜けして許してしまった。

「サンタ、いるかもしれない」
 コンビニから大量のお菓子やら飲み物やらを持って帰る途中に彼が呟いた。サンタは親か恋人なんじゃないか、とそのときはつっこんだが、後日こいつと恋人になったのはまた別の話。

空虚的プラスティック・ピンク

 空を飛ぶ夢を見た。ワタシがそう言うとアナタはピンクのテラリウムを手に載せて「嘘つき」と言った。人工太陽が禍々しいレーザービームを放つ。まるでミラーボール。閉鎖的な空間に撒き散らした光彩がワタシの眼を灼く。バチンと爆ぜる音がして反射で目を抑えた。アナタは蛍光色のソーダを飲みながらふふふと笑った。タンザナイトの溢れそうな瞳が射止める。ワタシは石になった気がした。
「疲れてるのよ」
 そう聞こえた。不可思議に対面した人間にかけるごく一般的なセンテンスがアナタのモーヴレッドの唇の間から発せられたのは、ワタシを失望させた。疲れてるッて? それが空を飛ぶ夢を見る理由になり得るか? ワタシの並々ならぬ感情を察したのかアナタは口を閉じる。重苦しい時間が流れた。仕方なく周りを眺めると、濁りきった緑色の水槽の中の愚鈍な沼色の熱帯魚が、エアーポンプと共にぼこぼこと汚い泡を出していた。侮辱されたと感じた。
「あの魚だって感情があるだろうか」
 ワタシは不意に口を突いた言葉に戸惑った。ミラーボールが水槽にゆらゆらと揺れ、不透明な沼の細波を照らす。波紋状に歪んだ光がワタシを呑む。
「分からないわよ、そんなこと」
 アナタは興味なさげに、蛍光色のカクテルに浮いたレモンを、マドラーで執拗に沈めていた。きっとアナタはワタシにも同じように興味が無かった。ガラスのマドラーの先でぐじゅぐじゅに潰され身が溢れ出したレモンは、ワタシの行く末を彷彿とさせる。あの酸性の液体がアナタの喉に消えていくなら、ワタシもそうなのだろう。
「アナタは造花のハイビスカスだ。安物の、プラスティックだ」
 ワタシは目についたモノをそのまま言った。口に出したら確かにそうらしかった。アナタを雑な彩のために飾られたニセモノにしたかったのだ。
「そう、本物を見たことないもの。造花でいいわ」
 アナタは人差し指と中指の間でプラスティックのニセモノを摘み取った。プツンと外れたソレはパラパラと軽量な響きでアナタの蛍光色に塗れ、やがてアナタの喉に消えて入った。

きみの世界を救うのだ

「あなたも世界を救いませんか?」
 ゆっくり惰眠を貪っていた俺の目を覚ましたインターホンに苛立ちながらドアを開けたら第一声がコレ。誰だって手にかけたドアノブをそのまま内側に引くだろう。
「ちょっと待ってくださいよ」
「うち、新聞取らないので」
「話だけでも」
「一神教なんで」
「あの」
「マルチ商法に加担したくないので」
「そうではなくて」
「さようなら」
 パタンとドアを閉める。ついでに鍵もかける。怪しい人が訪ねてきても出てはいけないよ、という教えの正しさを実感した。あれほど怪しい人もそうそういないだろうし、面倒な話になることが予想できることもない。閉めて正解だった。
「ぴんぽーん」
「うわあ、まだいる!」
「ぴんぽーんぴんぽーん」
「いいいいいい……ッ!」
 客は人力ピンポン(ぴんぽーんと言い続けること)をしながらドアの前から離れない。怖すぎる。
「はい……」
 隣人に睨まれたくないので渋々ドアを開ける。安アパートは隣人トラブルに十分気をつけないと住んでいけないのだ。
 客はいかにもなサラリーマンだ。七三に分けた黒髪と黒縁メガネ、紺色のスーツに赤ネクタイ。今時こんなテンプレートな格好いるか?と疑問に思うくらいに完璧である。
「突然ですが世界を救いませんか?」
「救いません」
 会話終了。
「なぜですか?」
「なぜ……?」
 と思ったら食い下がってくる。
「もしかして冗談か何かだと思ってらっしゃる?」
「まあそうですね。警察呼ぼうかなとも思ってますね」
「あっ、それはやめてください」
 サラリーマンは至極真面目な顔で意味の分からないことを言って詰め寄ってくる。怖すぎる。しかもよく見たら大きいトランク持ってる。怖すぎる。
「世界は未曾有の危機に瀕してます。人類の多様化が進んだこの時代、個性爆発時代と言い換えても良いでしょうか。そんな時代になったのにも関わらず、自我を押し殺している人たちが存在します。その人たちが秘め続けたストレス。それが可視化し、強大な敵となって帰ってくるのです」
「日曜日の朝のアニメみたいな世界観持ってるんですね」
「いいところ突いてきますね」
 サラリーマンはニコッと営業スマイルを浮かべる。こんなに人目見るだけで営業スマイルと分かることがあるんだと言いたいほどの営業スマイルだ。たぶん形状記憶シャツみたいな感じで、ほっぺに口の角度が記憶されてるんだと思う。キュッと一発で完璧な笑顔になって崩れない。この笑顔で子ども向けアニメの世界観の説明をし始めるのだから本当に怖い。
「それで、強大な敵はどんな感じなんですかね」
「強くてデカくて怖い感じのアレですね」
「なんでそこの設定ガバガバなの?」
 ここまで来て?
「いや守秘義務があるので敵の姿は具体的には言えないんですよね。まあともかく、その敵と戦うわけですよ」
「そんなの本当にいるんですか?見たことないですけど」
「ああ、戦いが終わった直後に一般市民には該当部分の記憶消去が行われているので、あなたたちが覚えてないのも仕方ないことです」
「もうそれを言ってしまったら何してもいいですよね」
 ずるくない? しかし聞いているのが楽しくなってしまった。
「ともかくその敵を倒すわけですよ」
「その強大な敵は人間如きが倒せるの?」
「よくぞ聞いてくれました。確かに並の人間では倒せません。しかし変身セットと適応する生まれ持った才能を秘めた人間なら尋常じゃないパワーを発揮することができ、倒せるのです」
「日曜日の朝に一人で楽しんでもらっていいですかね」
 やっぱりただの頭おかしい人だ。お帰り願おう。ドアノブに力を込め、くるりと回す。そのとき。
「まあ一回衣装だけでも見ませんか」
 サラリーマンがごろごろと抱えてきたキャリーケースのチャックを開ける。それだけで手は止まってしまった。だって気になるだろ。
「ほら、どうでしょう」
 サラリーマンが取り出したのは、白と淡いピンクの、フリルとリボンのあしらわれた、上品なワンピースだった。
「プ◯キュアの方ッスか!?」
「いやプ◯キュアとかよく分かりませんね」
 すっとぼけたサラリーマンはワンピースを片手でゆらゆらと揺らす。風に靡いてふわりとパニエが開く。それはそれはかわいらしいワンピースだった。
「どうです? 世界、救う気になりました?」
「なるわけないでしょう!」
 思わず大きめの声を上げて抗議する。なるわけないだろ。だいたいそれは女性用だろ。訪問先の間違え方がひどい。
「あ、サイズは男性用です」
「男性用なの?」
 もう訳がわからない。なんでわざわざ男性用にしたのかも。なんで俺の家に着たのかも。しかもそんなふりふりのワンピース。分からない。
「なんで?って顔してますね。じゃあ答えを教えてあげましょう。あなたが変身セットと適応する生まれ持った才能を秘めた人間だからです」
「なんで?」
 サラリーマンにとってはそれが答えなんだろうけれど、俺にとって答えになってない。なんだよそのふわふわ理論。なにが変身セットだよ。なにが才能だ。
「あるわけないだろ。こんな、無駄に大きくだけなって、肩も張ってて、足も太いのに」
「サイズは男性用なので問題無いですよ」
「サイズの問題じゃなくて! 俺がこれはおかしいだろ。ドン引きされるし」
「おかしいですかね」
 サラリーマンはゆるりと首を傾げ、ワンピースを俺の身体に合わせるように添える。
「きっときれいなのに」
 
 その一言で。その、たった一言で、なんか、馬鹿らしくなってしまった。
 元来かわいらしい服に憧れがあった。今の性別に不満があるわけではなくて、風にひらひらと舞うスカートや丁寧に敷き詰められたフリルや、くるりと曲線を描くリボンや、それを着こなせるのは良いなと思っていたのだ。タッパがあるのは助かった。得意のバスケは身長があるだけで有利だったし、周りにも羨まれた。それは本当に良かったと思う。けれど同じくらい、小柄で柔らかそうで、長い髪を好きにできる身体が羨ましかった。だってかわいい服が似合いそうだから。それはずっと心の奥にあって当たり前のようにそのまま在ったから、いつしか忘れていたのだ。でも今日目の前に初めてあのかわいい女の子の服があって、風に揺れてるのを見て、ああ、いいなって思ったのだ。
「お客様が心配なさってる部分もしっかりフォローしております。肩は薄めのケープで角張らないように、腰の辺りはレースのベルトで凹凸の表現を。ワンピースの裾はふんだんにフリルをあしらって広がりますし、長めなので足も隠れます。悪目立ちするようには作っておりません。お客様に似合うようにお仕立てしました」
 サラリーマンがワンピースの裾を持って踊るように説明する。ああ、確かによく見たら、納得しかけてる自分がいる。
「ちなみにお値段4,500円です」
「金とるの!?」
「そりゃあまあこちらも商売ですから」
「世界救う話どこ行ったの!?」
 思わず正気に戻ってツッコミを入れてしまう。いかんいかん絆されるところだった。第一そんな服あったってどこに着てくというのだ。
「お客さまの世界を救うんですよ」
 サラリーマンが真っ直ぐ俺を見つめていた。
「個性爆発時代になったのにも関わらず、自我を押し殺している人たちが存在します。その人たちが秘め続けたストレス。それが可視化し、強大な敵となって帰ってくるのです。それを救うのですよ。あなたがあなたを救ってあげるんです」
「は? 何言って」
 なんて、なんて口だけだ。もう揺らいでしまっている。指の先が一度掴みかけた憧れを求めてる。ねぇ、それ、俺のなら、俺が着ていいならどうか。
「4,500円。初回だけですよ。破格なんですからね」
 サラリーマンが得意げにウインクをかます。ウインクされても困る。
「お客さま、お一人暮らしでしょ? 最初はお部屋で楽しんでもらっても。ちょっと楽しむために、バイト4時間分くらいですよ、だいたい。こんな機会滅多にないですよ」
 確かに……と思ってしまう。4時間。明日バイトそれくらい入るから、明日分で買えるのか。おっと。
「返品補償は」
「え〜っと」
「消費者庁?」
「あ、それはやめてください」
 リーマンはあせあせと手を振る。やっぱり怪しすぎないか?
「そういえば今ならレースの付いた花柄のハンカチーフも付けますよ」
 最後のひと押しという感じで、キャリーケースから薄桃色に花の散ったハンカチが取り出される。そのふわりと匂う香水がなんとも品が良くて甘やかな香りで。
 気がついたら財布を手に取っていた。

「またのご利用お待ちしております!」
 上機嫌で帰るサラリーマンを見送りながら、ドアを閉めた。呆然とする俺とやわらかな触り心地の憧れだけが取り残されていた。
「……着てみようかな」
 うん、せっかく買ったし、勿体ないし、半ば押し付けられるようにして買ったものだし、うん、勿体ないからね。
 繊細なレースが身体に触れる。今までの自分が少し救われた気がした。
 

ウエスタン・ロマンス

「やぁ、マスター! 調子はどうだい? さっそくで悪いがホットドッグを一つ頼む! そう、いつものさ!」
 木製の両扉が景気良く開かれ、カランと軽快なベルの音が聞こえる。賑やかな街のはずれのはずれ、荒くれ者どもが集う酒場にお客様がご来店だ。
「Ok,エリー。君こそ調子はどうかな? またヤンチャしたのかい?」
 マスターと呼ばれた人物は、ロックグラスを磨きながら、巻き煙草をふかしている。皺の多い顔は歳を感じさせるが、袖の下から出た腕の血管は彼が歴戦の猛者であることを証明している。
「ヤンチャってマスター! アタシは牛を追いかけてるだけだぜ!」
 マスターの問いかけに答えた客はドカッとカウンターの椅子に座り込んだ。テンガロンハットから溢れる金髪と、牛皮のトップス。ホットパンツの腰の辺りにぶら下がる鞭を持ったその客の格好は、まさしくカウガールだった。
「牛を追ってるだけねぇ。じゃあ隠し持ってるその鉛玉は必要ないってわけだ」
 マスターは煙草から口を離し、煙をふっとふきかけた。すると彼女はバツの悪そうな顔をして、腰のベルトから物騒に輝くモノを取り出す。
「良い子だ。good girl」
「やめろよ、マスター。アタシが悪かったけど」
 むうとほおを膨らませた彼女は、マスターからオレンジジュースを受け取り一気に飲み干した。
「こどもが使うにはちょっと高価で危険なんだ、エリー。分かってくれるかい?」
「でも護身用に持ってるだけで」
「持ってるってだけで危険なんだ。私も心配なんだよ。分かってくれるかい?」
「でも……」
 もごもごと俯くエリーに向かって、マスターは出来立てのホットドッグを差し出す。
「ってのはまあ、建前ってヤツだ。本当は分かるよ。君だって年頃だ。憧れる年齢だろう。言いたいことは一つで、つまりもっと上手く隠せってことさ。いいね?」
 マスターは軽くウインクすると、さらに一欠片のチョコレートを差し出した。
「マスター……」
 彼女は目に涙を溜めたまま、ホットドッグを必死に頬張る。あふれ出したケチャップとマスタードが彼女の口元を彩った。
「あのね、マスター。アタシ、今、探してる人がいて、パパの相棒のひとなんだけど……」
 ホットドッグを飲み込んだ彼女が話し始めた瞬間に、店のドアが乱暴に開いた。
「おぅおぅ、シケた店だなぁ! 老いぼれ一人と嬢ちゃん一人。全くついてないぜ!」
 突然ダミ声と共にドカドカと人影が雪崩れ込む。先程まで和やかだった店の中にピシリと強めの緊張が走った。
「いらっしゃい」
 マスターはすぐに顔を戻すと、ブランデーを取り出す。
「いいや、そんなんじゃ足りないね。まずはこの店のアルコール、あるだけ持って来てもらおうか」
「あるだけ……用意はできますけどお代は嵩みますよ?」
 マスターが苦言を呈すと、集団は一斉に笑い出した。下品な声にエリーは眉を顰める。
「お代? 金なんて持ってると思うか?」
 男共はしばらく笑った後腰から銃を取り出した。カチャリと重厚な金属音がなる。
「鉛玉で頼むぜジジイ!」
 数々の銃口がカウンターに向けられる。彼女はびくりと震えてカウンターの裏に潜り込んだ。マスターは顔色を一切変えない。
「マスター!」
「じっとしてるんだよ、エリー。動いちゃ駄目だからね」
 マスターはエリーの頭を撫でると、再び荒くれ者達と目線を合わせた。
「ついでにそのかわいいお嬢ちゃんもいただきたいねぇ」
「残念ですが、私で満足いただけませんか?」
 マスターはナフキンで手を拭くと、グラスにブランデーを注いだ。
「は? 寝ぼけたこと抜かしてんじゃねぇぞジジイ! ただの老いぼれに用はねぇんだよ!」
 頭目と思われる一際図体のデカイ男が、叫びながら引き金を引く。
「ただの、ね」
 マスターはカウンターの奥から銀色のトレーと銃を取り出した。
「試してみます?」
「舐めてんじゃねぇぞ」
 バウンと大きな音がして、マスター目掛けて弾丸が飛び出した。エリーは思わず顔を覆う。バウン、バウンと金属音が反響し、低い姫井がそこかしこで聞こえたかと思うと、ガンガンと弾丸が跳ね返る音が追いかける。しかしそれは時間にして約10秒ほどでぴたりとおさまった。
「マスター?」
 彼女は恐々と目を開ける。
「どうしました? エリー。そういえばチョコレートが残ってましたね。食べ損なって悲しかったんですか?」
 マスターは平然とした様子でカウンターからチョコレートを取ると、彼女に差し出した。
「うそ! さっきの男たちは?」
「ああ、なぜだか突然逃げ出して。用事でも思い出したのかなぁ?」
 マスターは指に引っかけくるりと回すと銃をよれたジーンズのポケットに収めた。
「それで、先ほどの話の続きは?」
「え? ああ……あのね」
 エリーは呆気にとられながらも、マスターがあまりにもいつもの調子だったので、驚きを飲み込んでしまっていた。
「パパ。アタシのパパの相棒を探してるの。最近死んじゃったんだけど、伝言を預かってるから。それでアタシ、冒険に出ようと思って」
「へぇ、そりゃあ親父さんも喜ぶね。そういえばエリー、キミのファミリーネームはなんだっけ」
「サンダース。エリー・サンダースよ。パパの名前は」
 エリーの答えを聞き終わらないうちにマスターはひゅうと口笛を吹いた。
「知っていて?」
「いや、聞いたことないなあ。でもそうか。死んじゃったのか。それは辛いね」
 マスターはそっとブランデーを注いだ。
「でもそれはキミが危険を冒してやる必要はない。私に伝えてくれれば、いつか訪ねてきた時に言伝しとくけど。」
「あんまり子供扱いしないで。アタシももう立派なレディよ。そして冒険したいお年頃なの?そして、ええ、あのパパの相棒の顔よ。見てみたいに決まってるじゃない! なんでも銃の名手だったとか言うんだから。いつも誇らしげにに話してたもの!」
 エリーは瞳を輝かせてチョコレートを齧った。
「ふうん。そうか。そうなんだね」
 マスターはふっと目を細めて彼女を見つめると、その肩を叩いた。
「じゃあ旅に出ると良い。子供扱いしてすまなかった。よく考えれば私が旅を始めたのもちょうどキミくらいの年齢だった。きっとキミのパパもそうだ。つい大人になると忘れてしまっていけないね。その代わり一週間、銃の稽古に付き合ってもらおう。オモチャを下げてたんじゃ意味ないからね」
「本当! マスターありがとう!」
 彼女は頬を緩めてマスターの首に抱きついた。マスターは彼女を軽くいなして、グラスにジュースを注ぐ。
「そして旅に出るといい。全部を見て回って、満足したらまた帰っておいで。そしたらお土産話と一緒に、その伝言もあずかろう。だから伝言のことはあまり気にせずに、世界を見ておいで。パパも、その相棒もエリーの旅が楽しくなることを祈っているさ。きっとね」
「ふふ、そうなの! 本当は旅に憧れてたの! 楽しみで胸がはち切れそう!」
「では、エリーの旅立ちに」
 cheers!二つのカランとグラスが鳴った。

「やけにお前に似てると思っていたんだよ」
 その夜、マスターは一人店の外で月を見上げていた。
「なーに、心配するな。お前の娘は俺が立派に育てて送り出してやるからよ」
 グラスを月にかざす。琥珀色の液体が丸い氷をゆっくりと揺らし、輝いた。
「安心して眠りな、相棒」
 荒野に吹いた一陣の風は新たな旅立ちと永遠の別れを乗せて砂を巻き上げたのだった。

How high the Moon

「月に帰らなきゃいけないんですよ」
 丸眼鏡をきゅっと上げて隣を歩いてる後輩がぼそっと呟いた。家にとの聞き間違いだと思ってなんとなく聞き流してしまった。
「え、実家?」


「まあ、実家といえば実家ですね」
「ふーん」
 とことこと歩が進む。日が暮れる。影が伸びる。背中を赤い夕日が照らしている。
「実家どこだっけ?」
「月ですね」
「つき?」
 あれ、聞き間違えじゃなかった? つい首を傾げてしまう。後輩は髪を揺らしてとことこ歩いてる。
「そうゆう地名?」
「地名? 地名……。まあ確かに月じゃアバウト過ぎますよね。どこ住んでるの?って聞かれて地球って言ったらおかしいし」
 でも地名とか正直よく分からないんですよね。後輩はちょっと照れたように笑う。いや照れてる場合ではない。
「え、月って星?」
「まあ星ですね。でもそんなこと言ったら地球も星じゃないですか。正確に言うと惑星ですかね」
「そうだけど。え、月に帰るの?」
「帰りますね」
「え、そうなの」
 なんだかどう反応すれば良いのか分からなくて、上手く会話が繋がらなくなってしまった。月に帰るんだ、そうなんだ。それで? 聞きたいことはたくさんあるのに言葉が出てこない。鴉の声が遠くに聞こえて、さやさやと鳴る風が運んだ強烈な金木犀の香りに、もう秋だなと思った。
「それで、月に帰るの」
「そうですね」
「なんで?」
「なん……や、なんか帰っといでって言われちゃって」
「何?」
 後輩の顔が俯いている。寂しそうだなと思う。いや、月に帰るって何?
「えっと、かぐや姫みたいなこと?」
「や、そんな大層なものじゃないですけど。あの人は有名ですが……」
「かぐや姫って月で有名人なんだ」
 そうなんだ、そりゃそうかと思って、何言ってんだろって自分でつっこんだ。この後輩は昔から変わったところがあるなと思っていたが、やっぱり変わっていた。
「で、えっと……月に住んでる?」
「正確には住んでいた、ですね。まあ戻るんですけど」
「あっ、そうなんだ」
 そうなんだ、ではない。な、なに?
「えっと、月って酸素あるの?」
「酸素って……ああ人間の先輩には必要ですけど」
「ひょっとして宇宙人だったりするの?」
 話の流れで聞いたら、後輩はむぅと頬を膨らませた。
「今まで仲良くやってきたのに、宇宙人とか急に突き放すようなこと言わないでくださいよ。ひどいじゃないですか」
「あ、ごめんね」
 怒られてしまった。ってことは本当に宇宙人なのか。なのか? なんで?
「月って……その、人住めるの?」
「うーん、先輩だと無理そうですね。私は住んでましたけど……。でも人と言われるとまた難しいですね。先輩は何をもって人と定義するタイプですか?」
「哲学?」
 確かに人じゃないなら、そもそも宇宙”人”と呼ぶのも変な話だなと思って、いやいや。
「そういや、月って、そのぉ……うさぎとかいるの?」
「うさぎ?」
 怪訝な顔をされてしまった。やっぱり変なこと聞いたか。でも今さらこちらの発言に変も何もなくないか?元はと言えば相手の方がよっぽど
「いますけど……でもこっちのうさぎとちょっと違うから、あれをうさぎと呼んでいいのかどうか……」
「いるんだ」
 なんとなく嬉しくなってしまった。やっぱり餅つきとかしてるのかな。
「餅はついてませんね。最近は機械で済ませてしまうので」
「進んでるねぇ」
 予想の斜め上の答えだ。
「地球からは見えない月の裏側に住んでるんですよ」
「そうなんだ」
「だから先輩からは見えないと思います」
 くだらないことを話していたら赤くなっていた空もだんだん青を混ぜてきた。そろそろ星も見えそうだ。そういえば十五夜あったな。仲秋の名月、なんて。
「あ、そういう?」
「先輩が何を早合点したのか分かりませんけど」
「お月見だからってこと?」
「いや……?」
「違うのか」
 なんだ、そうなのか。と言って落ち着いてしまった。とぼとぼと歩く。どうしたらいいか分からなくって。
「とりあえず、帰らなきゃなので今日はこれで……」
 後輩がひらっと片手をあげる。
「えっちょっと待ってよ、あの、どうやって帰るの?」
 つい焦って後輩の手首を掴んだ。
「どうやって……? ああ、迎えが来るんですよ。それに乗って」
「乗り物が来るんだ。そうか、便利だな」
 まだ何か?と後輩は首を傾げた。
「いや、その。何ってわけじゃないけど」
 何ってわけじゃないけど、まだなんとなくこの手は離せなくて。
「正直その、いきなり月とか言われて、まだ信じてないけど、なんかこう、本気で信じて欲しいなら信じるけど」
「え?信じてなかったんですか?」
「え、ごめん。いやでもそれは仕方なくない?」
「正直に言ったのに……」
「ごめん……」
 辺りはもう暗くなってきている。夏のいつまでも明るい夕方も、もう終わったんだなと一人実感する。
「では、じゃあ」
「いや」
 どんな事情かは知らないけれど、謝ってもまだ信じてないけど。
「あんまり……帰らないでほしいかな……」
 だってかぐや姫だって、帰ったら全部忘れちゃったじゃないか。なんか、そういうのは悲しすぎる。悲しすぎると思うんだ。
 腕を握る力をぎゅっと込める。
「先輩……」
 後輩の瞳が揺れる。ざあっと少し冷たい風が通った。
「でも帰らなきゃいけないんです」
 後輩はきゅっと目を閉じてからゆっくり開いた。
「見たい番組があって」
「なに?」
「地球じゃやってないんですよ……一応録画してるけど、そろそろ始まっちゃうから。やっぱりリアタイで見たいので……」
「なに?」
「ってことで」
「いや待って」
 今のこの雰囲気、この、今生の別れみたいなやつ、見たい番組のために引き起こされたの?
「先輩の熱い想いは明日聞きますから……」
「明日戻ってくんの?」
「はい。普通に今日は月に帰るってだけで、明日も学校あるし……」
「え?」
「じゃ、また明日」
「あ、うん」
 思わず手を離すと、後輩はばいばいと小さく手を振った。思わず自分も振り返してしまった。

 翌日、昨日見たテレビの話を聞いたが、てんで分からなくて、月の放送局はすごいなと思った。